2024年12月31日

2024年を振り返る(2):主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をテーマとして優先的に取り上げてきた2024年

「2024年を振り返る」の第2弾です。

■主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をテーマとして優先的に取り上げてきた2024年
2024年も朝鮮民主主義人民共和国(共和国)では、キム・ジョンウン同志の指導下、大きく躍動しました。「地方発展20×10政策」を筆頭とする人民生活向上のための国内政策、水害対策に見られた人民的な施政、「包括的戦略パートナーシップ条約」が示す歴史的な朝ロ接近、国歌の歌詞までも改訂した北南関係の根本的転換・・・これらはいずれも共和国の十年二十年先を見通すにあたって一つとして外すことのできないテーマです。

しかし今年当ブログは、それらはそこそこに、主体的・朝鮮式共産主義の核心を探究すべく、このテーマを取り上げてきました。北南関係の根本的転換があったとはいえ、依然として共和国が共和国である最も重要な要素は、チュチェ思想を基礎として社会主義・共産主義を展望するところにあると考えるからです。社会主義・共産主義を国是・ビジョンとして掲げるからこそ人民大衆を組織化し国家的に動員することができます。キム・ジョンウン同志が最高指導者に就いてから共和国では、社会主義企業責任管理制と甫田担当責任制が導入され、従来の大安の事業体系と青山里方法は取りやめになりました。これはかなり大きな転換です。これらの新しい政策が如何なる意図により行われており、そして如何なる効果をもたらすのかを考えるには、これら具体的政策の根本にあるはずの国是・ビジョンをしっかりと把握する必要があると考えます。

また、以前から申し述べているとおり、共和国は当ブログ管理者にとって掛け替えのない存在ですが生活の本拠は日本にあるので、当ブログの主たる関心と目的は、「日本の自主化」にあります。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動は、日本の自主化を目指すにあたって指針として大いに参考になるものと考えています。かつてキム・ジョンイル同志が「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない」と仰いましたが、社会主義・共産主義運動は高度に目的意識的な運動なので、その思想的本質を正確に把握することは極めて重要なのです。

前述のとおり、今年の出来事は共和国の十年二十年先を見通すにあたって一つとして外すことのできないテーマです。本来であればすべてについて等しく取り上げるべきでしたが、残念ながら事情より満足に記事編集できない日が続いてしまいました。乏しい編集余力を何に優先的に割くべきか考えたとき、上述のとおり、具体的政策の根本にあるはずの国是・ビジョンをしっかりと把握する必要性、及び日本の自主化を目指すにあたって指針を思想的に把握することが優先的であると考えたため、主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をしてきたわけです。

■社会主義そのものの変革
2月7日づけ「共和国の経済人事と社会主義そのものの革新について」は、朝鮮労働党中央委員会総会及び最高人民会議で決定された組織問題(人事異動)を取り上げつつ共和国の経済政策の布陣について推察する記事でしたが、この中で社会主義社会について「競争の結果にかかわらず等しく分け与える悪平等の制度と見做すのは間違い」と断言する朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』のコラム≪메아리≫(1月17日づけ)を取り上げました。また、「全国の均衡的同時発展が画一化を意味しない」とする2月1日づけ同コラムも取り上げました。

当該記事でも書いたとおり、朝鮮総聯が朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮式社会主義を支持していることは、彼ら自身がアイデンティティとして言明しているとおり一寸の疑いもないことです。そうした組織の機関紙が、おそらく本国の承認があってしたためたと思われる当該コラムは、朝鮮民主主義人民共和国政府の立場であると言ってよいでしょう。すなわち、ともに手を取りつつ競う集団主義的競争を社会主義建設の有力な推進力としつつ、分権制というと語弊があるが中央集権一辺倒とも異なる革命的大衆路線の現代的形態が展開されているわけです。朝鮮民主主義人民共和国において社会主義そのものの革新が続いていると言えるだろうと書きました。

では、このような社会主義そのものの変革は、さらに思想的に追究したとき、どのような本質に基づいているものなのでしょうか? 当ブログでは6月14日づけ記事及び7月8日づけ記事を通して考えました。

