2022年12月10日

抽象的な「かくあるべき」論に基づきつつ、「民主主義」と「多数決主義」とを混同するニッポンが向かう方向

https://news.yahoo.co.jp/articles/07f708906962d5629aa8a8233daf65c861f14d45
波紋広がる 長野市が会見 1人の苦情で公園廃止
12/8(木) 11:51配信
FNNプライムオンライン(フジテレビ系)

長野市にある公園が、「子どもの声がうるさい」という苦情をきっかけに廃止されることになった。

SNSなどで疑問の声が広がり、市が会見を開く事態となっている。

2004年に開設された、長野市の「青木島遊園地」。

実は、開設してまもなく、1人の近隣住民から「子どもの声がうるさい」などと苦情が寄せられ、市は、2022年度末での廃止を決めた。

(中略)
市は、8日に会見を開き、ボール遊びを禁止するなど、これまで対策を講じたものの、1軒からの苦情は続き、地元の区長会からも廃止を求められたと説明した。
■人数の問題ではない
さすがはフジサンケイというべきでしょうか。「1人の苦情」を強調し、「ごく一握りのクレーマーによるワガママ」という印象を根付かせようとしているのでしょう。

案の定、「一応この国は「民主主義国家」として、民意を反映した運営を是としてきたはずなんだけど、各種報道によれば直接苦情を言っているのは1人の人間のようだ。この公園の存続の是非を、人数で決めればおそらくは1人以上の存続派がいる事だと思う。民主主義として、これで良いのだろうか。」というアホなコメントのホイホイ記事になっています。

記事は「1人の苦情」を強調していますが、本来こういう問題は人数の問題ではないはずです。苦情の経緯や理由に十分見るべきものがあるのならば、少数意見であっても配慮する必要があるはずです。とりわけ騒音問題というものは、当事者の性格や気質(病的なそれを含む)とも深く関係しており、「普通」の人たちにとっては何でもないことでも当事者にとっては耐え難い苦痛であるケースもあるので、「客観」的な評価に徹するべきものでもないように思われます。

そもそも、日本世論の文脈における「客観」は往々にして、科学的な見地・方法に則ったものではなく、子どもの「みんな」と同程度のもので、その真の狙いは「数の力で異論を黙らせる」ところにあります。「客観」という単語が出てきたら要注意です。

SBC信越放送によると「いわばスタートからボタンの掛け違えがあったとも言え」るとのこと(「賛否飛び交う「遊園地廃止」そもそも市の説明が不十分か…スタートからボタンの掛け違いも…住民と言い分「平行線」 長野市」12/8(木) 18:34配信)ですが、上掲FNNプライムオンライン記事からはまったく経緯が見えて来ません

私は個人的に子どもは泣くもの・騒ぐものだと思っていますが、他方で病的に神経質な人に「あるべき大人の姿」「正しい大人の姿」といった「外野からの抽象的な『かくあるべき』論」を説教する気にはならず、「棲み分け」が必要だと思います(日本が島国だからなのかもしれませんが、「棲み分け」ではなく「どちらが我慢するか」という問題設定が当然視されています――昨今はやりの「多様性」談義も、棲み分けて共生すればいいのに何故か、狭い空間に押し込めて共生することが前提になっています)。本件:公園閉鎖決定に対する批判的な意見が「外野からの抽象的な『かくあるべき』論」を基軸としており、苦情提出者の苦悩を具体的に検討しているようにはとても見受けられないことが気になります。

■「少数意見を踏み潰すことこそが民主主義だ」と言わんばかり
「民主主義」と「多数決主義」とが十分に区別されているとは言い難いニッポン。少数意見は依然として軽視されがちですが、上掲記事を見るに、むしろ「少数意見を踏み潰すことこそが民主主義だ」と言わんばかりの論調です。それも、外野から抽象的な「かくあるべき」論に基づき、苦情提出者の苦悩を具体的に検討することなく少数意見を踏み潰しているわけです。

