2022年12月31日

チュチェ111(2022)年を振り返る(3):生活の匂いに満ち、社会主義的競争がますます洗練されている現代主体的社会主義を学び、日本の自主化に繋げるために

毎年恒例の年末総括記事です。朝鮮民主主義人民共和国の動向及びチュチェ思想について、今年1年間当ブログで執筆した内容と関連事項を振り返りたいと思います。

■生活の匂いに満ちた現代主体的社会主義
当ブログでは昨年末の総括記事において、「首領と人民大衆との繋がりを強化して危機を克服する一年」であり「戦時統制的な経済政策を採用なさらなかった」こと、及び「革命家の経済から普通の人の経済へ、超人的な人たちがつくる社会主義ではなく普通の人たちがつくる社会主義への移行期」であると指摘しました。今年はこの方向性がさらに鮮明に現れたものと考えます。

12月6日づけ「子どもたちの笑顔や未来を守るために・・・朝鮮労働党の厳粛な宣言」では、国家核武力完成宣言から5年の節目を目前に控えた11月20日に、党機関紙『労働新聞』が掲載した政論を取り上げて分析しました。当該記事でも書いたとおり、当該政論は、核開発と民生向上とをリンクさせた表現と「子ども」に対する言及が何度か見られたことが特徴的でした。国家核武力開発が、民生の中でも特に子どもたちの笑顔や未来のためであるという位置づけが強調されていたのです。

「子ども」に対する言及から私は、将軍様執権下、先軍政治時代の宣伝とは異なる印象を受けました。先軍政治時代の革命的ロマン・歴史ロマンに満ちた宣伝も意義深いと思いますが、私は、「子どもたちの笑顔や未来を守るため」といった生活の匂いに満ちた現在の宣伝は、現代主体的社会主義の真髄が非常によくあらわれていると考えます

新型コロナウィルス禍が始まって3年目になった今年。共和国の社会主義建設にとって非常に困難な局面は続いています。また、米南両軍の脅威も引き続き高度なレベルで存在し続けています。しかし、それでも元帥様は戦時統制な方法論は採用せず、また、民生も重視しているという姿勢を引き続き示し続けていらっしゃいます。いま共和国は、個人や企業の個別的な利益を保護する法制度を整備しつつ、同時的に共産主義の旗印を再度掲げ始めています。社会主義企業責任管理制をはじめとする近年の経済的制度改革の実践例を見るに、これは「20世紀の共産主義」の復活;改革の後退ではなさそうに見受けられます。戦時統制的な経済政策とはまったく異なる、非常に興味深いことが今起こりつつあるのです。

■「社会主義中小企業」によるイノベーション――社会主義的競争がますます洗練されてきている
1月30日づけ「こんにちの朝鮮民主主義人民共和国の経済にかかる3題・・・社会主義的競争、社会主義的イノベーション、嗜好品への注目」では、「従業員たちに先進科学技術を正しく普及し、働きながら学ぶ教育体系に網羅させ、技術革新のために必要な条件を保障するなどの事業が進め」ているピョンヤン建具技術交流社が、「専門会社でも大企業でもない」のにもかかわらず、「ピョンヤンの1万世帯住宅建設現場をはじめとする重要な建設現場に多くの建設資材を送」ったというニュースを取り上げました。専門会社でも大企業でもないピョンヤン建具技術交流社におけるイノベーションは、共和国における「社会主義中小企業」によるイノベーションであると言えます。

以前から当ブログでは、元帥様執権下で洗練されつつある社会主義的競争の動向について取り上げてきましたが、「社会主義中小企業」によるイノベーションは、社会主義的競争がますます洗練されてきていることを示していると考えます。

かつてシュンペーターは、中小企業家がイノベーションの担い手であるとしつつ、次第に大企業化・官僚化し最終的に「社会主義」になるとしました。しかしこんにち共和国において展開されている社会主義企業責任管理制による個別企業所の経営独立性、社会主義中小企業によるイノベーションの展開を踏まえるに、シュンペーター理論は一定の修正が必要であるのではないでしょうか。それくらい私はこのニュースに注目しました。

