戦争を逃れ、のうのうと海外のリゾート地で暮らすロシア人 ウクライナ侵攻を黙認するロシア国民に「戦争責任」はないのか?ロシアのウクライナ侵攻にかかる一般ロシア国民の「責任」論は、ヤフコメレベルでは以前から見かけるものですが、あまり盛り上がっているとは言えません。
7/12(水) 6:22配信
デイリー新潮
(中略)
隣国トルコやペルシャ湾岸諸国のリゾート地などで暮らす富裕なロシア人も少なくない。ロシア人はビザ無しでも一定期間トルコに滞在できるのだが、そうしたロシア人たちのために現地の家賃が高騰して、地元住民が大迷惑を被っているという。
戦争はプーチンが始めたもので、一般のロシア人に罪はないというのが欧米や日本の基本姿勢だが、もし総動員令でも出れば国外に逃れるロシア人はさらに増え、混乱は増すだろう。それでも「ロシア国民に責任はない」と言っていられるのか――。国際政治学者・鶴岡路人さんの著書『欧州戦争としてのウクライナ侵攻』の一部を再編成して考えてみたい。
(中略)
しかしEUは、この方針から一歩踏み出すことになった。2022年9月にロシアとの間のビザ円滑化協定を完全に停止する決定をおこなったのである。一般国民を明確に標的にした措置であり、従来の対象を絞った制裁とは基本的性格が異なる。
EUによるこうした決定、さらには政権への制裁から一般国民を含む制裁への対象の変化・拡大には二つの理由が存在した。第一は、ロシアがウクライナで国土の破壊と人々の虐殺行為を続ける最中に、何事もなかったかのようにロシア人旅行者がEU諸国で休暇を楽しんでいるのはおかしい、という道徳的な反発・問題意識だった。ロシア人旅行者を受け入れ続けることへの疑問が生じたのは不思議ではないだろう。
(中略)
「集団責任」を問うのか
加えて持ち上がったのが、動員逃れのロシア人の受け入れ問題である。9月21日に動員開始が発表された直後から、成人男性のロシア脱出が急増することになった。
そのうえでさらに議論になったのが、動員逃れのロシア人を、原則論として受け入れるべきかという問題だった。
(中略)
ここで問題となるのは、動員逃れのロシア人の多くも、自らの問題になる前は戦争に賛成していた人が多いだろうという事実である。各種調査で、戦争やプーチン政権への支持率は、開戦後も7割から8割で推移していた。支持していた人の多くは戦争を「他人事」とみていたのであろう。それが、動員によって突然に自らの問題になったのである。彼らは、個人の問題としての動員反対ではあっても、戦争反対であるとは限らない。そうした彼らを受け入れることのリスクや、道徳的妥当性が問われることになった。
リトアニアのランズベルギス外相は、「リトアニアは単に責任逃れをするだけの人々に庇護は与えない。ロシア人は国に残って戦うべきである。プーチンに対してだ」とツイートした。背後には、今回の戦争においてロシア人の「集団責任」を問うべきかという論点が存在する。これは、戦争責任論では極めて困難なテーマとして長年論争の的になってきたが、ランズベルギスの議論は、突き詰めれば、集団責任を追及しているように聞こえる。
これは一つの考え方である。しかし、具体的な戦争犯罪に関わる戦犯としてプーチン大統領などの個人の責任を問うことと、集団としてのロシア人の責任を問うこととの間には大きな断絶がある。加えて、後者の姿勢は、従来の米欧日の対露姿勢とは本質的に違う点については自覚的である必要があろう。
犯罪加害者の子どもや兄弟(親なら、場合によっては百歩譲って理解できないこともないが・・・)まで犯罪者扱いして迫害する日本社会・日本世論が、プーチン大統領とその取り巻きたちとロシアの一般国民を冷静に峻別するとは到底思えないものです。
おそらく、ロシアの一般国民の戦争責任を問えば直ちに「じゃあ日帝の戦争責任(戦後責任)はどうなるんだ」という話が出てくるのは目に見えているので、この話題には努めて触れないようにしているのでしょう。この記事も歯切れの悪い終わり方をしています。
「戦争責任(戦後責任)は既に解決している」と言い張るのであれば、堂々と発信し議論を展開すればよいのに、それをしないから思わぬタイミングで自分たちの足枷になるのです(分が悪いことを薄々分かっているので議論から逃げているのでしょうけれども)。
戦争責任・戦後責任の問題をあいまいにしておくから、こういうときに思わぬ落とし穴に落ちるわけです。