少数意見を平気で踏み潰すことについて私は、もちろん「横暴の極み」であると思いますが、それに加えて「よくそこまで持論に自信を持てるな」とも思います。人間と世界との関係を主客の相互作用として考えたとき、いかに荒唐無稽に見えたとしても各人の持論は当人なりの理由・根拠に基づいているはずで、その理由・根拠が現実とカスりもしない事態というのは、あまり想定しにくいからです。トンデモ言説は往々にして、誰もが認める事実を基にしつつ誤った因果推論、断片的事実の誤った関連付けでという形態を取っているものです。

もちろん、たとえばレイシストのヘイトスピーチのように、その主張に耳を傾けたところ、結果としてまったく賛同できないケースはあります。しかし、レイシストのヘイトスピーチは社会全体から見れば、量的に非常に少数なのものです。やはり、ある主張の理由・根拠が現実とカスりもしない事態というのは、あまり想定できるものではありません。

このように私は、少数意見にもある程度の根拠があると思っているので、少数意見を一顧だにせず踏み潰せる「自信」はどうしても湧いてきません。まして自分が直接、見聞きしたわけではないことについて断定する「自信」は湧いてきません。世界観レベルで自己中心主義でなければ、ここまで「自信満々」にはなれないでしょう。私はそこまで自分の理性に自信がないので、「思い上がる」ことはできないのです(自分が絶対に正しいと確信しているのならば、コメント欄を設置したブログなど作りません)。

以前から指摘してきたように、「相手の立場に立って考える」が「相手の立場に立ったとき、自分はどう思うか」に摩り替ってしまっているニッポン。最近はようやく「当事者」というキーワードが使われるようになってきましたが、まだまだ日本社会で「普通」とされる思考は、一種の自己中心主義が根強いように思われます。また、ロシアのウクライナ侵攻を巡る世論でもよく現れているように、大義すなわち抽象的な「かくあるべき」論が横行する傾向があるように見受けられます(提灯持ちとして大義を振りかざすと、まるで自分自身が正義であるかのような錯覚に陥るものなので、提灯持ちになりたがる気持ちは理解できないことはないものの、傍から見ると「みっともない」以外の何者でもないのですが)。今回のような、少数意見を踏み潰すことこそが「民主主義」と言わんばかりの反応も、その一つの現れとして考えることもできそうです。ある程度大人になれば複数の視点で、かつ主体的に考えられるようになるはずのところ、自分の視点でしか考えられない人が少なくないのでしょう

複数の視点に立って物事を考えられる人物は決して「民主主義」と「多数決主義」とを混同しません。多数決主義は言い換えれば「声が大きい人の勝ち」であり、それは「強い者勝ち」と何ら変わるところがありません。強い者が弱い者を力で付き従わせるという意味において全体主義と非常に親和的なものです。

全体主義はその実態において、権力層が自己利益を民衆に押し付けるという意味で「究極の利己主義・身内主義」であると言えます。世界観レベルで自己中心主義を貫徹することは全体主義社会を主宰するための必須条件です。

「民主主義」と「多数決主義」との混同を見せつけた日本世論。その背後に見え隠れする世界観レベルでの自己中心主義。「究極の利己主義・身内主義」としての全体主義を実現する条件は既に揃っています

なお、松尾匡氏が指摘するように、反資本主義は容易に身内共同体主義になりやすく、そしてそれは身内エゴに転落しやすいため、社会主義・共産主義を目指す立場の人間は、「究極の利己主義・身内主義」としての全体主義に転落しないよう常々身を律する必要があると考えます。

■道徳を持ち出し人格攻撃に手を染める非道徳
FNNプライムオンライン記事以上に凄まじいのが下記週刊誌記事です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ab4d39f62154deff6d3ac22e1b4de2879ea9aa8
【公園廃止】「子供の声がうるさい」と意見したのは国立大学名誉教授 市役所は忖度か
12/6(火) 17:15配信
NEWSポストセブン