■朝鮮人民の潜在力がこのタイミングで引き出された要因は、指導者の仁徳と政策
2月27日づけ「先軍革命のよき遺産」では、朝鮮人民軍将兵たちが、元帥様が特に目をかけていらっしゃるリョンポ温室農場の建設に動員されていたという朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』記事を取り上げました。先軍政治の頃から軍人の経済建設への動員はたびたび取り上げられてきましたが、かつてはインフラなどの建設工事への動員や、あるいは、ジャガイモ農場への派遣といった文脈であることが多かったように記憶しています。

もちろん、そうした軍人労働力の投入も非常に重要なことですが、今回、温室農場建設に人民軍将兵が投入されたというニュースは、かつての軍人労働力の投入とは意味合いが違っているように思われます。すなわち、インフラ整備に一定の目途がつき、急場しのぎとしてのジャガイモ生産の段階を脱したという良い知らせであると解釈できるでしょう。

5月25日づけ「防疫大戦において朝鮮式社会主義の真価が発揮されている」では、新型コロナウィルスとの戦いについて、「一人一人の人民の生命は何よりも貴重であり、全人民が健在で、健康であってこそ、党もあり、国家もあり、この地のあらゆるものがあるというのが、わが党の確固たる信条」という朝鮮労働党機関紙『労働新聞』の社説を取り上げました。

このことは、まさに朝鮮労働党が結党以来掲げてきたことであります。そして当該記事でも書いたとおり、核武力の完成など国防上の懸念に解決が見られたがゆえに、ようやく朝鮮労働党結党以来の確固たる信条が何らの妨害要素もなく掲げられるようになったというべきなのです。

年末総括記事らしく、2月27日づけ記事と5月25日づけ記事を総合してみましょう。今年共和国は、国防、インフラ建設、そして急場しのぎのジャガイモ生産などに一段落がついたと言えると考えます。ようやく朝鮮労働党が、その確固たる信条を実現させるために注力できる基盤が整い、生活の質向上に直結する農業振興に集中できるようになったのです。

このことが、コロナ禍のさなかに起こったことは特筆的なことです。非常に厳しい客観的条件の中で自力を発揮したわけです。日常生活でも体験し得ることですが、「他人をその気にさせて何かを行わせる」ということは非常に難しいことです。為政者が呼びかけたとしても、必ずしも人民大衆が呼応するものではありません。朝鮮人民の潜在力がこのタイミングで引き出された要因には、元帥様の仁徳という道徳的刺激もあるでしょうし、社会主義企業責任管理制による物質的刺激もあったものと思われます。指導者の卓越した仁徳と政策にあるのです。

■プロパガンダと侮るなかれ。この世には、プロパガンダさえマトモに打てないアベ・スガ・キシダがいる。
9月9日づけ「以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムで新型コロナウイルス禍を克服した朝鮮民主主義人民共和国」では、元帥様そして朝鮮労働党の、人民ひとりひとりを貴重に見なす以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムについて考えました。社会政治的生命体の真髄というべきものです。

元帥様の建国記念演説を「プロパガンダ」として切り捨てることは非常に容易いことです。しかし、当該記事でも書いたとおり、日本を見てみると、アベ・スガ・キシダは、あれだけ「リーダーの発信が弱い」「国民に寄り添っていない」と批判されてもなお、その言葉は元帥様のお言葉の足元にも及びません。アベ・スガ・キシダは、オツムをフル回転させても人心に訴えかける感動的な発言を思いつくことさえもできないのです。特にキシダが無意識に発する「あー」「えー」は、「お前ら低学歴・低所得の庶民には何て説明したら分かるかなー」と言わんばかりに他人を小馬鹿にする響きが込められているように私には聞こえます。キシダの演説はアベ・スガのそれとは比べ物にならないくらい不愉快です。

アベ・スガ・キシダの醜態と比べるに、人民ひとりひとりを貴重に見なす以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムは、常日頃から思索を巡らせていなければ俄かには口にできないものだと言えます。政治宣伝要素を差し引いてもなお、元帥様そして朝鮮労働党が以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムを思想として持っているというべきなのです。

