2022年10月01日

消費者がアーティストを搾取し芸術界に株式会社形態が侵食する反面、分配をめぐる自然発生的な問題提起が上がり初期協同社会を構想するにあたって人類史的な意義を持つ労働者協同組合が歴史的な日を迎えている・・・時代は着実に前進している

https://news.yahoo.co.jp/articles/479ae897ef8829f0b6420ec55ae7a47f1c0b7c53
音楽サブスクは地獄≠ネのか 川本真琴が怒りの発信「このシステムを考えた人は地獄に堕ちてほしい」 一方で宣伝≠ニ割り切る尾崎世界観
9/30(金) 17:00配信
夕刊フジ

「愛の才能」や「1/2」などのヒット曲で知られるシンガー・ソングライター、川本真琴(48)の「サブスクを考えた人は地獄に堕ちて」とした発言が波紋を広げている。音楽業界からも賛否の声が飛び交うが、音楽サブスクの実態に迫る―。

(中略)
定額の料金を支払うことで聴き放題になる音楽のサブスクは多くのユーザーに親しまれる一方、音楽業界ではかねてその普及を危惧する声も出ていた。レコード会社の社員は語る。

「サブスクの運営会社によってまちまちですが、おおむね楽曲の1再生数あたり0・3〜1円の印税が発生します。ただ、これはトータルの売り上げであって権利者やレコード会社などの取り分を除くと、アーティスト本人の収入はもっと低く、川本さんの言うように0・01円以下になることもざらです。これがCDだと、1000円のシングルでもアーティストの取り分は1%の10円程度。作詞や作曲もしていればそれぞれ3%ずつがプラスされます」

相対的な話だが、CDと比較するといかに単価の安いサブスクがアーティスト泣かせなのかは見えてくる。

こうした背景もあり、過去には山下達郎(69)も「表現に携わっていない人間が自由に曲をばらまいて、そのもうけを取ってるんだもの。それはマーケットとしての勝利で、音楽的な勝利と関係ない」とインタビューで語るなど、サブスクには否定的だ。

その一方で近年は多くのアーティストがサブスクに楽曲を提供しており、昨年は「B’z」がサブスクを解禁して話題となった。

「川本さんの今回の発言については同意する声も業界内には多いです。とはいえ、世界的に見ても音楽ユーザーたちの間で魅力的なサービスとしてここまで定着してしまった以上、もはや人気アーティストといえども、その存在を無視することはできないでしょう」(前出のレコード会社社員)

ひと昔以上に歌手一本で食べていくのが難しい時代がすでに到来しているのである。
■マルクスの搾取論と構造的に類似した問題意識が自然発生的に出てきた
この話題を見てふと思い出したのが、マルクスの搾取論でした。

労働者に支払われる賃金は、「労働の価値」ではなく「労働力の価値」であるというのがマルクスの指摘です。すなわち、生産物の価値(商品の売価)とその生産物を生み出した労働力の価値(労働者に支払われる給与・賃金)は異なるということです。マルクスは労働価値説に立脚しているので、「労働力の価値」すなわち、労働者に支払われる給与・賃金とは労働者の生活の維持に必要な生活手段の価値に等しいものであると言えます。

それゆえ、たとえば、時給1000円の労働者が1時間あたり材料費1000円を使って市価5000円の商品を生産できたとします。このとき、材料費と給与費を除いた残額3000円は、私有財産制度においては利益として企業の所有物になります。何らかの原因によって(材料費・給与費が不変のまま)自社商品の評判だけが上がって売価を6000円に1000円値上げすることができたときも、私有財産制度においてはプラス1000円を丸々利益として持ってゆくことが可能です。もちろん現実的には、企業業績の向上に伴って昇給や賞与といった形で労働者に「還元」することは多々ありますが、それはあくまでも経営判断の問題であり、必ず昇給等があるわけではありません幾ら商品が高く売れたとしても、原理的には労働者に支払われる給与・賃金とは直接は関係ないのです。