 たった1人の「子供の声がうるさい」という意見で廃止になった長野市内の公園。市に対して意見を言っていたのは大学の名誉教授だったことが週刊ポストの取材で明らかになった。その1人の声で、子供の遊び場である公園を閉鎖した市の対応には疑問の声があがっている。

(中略)
 公園に隣接する住宅に住み、男性とも面識のある住民は困惑気味にこう話す。

「子供の声はしますが、それは夕方まででそれほど気になりません。男性は教授だからといって偉そうにするわけでもないし、地域の集まりにもちゃんと参加していました。酒席でも普通に話す人で、特に神経質な性格という感じもありません。威圧されるような感じもない。ただ教育者という立場なのに、なぜ子供に対して寛容な目で見られないのでしょうか……」

 男性は以前から市の対応にも不信感を募らせていたようだ。昨年8月、市と男性による協議の場が設けられ、公園緑地課の職員に対し男性はこう伝えたという。

「公園を作りたい、拡げたいのはわかるが、自分たちに都合の良い人たちだけに声をかけて説明し、不利益を被る人たちを説明会に呼ばないのはおかしい。(公園の利用について、お考えを変えていただくことは困難でしょうか?という公園緑地課の問いかけに対して)これまで18年ですよ」

 市に情報公開請求をして、この問題を追及してきた小泉一真・長野市議はこう話す。

「大学教授は上級国民と言える立場です。その男性の意見を聞き、忖度したと思われかねない対応をした市側も、果たして適切な対応だったと言えるのか疑問があります。市側の対応が男性の意見を増長させ、同時に不信感も増長させた可能性があります」
(以下略)
子供の声はしますが、それは夕方まででそれほど気になりません」や「なぜ子供に対して寛容な目で見られないのでしょうか……」と述べる住民、そしてその発言を取り上げる記事。要するに「自分はうるさいとは思わない。自分には理解できない。苦情提出者の男性には寛容さが欠けている」というわけです。

前述のとおり、感じ方は人それぞれであり当事者にとっては耐え難い苦痛であるケースもあるでしょう。かつて将軍様は「なにげない一言に本音がある」と仰いましたが、上掲住民発言には世界観レベルでの自己中心主義が非常によく現れています。そして前述の理由から、全体主義を受容する素地を見出さざるを得ません

また、この問題は結局のところ権利調整・利益調整の問題であるにも係わらず「なぜ子供に対して寛容な目で見られないのでしょうか……」という発言が飛び出してきました。「やさしさ」が情緒的に重視される日本世論において多用される印象操作です。公平・公正な権利調整・利益調整に徹すべきところ「寛容な目」なるものを持ち出して譲歩を迫り、譲歩しない相手の人格について「なんで譲歩してくれないんだ、やさしくない人だ」などと悪しざまに言い立てるものです。一種の人格攻撃であり、日本的同調圧力の代表的な手口です。意見の対立が非常に容易に人格攻撃に転化するのは「日本文化」と言ってもよいかもしれません。

どんな人にも、個人として譲り難いラインというものはあります。「やさしさ」を口実とする人格攻撃は、個人の人格を尊重する現代市民社会の根本と真っ向から対立するものでしょう。そんなことは百も承知の上で形振り構わず攻撃しているのかも知れません。平気で人格攻撃に手を染めるのも全体主義の特徴であると言えるでしょう。

権利調整・利益調整の現場で優位に立つために道徳談義を持ち出して相手方を人格攻撃することは反則技であり、これの方がよほど非道徳的であると私には思えてなりません。非常に汚い手で、目にするたびに嫌悪感が湧いてきます。

■また出た! 「上級国民への忖度」談義
そしてダメ押しの「上級国民への忖度」談義。非常に典型的なのが「果たして適切な対応だったと言えるのか疑問があります」というくだり。動かぬ証拠を掴んでからこういえばいいのに。なぜ、この手の話では「疑問があります」段階に過ぎないのに「上級国民への忖度」を書き立てるのでしょうか?

