「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」をスローガンに戦時プロパガンダの予行演習に余念がないNHKですから驚くに値することではありませんが、安保三文書の改訂に漕ぎつけることに成功し、最近はますます形振り構わなくなってきたと言えるでしょう。
このことについて上掲記事で私は、「いままでは、偏狭で狂信的に過激な民族主義者の破壊的な主張として眉を顰められるようなトンデモが堂々と公共電波に乗る日が来るのかもしれません。既にその萌芽は見えています。」と書き、12月19日初回放送「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」について取り上げることを予告しました。今回は予告どおり、この番組について詳しく批判してまいります。
先日、ツイッター界隈で情報収集していたところ、矢嶋尋・中核派系全学連副委員長のツイアカで下記のツイートを見つけました。
https://twitter.com/toshobin/status/1604830991482175488
最近「女性兵士」プロパガンダの波がすごいな。戦争やるために女を動員しないと人足りないから。https://twitter.com/toshobin/status/1604836536909844480
岸田が自衛隊内性被害によって「防衛力強化の議論に悪影響が出ないように」(防衛省幹部談)安保3文書に「ハラスメント対策」を明記した直後こういう番組やってんの怖すぎ
#映像の世紀 「戦場の女たち」
最後ウクライナ女性兵士賛美が出てきて、やっぱり出たー!と思ったら「あなたも日本を誰かが攻めてきたら闘うでしょう?私たちは祖国と家族を守るために戦っています」ってセリフで締めてて本気で鳥肌立ったhttps://twitter.com/toshobin/status/1604839152360398848
#映像の世紀
帝国主義軍隊の9割が女になっても(戦時により女に求められるのは「産む」役割だから不可能だけど)女の権利は一ミリも向上しません。■「戦場に命を懸けた女性たちの勇気」が大半で「悲しみの物語」が少なすぎる
このツイートを見て、正月用に録画していた当該番組を前倒しで視聴したところ、たしかに鳥肌が立つような出来でした。
「映像の世紀 バタフライエフェクト」が、名番組「映像の世紀」を名乗るべきでないくらいに出来が悪いことについては、6月5日づけ「日本社会の歴史を語る姿勢・歴史感覚はここまで退化しているのか」において既に取り上げたところです。5月23日初回放送の「スターリンとプーチン」で番組は、プーチン大統領とスターリンとを非常に雑に比較することで露骨に印象操作を狙いましたが、12月19日初回放送の「戦場の女たち」はその比でないくらいにあまりにも露骨なプロパガンダ放送でした。
「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」は、短髪に刈り上げたウクライナ軍女性兵士を画面に映し出して始まりました。曰く「戦争のために生まれてきた女もいる。射撃の腕前も男に負けない。性別によって何が違ってくるのか私には全く分からない」と。続いて「ウクライナの最前線には多くの女性兵士の姿がある」というアナウンスで、ウクライナ軍のオレーナ・ビロゼルスカ上級中尉(右派セクター党出身でドンバス戦争の頃から従軍している「筋金入り」として有名な人物)を紹介しました。「総力戦を掲げるウクライナは軍の22%を女性が占めている」とのこと。そして、「女性が初めて戦線に本格的に投入されたのは第二次世界大戦だった」と前置きした上で「戦場でもその後の人生でも男性兵士にはない悲劇が待っていた(中略)戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語である」などとして本編が始まりました。
番組は、「女性進出」が進んでいた第二次世界大戦期のソ連空軍女性部隊による敢闘記録や、おそらくその「ライバル」役としてナチス・ドイツからハンナ・ライチュの回顧が登場。また、ソ連陸軍狙撃兵だったリュドミラ・パヴリチェンコ、そしてドイツ占領下のフランスに潜入工作員として投入された米英軍属女性たちを取り上げることで「戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語」を描こうとするものでした。
確かに番組では、ソ連空軍の女性部隊隊員の「敵の射撃をくぐって逃げたあといつも10分15分ほど精神状態がおかしくなった。ゾクゾクと体が震えて歯がガチガチいって手足が震えていつも抗しがたいほどに命がいとおしくなって死にたくないと思っていた」といった回顧や、たたでさえ劣悪な戦場の衛生状況において女性兵士の場合は生理の問題が更に重なるなどといった、男性兵士とは異なる困難があることに触れられてはいるものの、大半はパヴリチェンコやライチュらの勇ましい官許・公式回顧録からの引用。「戦場に命を懸けた女性たちの勇気」は嫌というほど見せつけられましたが、「悲しみの物語」に該当する内容が非常に薄いものでした。
■謎の人選
