ベラルーシ外相が北朝鮮初訪問へ 対米連携強化ねらいか■反帝自主の国・ベラルーシ
2024年7月23日 0時56分
北朝鮮はベラルーシのルイジェンコフ外相が23日から北朝鮮を訪問すると発表しました。北朝鮮としてはロシアの同盟国とも関係を深め、アメリカへの対抗で連携を強化したいねらいがあるとみられます。
北朝鮮は、ベラルーシのルイジェンコフ外相が北朝鮮外務省の招きにより、23日から26日までの4日間、北朝鮮を訪問すると、国営通信を通じて22日、発表しました。
(以下略)
少し前のニュースになりますが、ベラルーシの外相が共和国を訪問しました。
編集のキャパシティが小さい当ブログでは、まったく取り上げて来られませんでしたが、ベラルーシは、西側帝国主義諸国との対決において一定の存在感を示してきた反帝自主の国です。西側諸国が事あるごとにルカシェンコ政権に対して独裁だのなんだのとケチをつけていることが何よりもの証拠です。自分たちに都合の良い独裁政権・強権政権・腐敗政権にはダンマリであるにも関わらず!
■ロシアに対しても自主的な対応を貫くベラルーシ
ベラルーシはまた、西側帝国主義諸国との対決のみならず、隣の大国であるロシアに対しても自主的な立場を堅持してきた国であります。共和国が中国と共に西側帝国主義諸国と鋭く対決しつつ、かと言って北京の指揮棒に従ってはいないのと同様、ベラルーシはロシアと共に西側帝国主義諸国と鋭く対決しつつも、決してモスクワに全面的に服従はしていません。
たとえば、ロシアのウクライナ侵攻への対応。ベラルーシは自国領土を侵攻の出撃拠点として使わせているがゆえに、ロシアの「共犯」として扱われています。しかし、その代わりに再三の参戦要請・派兵要請だけは断ることには成功しています。
正直私は、ルカシェンコ大統領がプーチン大統領に対して「自国領土は使わせない・参戦もしない」のゼロ回答をすることは、ロシアの隣国としてのベラルーシが置かれた立場を考えると現実問題として不可能に近い困難があると考えています。
非常に苦しい客観的条件の下でも国の独立と自主権をギリギリのラインで守っているのがルカシェンコ大統領率いるベラルーシ共和国の姿であると考えます。
そもそも、最近になってニュース等を通してベラルーシについて注目するようになった大多数の日本人はおそらく、ベラルーシとロシアは昔から足並みを揃えてきた最も親密な同盟国であると思っているようですが、実際のところ、30年来の長期政権を維持しているルカシェンコ大統領とプーチン・メドベージェフ両ロシア大統領は、特にロシア経済が復活してきた2000年代中盤以降、基本的に仲がよくありません。それはたとえばWikipediaのルカシェンコ大統領の項目で非常にザックリとではありますが、わかるとおりです。
ベラルーシは決してモスクワの指揮棒に従うだけの存在ではありません。
■反帝自主勢力としてあるべき姿
反帝自主運動とは、帝国主義との対決であると同時に自主・平和・親善の原則に基づく新しい国際秩序の構築でもあります。帝国主義との対決において反帝自主勢力は高度に結束する必要があるのは言うまでもないことですが、その内部において大国主義・覇権主義的な動きがあってはなりません。
言うべきことはしっかり言い、守るべき立場はしっかり守ることが必要です。その点、ベラルーシは現実的な対応をしていると僭越ながら評価できると考えます。
■興味深い試み
さらに、「日本の自主化」という当ブログの究極的テーマに関連した関心の範疇になりますが、ベラルーシは、ソビエト崩壊後の混沌において慎重な国家運営を展開したことで、ロシアやウクライナとは異なりオリガルヒの専横を排しながら社会経済を「軟着陸」させました。また、昨今は、西側帝国主義諸国から経済的に圧迫されている中でも積極的な国家関与・国家介入、端的に言えば補助金投入によって国民生活を概ね安定させることに成功しています。これらは、教科書的に模倣するということではなく「知識の引き出しに入れておく」という意味で注目すべきだと考えます。
かつてキム・ジョンイル同志が『チュチェ思想について』で指摘されたとおり、「経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生活し、思想における主体、政治における自主、国防における自衛をゆるぎなく保障し、人民に豊かな物質・文化生活を享受させることができ」るものです。
もちろん、ある程度の不満は蓄積されているでしょう。しかし、政権の危機というほどまでには至っていないのが事実です。ベラルーシの反体制運動は西側メディアでは定期的に報じられていますが、「政権崩壊間近」とは、とても言えません。それが客観的事実です。