Qアノンの陰謀論と同レベルであるように見受けられます。以前にも書きましたが、Qアノンらが力説する近年の陰謀論は、具体的な証拠がない中、ただ単に状況に不自然な点・怪しい点があるというだけで陰謀の存在を主張します。「そういう陰謀があれば当人にとって利益がある。現に当人は利益を得た。だから、陰謀があるに違いない」という荒唐無稽なものです。論理の欠片もありません。陰謀論の歴史は人類の歴史と言ってしまってよいほどに陰謀論には長い歴史がありますが、以前の陰謀論は、資料の誤解・曲解、あるいはそもそも捏造であったとしても一応は「動かぬ証拠」なるものがあったものです。しかし、今やそれさえもなくなるほど陰謀論は劣化しています。この「上級国民への忖度」談義も結局、具体的な証拠がないのに忖度の存在を云々しています。Qアノンの陰謀論と同じレベルであると言わざるを得ないように思われます。

ぜひともこれが小泉市議の発言全体ではなく、記事編集者による「切り取り」であることを願ってやみませんが、商業メディアである週刊誌のネット記事がこういう体裁に編集されているという事実は、低レベルな陰謀論と論理構造が酷似した主張が「いま売れている」ということを示唆するものです。非常に懸念せざるを得ません。

ドイツで政府転覆の陰謀を企てた連中が警察当局の摘発を受けたというニュースが飛び込んできました。単なる変人集団だったのか些か危険な過激派だったのかは存じ上げませんが、思想次元においてこの連中にはQアノン陰謀論の影響があったという報道が出てきています(「ドイツ政府転覆を企てた極右グループ、アメリカのQアノンの影響を受けていた」12/8(木) 11:10配信 BUSINESS INSIDER JAPAN)。他人ごとではないように思えてなりません。

■総括
「少数意見を踏み潰すことこそが民主主義だ」と言わんばかりの論調。外野から抽象的な「かくあるべき」論に基づき、苦情提出者の苦悩を具体的に検討することなく少数意見を踏み潰しています。この背景に私は、著しい「思い上がり」があり、また、抽象的な「かくあるべき」論を好む性向があり、それは、ある程度大人になれば複数の視点で、かつ主体的に考えられるようになるはずのところ、自分の視点でしか考えられない人、世界観レベルで自己中心主義者が少なくないためであると考えます。この結果、「民主主義」と「多数決主義」との混同が社会レベルで発生していると考えます。そしてこのことは、社会が全体主義化する素地になると考えます。全体主義は「究極の利己主義・身内主義」であるからです。世界観レベルで自己中心主義を貫徹することは全体主義社会を主宰するための必須条件です。

公平・公正な権利調整・利益調整に徹すべきところ道徳談義を持ち出して人格攻撃に手を染める悪癖を目撃しました。「やさしさ」が情緒的に重視される日本世論において人格攻撃を用いることで異論・反論を抑え込むのは、日本的同調圧力の代表的な手口です。平気で人格攻撃に手を染めるのも全体主義の特徴であると言えるでしょう。

そして、Qアノンばりの陰謀論じみた「上級国民への忖度」談義がまたしても出現しました。先日ドイツ政府転覆を企てたして現地警察に摘発された極右グループが、アメリカのQアノンの影響を受けていたと報じられています。他人ごとではないように思えてなりません。

抽象的な「かくあるべき」論に基づきつつ、「民主主義」と「多数決主義」とを混同して「少数意見を踏み潰すことこそが民主主義だ」と信じ切っている世界観レベルでの自己中心主義者が、陰謀論的発想と人格攻撃を駆使することで、明後日の方向に存在する全体主義ディストピアに向かいかねないベクトルが日本社会・日本世論には存在しています。
posted by 管理者 at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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