限られた番組の時間内でストーリーとして成立させるためには難しい編集が必要になるのは分かります。しかしながら、「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」が取り上げた人物の選考基準は、「謎」というべきものでした。もちろん、最後の最後にその意図が分かるわけですが。
たとえば、ソ連空軍女性部隊を取り上げておきながらエカテリーナ・ブダノワやリディア・リトヴァクへの言及がなく、まるで彼女らを避けるかのように強引に話を空の戦いから陸の戦いに移し、狙撃兵だったパヴリチェンコにスポットライトを当てるという展開。そしてパヴリチェンコについても、戦争体験が原因で戦後PTSDとなりアルコールに溺れて早くに亡くなったところ、具体的にどのように苦しんだのかにはまったく触れずじまい。ドイツ占領下のフランスに潜入工作員として投入された米英軍属女性の話に至っては、時間が足りなくなってきたのか、「ナチ・ゲシュタポは女性に対する監視が緩いことから、女性を工作員として投入することが決まった。彼女らの潜入工作活動によってドイツ占領下のフランス国内にレジスタンスが組織化され、それがノルマンディー上陸作戦における連合軍の勝利に多大な貢献をしたが、その代償として37人の工作員のうち14人がドイツ軍によって捕縛・処刑された」といった趣旨の非常にアッサリとした内容。「悲しみの物語」はいったいどこにあるのかと疑問に思わざるを得ない編成でした。
他方で、ライチュについてはその回顧録からの引用に非常に時間を割いていました。結局はテストパイロットとして自らは死地としての実戦にはほとんど赴かないでおきながら、V1飛行爆弾の「有人化」を進言したことでナチ首魁のヒトラーにさえも引かれたライチュ。そんな彼女の「私が深く感動したのは名誉ではなく深い愛で抱擁してくれた故郷との絆。わたしはそれによって支えられている。この国土を守るのだ。畑や野原や山や河が豊かなこの国土を」や「祖国が血を流しながら死に直面する姿を見ていました。敵の爆撃に町が晒されるのも目撃しました。敵の中心部へ攻撃することが祖国を守り戦争を迅速に終結させると思いました」という回顧発言を重点的に取り上げるという異様な展開。悠久の歴史を有する偉大なドイツ民族とナチという風雲児的徒党とを直結するという重大な誤謬に生涯気がつかず、偏狭で狂信的に過激な民族主義者として貴重な生を終えたライチュに重点を置いたわけです。
「悲しみの物語」という観点から言えば、ナチ関係者として戦後白眼視されるという苦労はあったものの、ライチュ本人としては特段失意の中で世を去ったわけではありません。もちろん、上述のとおり偏狭で狂信的に過激な民族主義者として死んでいったことは傍から見れば哀れですが、当人はそれに気がついていなかったわけです。それゆえ、そもそもライチュを、「悲しみの物語」を取り上げる番組に登場させるのは人選ミスであるように思われます。もし本気で、番組内で取り上げられたライチュの回顧が愛国心の発露だと思っているのならば、これは非常に問題のあることです。
■単なる女性自衛官募集番組でしかなかった
そして番組の最後。『戦争は女の顔をしていない』で知られるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの「女たちの戦争には色、におい、光があり気持ちが入っていた。英雄的に勝利したあるいは負けたということはほとんどなない。男たちの関心を引くのは行為であり思想や利害の対立だが、女たちは気持ちに支えられて立ち上がる。女の戦争についての記憶というのはその気持ちの強さ、痛みの強さにおいて男よりも強度が強い。女が語る戦争は男のそれよりずっと恐ろしい」という発言を取り上げた直後からウクライナ軍女性兵士たちの勇敢な姿のシーンが連続。「♪真のウクライナの怒りを誰も知らず見たこともなかった〜我々の土地を侵略する者たち呪われた殺人者たちを容赦なく殺す〜♪」というウクライナ語の歌(日本語テロップより)に続き、「女たちの戦争には色、におい、光があり気持ちがある、80年前と同じ光景がある」というナレーション。アレクシエーヴィチってそういう勇ましい英雄豪傑物語の作者だったっけ?
そして今度は「女性兵士の数は世界各地で増え続けている。第二次世界大戦で女性が大きな戦力になることを世界は知った。そして兵器の進化と軽量化。いまや多くの国で女性兵士の割合は10%を超えている」としつつ、今度はイスラエルやヨルダンなど世界各国の女性兵士の映像が連続しました。
番組の演出はますますエスカレートします。軍事教練に参加するエストニア人女性の「ウクライナ紛争が起きてすぐに軍事訓練に参加しました。以前から参加を検討していましたが今こそやらないといけないのです。いざというときに国の役に立ちたいです」発言が放映され、そして番組冒頭にも登場したビロゼルスカ上級中尉が再登場。矢嶋・中核派系全学連副委員長が鳥肌が立ったとするシーンが放映されました。文字起こししたので是非お読みください。
オレーナ・ビロゼルスカ上級中尉。あなたはなぜ戦うのか、番組の女性ディレクターの質問にこうこたえてくれた。「ああなんだ、あの謎人選の理由はここにあったんだ」と疑問が氷解する瞬間。何のことはない、ビロゼルスカ上級中尉が尊敬している女性兵士たちだったからでした。
私は第二次世界大戦で戦ったリュドミラ・パヴリチェンコやハンナ・ライチュなどの伝記を読み、彼女たちのことを尊敬しています。
もし誰かが日本を攻撃してきたらあなただって戦うでしょう?