マルクスの指摘によると、生産が増大し、資本の有機的構成が高度化するにつれて相対的過剰人口が増大し、階級(集団)としての労働者の発言力が低下してゆくとされています。熱心に働けば働くほど新技術が開発されることで労働力需要が減少するので、賃金が低下します。労働者個人同士の「椅子取り合戦」の競争も激化します。そうなると、生活を維持するために労働者個人は、労働需要が減っている中で自らの労働力をますます「薄利多売」しようとするので、ますます自らの首を絞めてゆくわけです。個人的に超人的な「稼ぐ力」を持つ労働者がいても、一時的に雇用を維持することはできても長期的には多勢に無勢です。

ここにおいて生活防衛のための賃上げ闘争・経済闘争としての労働運動が重要になってきます。マルクス主義の立場からは、単なる経済闘争を超える政治闘争、そして資本主義の枠内での政治闘争を超えて資本主義経済を根本的に改める社会革命のための階級闘争も浮上してきますが、とりあえず、資本主義を乗り越えて新社会を目指すべきかどうかは別問題として脇に置きましょう。まずは労働者の生活の問題が重要です。階級としての労働者の発言力が低下してゆく中では、少なくとも経済闘争は欠かせないでしょう。資本主義国家が取り組んでいる各種の社会政策には、労働者による経済闘争の激化、そして経済闘争が政治闘争に転化し資本主義制度を脅かすことを防ぐという狙いもあるものです(社会政策本質論争)。

なお、古典的なマルクス経済学は労働価値説に立脚していましたが、いまや労働価値説に立脚せず効用価値説を採用したとしても搾取論が展開できるようになってきました(マルクスの基本定理)。

音楽サブスク、すなわち定額制音楽配信サービスは、音楽という生産物の販売量に関わらずそれに支払われる対価が一定であることを意味します。消費者は一定期間定額で音楽という生産物から好きなだけ効用を引き出すのに対して、生産者としてのアーティスト個人に入ってくる金銭は一定ということになります。幾ら音楽の再生数が上がったとしても、アーティストに支払われる対価は必ずしも増えるわけではありません。「定額聞き放題」に釣られてサービス加入者が増え、サブスク事業者の業績が向上したとしても、原理的にはアーティスト個人に支払われる対価とは直接は関係ないのです。

「サブスクのおかげで、知らないアーティストの音楽にも手を出しやすくなった。CD時代にはなかなかできなかったことだ。このことは、新人アーティストにとってプラスではないか」や「サブスクを広告として割り切って自分の固定ファンを獲得するしかない」という意見もあるでしょうが、これはまさにサブスクによって競争が激化し、アーティストにしてみれば薄利多売を強いられるということです。むしろアーティスト個人に支払われる対価が減ることになります。

この構図、企業が労働者を安くて働かせ売上の分配をお手盛りにするのと同様、消費者がアーティストに安く音楽を創作させて作品からの効用を好きなだけ引き出している点において、消費者がアーティストを搾取していると言えないでしょうか? 生活防衛のための経済闘争なくしてサブスクという制度自体を維持することは困難であると思われます。

アーティスト側への還元率の低さ――サブスクをめぐって昔から指摘されてきたことが当面の問題であるように思われます。放っておいても自ずから自らを取り巻く環境・自己の運命は改善されないのです。生活防衛のために主体的な取り組みが、いかなる分野においても重要なのです。

■ブルジョア思想の侵食?
少々話は変わりますが、このテーマにおいて興味深いコメントがありました。
CD全盛の時代でもある程度売れないとビジネスとして成り立たなかった。
それでもある程度ファンがつけば、ニッチなジャンル音楽性でも成り立っていた。

サブスクはさらにビジネス性を加速させ、薄利多売の方向になった。
つまり、制作者は以前よりもさらに『自分の表現』よりも『再生数を稼げる楽曲』にシフトしなければ食べていけない状況になった。
前奏や間奏がなくなってきているのはその表れだろうね。