■共和国では、社会と自然と自分自身の主人としての主体的人間たちが生きている
「国家百年の計」とよく言われるように、政治家は目の前の現実に対応するだけではなく長期的な視野・歴史的な視野からも総合的に物事を判断する必要があります。一時的な不便があったとしても長期的な展望に立てばこそ歯を食いしばらなければならない場合というのは当然あるものです。短期と長期との両方に配慮するにあたっての匙加減は非常に難しいものであるだけに、政治判断は「大義重視・生活軽視」に陥りがちなものです。これに対して、たとえ宣伝の要素が強いにしても、元帥様のひとりひとりを大切にする以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムは特筆すべきものと考えます。

元帥様の以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズム、社会政治的生命体の真髄を体現するその政治姿勢は、人民大衆に対して社会政治的生命体において如何に生きるべきかの範を示しています。当該記事でも書いたとおり、新型コロナウィルス禍において日本社会では、「お客さま」意識が奇形的に肥大化し、政治や行政に対するクレーマー的騒ぎが展開されましたが、これに対して共和国では、多くの人民が「自分事」として国家的な防疫事業に積極的に参画しました。

共和国では、党と政府が74年の歳月を掛けて教育的に形成してきた、社会と自然と自分自身の主人としての主体的人間たちが生きています。

■共和国の無尽蔵な力の秘訣とは
11月23日づけ「世界に先駆け人類の理想社会:共産主義社会を実現することを現実的な課題として掲げている共和国」では、朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』編集長である金志永氏による、共和国の無尽蔵な国力の秘訣を解説する記事を取り上げました。

非常に勉強になる金志永氏の解説です。共和国の無尽蔵な力の秘訣として記事で金志永氏は、徹底した人民性・思想の唯一性・揺るぎない自立性・一貫した継承性の4項目を挙げています。

徹底した人民性は、社会のあらゆる階層に党組織が深く根付いていることと関係しているでしょう。社会が高度に組織化しているからこそ民衆の意見を集約し得るのです。これに対して、日本のように社会の組織化が不十分で個人がバラバラになっていると、民衆の意見を吸い上げようがありません。

思想の唯一性については、昨今の「多様性」談義の悪しき影響によってソフィスト的相対主義が幅を利かせており、また、フェイクニュースやヘイトスピーチと言論の自由とが混同されるくらい思想的な混乱の極みにある日本言論空間では理解しにくいキーワードでしょうが、当該記事でも私見として書いたとおり、ここでいう思想の唯一性とは、人民的な政治を貫徹するという意味であると理解すべきでしょう。

揺るぎない自立性のためには自立的民族経済の建設が必要になります。資本の利益を代表する資本主義政権は、国家の揺るぎない自立性を十分に確保・実現させることはできないものと思われます。なぜならば、貿易理論を部分的・意図的に無視して自国生産するわけですから、国際化した資本の利益には必ずしも一致するものではないからです。ここに社会主義の優位性があるものと考えます。

一貫した継承性にかかる金志永氏の説明は、改めて注目に値し学習すべきものです。首領の代替わりは組織領導体系と思想体系の引き継ぎでもあるということです。

徹底した人民性・思想の唯一性・揺るぎない自立性・一貫した継承性の4項目ゆえに共和国では、社会の混然一体・自力更生の伝統・集団主義の気風が確立しているといいます。そしてこのことは、資本主義では必ずしも実現できるものではないといいます。まさにここにこそ、政権の性質の違い、つまり社会主義の優位性があるといえるでしょう。

当該記事でも私見として述べたとおり、元帥様のお言葉として引用されている「私たちが理想とする社会主義強国は、すべての人民が衣食住の心配を知らず、無病息災かつ安らかで仲睦まじく暮らす社会、互いに助け合いながら喜びも悲しみも分かち合う共産主義的美徳と美風が発揮される人民の社会」という社会像は、社会的存在としての人間の本性に合致した社会であると言えます。社会主義社会で生きるときにこそ、人間は自然体で生きることができるものと考えます。現代資本主義の競争至上主義は、人間同士がお互いを高め合う切磋琢磨の域を逸脱しており、不自然であると言わざるを得ないと考えています。