私たちはこの戦争が避けられないものであることを知り、何年も前から準備を進めてきました。
私が戦うのは祖国と愛する家族を守るためなのです。
ソ連空軍女性部隊が出てきた割にはブダノワやリトヴァクへの言及がなく、かなり無茶な論理展開で狙撃兵であるパヴリチェンコに話題が移ったと先に述べましたが、よくよく考えてみればブダノワはロシアのスモレンスク出身で、リトヴァクはモスクワ生まれのユダヤ人。これに対してパヴリチェンコはキーウ郊外出身。パヴリチェンコよりもライチュに長尺を割り当てたのは、ビロゼルスカ上級中尉の好みを反映しているんでしょう。
番組はアレクシエーヴィチから引用するものの、ロシアのウクライナ侵攻はまさに「利害の対立」であり、女性たちの「気持ち」が利用されているというのが真実です。番組はそうした戦争の真実には一切触れていません。それどころか、「戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語」という触れ込みだったはずなのに「悲しみ」の部分があまりにも少ないものでした。軍事教練に参加するエストニア人女性やビロゼルスカ上級中尉の発言を最後の最後に取り上げたあたり、単なる女性自衛官募集番組だったわけです。
■アレクシエーヴィチって勇ましい英雄豪傑物語の作者だったっけ?
先に私は「アレクシエーヴィチってそういう勇ましい英雄豪傑物語の作者だったっけ?」と書きましたが、奇しくもNHKは昨夏、教育テレビの「100分de名著」ではアレクシエーヴィチの代表作でありノーベル文学賞受賞作品である『戦争は女の顔をしていない』を1か月かけて取り上げていました。しばらく再放送しないでしょうが、テキストは一般書店でいまでも入手可能です。また、原著邦訳を岩波書店が岩波現代文庫で発行しており、非常に容易に入手可能です。
『戦争は女の顔をしていない』は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1948〜)が1985年に出版したデビュー作で、証言文学という形式を取っています。アレクシエーヴィチのメッセージは明確ですが、彼女は努めて「地の文」、つまり自分自身の説明や考えを本作に入れないようにしてきたといいます。それゆえ、一見すると「証言の羅列でしかない」という捉え方もでき、注意深く読み進める必要がある作品です。「100分de名著」は、東京外国語大学教授である沼野恭子氏を迎えて番組を進行しました。
番組そしてテキストは、本作がどのような作品であるかを「この作品をまだ読んだことがないみなさんに感じていただくため」(テキストp10)に、本作最初の証言者であるマリヤ・イワーノヴナ・モローゾワ(イワーヌシュキナ)狙撃兵長の「これは女の仕事じゃない、憎んで、殺すなんて」(テキストp12、原著邦訳p52)というくだりを紹介しています。「「どこにでもいた」少女たちが実際に経験した痛みや苦しみであることを、読み手に突き付けてくる作品」(テキストp12)なのです。また、第4回放送(最終回)では、番組のためにアレクシエーヴィチからメッセージが寄せられ、彼女は次のように述べていました(テキストには収録なし、当方にて文字起こし)。
この本でとても重要だと私が考えるのは、戦争に対する別の視線、女性の視線です。女性たちは戦争の正当性を見つけられない、見つけ出したいとは思わないということです。女性たちは命あるもの「生きている命」を守るのです。血・武器・暴力の時代は去ったのです。命のとらえ方を、今までとは違うものに切り替えるべきなのです。人の命は物事を測るものさしであってはならない。そしてこれが『戦争は女の顔をしていない』の軸となる考えなのです。「戦争モノ」というと私たちはどうしても英雄豪傑物語を頭に浮かべがちです。そうではない作品もありますが、常に「戦争の大義」の影が付きまとうものです。これに対して『戦争は女の顔をしていない』で収録されている証言には、戦争の大義など影も形も見られないものが多数あります。
もちろん、本作に登場する女性兵士たちはほぼ全員が志願兵なので、「大祖国戦争の大義」を意識していなかったわけではありません。むしろそれを我が物として積極的に従軍していたはずです。しかし、たとえばアナスタシヤ・レオニードヴナ・ジャルデツカヤ(上等兵 衛生指導員)の「あたしを歴史家にしようだなんて無理よね。包帯で作ったドレスを着ている写真を見せるほうがあってるわ」という証言を敢えて盛り込んだ(テキストp30、原著邦訳p352)ように、アレクシエーヴィチは「大祖国戦争の大義」とは一線を画する証言を集めました。
なぜ彼女はそのような視座から独ソ戦を振り返ろうとしたのか、「100分de名著」では次のように解説しています(上段引用はテキストp24〜25、下段引用はテキストp28〜31)。
『戦争は女の顔をしていない』をはじめ、(アレクシエーヴィチが手掛けた代表的な)五部作の証言者に、有名な政治家や軍人はいません。ほとんどすべて市井の人々です。その人たちをアレクシエーヴィチは「小さな人間」「ちっぽけな人間」と表現しています。
わたしは理解した、大きな思想にはちっぽけな人間が必要なので、大きな人間はいらない。思想にとっては大きな人間というものは余計で、不便なのだ。手がかかりすぎる。わたしは逆にそういう人間を探している。大きな内容を秘めたちっぽけな人たちを探している。虐げられ、踏みつけにされ、侮辱された人たち――