自分の中のから0から1を作り出す芸術分野とは相性が悪いように思う。

音楽ビジネスとしては拡大できるけれど、音楽としてはより無難な方向に画一化していくと思う。
芸術が商売から一線を画しているのは、あまりにも商売に接近しすぎると「売れるものを作る」ことにばかりシフトしかねないからでしょう。歴史上、芸術作品は後世の人々に「発見」されることも珍しくはありませんでした。創作された時代においてはそれほど注目されなかった作品が、後の時代の社会感情に合致して人気を博することがあるのです。

少し前のことですが、日本テレビ系「世界一受けたい授業」でピアニストの反田恭平氏がオーケストラ楽団を株式会社として立ち上げたことが取り上げられていました。その中で、ヨーロッパ諸国を含めてオーケストラ楽団は公益財団法人形態を取っているのがほとんどであるところ、株式会社形態を採用したことを「珍しいこと」として取り上げていました。株式会社形態であるかどうかは当該番組のテーマではなかったので、あまり深堀されませんでしたが、違和感を禁じ得ないものでした。

反田氏の試みは興味深いとは思いますが、株式会社発祥の地であるヨーロッパにおいてオーケストラ楽団が公益財団法人形態を取っていることがほとんど。このことが示すことは多いように思われます。オーケストラ楽団と株式会社は相性があまりよくないのでしょう。そこで敢えて株式会社形態を採用するに至った反田氏の発想が気になります。

もちろん、何をするにもまず食えなければ続けられません。資本主義という社会制度は各個人にとっては所与のものであり適応して生き抜いてゆく必要があります。特に日本はお世辞にも文化事業にカネを使う国であるとは言い難いところです。オーケストラ楽団を株式会社形態で運営することは、好意的に捉えれば、「自力更生」の一種として位置付けることもできるでしょう。

他方、もし「自分の能力を商材にして何が悪い」だけだとすれば、株式会社形態に対して何らの疑問も感じていないということになり、ブルジョア思想が文化事業にも深く侵食していることを示していると言えるでしょう。

■時代は着実に前進している
さて、本日10月1日をもって労働者協同組合法が施行されました(「労働者協同組合法施行で可能になった「協同労働」 「雇わず雇われない」働き方って? 課題は?」2022年10月1日 06時00分 東京新聞)。既に実践に移されている協同労働が、労働者協同組合(労協・ワーカーズコープ)として法的に整理されて位置づけられました。

個々の労働者が労協に合流する理由はそれぞれでしょう。従事してみたい仕事の求人をたまたま近所の労協が好条件で募集していたというケースがもっとも多いものと思われます。政治闘争や社会革命のための階級闘争どころか、経済闘争としてでさえない可能性は十分にあります。また、労働者協同組合が株式会社を駆逐して主流に取って代わる展開を、私が生きているうちに目撃するという展望しかねるところです。

しかしながら、非常に長期的であるものの協同労働が人類の未来を切り拓くものであると私は確信しており、労協の存在はその第一歩になるものと考えています。私有財産制度に基づく社会は、好況時においては「平和」的であっても、ひとたび不況に陥り個人間の生存競争が展開されるようになるや否やたちまち敵対的な社会になります。キム・ジョンイル同志が『社会主義は科学である』において指摘したように、「人民大衆の自主性を実現するためには、個人主義にもとづく社会から集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義へ移行しなければならないというのが、人類社会発展の歴史的総括」なのです。

集団主義にもとづく社会は、究極的には社会主義・共産主義社会であると私も考えます。しかし、物事は過程を踏んで進展するものです。社会主義・共産主義社会の前段階の社会として、まずは初期協同社会を構想する必要があるでしょう。ここにおいて私は、労協の試みが人類史的な意義を持つものと確信しています。

サブスクリプションという非常に資本主義的な商売をめぐって、マルクスの搾取論と構造的に類似した問題意識が自然発生的に出てきました。また、初期協同社会を構想するにあたって人類史的な意義を持つ労働者協同組合が歴史的な日を迎えました。時代は着実に前進しています

関連記事:チュチェ112(2023)年11月16日づけ労働者同士が互いに搾取し合っている末期症状
posted by 管理者 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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