「それはルカシェンコが警察力で押さえつけているからだ!」という反論もあるのかもしれませんが、以前から指摘してきたとおり「力」だけで政権を維持することはできません。本気で怒り猛るときの人民大衆の革命的エネルギーの方がずっと大きいからです。
人民大衆は、さまざまな立場の個々人の集合体ですが、その共通の利害は、何と言っても日々の生活です。ルカシェンコ政権に対する革命的反抗が見られないということは、ルカシェンコ政権が国民に「まあまあ」の日常生活を提供できていることを間接的に示してます。
もともと約30年前にポピュリズム的な公約で当選したルカシェンコ大統領。ある意味において「充実」している補助金経済は、人民大衆が政権に反抗する動機を上手く摘んでいるものと考えられます。
■教科書的な模倣対象ではないという意味
もちろんベラルーシは、ソビエト連邦の雰囲気を色濃く残す国とはいえ主体的社会主義の立場からは模倣することはできません。特に、7月8日づけ記事でも取り上げたとおり最近、共和国では人間関係論・人生論に根ざした共産主義を目指す方向性を打ち出していますが、ベラルーシにそういった方向性はありません。これは主体的社会主義としてはまったく不満足なことです。
また、ソビエト経済の悪いところ、すなわち、補助金等の投入が経営上の損失を安易に補填してしまうという傾向からベラルーシは依然として脱しきれていないと考えます。企業がじゅうぶんには「自力更生」していないのです。これは非常に問題のあることだとは思います。
以前にも指摘しましたが、アジアの社会主義諸国が程度の差こそあれ「自力更生」という概念を体質化したのに対して東欧の社会主義諸国にそういった考え方をする流れ・風潮が総じて薄かったことは、前者が今も赤旗を掲げ続けているのに対して後者が軒並み瓦解してしまった一つの要因になったのではないかと当ブログは考えます。
たとえば中国では、「自力更生」を上手く概念操作できたからこそ鉄飯碗と形容された人民公社体制から今日の競争的な経済社会にスムーズに移行できたものと考えられます。あるいは共和国では、配給制が事実上崩壊し中央集権的な社会主義経済が麻痺状態になった「苦難の行軍」の時期、まさに「自力更生」という概念の下、地方の住民がそれぞれの実情に合わせた創意工夫を展開することが奨励された結果、危機を乗り越えたものでした(「カンゲ(江界)精神」が奨励されてもう四半世紀になるのか・・・)。
上述のような問題点がベラルーシにはあるものの、後述のとおり、自民党総裁選不出馬を以ってまもなく終焉を迎える見込みの岸田文雄内閣と比較するに、一つの研究対象にはなるでしょう。
■お断り
以前から申し述べていることですが、当ブログは、共和国における社会主義建設は非常に重要なことであり大きな関心を持ってはいますが、根本的には、日本の自主化の道を探ることをテーマとしています。その有力な道筋としてチュチェ思想に注目しています。
私にとって共和国は特に思想意識的に替え難い重要な存在ですが、実生活の拠点は日本にあります。それゆえ、朝鮮革命の主人は朝鮮労働党の領導下で現地において日々の暮らしを営む共和国公民であり、私にはその資格はないと考えています。それゆえ、自主・平和・親善の原則の下で国際主義的な立場から朝鮮革命と連帯しつつも日本の自主化に取り組むことこそ私の当為であり当ブログのテーマであります。
是非とも誤解がないようにお願いしたいのですが、私のベラルーシに関する関心は、ベラルーシの方法を以って共和国情勢の展望を見通したり、共和国はベラルーシの方法を取るべきだなどと評論家的説教を垂れようとするためのものではありません。そんな資格は私にはないのです。
ベラルーシの経験を共和国に適用させることは、事情が違いすぎて出来ないとも考えます。
1991年以降のベラルーシは、ソビエト連邦が崩壊し、また、計画経済システムが再起不能レベルで損傷してしまっていた以上、次善の策として、ベースとしての資本主義制度に社会主義的な要素を加味する形で「軟着陸」する他ありませんでした。しかし、共和国はそのような状況にはなく、社会主義の正道を歩みうる状況にあると考えます。「苦難の行軍」の時期、非常に厳しい国家財政状況においても社会主義経済基盤に対する投資が続けられて来た結果、それが実を結び、今日、社会主義制度の復元が本格化しています。
今日の共和国経済においては、たしかに資本主義諸国でも見られるような要素は一部にはあるものの、ベースは社会主義以外の何者でもありません。その意味で共和国とベラルーシは決定的に異なっており、両国の事情は大きく異なっています。共和国は、共和国に固有かつ特有な社会主義を建設できると考えます。
このように、ベラルーシの経験は共和国の展望を見通す参考にならないし、そもそも、共和国のこれからを如何するかは党の領導下に共和国で暮らしている共和国公民が決めることであり、部外者が勝手に「参考事例」なるものを持ってきてアレコレと口を挟むべきことではないのです。