■ついに自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったキム・ジョンウン同志
6月14日づけ「元帥様が自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさった朝鮮労働党中央幹部学校の開校式」では、朝鮮労働党中央幹部学校の開校式において、マルクスとレーニンの肖像画を背景にしたキム・ジョンウン同志の現地指導の様子を写真に収めた朝鮮中央通信配信記事、及び「式は、歌「インターナショナル」の奏楽で終わった」と明記した同記事を取り上げました。

記事を成立させるためには、何もマルクス・レーニンの肖像画を写真に写り込ませる必要はなく、そもそもマルクス・レーニンの肖像画を朝鮮労働党中央幹部学校に掲示する必要も絶対的ではありません。意味があるから掲示しており、意図があるから写真に写り込ませているわけです。「インターナショナル」も絶対に演奏しなければならない曲ではありません。たしかに諸々の中央報告大会などでは「インターナショナル」が演奏されることは多々ありましたが、共産党党歌であったソ連とは異なり絶対欠かせないというほどの曲ではありません。まして、言及しなければ記事が成立しないほどのことではありません。これも意味と意図があっての演奏・記載です。

6月14日づけ記事では、キム・ジョンウン同志の肖像画がキム・イルソン同志及びキム・ジョンイル同志の肖像画と並んで掲示されるようになったことに言及しつつ「先代首領たちに元帥様が並ばれたことに今回の朝鮮労働党中央幹部学校の開校式を関連づけるとすれば、マルクスとレーニンの肖像画を党中央幹部学校の校舎に掲げたことを内外に示し開校式を「インターナショナル」の奏楽で終わらせたことは、元帥様は、マルクスやレーニンという共産主義運動におけるビッグネームの系譜に自らを位置づけつつ、自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったと言ってよいと考えます」としました。そして、「元帥様がいよいよイデオロギー解釈権を確固たるものにした」ともしました。つまり、キム・ジョンウン同志はついに自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったわけです。

キム・ジョンウン同志の共産主義ビジョンを政論《공산주의로 가자!》から読み解く
それでは、現代共産主義運動の指導者となられたキム・ジョンウン同志はいったいどのような共産主義のビジョンとプランを提示なさっているのでしょうか? そのことについては7月8日づけ「キム・イルソン同志逝去30年と政論《공산주의로 가자!》について」で考えました。

7月8日づけ記事は、6月27日づけ朝鮮労働党機関紙『労働新聞』1面に掲載された『共産主義へ行こう! 偉大な党中央がくださったスローガンとともに、互いに助け合い導く共産主義の美風が一層高く発揮されている我が祖国の激動的な現実を抱いて』という政論に学ぶ形の記事です。

当該政論は「共産主義への第一歩は何から始まるのか」という問いを立てる形で始まります(当該政論中の具体的な記述は上掲リンクから7月8日づけ当ブログ記事をご覧ください。この年末総括記事では要点だけを振り返ることにします)。政論によると、共産主義社会とは、すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会であり、それは人間が望むことができる最高の理想社会であるといいます。それゆえ、共産主義社会を建設する上では、経済発展や物質的満足を論じる前にまず人間に注目し人間の思想意識と道徳的格式を何よりも重視しなければならないといいます。その上で政論は、共産主義における徳と情の重要性を強調しています。

これは、社会政治的生命体論の系譜に位置するキム・ジョンウン時代の朝鮮式社会主義の宣言であると言って然るべきでしょう。一般に共産主義は富の分配方法に関する一つの原則とし見なされがちですが、本来は単なる分配論に留まるものではありません。キム・ジョンウン時代の朝鮮式社会主義は、共産主義運動の正統な系譜に位置していると当ブログは考えます。