『戦争は女の顔をしていない』は、「小さな人間」という「個」の声が響き合う、交響曲のような作品であり、「男の言葉」で語られてきた戦争を「女性の語り」によって解体した作品でもありました。「大きな内容を秘めたちっぽけな人たち」を取り上げることで、イデオロギーに沿った「大文字の歴史」「大きな物語」が取りこぼしてきたものをすくい上げるというところにアレクシエーヴィチの狙いがあるわけです。
理想の社会主義社会、「赤いユートピア」を建築しようとしたソ連では、そのイデオロギーに沿った歴史が、いわば「大文字の歴史」として残されました。それは、必然的に集団主義的であり、全体主義的社会に陥ってしまう歴史でもあります。
一方、女性の語りは、非論理的だとか、非合理的だとかいった言葉で不当におとしめられ、ステレオタイプ的に「生活密着型の単なるおしゃべり」「男性の言葉に比べて下に位置する」とみなされてきた側面があります。しかし、アレクシエーヴィチはその女性の語りに光を当て、価値を見出し、「大文字の歴史」が取りこぼしてきたものをすくい上げていきます。
(中略)
アレクシエーヴィチは、過去の出来事を、一人ひとりの個人の「生」という視点で書いています。かけがえのない一回限りの生は、唯一、大文字のイデオロギーに対峙し、それを解体していくことができるものです。男性原理、男の言葉に支配された大文字の戦争を、個としての女性の語りで解体したのが、『戦争は女の顔をしていない』という作品なのです。
こうしたアレクシエーヴィチの執筆姿勢は、検閲が存在したソ連時代では問題視されたそうで、検閲官から次のような指摘をうけたといいます(テキストp73)。
検閲官との会話より――「あなたの小さな物語など必要ない。我々には大きな物語が要るんだ」――アレクシエーヴィチが目指すものと支配層が要求するものとが非常にクッキリと別れています。
あなたの小さな物語など必要ない。我々には大きな物語が要るんだ。勝利の物語が。
当局との妥協の末、検閲をパスして出版に漕ぎつけたアレクシエーヴィチ。「100分de名著」では、(1)戦場における女性の身体性及び、恋やおしゃれのこと、(2)敵(ドイツ兵)を憎しみ切れず、むしろ共感さえも抱く複雑な感情、(3)戦後の女性兵士たちの苦しみ、そして(4)一人の女性の中にも同居する「二つの真実」について特に注目して取り上げました。
■「大きな思想」に沿った「大きな物語」に他ならない「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」の薄っぺらさ
ソ連文学ではあまりよい顔をされなかった、(1)戦場における女性の身体性及び、恋やおしゃれのことについて正面から取り上げた意図についてアレクシエーヴィチは、数少ない地の文で次のように述べています(原著邦訳p283〜284)。
女性たちが何の話をしていても必ず(そう!)「美しさ」のことを思い出す、それは女性としての存在の根絶できない部分。(中略)彼女たちは喜んでこういう娘らしい工夫や、小さな内緒事、表立っては見えないちょっとしたことについて生き生きと話してくれた。戦時の「男向き」の日常で、「男がやること」である戦争のただ中でも自分らしさを残しておきたかったことを。女性の本性にそむきたくない、という思い。(中略)彼女たちと話していると、小さなことが大きなことに勝っていて、時にそれは歴史全体より勝ることもあった。「100分de名著」では、現代ロシア文学の系譜として位置付けるとともに、次のように指摘しています(テキストp49)。
恋愛とは、極めて私的な営みです。軍隊という集団主義的な組織の中にあって、そうした私的な営為は、集団の規律を破る力、価値観を持っています。(中略)大きな理念やイデオロギーが作用している戦争という強烈な磁場にあって、女たちは個人の恋愛という小さな、些細な感情を大切にしていました。このことは、ディテールに宿る物語を描くという文学的側面からも大事であるだけでなく、集団主義に対する突破力を持っているという意味でも重要だと思います。アレクシエーヴィチを引き合いに出しておきながら「戦争のために生まれてきた女もいる。射撃の腕前も男に負けない。性別によって何が違ってくるのか私には全く分からない」で番組を始め、「戦場に命を懸けた女性たちの勇気」には触れるが「悲しみ」に当たる部分があまりにも少なく、ビロゼルスカ上級中尉のインタビューで締めくくる「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」の薄っぺらさが際立ちます。
「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」の描写は、アレクシエーヴィチが立ち向かった「大きな思想」に沿った「大きな物語」そのものであると言わざるを得ません。「あなたの小さな物語など必要ない」と言い放った番組編集チームとソ連時代の検閲担当官は、とても気が合いそうです。アレクシエーヴィチのメッセージに反論を試みるのならばそれはそれで結構ですが、反論にしては軽薄過ぎます。
■「アレクシエーヴィチのメッセージを曲解している」では済まされないレベルの単純過ぎる感情描写
(2)敵(ドイツ兵)を憎しみ切れず、むしろ共感さえも抱く複雑な感情は、『戦争は女の顔をしていない』でも頻繁に目にするものです。「100分de名著」でも複数の証言を紹介しています。
エフロシーニヤ・グリゴエヴナ・ブレウス 大尉(軍医)の証言。テキストp91〜92。
私は看護婦さんと並んでいて、そのそばで二人の兵士たちが粥を炊いていました。二人のドイツの捕虜がどこからか近寄ってきて食べ物をくれと言います。私はパンを持っていたんです。分けてやると、粥を炊いている兵隊たちが非難しているんです。