繰り返しになりますが、朝鮮革命はもちろん非常に重要なことだとは思いますが、当ブログは朝鮮革命の展望を見通すことを目的としている訳ではなく、ましてや朝鮮革命に意見するつもりは毛頭もありません。当ブログのテーマは、日本の自主化です。
日本は完全なる資本主義国でありアメリカの属国でもあります。日本の自主化の道を探るにおいてはまず社会制度の大きな転換が必要になります。すでに自主的な独立国となっており、いまや社会主義建設に打ち込むのみである朝鮮革命の経験だけでは、日本の自主化の参考資料としては決定的に不足すると言わざるを得ません。
それゆえ、今回のように共和国の社会主義革命(朝鮮革命)とは基本的に無関係であるベラルーシの情勢に関心を持つこともありますし、このブログで記事化できたことはありませんが、旧ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義にも関心があります。ひとつよろしくお願いいたします。
※ここのセクション、内容の調整にものすごく時間が掛かりました・・・ベラルーシ外相の訪朝ニュース自体については7月中には原稿素案が出来上がっていたのですが、ベラルーシ共和国の評価については何度も書き直しになりました。社会主義的政策を展開しているとはいえ本質においては資本主義国であるベラルーシ共和国を評価する匙加減が難しかったのです。「本質的に資本主義国たるベラルーシ共和国の政策が、今後、朝鮮民主主義人民共和国が歩むべき道だと主張しているように誤解されかねない」という懸念が浮上したのです。
上述の断り書きは、しかし、議論を通じて当ブログとしての立場を固めることができたし、私個人の理解を深めることもできました。
■祖国解放戦争戦勝記念式典には参加しない意味
話をベラルーシ外相の訪朝に戻しましょう。
流石と言うべきでしょうか、共和国の祖国解放戦争戦勝記念日を翌日に控えた26日には離朝したといいます。反帝自主の軍事的記念日である7月27日の祝典には参加しないということが意味することは大でしょう。
一つの解釈は、ベラルーシが心底、西側帝国主義諸国との対立の激化・新冷戦の激化を嫌がっており、ますます対決構図を深める朝ロ両国とは一線を画すつもりであるという解釈が可能です。「私たちは、そこまで対決するつもりはありません」というメッセージです。
そのメッセージが西側帝国主義者どもに伝わり、連中を改心させられるかは私は非常に疑わしいと思っていますが、しかし、ベラルーシの意思と立場を尊重する必要があると考えます。同時に、あくまでも自主的であろうとするその姿勢を僭越ながら評価できると考えます。
別の解釈も可能でしょう。こっちの方があり得そうですが、最近ベラルーシ軍がポーランドとの国境地帯で中国人民解放軍と合同の軍事演習を展開したというニュースがあります。近年ベラルーシは中国との関係を強化しています。
伝統的に関係が深い中国に加えてロシアとの関係を急速に深めることで中国一辺倒ではない中ロ両国との等距離外交を明示的に展開している共和国ですが、それと対照的に、伝統的に関係が深いロシアに加えて中国との関係を深めるべく、間違いなく朝ロの結束を誇示する形になるであろう祖国解放戦争戦勝記念行事に欠席することで、ベラルーシなりに「ロシア一辺倒で行くつもりはない」という意思を示そうとしている・等距離外交を展開しようとしているという見方ができると思います。もしそうだとすれば、このことにもまた僭越ながら評価できると考えます。
■総括
それぞれの国がそれぞれの形で反帝自主の取り組みを広げている自主時代が始まっています。
これに対して、今春には訪米してまで対米追従を誓った日本国内閣総理大臣である岸田文雄。かねて指摘しているとおり、いよいよ西側帝国主義諸国は落ち目となっているところ。国際社会の流れに逆流する日本国家であると言わざるを得ないでしょう。
また、「新しい資本主義」なる大風呂敷を広げておいて、結局資本主義は何ら新しくなることなく、物価高を放置したまま岸田文雄氏は「自民党総裁選不出馬」つまり不戦敗という形で総理大臣の座から去ることになります。前述の理由から、ルカシェンコ政権下のベラルーシ経済を手放しで称賛することは難しいものの、国民の生活を守ろうという意欲・それが大統領の仕事だという理解は感じられます。岸田内閣・日本国家とは大違いです。
麻生太郎氏や故・安倍晋三氏のように、いつまでも重鎮として君臨し続け、現職の自民党総裁・内閣総理大臣よりも力のある人物もいますが、普通、総理大臣になるということは政治家としての集大成であり、ここに頂点を持ってくるべきものであるはず。そうしないのは政治家としての素質に欠けています。その意味において、近く総理を辞任する岸田文雄氏とは一体何だったのでしょうか?