チュチェ思想は、人倫・人間性の回復を掲げた初期マルクスの問題意識と通底していると考えます。マルクス・エンゲルスは史的唯物論の確立以降、疎外論に直接的な言及を加えることが徐々に減ってゆき、史的唯物論の更なる体系化と後代による継承の結果、初期マルクスの疎外論的な問題意識は「若気の至り」扱いされるようになってしまいました。社会政治的生命体論は、初期マルクスの疎外論的な問題意識を現代によみがえらせたという意味で思想史的な意義があると私は考えています。

■『我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について』を学び直す
やはり私は社会主義にこそ人類の未来があると考えます。当ブログが朝鮮民主主義人民共和国に注目している理由の一つとして、チュチェ思想を日本社会で具現化することによって日本の自主化を目指したいというところにあります。ここからは共和国本国の情勢からは少し離れて、私なりに考えた社会主義について振り返りたいと思います。

9月20日づけ「「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」50年」では、首領様が日本の『毎日新聞』記者と会見し、のちに「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」(チュチェ61・1972年9月17日)としてまとめられる重要労作を発表なさってから50年の節目となる日を記念して、『我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について』を学習しました。

当該記事でも書いたように、日本の現状に合致したチュチェ思想の活用が必要です。私は将来的には日本においても社会政治的生命体を形成することを目指すべきと考えますが、革命的同志愛と義理心に基づいた道徳義理的団結の実現条件が、ブルジョア「個人」主義が蔓延している現代資本主義社会において存在しているとは到底思えません。他方、チュチェ思想も一つの思想である以上は、その枠内に収まるとして許容できる解釈と逸脱として判断しなければならない解釈の問題がどうしても生じます。チュチェ思想の本質は何であるかという理解のもと、自分事として日本社会を分析してその変革の道を探る必要があるのです。

未来社会追求においては「立ち遅れている」日本人は、チュチェ思想の深奥なる世界から自分たちに必要な内容を、その本質を踏まえながら自分たちの頭で考えて拾う必要があるわけです。チュチェ思想の本質を踏まえて逸脱を戒めながら、立ち遅れた日本社会の現状に合致した内容を拾うとするとき私は、首領様が50年前に発表された「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」は、まだ共和国においても社会政治的生命体の形成途上であった時期の労作であるだけに、非常に参考になるものであると考えます。

詳しくは是非とも当該記事をお読みいただきたいのですが、要約すると次のとおりになります。
・社会変革における主語は「人民大衆」であるということ。
・「自主的である」とは、社会に参画をし社会を協同して運営しているということ。
・人民大衆の諸活動は「生活」を目的とすべきであるということ。
・人間は物質的基礎に規定されて生存する存在であると同時に、その物質的基礎を自ら創造・改造してゆく存在でもあるということ。
・そうであるがゆえに人間の教育より重要なことはないこと。


いずれも、現代日本の常識に照らしたとき、それほど違和感を感じるような内容ではないと思われます。これは、チュチェ思想は人民大衆の革命運動のさなかに形成され体系化されたものなので、突飛な発想ではないためです。日本は、50年前の首領様の労作から拾えるものを拾うことから始めるべきであると考えます。

■なぜ「社会主義」が、そもそも「社会主義」とは何か
11月20日づけ「ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道について」は、ロシア革命105年を記念し、私なりに考えてきたことのまとめ記事の体裁を取りました。

まず、「社会主義」とき何であるかを固めました。

チュチェ思想派として私は、「社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会政治的生命体を形成するための運動である」とした上で、「社会的政治的生命体の内部において人々は、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的な一心団結をなしてい」るものであるとしました。より正確に言えば、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的な一心団結をなしているのが社会的政治的生命体です。この人間関係は、「自由と平等」を前提としつつもそれよりも一段高みにある関係性であり、社会的存在としての人間が幸福に生きる人生観を基礎付けるものであると私は確信するものです。

資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保障にとどまります。資本主義社会では「自由と平等」の関係は実現され得ても、同志愛と革命的義理の関係性が実現されることはありません。いま資本主義社会では盛んに「社会的包摂」というキャンペーンが展開されていますが、極めて難航しています。

