仏大統領の台湾発言が波紋 「我々の危機ではない」コメ欄
4/11(火) 19:12配信
産経新聞
【パリ=三井美奈】フランスのマクロン大統領が5〜7日の訪中時、米欧メディアと行ったインタビューで台湾をめぐり、欧州連合(EU)は米国の政策に追随すべきでないと主張し、「われわれの危機ではない」と位置付けたことが波紋を広げている。欧州の対中強硬派から、批判が相次いだ。
(以下略)
台湾問題は「我々の危機ではない」とは、仏大統領の自分勝手な主張です。いやいや、これこそがフランス共和国の原点:ブルジョア革命としてのフランス革命が掲げた「自由・平等・博愛」の実態じゃないですかw
(中略)
フランス人の為だけの自由博愛主義ならばならば、他国に強要する必要もないでしょう。
そもそも論として、チュチェ思想の立場から申せば、「自由・平等・博愛」は質の異なるものを列挙しておりスローガンとして成り立っていないと言わざるを得ません。キム・ジョンイル総書記は『チュチェ思想教育における若干の問題について』(チュチェ75・1986年7月15日)において、社会政治的生命体、つまり博愛の社会歴史観について論ずる文脈において、「自由と平等の関係があるからといって、革命的信義と同志愛の関係がおのずと生まれるものではありません。品物を売る人と買う人は平等な関係にあるとはいえても、彼らが必ずしも同志的に愛しあう関係にあるとはいえません。自由と平等の関係を革命的信義と同志愛の関係と対立させるのも正しくありませんが、どちらかの一方を他のものに溶解させようとするのも誤りです」と言明されました。「自由・平等」と「博愛」は同次元で語るべきものではないのです。
ブルジョアとしてのフランス革命について当ブログでは、チュチェ109(2020)年11月1日づけ「リベラリズムは没落し、プログレッシブは芽の段階」において次のように指摘しました。トランプvsバイデンの前回アメリカ大統領選挙に際した記事です。
■19世紀以来一貫して詐欺師であり続けたリベラリスト真の意味で自由・平等・博愛が実現していれば、それそもフランス革命で「歴史は終わっていた」はず。しかし現実は上述のとおり、「自由」は単なる自由放任に、「平等」は形式的平等に、「博愛」は単なる宗教的道徳倫理に留まるものに変質したものでした。フランス人が言う「自由・平等・博愛」が単なる建前に過ぎないことは200年前から明らかなことなのです。
(中略)
リベラリストたちが「人権」を云々しつつ現実の人権侵害の根本にある資本主義の「制度そのもの」には決して手を触れようとしないのは、19世紀以来、彼らが一貫して詐欺師であったことを示すものです。
「自由・平等・博愛」という概念をリベラリズムの根本教義であるとする見方には、異論はないでしょう。この概念は、もともとは18世紀フランス革命の理念を示すスローガンでした。18世紀末から19世紀初頭においてリベラリズムは、身分社会を打破し自由社会を切り開く上で、王族及び貴族並びに聖職者たちが牛耳る社会からブルジョアジー中心の社会へと変革を進める上で理念的原動力として輝いていました。
その一方で、フランス革命と並行していた産業革命以来の急激な工業化と都市化は、農村の農民共同体と都市の職人共同体を破壊し、彼らを「単なる労働力」に仕立て上げ、否応なく機械制大工業、そして利潤追求を第一目的とする近代資本主義に巻き込んで行きました。今のような労働法制が十分でなかった当時は、「単なる労働力」が置かれた状況は現在とは比べ物にならないくらい劣悪であり、資本主義化が先進的だった西ヨーロッパ諸国では労働争議が頻発しました。
「単なる労働力」が置かれた状況は、フランス革命と近代リベラリズムが掲げていた「自由・平等・博愛」とは懸け離れた現実でした。革命理念の筋を通すのであれば、「第2次」フランス革命が起こるべきところでしたが、すでに「第1次」フランス革命を英雄的に推し進めたブルジョアジーたちにかつてのような「理想」はありませんでした。むしろ、連中にとっては「革命は済んだこと」であり、連中こそが「単なる労働力」を酷使する張本人だったのです。
ここにおいて「自由・平等・博愛」の「自由」は単なる自由放任に、「平等」は形式的平等に、「博愛」は単なる宗教的道徳倫理に留まるものに変質してしまいました。いやもしかすると、そもそも「自由・平等・博愛」というスローガン自体、つまりリベラリズム自体が、王族及び貴族並びに聖職者たちから権力を簒奪するための口実に過ぎなかったのかもしれません。
いずれにせよそれ以来、「自由・平等・博愛」のスローガンは、眼前の現実社会がフランス革命の崇高なる理念を引き継いでいるものだと喧伝する「表の顔」と、現実の災禍を誤魔化すためのイデオロギーとしての「裏の顔」を持つようになりました。
近代の社会主義・共産主義運動においては、このような「自由・平等・博愛」が実現しているとは懸け離れた現実を是正し、その理念を完遂するという動機もありました。
■資本主義の「聖域」には人権問題と言えども決して切り込まず頬かむりするリベラリスト
この基本構図は依然として変化はありません。現代リベラリストの「人権」尊重も、本当に人権を尊重しようとすれば、労働力の商品化という制度自体の再検討がどうしても必要ですが、それはまさにブルジョアジーの利権そのものであり、資本主義の根本といっても過言ではない「聖域」です。だからこそ、19世紀のリベラリストたちが頬かむりしたように21世紀のリベラリストたちも頬かむりしているのです。
他方、女性やLGBTの問題は、ブルジョアジーの利権を脅かすものではありません。リベラリストにあっては、依然として「自由・平等・博愛」の看板を掲げている以上は、ときどき「それっぽい姿勢」を見せる必要があります。女性やLGBTの問題は、とても「使いやすい」わけです。SDGsについても、すでにこれが投資キャンペーンとして証券会社(野村証券)の営業文句になっています。
リベラリズム運動とは、まさに「アリバイ作り」であり、それどころか「新しい商売のタネ」でさえあるのです。しかしこれは「格差を縮小させる「利益の民主化」は決してもたらさない」ものです。19世紀以来続いてきたリベラリストたちの古典的な詐欺手口です。21世紀になっても相変わらず同じ手口で人民大衆を騙そうとしているわけなのです。