2023年08月19日

「経営者の倫理・道徳のレベル」に原因を求めたり「資本主義企業の必然論だ」などと切り捨てたりしてはならない

https://news.yahoo.co.jp/articles/cff415702bbcd4c6f0a9b3d42adb4b50c0daa674
ビッグモーターが「鬼滅の刃の鬼舞辻無惨」に成り果てた当然の理由、“稲盛経営”導入もなぜ?
8/14(月) 5:21配信
ダイヤモンド・オンライン

 ビッグモーターの経営計画書に記された「幹部には目標達成に必要な部下の生殺与奪権を与える」という過激な文言が話題を集めた。人気マンガ「鬼滅の刃」に登場する最強の鬼、鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)の冷酷さを多くの人に想起させたからだ。そのビッグモーターは、実は「経営の神様」と称された稲盛和夫氏の経営哲学を取り入れていた節がある。それなのに“鬼”と成り果ててしまった理由をひもとくと、「稲盛経営」の神髄が見えてくる。(イトモス研究所所長 小倉健一)

(中略)
 そんなビッグモーターだが、実は「経営の神様」と称された稲盛和夫氏の経営哲学を取り入れていた節がある。それなのに、なぜ不正が頻発する会社に成り果ててしまったのか。その理由をひも解くと、「稲盛経営」の神髄が見えてくる。一緒に見ていこう。
(中略)
● ビッグモーター「経営の原点12カ条」は 稲盛和夫氏の「経営12カ条」のコピー

 今回、ビッグモーターの経営計画書の報道されている部分のみを読んだのだが、非常に気になったのは、「経営の原点12カ条」である。こちらの項目は完全に「経営の神様」と称された稲盛和夫氏の「経営12カ条」と内容が一致している。

(中略)
 いったいなぜ、同じ経営哲学を掲げながら、こんなモンスターのような会社が生まれてしまったのだろうか。

 これは、生前の稲盛氏が繰り返し、繰り返し述べ、著書にもひたすら同じことを何度も強調していた点がヒントとなる。それは、リーダーに強く求められ、そしてまた働く全ての商売人(ビジネスパーソン)にも求めていた「高い倫理観」である。

 稲盛氏は、道徳の教科書かといわんばかりに、著書の中で「人間としてあるべき姿」を説き続けていたのだ。これが、先の悪用企業とビッグモーターにはなくて、京セラにあるものだろう。

 ここからは私の解説だが、アメーバ経営は全てを数字で管理し、また一部門にも独立採算を求める、なれ合いを許さない、厳しい経営スタイルだ。悪用企業がそうであったように、社員一人一人に倫理観や協調性を求めず、成果だけを求め続けると、「社内で売上高を奪い合う意識が強く、他部署からの援助は危険視される」ようになっていくなどということが組織内で横行してしまうのだ。

 だから、京セラでは「コンパ」と呼ばれる就業後の社内飲み会を推奨するなど、部門間、社員間の交流を進める文化があるのである。利益を出さねばならないのだが、その土台には高い倫理観があっての稲盛経営である。稲盛経営が、「フィロソフィ(道徳心を強調)」と「アメーバ経営(徹底した数字管理)」の両輪で成り立つといわれているのは、このためなのである。

 それが分からずして、数字だけを現場に求め、成果の出た社員には高い報酬を支払う一方で、ダメな社員はとことん追い詰めるというのは、稲盛経営でも何でもないのだ。

 この事象は本当によくあることで、「稲盛経営=もうかる」とだけ考えて安易に導入しようとした企業は、いつしか破綻を迎える。現場の数値を完全に見える化し、経営が現在の状況を瞬時に把握できるというのは強力な武器である。一方、それと同時に、その数字管理のしやすさが社内のモラル低下を招くのだ。

 稲盛氏が、決して鬼舞辻無惨ではないこと、そして稲盛経営を取り入れたことが鬼舞辻無惨を生み出したわけではないことが分かっていただけただろうか。
■倫理(道徳)で不正が抑止されるのならば法など不要
「稲盛経営と兼重経営の違いは『高い倫理観』だ!」とは、ビックリするくらい無内容であると言わざるを得ません。倫理(道徳)で不正が抑止されるのならば法など必要ないでしょう。

