ありえないミス 博多女子中で高校入試願書出し忘れ「チュチェ思想を指針として日本の自主化の道を探る」をテーマの一つとして掲げている当ブログ。久しぶりに日本社会について取り上げてみたいと思います。
2/29(木) 20:15配信
九州朝日放送
(中略)
学校などによりますと、在校する中学3年生3人が古賀市にある公立高校の受験を希望していました。
この公立高校の入学試験は、多くの県立高校が3月5日に行われるのに対し、2月22日に実施されるため、願書の閉め切りは2月16日正午に設定されていました。
しかし、願書の提出を担当する学校職員が当該公立高校を県立高校と誤認し、願書の閉め切りは2月20日と思い込んだということです。
学校側は、2月16日午後2時半ごろ願書を直接、公立高校に持ち込んだ際にミスに気づいたものの、「2時間前に打ち切った」と受理を断られ、結局3人は受験できませんでした。
(中略)
保護者の1人は「ありえないミスだ。子どもは進路を絶たれ、笑って卒業することもできない」と憤りを露にしています。
今回の願書の提出ミスについて、公立高校を管轄する教育委員会は「公平公正性を必要とする願書の受付となるので、締め切り時間などは学校の入試要項にしっかり書いている。皆さんそれを守っているので、特別な対応はできない」としています。
(以下略)
矢萩邦彦氏のコメントを今回は取り上げます。
中学受験では毎年願書の出し忘れが問題になります。受験校が多くなればどうしても抜けが出やすく、受け付けてもらえなければどうしようもありません。中学受験の場合も本人が出願するわけではなく、保護者がしますので、どうしても禍根が残りがちです。小学生の場合は仕方ないですが、中学生以上は、やはり自分自身で出願することに意義があります。すべて自分で決定し実行すればこそ、どのような結果も自分事として受け入れて糧にすることができます。誰かのせいにしたり、実感が薄かったりすれば、せっかくの経験が成長につながりません。高校受験・大学受験に関しては自分自身で出願することから評価の対象にすることが望ましいと考えます。本件事案の本筋とはまったく関係のない話を、さも必然的展開であるかのように語っていることにお気づきになられたでしょうか。「絶対にミスしてはいけないタイミングで最悪のミスを犯した」ことを受けて、どのように償うのか、そしてどのように再発防止のチェック体制を作るべきかというのが本筋であるはずのところ、「すべて自分で決定し実行すればこそ、どのような結果も自分事として受け入れて糧にすることができます」だの「高校受験・大学受験に関しては自分自身で出願することから評価の対象にすることが望ましいと考えます」は、枝葉の議論です。そういう話は、それが本筋のときにこそ行うべきことです。
この手の「本筋ではない話を捻じ込んでくる」を日本世論ではしばしば目にするように思われます。昨年12月5日づけ「剛毅で大胆な構想を打ち出す元帥様・朝鮮労働党のような不世出の偉人・偉大な党が日本に誕生する日は来るのだろうか」では、高校授業料無償化問題について、子育て支援という観点から言えば所得制限存置論は本筋ではないところ、そんな話が氾濫していると指摘しました。
この手の脱線は、結局のところ、本筋を正確に見抜くことができない「何となく」の文化が顕著に現れた一幕であると考えます。そしてまた、こうした脱線文化が陰湿なムラ社会メンタリティー(他者から批判されることをとにかく嫌い何をおいても責任回避に走りがち)とバッティングしたとき、自己保身ゆえの過剰な保守主義・前例踏襲が発生するものと考えます。
ラベル:「世間」・「世論」