資本とは自己増殖する価値のことですが、資本主義とは価値増殖を経済活動の最大の目的とする社会制度をいうものです。資本主義経済はそれゆえに、常に需要を創出し続ける必要があります。資本主義経済は、人間の物質的欲望を強引に刺激することで物質生活を餓鬼道的に奇形化する一面があります。

人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。修正資本主義的対応では足りず社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要になります。チュチェ思想の立場から申せば、「社会から疎外されて孤立する人をなくすこと」や「物質生活とそれ以外の生活のアンバランスを是正すること」が資本主義に対する社会主義の優位性であると言えます。

■社会主義建設におけるソビエト政権の根本的誤り
次に、社会主義建設におけるソビエト政権の根本的誤りを将軍様の労作『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』(チュチェ81・1992年1月3日)および労働新聞掲載の論文:『社会主義は科学である』(チュチェ83・1994年11月1日)ならびにマルクス経済学者である鎌倉孝夫先生の記事から考えました。

詳しくは当該記事をお読みいただきたいのですが、端的に言えば、ソビエト政権が俗流的・スターリン流に唯物史観を理解したところに誤りがあると言えます。そして、唯物史観にはもともとスターリン流に解釈し得る余地があるとも言えるのです。

当該記事でも書いたとおり、私は、すべての事象を「人間」というフィルター越しに見、すべての事象を人間との関係に結び付けて考えるくらいの姿勢が必要だと考えます。教条主義者によると人間の意識性を重視するチュチェ思想は「観念論」ということになるようですが、そもそも「生産力」とはその本質において自然を改造する人間自身の力であり、生産力の発展とは人間の発展に他ならないものです。

■主人意識の獲得
すべてを「人間」というフィルター越しに見る姿勢で現代日本を考えたとき、主人意識の獲得脱個人主義・協同意識の獲得そして目的意識性の涵養という3つのテーマが浮上してくると考えます。これを現実のものにするために物質的・制度的な諸条件を整備する必要があります。

主人意識とは、「自分の運命は自分で決める」という意識です。他力本願になり他人の指揮棒に従うのではなく自らの運命の主人として主体的に生きるということです。他人がいつも善意で指揮棒をふるうとは限らないものです。このため、主人意識の獲得が重要になります。

主人意識の獲得については、本年10月1日づけ「消費者がアーティストを搾取し芸術界に株式会社形態が侵食する反面、分配をめぐる自然発生的な問題提起が上がり初期協同社会を構想するにあたって人類史的な意義を持つ労働者協同組合が歴史的な日を迎えている・・・時代は着実に前進している」で書いたとおり吉兆は見えてきたものの、日本社会の他力本願っぷりは新型コロナウィルス禍において嫌というほど見せつけられました。吉兆は見え始めたとはいえ、総体的にはまだまだ厳しい状況が続いていると言わざるを得ないところです。

日本社会を覆っている他力本願の要因について、社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化が底流にあると考えられます。現代では社会的分業が徹底的に専門細分化・市場化されたことにより、「カネさえ払えば後はすべて丸投げ」が当然になっています。消費者・需要側は、自分の都合を並べ立てて業者・供給側丸投げすることが当然のことになりました。「お客さま」意識が奇形的に肥大化しています。そしてここに、前近代時代から中途半端に残る「御上が何とかしてくれるはず」という意識が混ざり込むと、もはや自分自身が能動的に動こうとする意識は芽生えもしなくなると考えられるのです。

社会的分業の徹底的な専門細分化をやめることは非常に困難なことであり、これを所与の条件として新たに戦略を立てる必要があります。当該記事ではデュルケムの社会学理論を導入しました。デュルケムが予言した社会変動に応じて積極的な思想教育、すなわち対人活動としての組織化を推進する必要が不可欠と言えるでしょう。来年以降は、更にこの点を考えてゆきたいと思っています。

■脱個人主義・協同意識の獲得
脱個人主義・協同意識の獲得。これは、主人意識を現実のものにするために重要な意識であると同時に、システムとしての客観世界において自他を救う重要な意識です。また、単なる主人意識が堕落しかねない「身内エゴに凝り固まった利権集団化」を防ぐことにつながるとも考えられます。かつての国鉄の労働運動が大衆的支持を失って孤立していった歴史的事実を踏まえるとき、社会主義を志向するにあたって不可欠的に重要なことです。