かつて日本共産党が「ソ連は、スターリン以降の指導者によって酷く歪められ、本来のレーニン主義とは無縁の人権抑圧国家に成り下がった」などという苦しい弁明をしたのに対して「最高指導者の胸三寸で天国にも地獄にもなり得るだなんて、そもそも共産主義は制度として欠陥設計だろう」という鋭い批判が展開されたものですが、それとまったく同じだと言わざるを得ません。典型的な苦しい言い訳です。近頃は日本共産党もレーニンを再検討しているくらいです。

筆者の小倉氏は「部門間、社員間の交流を進める文化がある」ともいいますが、それで涵養されるのは身内主義意識いま、ビッグモーターの不正だと指摘されていることは、ゴルフボールの件にしても除草剤の件にしても、ほとんどが外部に対する加害事案です。むしろ同社は、高給取り社員の件にしても損保ジャパンとの「共犯」疑惑の件にしても、社長と会社の方針に忠実な関係者には「不正利益共同体」の仲間として割の良い分配を執行しています。ビッグモーター問題の文脈で「部門間、社員間の交流を進める文化」を持ち出すのは、この問題の本質を見誤っていると言わざるを得ないでしょう。

なお、マルクス経済学者の松尾匡・立命館大学教授は、資本主義に反対する運動が身内共同体主義的に展開されると最悪の人権抑圧が現れると警鐘を鳴らしています(『マルクス経済学 (図解雑学シリーズ)』、ナツメ社、2010年)。

こういう「倫理」頼みの経営論というものは、ビッグモーター問題に限らず普段から決して珍しいものではありません個人の心構えを云々する方が科学的・組織論的な見地に立つよりも遥かに容易だからなのでしょう

■「資本主義企業として必然」は主語が大きすぎて反証提出が容易
倫理・道徳論の真逆というべき言説も見られます。「資本主義企業として必然」論です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/75eb1b133c791b262c22d197f685244a76285b4a
若者はあえて「ブラック企業」で働いてみるべき訳 「ビッグモーター」の不祥事を「資本論」で考える
8/8(火) 7:02配信
東洋経済オンライン

(中略)
 保険金の不正請求に加え、除草剤を用いた店舗前街路樹の破壊の疑惑も濃厚になってきています。ワンマン社長の支配の下、社員は無理なノルマを強要され、違法な命令も受けていたと見られますから、ビッグモーターは典型的なブラック企業であると言えるでしょう。
(中略)
 だから、ビッグモーターの件も、せいぜい五十歩百歩にしか見えないのです。不正行為を社会的にもみ消すことができるほど大きな権力を持つ企業と、それほどの力を持たない企業があるだけだ、と考えるべきではないでしょうか。してみれば、企業の不祥事とは例外的な嘆かわしい現象なのではなく、資本主義的に運営される企業とは、本質的に倫理的ではあり得ない存在なのであって、繰り返される不祥事は必然的な現象なのではないでしょうか。
(中略)
 なぜこうなってしまうのか。それをカール・マルクスは、疾うの昔に見抜いていました。難解をもって知られる『資本論』ですが、実は生産の現場に関するかなり具体的な記述を豊富に含んでいます。「労働日」の章は、当時のイギリスの労働者がいかに過酷な搾取を受けているかを詳しく描き出していますが、それに加えて企業がいかに不正な製造を行っているのかを描き出しています。当時のパン製造業者は、原料を節約するためにパンのなかに混ぜ物を入れていた。その中身はなんと、明礬(みょうばん)や砂、さらには「腫物の膿や蜘蛛の巣や油虫の死骸や腐ったドイツ酵母」(『資本論』岩波文庫、第二分冊、124頁)だったというのです。

 このスキャンダルは当時のイギリス議会でも取り上げられ大いに問題視されたようですが、20世紀に入っても、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが、ハム工場の状況を告発したルポルタージュを読みながら朝食を摂っていたところ、口にしていたハムを思わず吐き出して、食肉加工工場の衛生状態に対する規制の強化を即決した、というエピソードがあるくらいですから、資本主義的に運営される食品工場が、法による監視と規制を逃れればどんなものになりがちなのか、明らかではないでしょうか。

(中略)
そうなる理由は、マルクスの「資本」の概念から容易に理解できます。資本とは際限のない価値増殖運動にほかなりません。価値増殖すること以外に、資本には何の目的も関心もありません。ゆえに資本は、人間の幸福やあるべき道徳に対して完全に無関心です。私は、資本のこの性格を「資本の他者性」と名づけました(『マルクス 生を呑み込む資本主義』講談社現代新書、2023年)。だから、「ブラック企業」という言葉はおそらく不適切なのです。企業は利潤の最大化、すなわち価値増殖を至上の目的としている限り、そもそも「ブラック」に決まっているのです。