「国民生活のプラスになるようなレガシーが何もない」という意味では宇野宗佑元総理の右に出る者はいないでしょうが、2ヶ月ちょっとで終わった宇野内閣と異なり岸田内閣は歴代内閣の中でも長く続いている方。それでもレガシーを残せていない岸田総理であります。
なお、電気・ガス代支援は「やって当たり前」のこと。もちろん、もらえる物には「ありがとう」とは言いますが、為政者側から恩着せがましく言われる筋合いはまったくありません。そもそも、本来はそのような対処療法ではなく根本対処が求められるものですが、そこまでには、まったく至っていません。そして、結局は復活したものの一時期、当該政策は打ち切られました。あのセンスのなさ・庶民感覚のなさには本当に驚きました。
「前代未聞の物価高騰と財政規律のバランスが難しかったんだ。クレーマーみたいに言いたいことだけ言いやがって。雛鳥みたいに口を開けて待ちやがって」というのなら、全国民的議論を喚起すればいいのに、そのようなことは一切やらなかった自公連立内閣。国民生活が単なる政争の具に成り下がった全責任を総理大臣以下与党に被せるのはフェアではないとは思いますが、しかし、やはり国家の組織指導者としての総理大臣が果たすべき役割は非常に大きいと言わざるを得ません。新型コロナウィルス禍ほど世論は、無い物ねだりのクレーマーと化していたとは言い難いものがあります。その点において、「聞く力」を誇っていたはずの岸田文雄氏自ら、そんな能力がないことを自ら行動で示したわけです。
こんな人物を比較的長期にわたって戴いていた日本政治とは何なのでしょうか? 国民が政治家を選んでいます。以前から指摘していることですが、「使えない奴」にいつまでも重責を担わせるわけには行かないのはそのとおりですが、「使えない奴」をクビにすることが根本的な解決策になるわけではありません。その丸投げ精神を革める必要があるはずです。
岸田文雄氏が辞めれば解決するわけではありません。これを機に根本的に考える必要があると思います。そのためには、世界各国のさまざまな経験を正しい世界観に基づいた科学的な方法で分析する必要があります。私はチュチェ思想を哲学的な中核に据えつつ、資本主義国でありアメリカの属国でもある日本の現状に合致する世界各国の経験を総合してこそ道筋が見えてくると考えます。
ロシアという隣人と絶妙な関係を保ちつつ自主的な立場を堅持するベラルーシ。ベースは資本主義制度とせざるを得ないものの社会主義的な要素を加味することで、ある程度の国民も生活水準を維持しているベラルーシ。教科書的模倣の対象としてではなく、参考・研究対象として非常に興味深い国の一つであると考えます。
始まった世界的な自主時代の流れに日本もしっかり追いつく必要があります。
ロシアの調査報道サイト「インサイダ−」は、ことし2月に刑務所で死亡した反体制派の指導者、ナワリヌイ氏の死因について、独自に入手したとする当時の捜査当局の文書をもとに、政権側が発表した自然死ではなく毒殺だったと報じました。
ナワリヌイ氏の死因をめぐっては、ナワリヌイ氏の妻が政権が毒殺に関与したとして強く非難した一方、ウクライナ国防省の情報機関のトップは、血栓と呼ばれる血の塊によるもので、殺害されたという見方を否定していました。
(引用終わり)
勿論現時点では真偽不明ですが紹介しておきます。
コメントありがとうございます。
ヤフーニュースをザッと見るくらいしか最近できていないのですが、本件、ご紹介いただいて初めて知りました。ナワリヌイ氏の話題が皆の関心を失っている意味は大きいと思います。