2023年08月17日

敵に対しては「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」、自分たちについては差別的特権意識によって別格扱い

https://news.yahoo.co.jp/articles/b647ed81e4a57e372f2adb6ecacc9c7850835221
ロシア南部でガソリンスタンドが爆発 子ども3人含む35人が死亡、100人以上がけが
8/15(火) 18:08配信
テレビ朝日系(ANN)

ロシア南部のガソリンスタンドが爆発し、35人が死亡、100人以上がけがをしました。

爆発は14日夜、ロシア南部ダゲスタン共和国の首都マハチカラのガソリンスタンドで起きました。

この爆発で、子ども3人を含む35人が死亡し、100人以上がけがをしました。

(以下略)
コメ欄。
戦争開始以来ウクライナでは500人も子供が死んでいます。
もし当事者ならば、我々が他国から侵略を受けて、500人の子供が殺された上でこのニュースを見たら、どう思いますかね?

(以下略)

「ロシアのウクライナ侵攻はプーチン個人の戦争であり、大多数の一般ロシア国民はソ連流のプロパガンダで騙されており、真実に気が付いている数少ない人たちはKGB譲りの弾圧で沈黙を強いられている」だったはず。にもかかわらず、今般の報道については上掲のようなコメントが目につきます。

おそらく、筋道立てて一貫的に物事を考えず、場当たり的に脊髄反射的な反応を見せているのでしょう。プーチン大統領にスポットライトが当たっている報道では「プーチンの戦争だ!」と言い、そうでない場合は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」精神を発揮して味噌も糞も一緒しているのでしょう。支離滅裂という他ありません

78年前の8月15日、日本帝国主義政府がポツダム宣言を受諾したことで自分から仕掛けた戦争で自滅するという形でアジア・太平洋戦争が終結しました。今年も「アジア・太平洋戦争での戦没者に哀悼の意を表しましょう」という名目で正午に黙祷することが呼びかけられました。

アジア・太平洋戦争において命を落としたひとり一人の人々――人を愛し、人に愛される存在――が志半ばで非業の死を遂げたことについては、人民大衆の幸福を目指す主体的な社会主義・共産主義者として私は非常に残念に思います。私はレーニン的唯物論者ではなく、ごく普通のインド・アジア的な死生観を持っているので、戦没者らの冥福を祈るものです。それゆえ、「アジア・太平洋戦争での戦没者に哀悼の意を表しましょう」という呼びかけには一定の理解があるつもりです。

しかしながら、市井の民による呼びかけとしてではなく、日本政府や自治体などによる黙祷呼びかけには違和感を覚えざるを得ません。その理由は、「もとはと言えば、こんなことになったのは誰のせいだ」という根本的な部分での責任問題を問わざるを得ないからです。帝国主義戦争としてのアジア・太平洋戦争は、支配階級のための戦争でした。階級支配の構造は現在も本質的には変化していません。帝国主義戦争の克服・廃絶のためには社会制度を大きく変革しなければならないので、旧態依然のブルジョア政権が黙祷を呼びかけることには違和感を覚えざるを得ないのです。

2022年2月24日にウクライナ侵攻の火蓋を切ったのはロシアでしたが、1941年12月8日にアジア・太平洋戦争の火蓋を切ったのは日本帝国でした。ロシアのウクライナ侵攻の背景にミンスク合意履行云々の問題があったように、パール・ハーバー攻撃の背景にABCD包囲網や石油輸出禁止といった対日封鎖政策があったことは事実ですが、「挑発に乗って先に手を出した」のは日本であることは疑いの余地がありません

そうであれば、さすがに原爆投下による無差別殺傷などは戦争犯罪の疑いを否定できないがゆえに格別でしょうが、それ以外については、「もとはと言えば、こんなことになったのは日本の自業自得」にならざるを得ないでしょう。しかし、そのような言説はまったくといって良いほど上がって来ず、先に手を出した加害者としての責任に頬かむりしたまま「アジア・太平洋戦争での戦没者に哀悼の意を表しましょう」とするだけであるのが現代日本の現実であります。

「ロシアのガソリンスタンドでの事故によるロシア人の死傷者のことなどどうでもいい。哀悼の意を捧げる必要などない。なぜならば、もとはといえばロシアがウクライナを侵略したのが悪いのだから」という理屈が立つのならば、アジア・太平洋戦争の火蓋を自ら切り落とし、壊滅的な自滅に至った日本人の戦没者に哀悼の意を表す必要もないということになるでしょう。しかし、そういう展開にはなっていないのが現実です。

一億総中流意識が典型的であるように日本人は「自分は普通」という発想を持ちがちですが、他方で、「異質」な人たちに対しては「自分たちは特別」という差別的特権意識を持ちがちでもあります。さまざまな理由があるとはいえ「挑発に乗って先に手を出した」いう点においては、ロシアのウクライナ侵攻も日本のアジア・太平洋戦争開戦も同類であるところ、ロシアについては「もとはと言えば、こんなことになったのは誰のせいだ」を突き詰めて「ロシアのガソリンスタンドでの事故によるロシア人の死傷者のことなどどうでもいい。哀悼の意を捧げる必要などない。なぜならば、もとはといえばロシアがウクライナを侵略したのが悪いのだから」としておきながら、日本については「もとはと言えば、こんなことになったのは誰のせいだ」を突き詰めず、先に手を出した加害者としての責任に頬かむりしたまま「アジア・太平洋戦争での戦没者に哀悼の意を表しましょう」としている日本世論。差別的特権意識が見え隠れしています。

敵認定した相手に対しては「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」精神を発揮し味噌も糞も一緒しつつ、自分たちについては差別的特権意識によって別格扱いする――日本世論の一面であると言わざるを得ないと考えます。

ちなみに私は、前述のとおり、帝国主義戦争としてのアジア・太平洋戦争は、支配階級のための戦争であったと考えているので、被支配階級(小作人や労働者階級などの庶民)にその責任を帰するべきではないと考えます。また、マルクスが『資本論』の序論で述べたように、支配階級とて社会制度の被創造物であり、いかに個人として道徳的であったとしてもその行動は資本主義制度に制約されざるを得ないものです。帝国主義とはレーニンが指摘したように資本主義の最高高度な段階なので、支配階級の振る舞いもまた社会制度の制約を受けているものであり、必ずしも彼らの責任にはがり帰することはできないとも考えます。

そうであるがゆえに私は、帝国主義戦争に対する真の反省と乗り越えのためにこそ、社会主義・共産主義の道を歩まなければならないと考えます。
posted by 管理者 at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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