 それでも、こうした企業の反社会的性格を抑制するために、経営者たちはさまざまに企業倫理を考え出してきました。それは、利潤の追求だけでなく、社会貢献や労働者の雇用を守るといった目標を追求しなければならないという考え方でした。しかし、この30年余り、新自由主義化が進むなかで、「株主主権」とか「ストックホルダー資本主義」といった概念が強調され、受け入れられるようになりました。

 株主=資本家ですから、要するにこれは、企業のサイコパス的・反社会的性格を全面開花させよ、というそれ自体きわめて反社会的な主張です。この主張によれば、企業はブラックであればあるほど、ただひたすらに価値増殖を追求しているので、「正しい」ということになります。

(以下略)
白井聡・京都精華大学准教授の主張。「資本主義的に運営される企業とは、本質的に倫理的ではあり得ない存在なのであって、繰り返される不祥事は必然的な現象」というのは首肯できるものですが、ビッグモーターのような不正まみれの会社を説明するときに『資本論』を持ち出すのは、読者に誤解をもたらし、上掲:小倉健一・イトモス研究所所長の「倫理」論に結局は行きつく恐れがあるように思われます。

一口に資本主義企業といっても、ビッグモーターのような不正企業ばかりではありません。ビッグモーターはたまたま露見してしまった「氷山の一角」かも知れませんが、しかし、資本主義制度が社会経済制度として曲がりなりにも運営されている点を鑑みるに、こんな企業ばかりではないことが推察されます。巷にあふれかえっている「道徳心の高いニッポン人」論を踏まえるに、「たしかに資本主義的企業は本質的に倫理的ではあり得ないのかもしれないが、多くの資本家・企業家は高い倫理心を持って経営にあたっているのだ」という「倫理」論的な結論に至りかねないと考えます。

そもそも、ビッグモーター問題を「資本主義企業の必然」と言い切ってしまうのは主語が大き過ぎ、反証を探すのがあまりにも容易です。それゆえ、これも倫理・道徳論並みにお手軽であり粗雑極まると言わざるを得ません。「倫理」論は上述のとおり論外的に誤りですが、「必然」とまで言い切ってしまうと反証が多すぎるが故にこれもまた正しくないと言わざるを得ないでしょう。

■『資本論』を持ち出すまでもない
ちなみに、『資本論』の要点は「搾取は、資本家の不正や誤魔化し(不等価交換)によって起こるものではなく、労働力と賃金との等価交換の下で行われるものである」というところにあります。

一般にブラック企業といえば、賃金(残業代)不払いなどが何よりも最初に思い起こされるものですが、等価交換が鉄則である市場経済において、労働者が労働力を提供しているのに資本家・企業家が賃金を支払わないというのは、不等価交換であり不正以外の何物でもありません。『資本論』の主題はそんなところにはありません。それゆえ、ブラック企業問題を『資本論』で説明するのは、同書の趣旨からいって少しズレていると言わざるを得ません。

「激しい競争が不正の動機になっている」くらいならば『資本論』を持ち出すまでもありません。

■いちばん嫌われるタイプの「知識」人の「伝統」を引き継ぐ白井氏
それよりも驚いたのは次のくだり。「レーニン研究者」としてはあまりにも予想どおりの言い分だったという意味で。
■ブラック企業「潜入取材」のすすめ

 いよいよ凄まじい世の中になりました。だからあえて言いたい。若者は、ブラック企業で働くべきだと。無論、これはブラック企業でも頑張って働いて根性を鍛えるべきだとか、何とか内部で改革を試みて企業体質を変えるべきだ、などと言いたいのではありません。そんなことを志すと身体か心、あるいはその両方が壊れます。

 あくまで、いつでも辞められる身分で、文化人類学者のように観察するつもりでブラック企業に身を置いてみれば、資本主義の何たるかを最も明瞭に理解できるはずです。いくら理不尽な目に遭おうが、「いつでも辞められる」ならば、何も怖くはありません。ハラスメントや法令違反の命令については、しっかり証拠を残すために、仕事中は常時録音機を作動させておくとよいでしょう。