当該記事で取り上げたとおり、「自己研鑽」のインチキ理論に毒されて身を削って働いている病院勤務医や、「スキルアップ」が強迫観念化していたり「自己責任」論によって自分で自分を崖っぷちに立たせていたりする新中間階級の自己疎外された姿をみるに、「個人」主義は、自分自身のためにもなっていないように見受けられます。

もとより社会システムに対してあまりにも小さく非力な存在である個々人は、集団をなし、集団の運命と自己の運命を一致させるときにのみ、自分自身の運命、自分自身の生活を守ることができます。個人主義を脱して協同的に生きることは、社会が空中分解の危機から救われるだけではなく個々人も救われることになるのです。

協同化における課題については、6月28日づけ「技能実習制度問題を解決する道は「移民労働者としての受け入れ」ではなく「協同化」」で洗い出しました。すなわち、(1)協同経営体がブルジョア的株式会社に退化する可能性(2)ムラ社会的なメンタリティを引きずる日本文化が新参者の「ガイジン」を受容するか(3)すべての労働者が必ずしも自主性を高く持っているわけではない(4)新しいようで古い労働者のプチブル化です。このことについても来年以降、さらに深めてゆきたいと考えています。

■目的意識性
目的意識性の問題については、新型コロナウィルス禍を通して日本社会においては非常に深刻な状況にあると言えます。通常、チュチェ思想では自主的な人間を育てることを重視し、その筋で教育を展開するものですが、日本においてはまず何よりも目的意識性を涵養しなければならないと考えます

チュチェ思想において人間の意識性とは、世界を認識し改造するすべての活動が合理的に行われるように構想し計画する性質であると定義されます。当該記事ではチュチェ思想の文献をもとに人間の意識性について基本的な理解をおさらいしました。今年はこれをもとに更に目的意識性の涵養について考えてゆきたいと思います。

また、人間の意識性の解明は、いま流行りの人工知能時代の倫理問題を考える上でも避けて通れない問題です。チュチェ思想の理解を更に深め、また、当ブログがより皆様の知的刺激の一助になるためには、最新の話題をフォローする必要があると考えています。もともと個人的に興味を持っている分野なので、少しずつ幅を広げてゆきたいと考えています。

■総括――だからこそ社会主義を目指したい。目指す必要がある。
チュチェ思想の実践を通して日本の自主化、そして社会政治的生命体の構築を目指す立場として日本社会の現状を分析した記事として今年、当ブログでは、2月12日づけ「現代資本主義社会を主体的に乗り越えるためには究極的には人生観問題に取り組む必要がある」、2月19日づけ「新型コロナウィルス禍は、ウィルスとの闘争であると同時にブルジョア利己主義との闘争でもある」、および5月31日づけ「掛け金を払えなければ医療費を工面できないアメリカ社会への疑問・異議が見られず、個人の自衛手段としての民間保険への加入の重要性ばかりが強調される日本世論の徹底的な「個人」主義化の現状」を執筆しました。

これらの記事を総括すると、日本社会は余りにも金銭万能主義および「個人」主義が進み過ぎていると言えます。金銭万能が行き過ぎるあまり、稼ぐ力が人格を評価する物差しとなっており、また、「金の沙汰が命の沙汰」であることへの違和感や拒否感が弱まっています社会はシステムであるという理解がスッポリと抜け落ちており、「他人は他人で自分は自分。何の関係もない」という観念が横行してもいます。新型コロナウィルス感染症という公衆衛生の重大問題に直面しつつも、かかる「個人」主義が矯正されないというのは相当深刻なことです。

それでも私は、いやむしろ、そうだからこそ私は、社会主義を目指したい。目指す必要があると考えます。

主人意識の獲得と脱個人主義・協同意識の獲得そして目的意識性の涵養という3つのテーマを切り口として、社会主義建設の主体としての「人間」の育成問題に取り組むことは、ロシア革命によって誕生したソビエト政権の失敗を乗り越え、ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、キム・イルソン主席によって開拓されキム・ジョンイル総書記そしてキム・ジョンウン総書記に引き継がれている社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道であると考えます。
posted by 管理者 at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック