2歳置き去り死「保護者に出欠確認しなかった保育園」に向かった批判の矛先、「救えていたかもしれない?」園の責任を考える
9/14(木) 10:11配信
弁護士ドットコムニュース
岡山県津山市で9月9日、祖母の車の中に置き去りにされた男の子(2歳)が亡くなった。祖母は保育園に送り忘れたといい、死因は熱中症だった。
報道によると、この保育園では、朝の出欠が確認できない場合、保護者に連絡する規則があったとされるが、今回は連絡していなかったようだ。
いたましい事件は防げたのかもしれないとして、一時は「保育園のせい」というワードがSNSのトレンドに上がった。保育園側の責任をどのように考えればよいのか。
この問題も含めて、保育園の法的問題を整理した著作のある吉永公平弁護士は「保育園には出欠確認の法的な責任はない」という考えを示している。吉永弁護士に聞いた。
(以下略)
コメ欄。
保護者への出欠確認があれば、確かに救えていたかもしれない。さすがニッポン世論! 一般社会は刑事裁判の法廷ではないのだから「再発防止のため、どのような重層的なチェック体制を築くべきか」を考えるべきであるにも関わらず、責任問題(犯人捜し)に真っ先に思考が向いてしまっています。日本社会は本質的に狭く陰湿なムラ社会なので、「いかにして責任追及を回避、犯人捜しをやり過ごすか」が生き延びるために死活的に重要なことになります。染みついた悪癖が見事にまでに現れているコメントです。
だけども本来は、欠席するなら保護者が園に連絡すべきことであって、確認はあくまで親切。
保護者は欠席するときに連絡を忘れることもあるのに、こういうときだけ園に責任転嫁するのはお門違い。
(以下略)
ちなみに記事中にもあるとおり、「朝の出欠が確認できない場合、保護者に連絡する規則があったとされるが、今回は連絡していなかったようだ」とのこと。内規を根拠に刑事立件などできるわけがありませんが、園が基本所作を怠っていたことは事実であるようです。基本所作を無視することは、組織人として極めて重大な問題だと言わざるを得ないでしょう。
また、日本社会は狭く陰湿なムラ社会だからこそ、本来は再発防止策を策定すべくしっかりと経緯を整理すべきところ、波風を立てないことを優先して中途半端な総括に終わりがちなものです。
「いまの保育園に出欠確認に割くマン・パワーはない!」という抗弁も見受けられますが、ならば、そうするのに十分な人員の割り当てを要求すれば宜しいのでは? あるいは、何のためのIT化・DXなのでしょうか? 普通に考えてそうですよね? 現状に不満があるにもかかわらず「現状はどうしようもなく仕方ないのだ」などと合理化している世論動向です。
さしづめ、現状に対して不満を募らせたところで自分自身はそれを打開する展望を持ちえないが、そのことを直視することは自分自身の惨めな無力無能を直視することになるので、「現状は、たとえ声を上げたり努力したりしたところで改善しないんだ。だから声を上げたり努力したりする無駄なんだ。何もしていない自分は正しいんだ・・・」などと考えているのでしょう。
かくして、再発防止策の策定を十分行うことができず、同じことを何度も何度も繰り返すニッポン社会。あまりにも捻くれており惨め。救いようが思いつきません・・・
マン・パワーを云々するような人たちは、いまだに出欠確認と言えば点呼であり、保護者への連絡といえば架電であると思考が凝り固まっている旧世代であると私は推測します。時の経過がより合理的で重層的なヒューマンエラーチェックにシフトしてゆくことを心から願っています。