(中略)
 もちろん「あえてブラック企業で働く」を実行するには、「いつでも辞める」ことができる余裕がなければならないでしょう。ですが、余裕のある者が先頭に立って正確な社会認識を持つこと、これが世の中を変えるためのはじめの一歩を刻むことになるのです。
私も社会主義・共産主義的な変革を目指す立場に立ってはいますが、それはあくまでも今を生きる人間がその自主性を全面的に開花させるための有力な手段として社会主義・共産主義を信奉しているのであって、いくら「世の中を変えるためのはじめの一歩を刻む」ためとはいえ「あえてブラック企業で働く」などという荒療治はとても推奨する気にはなれません

経営コラムニストの横山信弘氏がオーサーコメントとして次のように指摘していますが、完全に賛同します。
就職した企業が結果的にブラックだったら「結果論」として、そのように諦めてもよいと思います。しかしながら「あえて」ブラック企業に就職するのは、絶対におススメしません。本物のブラック企業の怖さを理解すべきです。

いろいろな企業を渡り歩き、組織を客観的に見られる洞察力がある人か。もしくは、よほどの変わり者で、絶対に長い物には巻かれない(集団同調性バイアスにかからない)人か。どちらかならいいですが。

一般的な若者なら洗脳され、後遺症が残ります。退職したあとも、ブラックな職場で捻じ曲げられた思考プログラムを修正するのに、相応な時間がかかります。

ちょっとぐらい厳しい会社を「ブラック企業」と定義しているならともかく、本物の「ブラック企業」に素人が近づくべきではありません。
白井聡氏自身、本物のブラック企業の怖さをご存じないのでしょう(労働者としての経験・体験があるのかも疑わしい)。「革命のためなら幾許かの犠牲は厭わない。ただし自分自身は犠牲になるつもりはないので、絶対安全なところから他人をけしかけて危険なことに従事させる」――いちばん嫌われるタイプの「知識」人の「伝統」を21世紀が始まって20年以上たつのに白井氏は実践しています。共和国のように「知識人の労働者階級化」が十分に行われてこなかった日本では、かねてよりこのような知識人は決して珍しくはありませんでしたが、徐々に鬼籍に入りつつありました。ようやく困った「知識」人が減ってきたと思っていた矢先の白井発言。受け継がなくていいものを・・・

■「きっかけ」や「はじめの一歩」といった入口論ばかり
ところで、「これが世の中を変えるためのはじめの一歩を刻むことになる」という白井発言をはじめとして最近、こういう「きっかけ」だとか「はじめの一歩」というくだりをよく目にするように思います。典型的なのは環境保護分野でしょうか。いまだにレジ袋有料化について「環境問題について考えるきっかけになる」とされています。

最近の「世の中を変える」談義は、「きっかけ」や「はじめの一歩」ばかりが横行し、一体いつになったら変革が始まり人類史の本史が始まるのかまったくといって良いほど展望が描かれていないのです。特に私は、主体的社会主義者として社会変革・社会革命のためには革命勢力の党的組織化が不可欠だと考えていますが、誰も彼も入口論としての個人意識覚醒の話ばかりで、具体的な組織化についてまったくといって良いほど言及がないのです。

おそらく変革の展望がなく語り得ず、「きっかけ」や「はじめの一歩」といった入口論しか提唱できないのでしょう。ビッグモーター問題からは様々な現代日本社会の実情が見えてきますが、社会変革論においても多くの事実を炙り出しているように見受けられます

■組織論的な見地から考える
倫理・道徳論ではなく必然論でもない中庸の見方として下記の記事に私は注目しました。組織論的な見地からビッグモーター問題を考えるものです。観点が正しいだけでなく、内容において最も具体的である一点を取っても、小倉倫理論や白井必然論よりも遥かに有用だと言えます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6b73df51f5070f07cb41213173da3df11368226a
ビッグモーター不正が示した「内部通報」の威力、企業の報復を防ぐため通報者の保護強化を
8/16(水) 5:41配信
東洋経済オンライン

 社会を揺るがしているビッグモーターでは、辞任した兼重宏行前社長と息子で前副社長の宏一氏の異常な経営の実態が次々と明るみに出ています。

 同社は、売上高約5800億円(2022年9月期/帝国データバンクの調査による推定値)という大企業でありながら、非上場です。一連の事件は、非上場企業のオーナー社長のコーポレートガバナンス(以下、ガバナンス)という問題を提起しています。

(中略)
 しかし、サラリーマン経営者であれ、オーナー経営者であれ、経営者がひどい経営をしたら従業員・顧客・取引先・地域社会などさまざまな利害関係者に悪影響が及びます。近年、株主だけでなく、広く利害関係者を意識したガバナンスが求められるようになっています。
(中略)
■内部通報制度の改善を
 ガバナンスの「伝家の宝刀」とされる社外取締役が役に立たないとすれば、もはや処置なしでしょうか。そうとは限りません。従業員の内部通報が、ガバナンスに大きく貢献すると期待されます。