「見ろよ、医者たちが敵にあんなにパンをやってるぜ!」とか。(中略)すると先ほど私たちを非難していた兵士たちがドイツの捕虜に言っているんです。
「どうした、腹がへっているのか?」
ドイツ人は突っ立って、待っています。わが軍の兵士は仲間にパンを渡して、「切ってやれよ」と。
パンが切り分けられました。ドイツ人たちはパンを受け取って、まだ待っています。お粥が煮えるのを見ているのです。
「しょうがない、粥をやれよ」
(中略)
兵士たちはお粥に塩漬けの脂身を加えて、缶詰の空き缶に入れてやりました。
これがロシア兵魂ってもんです。
ワレンチナ・ミハイロヴナ・イリケーヴィチ パルチザン(連絡係)の証言。テキストp95。
冬にドイツ人の捕虜が連れて行かれるのに出くわしたときのこと。(中略)捕虜の中に一人の兵士がいた……。少年よ……。(中略)私は手押し車で食堂にパンを運んでいるところだった。その兵士の眼が私の手押し車に釘付けになっているの。(中略)私はパンを一個とって半分に割ってやり、それを兵士にあげた。その子は受け取った……。受け取ったけど、信じられないの……。信じられない…。信じられないのよ。
私は嬉しかった…… 憎むことができないということが嬉しかった。自分でも驚いたわ……
ナターリヤ・イワノーヴナ・セルゲーエワ 二等兵(衛生係)の証言。テキストp93。
私は殺したくなかった。誰かを殺すために生まれて来たのではありません私も『戦争は女の顔をしていない』を読んだことがあるので、「100分de名著」では紹介されなかった幾つかの証言をこの機に引用したいと思います。
ジナイーダ・ワシーリエヴナ・コルジュ(ソ連邦英雄、パルチザン中隊長:ワシーリイ・ザハロヴィチ・コルジュの娘で騎兵中隊衛生指導員)の証言。原著邦訳p233-240。
可哀想でした。ファシストではあっても、やはり。この気持ちは長いこと消えませんでした。殺すなんていやなんです。分かるでしょう? 恨み、憎しみがあったはずです、なんで私たちの国にやって来たんだ、と。でも、自分で殺してしまうというのは、恐ろしいことなんです。とっても。自分で殺すのは。
兵士の一人が捕虜をなぐった……私にはそれがあってはならないことに思えて、かばおうとした……分かってはいたわ……それは兵士の心の叫びだって……(中略)「さきま、忘れやがったのか?……この野郎……こいつらがどういう……畜生!」私は何も忘れたわけじゃない。おぼえていたわ、あの軍用ブーツのことを……ファシストたちに切り落とされた脚が入ったままのブーツが塹壕の前に並べてあったの。冬のことでそういうブーツが杭のようにつんつんと並んでた。それは、その前に殺された戦友たちの……唯一残された部分だった。(中略)忘れちゃいません。何一つ。でも、捕虜を殴れなかった。相手がまったく無防備だという理由だけでも。こういうことは一人一人が自分で判断したこと、そしてそれは大事なことだったの。
アレクサンドラ・イワーノヴナ・ザイツェワ 大尉(軍医)の証言。原著邦訳p207。
私の病室には負傷者が二人いた。ドイツ兵と味方のやけどした戦車兵が。そばに行って、「気分はどうですか?」と訊くと、「俺はいいが、こいつはだめだ」と戦車兵が答えます。「でも、ファシストよ」「いや自分は大丈夫だ。こいつを……」
あの人たちは敵同士じゃないんです。ただ怪我をした二人の人が横たわっていただけ。二人の間には何か人間的なものが芽生えていきました。こういうことがたちまち起きるのを何度も眼にしました。
アグラーヤ・ボリーソヴナ・ネスチェルスク 軍曹(通信係)の証言。原著邦訳p449〜451。
みなその瞬間を待っていたんです……今こそ分かるんだ、この眼で見ることができるんだわ……奴らはどこからやってきたのか?
(中略)
ソ連軍が攻勢に出た時のこと。私たちが初めてドイツ軍の塹壕を占領した時。そこに躍り込むと、いくつもの魔法瓶に熱いコーヒー。コーヒーの匂い……堅パン、白いシーツ、清潔なタオル、トイレットペーパー……私たちの所にはそんなもの何一つなかった。(中略)そして、ソ連軍の兵士たちはそんな魔法瓶に弾丸を打ち込んだ……このコーヒーに。
ドイツの家ではやはり銃弾で打ち砕かれたコーヒーセットを見たことがあります。(中略)でもやはり奴らが私たちにやったのと同じことはできませんでした。私たちが苦しんだように、奴らを苦しませることは。
タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ 伍長(衛生指導員)の証言。邦訳原著p482。
スターリングラードでのこと……一番恐ろしい戦いだった。ねえ、あんた、一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。この複雑な感情を証言文学の形式で表現しているところに、『戦争は女の顔をしていない』が読み応えある作品に仕上がっていると私は考えます。アレクシエーヴィチがノーベル文学賞できた理由は、ここにこそあると考えます。
これに対して「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」では、「♪真のウクライナの怒りを誰も知らず見たこともなかった〜我々の土地を侵略する者たち呪われた殺人者たちを容赦なく殺す〜♪」というウクライナ語の歌声につづきアレクシエーヴィチの「女たちの戦争には色、におい、光があり気持ちが入っていた」という言葉をアナウンスで挿入していました。アレクシエーヴィチが言いたかった女性たちの戦争における「気持ち」とは、上掲のような複雑な心境にこそあるのではないでしょうか?
セルゲーエワ二等兵(衛生係)はハッキリと「私は殺したくなかった。誰かを殺すために生まれて来たのではありません」と言っており、ドイツ軍の残虐行為の痕を目撃したコルジュ騎兵中隊衛生指導員はそれでも「忘れちゃいません。何一つ。でも、捕虜を殴れなかった」のです。ネスチェルスク軍曹(通信係)も「でもやはり奴らが私たちにやったのと同じことはできませんでした。私たちが苦しんだように、奴らを苦しませることは。」と証言しています。これに対して「戦争のために生まれてきた女もいる」をぶつけるのは、ノーベル賞作家の代表作への反論にしては番組の編集は薄っぺらく、「♪真のウクライナの怒りを誰も知らず見たこともなかった〜我々の土地を侵略する者たち呪われた殺人者たちを容赦なく殺す〜♪」は、あまりにも単純過ぎるでしょう。アレクシエーヴィチを引き合いに出しておいてこれ。もはや「アレクシエーヴィチのメッセージを曲解している」では済まされないレベルです。あまりにも酷い。
■女性兵士たちの「復員後の戦い」についてはまったく触れない「女性自衛官募集番組」
(3)戦後の女性兵士たちの苦しみは、『戦争は女の顔をしていない』が初めて正面から取り上げたテーマであると言っても過言ではなく、このことは本作の重要な構成要素をなしています。
独ソ戦において戦場の女性たちは、男性兵士以上の苦労をしたといいます。「『女に何ができるんだ』とばかにしている男性に認めてもらうことができないから」(テキストp38)です。独ソ戦における彼女らの貢献が、ソ連を勝利に導く一要因であったことは間違いのないことです。しかし、勝利の後に復員した彼女らに対する社会、とりわけ同性からの仕打ちは彼女らを苦しめたものでした。戦場で男性にバカにされ復員後は女性に侮辱されたわけです。
ワレンチーナ・パーヴロヴナ・チュダーエワ 軍曹(高射砲指揮官)の証言。テキストp66。
男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿になった。でも女たちに向けられる眼は全く違っていた。私たちの勝利は取り上げられてしまったの。
クラウヂア・S(匿名) 狙撃兵の証言。テキストp67。
祖国でどんな迎え方をされたか? 涙なしでは語れません……四十年もたったけど、まだほほが熱くなるわ。男たちは黙っていたけれど、女たちは?エカテリーナ・ニキーシシュナ・サンニコワ 軍曹(射撃兵)の証言。テキストp67。
女たちはこう言ったんです。「あんたたちが戦地で何をしていたか知ってるわ。若さで誘惑して、あたしたちの亭主と懇ろになってたんだろ。戦地のあばずれ、戦争の雌犬め……」ありとあらゆる侮辱を受けました……。ロシア語の汚い言葉は表現が豊富だから……
私は共同住宅に住んでいたのですが、同じ住宅の女たちはみなご主人と一緒に住んでいて、私を侮辱しました。いじわるを言うんです。「で、戦地ではたくさんの男と寝たんでしょ? へええ!」共同の台所で、私はジャガイモを煮ている鍋に酢を入れられました。塩を入れられたり……そうやって笑っているんです。元兵士の男性の証言。テキストp68。
私の司令官が復員してきました。私のところに来て、私たちは結婚しました。一年後、彼は他の女のところに行ってしまいました。私が働いていた工場の食堂の支配にいのところへ。「彼女は香水の匂いがするんだ、君は軍靴と巻き布の臭いだからな」と。
私の妻は馬鹿じゃないが、戦争に行っていた女たちのことを悪く言っている。「花婿探しに行っていたんでしょう」「恋に血道をあげていたんでしょう」と。タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ 伍長(衛生指導員)の証言。テキストp69、原著邦訳p470〜482。
戦後はまた別の戦いがあった。それも恐ろしい戦いだった。男たちは私たちを置き去りにした。かばってくれなかった。戦地では違っていた。スターリングラード戦を生き抜いたウムニャギナ伍長の証言は、原典邦訳書最後の証言です(原典邦訳p470〜482)。あまりにも重い証言を是非、原典邦訳書を手に取ってご自身で確認していただきたいと思います。
これこそが「悲しみの物語」というべきものです。これほど悲しい話はありません。「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」が「戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語である」を云々するのであれば、このような「復員後の戦い」にも目配りが必要であるはずです。
戦場で男性にバカにされ復員後は女性に侮辱された背景について「100分de名著」は、前者は、「女性らしさを求める社会規範」(テキストp40)に原因を求め、後者については、女性兵士たちを侮辱した女性たちが概ね、女性兵士たちよりも若干年上の非従軍者であったことから、「ある種の後ろめたさ」ではないか(放送内で言及。テキストには記載なし)としました。「女性らしさを求める社会規範」は日本社会においてこそ依然として強烈なものがあります。後者についても、日本社会でも十分に想定されるものです。女性自衛官にとっては他人事ではありません。
そのためか、このテーマについて「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」は逃げるように回避しています。狙撃兵として従軍したパヴリチェンコが戦後PTSDになりアルコールに溺れて早くに亡くなったことを軽く触れる程度にとどめています。女性兵士たちの「復員後の戦い」についてはまったく触れていません。
もちろん、「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」がそんな描写を盛り込まなかったことは十分に理解可能です。そんなことをしたら、女性が自衛隊に志願しなくなってしまうでしょう。お得意の「切り取り」で原著をズタズタに切り裂いてまでプロパガンダの道具にしているわけです。
マイナーな作家の作品ではなく邦訳を非常に容易に書店で入手できるノーベル文学賞受賞者の代表作品、自局が1年ほど前に解説番組を組んでいた作品をここまでズタズタに切り裂いて、夜10時という視聴率の高い時間帯に捻じ込んできたNHK。原著に当たらない層をうまくプロパガンダに引っ掛けられれば幸い、原著に当たる層には議論を吹っ掛けているのでしょう。
「映像の世紀 バタフライエフェクト」編集チームは、ある意味、「アレクシエーヴィチをよく研究している」と思われます。アレクシエーヴィチの問題提起・論点を割と正確に捉えつつ、その真逆のメッセージを展開したり、どうしても逆張りできない問題提起については無視を決め込んでいるからです。とはいえ上述のとおり、反論にしては程度が低すぎます。また、逆張りできずに回避した論点は、「さすがにその論点から逃げてはいけないだろう」というべきものです。アレクシエーヴィチをよく研究していると思われるからこそ、「女性自衛官募集」というプロパガンダ性が際立ってしまっています。無知なら「バカだなぁ」で済みますが、今回の場合はそうはいかないでしょう。
■官許・公式歴史観に沿った「他人の真実」が「そのひとの真実」を圧殺し得るという重要指摘をまったく無視している
そして(4)一人の女性の中にも同居する「二つの真実」について。テキストp73から75にかけて言及されています。引用します。
わたしも長いこと信じられなかった、わが国の勝利に二つの顔があるということを、すばらしい顔と恐ろしい顔が。見るに耐えない顔が。「そのひとの真実」とイデオロギーに沿った「他人の真実」とが、一人の心の中で複雑に入り組んでいることを『戦争は女の顔をしていない』を描き出しました。
戦争が持つ、大義名分に彩られた大きな物語という「すばらしい顔」と、汚く恐ろしい「見るに耐えない顔」。しかし、「見るに耐えない」からといってその「恐ろしい顔」から目をそむけてはいけない。作品を通じて、アレクシエーヴィチはそう訴えてきます。どちらの顔も、戦争の真実なのですから。
そして、戦争の二つの顔は、一人の人間の中にも存在していました。
ニーナ・ヤーコヴレヴナ・ヴィシネフスカヤは、戦車大隊の衛生指導員だった女性です。
(中略)
取材の後もニーナと文通を続けていたアレクシエーヴィチは、自分が驚いたことや衝撃を受けたことを選んで文章に書き、彼女に送りました。すると、数週間後、「重たい書留」が送られてきます。そこには「新聞の切り抜き、モスクワの小中学校における退役軍人ニーナ・ヤーコヴレヴナの『戦争に関する愛国的な仕事』についての公式報告書」、そしてアレクシエーヴィチが書いたことがほとんど残っていない、「ずたずたに削られ」た原稿が入っていました。
(中略)
新聞の切り抜きや公式報告書にあるのは、イデオロギーに沿った「他人の真実」であり、検閲官が望んでいたような大きな物語にほかなりません。それにそぐわない「そのひとの真実」という小さな物語は、他者の存在、そして自分自身によっても、圧殺されてしまうことがありました。
この複雑な心境もまた、「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」からは微塵も感じ取ることができないものです。
■ソ連の検閲官のメンタリティで番組を制作したNHK番組編集チーム
このように、「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」は、アレクシエーヴィチを引き合いに出しておきながら、「大きな内容を秘めたちっぽけな人たち」を取り上げることで「大文字の歴史」「大きな物語」が取りこぼしてきたものをすくい上げるという彼女の狙いとは真逆に、「大きな思想」に沿った「大きな物語」を描き出しました。まさにアレクシエーヴィチに「あなたの小さな物語など必要ない。我々には大きな物語が要るんだ。勝利の物語が。」と言い放ったソ連の検閲官が求めるような番組になったのです。露骨でありながら程度の低いプロパガンダというほかありません。
■真っ先に日本人がなすべきことは、「こうならないために何をなすべきだったのか」を学び取ることであるはず
ビロゼルスカ上級中尉の発言、そしてそれをそのまま報じたNHK番組編集チームに少々申し上げたいと思います。「私たちはこの戦争が避けられないものであることを知り、何年も前から準備を進めてきました。私が戦うのは祖国と愛する家族を守るためなのです」とのことですが、ウクライナとロシアとの戦いは「避けられないもの」だったのかも知れませんが、日本が直面している状況は、まだ「避けられないもの」と断言はできません。そうである以上は、軍事衝突に依らない平和の道を模索することが先決です。「軍事的に備える必要はない」と言いたいわけではありません。しかし、「避けられないもの」とする必要はまったくありません。
いま、ウクライナとロシアとの戦いは際限なくエスカレーションしています。もとより戦争は政治の一環・延長線上にあります。軍事衝突には至らず政治的目標を達成することこそが勝利です。それゆえ、軍事衝突が制御不能になってしまうことは「すでに半分失敗」なのです。そんな制御不能な「失敗戦争」の当事者を引き合いに出して「こうするしかない」と印象付けるのは非常に危険なことです。いま、真っ先に日本人がなすべきことは、「こうならないために何をなすべきだったのか」を学び取ることです。しかし、番組にはそのような視点は一切ありませんでした。
日本の現状にそぐわない発言、参考にならない発言を無編集で取り上げることは意味がないのです。
また、一般論としても武器を取ることだけが平和の道というわけではありません。その意味で、武器を持ち軍服姿の各国女性たちだけを連続放映することは、現実の半分しか反映していないものなのです。
■開き直って戦時プロパガンダ機関になった?
上述のとおりビロゼルスカ上級中尉はウクライナの右派セクター出身者でその政治的立場は非常に鮮明ですが、そういう点に対してまったく無批判であることは、マスメディアとして非常に問題があるのではないかと言わざるを得ません。
ちなみに、蛇足的かもしれませんが「映像の世紀 バタフライエフェクト」という番組のコンセプト自体に、カオス力学の学徒でありかつ歴史学徒でもある身として一言。
NHKが公開している令和4年度 国内放送番組編成計画によると、「蝶の羽ばたきが嵐を引き起こすという意味で使われる「バタフライエフェクト」 。歴史は、このバタフライエフェクトの積み重ねだと捉え直し、罪と勇気の連鎖の物語を描く」というのが番組のコンセプトであるようです。歴史をバタフライエフェクトの積み重ねだと捉え直すのは一つの考え方だと思います。しかしながら、カオス力学の観点から申せば、バタフライエフェクトつまり初期値鋭敏性を云々するなら、人間が知覚し難い僅かな差が長期的には大きな差となって現れるということなのだから、「何百年も前のちょっとした為政者の決断がキッカケで今日の深刻な状況がある」という描写ならまだしも、「第二次世界大戦以降、女性兵士が増えたという」歴史のスパンで見れば「最近」の話を初期値として、ロシア・ウクライナ戦争のような現在進行形の時事ネタを取り上げてはいけないでしょう。6月5日づけ「日本社会の歴史を語る姿勢・歴史感覚はここまで退化しているのかで述べたことを含めるに、「本当に一事が万事めちゃくちゃな番組だな」という感想を禁じ得ないシロモノです。
もう開き直って戦時プロパガンダ機関になったのでしょう。そして、そうであればこそ、NHKによる戦時プロパガンダの現時点での集大成としてこの番組を記憶するべきでしょう。つまり、露骨で程度が低いのです。この程度のプロパガンダしか作れないわけです。
関連記事:12月29日づけ「宗教が憎悪と分断の原動力になり下がり、政治の道具になり下がった正真正銘の戦争国家」
>ウクライナのアレストビッチ大統領府長官顧問が17日、ネット交流サービス(SNS)で辞任の意向を表明し、大統領府は承認した。ウクライナメディアが報じた。アレストビッチ氏は、東部ドニエプロペトロフスク州の州都ドニプロで14日に起きたロシア軍による集合住宅へのミサイル攻撃を巡り、ウクライナ軍の迎撃によって集合住宅に着弾したと発言し、非難を浴びていた。
アレストビッチ氏は17日、「辞表を書いた。根本的な過ちをしたため辞任する」などのコメントを、辞表とみられる画像とともに自身のフェイスブックに投稿した。
(引用終わり)
勿論、実際どうなのかは分かりません。アレストビッチとゼレンスキーとの間に何らかの意見対立があり、しかしそれを理由に更迭することは「ウクライナは一枚岩」という設定を壊すが故に「お互いに不利益」ということで建前上は「アレストビッチの失言」を口実に辞任を迫り「失言辞任の方がまし(何をどうしようとゼレンスキーは私を更迭する気だ)」と判断したアレストビッチがそれを受け入れた可能性もあるでしょう。
とはいえ「建前上は失言辞任」ですが「何処が失言なの?」でしょう。
「迎撃が上手くいかずサーセン、次はきちんと迎撃したい」レベルの発言を「ロシア擁護」と見なすのは無茶苦茶です。もはやウクライナは「ロシアとは別の意味」で「愛国発言の強制」がまかり通ってまずい状態ではないか。まあ、ウクライナ美化する面子はそういう疑問はないのでしょうが。
コメントありがとうございます。
ゼレンスキー氏は自らについて「清廉潔白の絶対無謬」と設定しているように見受けられます。まるでスターリンですね。その意味では、この展開は「予想どおり」ですが、貴見のとおり無茶苦茶ですよね。