 ビッグモーターの保険金不正請求では、2021年秋に従業員から損害保険の業界団体に内部通報がありました。近年問題になっている他の不祥事も、多くが内部通報によって発覚しています。

 当然ながら、経営者の問題を正すには、社内の情報が必要です。社内の情報を持たない社外取締役よりも、社内事情を精通した従業員のほうが、はるかにガバナンスに有効な役割を果たせるはずです。

 ただし、内部通報にも課題があります。大半の非上場企業では、内部通報の社内体制が整備されていませんし、経営者が不都合な内部通報をもみ消そうとします。“裏切り”をした告発者を探し出し、閑職に追いやるといった報復行為が横行しています。

(中略)
■アメリカでは罰金の一部を通報者に還元

 アメリカでは、不祥事などで企業に課せられた罰金の10〜30%を通報者(ホイッスルブロワー)に報奨金として支払う制度があるなど、内部通報を奨励しています。わが国でそこまでやるべきかは議論が分かれるところですが、企業の告発者探しへの厳罰化などを含めて一層の改革が必要であることは間違いないでしょう。

 今回の一連の事件は、ビッグモーターというブラック企業で起こった特殊な出来事でしょうか。そうではなく、非上場企業ならどこでも起こりうることです。筆者が知る範囲でも、「小さなビッグモーター」「少しマイルドなビッグモーター」がたくさんあります。

 ガバナンスというと「堅苦しい」、内部通報というと「密告の横行で組織風土が荒む」といった経営者の反発があります。しかし、適正なガバナンスによって経営者が襟を正して良い経営をすれば、企業が発展し、最終的に経営者にとってプラスになるはずです。

 今回のビッグモーターの事件をきっかけに、非上場企業のガバナンスという問題に政府も経済界もしっかり取り組み、日本企業が健全に発展することを期待しましょう。
「高い倫理」頼みという他ない小倉健一・イトモス研究所所長の言説に比べれば天と地との差ほど違いがある主張です。僭越かも知れませんがハッキリと申せば、マトモな検討・議論の対象になり得るのは、このレベルからでしょう。

8月6日づけ「現代日本を象徴しているビッグモーター問題」で私は「不正利得共同体を糺すには身内エゴを乗り越える党や国家の統一的指導が欠かせない」と書きましたが、少し補足しておきますと、ここでいう党や国家の統一的指導というものは、当局による巡視、つまり企業の外部から定期的に監視や指導することに留まるものではなく、当局者が自ら分け入って日常的に企業活動の動向を監視することを指しています。共和国では(中国でもそうですが)、各職場に党組織があり党的指導が組織化されています。それを念頭に置いたものです。

もちろん、現代日本において党や国家の統一的指導を直ちに導入する展望はありません。当局者を落下傘部隊的に各企業に送り込んでも実効的ではないでしょう。むしろ、天下りの役人の例を見るに「取り込まれる」という展望が見えてきます。唯一現実的なのが、内部通報制度であるといえます。

■過剰な期待を掛けることもできない
とはいえ、企業内での労働組合活動はおろか未払い賃金の適正支払いを求めること、つまり「私が働いた分の給料をキチンと払え」ということさえも憚られる現実の日本企業の組織・風土において、自分事とは直接関係のない内部通報制度に過剰な期待を掛けることもできないでしょう。

「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げてきた当ブログですが、労働基準監督署の役割について以前、「労基署は警察です。犯罪は「パトロール」だけでは摘発し切れません。「被害者の被害届提出」や「地域住民の協力」が不可欠です」と述べました(チュチェ105・2016年10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度;言いたいことは分かるが洗練されていない」)。

内部通報制度に過剰な期待を掛けられないとなると、外部からの不正へのメス入れにもあまり期待を掛けられないでしょう。

■総括
ガバナンス問題は一朝一夕に解決策が見つかるものではありません。「内情を知悉した者から如何に情報を引き出すか」というテーマをさらに深める必要があります。既に一定の成果を上げている内部通報制度の設計と運用の改善に注視する必要があります。間違っても「経営者の倫理・道徳のレベル」に原因を求めたり「資本主義企業の必然論だ」などと切り捨てたりしてはならないでしょう
posted by 管理者 at 20:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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