政論はまた、困難が共産主義に対する確信を深めると指摘します。ここには、「厳しい闘争を通じて自らを共産主義的に改造してゆく」という伝統的な共産主義的思想闘争の考え方が非常によく現れていると言えるでしょう。共和国では、共産主義に対する確信と、徳と情とが車輪の両輪となって相互作用しながら朝鮮式社会主義を前進させているといいます。そして政論は、人間を育てること自体を一つの革命であると見做すキム・ジョンウン同志こそが共産主義に最も早く進むことができる近道を明確にしてくださったと称えています。自己の偉業の勝利を信じて、偉大な首領に続いて共産主義の未来に向かって最後まで進もうとする絶対不変の信念がすべて人民の信条となるとき、徳と情が全社会の国風・民心の潮流になり、共産主義建設が早まることになるのです。

政論は結論部分において、共産主義は決して遥か遠くのものではなく共産主義者になれるのはごく一部の人だけではないとします。「自分自身の胸の中に社会と集団のための献身の心が宿るとき、隣人と同志に対する愛の感情が溢れるとき、毎日満開になる徳と情の大きな花園に一輪の花として咲く場所を探すとき」に「共産主義に向かって力強く進んだと堂々と誇れる」とします。その上で、「喜びと悲しみを分かち合い、祖国と人民のために献身する真の人間、立派な美風の持ち主になろう。互いに助け合って導く共産主義の美風が、我々の社会の国風としてさらに高く発揮されるようにしよう」と呼びかけ、「我々が望み我々の後世代が福楽を享受することになるこの世で一番美しくて立派な社会主義・共産主義は、夢や理想ではなく生きた現実として、我が祖国の地に輝かしく広がることだろう」と締めくくっています。

■共産主義思想の歴史における正統な系譜に位置するキム・ジョンウン同志の共産主義ビジョン・プラン
7月8日づけ記事においても書きましたが、全世界がほぼ資本主義で一色化され、共産主義は過去のものと見なされている今日です。左派と言っても社会民主主義がせいぜいのところであり、結局は修正資本主義でしかなく、よって本質的には個人主義社会以外の何者でもないものが幅を利かせている今日において、ここまで共産主義を理想社会として雄弁に語る政論は貴重なものです

首領様逝去30年の節目の年に、名実ともに朝鮮式の社会主義建設のリーダーであり現代共産主義運動の首領になったと宣言なさったキム・ジョンウン同志は、「すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会」を共産主義社会像として掲げ、人間の思想意識と道徳的格式の問題を重視しつつ、困難を乗り越えることを通して自らを革命化することで共産主義建設を進めようとする道筋を提示なさいました。通俗的な共産主義理解すなわち経済的分配論に留まるものではなく人間どうしの関係を再構築することを共産主義運動の主たる目的として正しく据えているこのビジョンとプランは、チュチェ思想に基づく社会政治的生命体論をまっとうに継承しており、また、まさしく人類の歴史とほぼ同じくらい古い共産主義思想の歴史における正統な系譜に位置しているとも言えるものです。

■普通の人たちがつくる社会主義運動の流れ
当ブログが注目したいのは、「共産主義は決して遥か遠くのものではなく共産主義者になれるのはごく一部の人だけではない」というくだり。共産主義者というと禁欲的で無私の人間、聖人君子のような人間でなければ成ることができないという漠然としたイメージを持ちがちですが、「自分自身の胸の中に社会と集団のための献身の心が宿るとき、隣人と同志に対する愛の感情が溢れるとき、毎日満開になる徳と情の大きな花園に一輪の花として咲く場所を探すとき」に「共産主義に向かって力強く進んだと堂々と誇れる」とする政論の指摘を踏まえると、完璧な人間・立派な人間でなくとも、人間としてごく自然な道徳感情を大切にしていれば、共産主義者の端くれくらいにはなれそうな気がしてきます。

2021年7月17日づけ「「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期としてのキム・ジョンウン総書記の時代」で「キム・ジョンウン同志の時代とは、「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期であると言える」とか「チュチェ110年の共和国は、共産主義を発展的に復活させるスタートラインについたと言えるかもしれません」などと書きましたが、今般の政論における上掲部分もまた、「普通の人たちがつくる社会主義運動」を示唆するものと考えます。

■『社会主義は科学である』から学ぶ主体的社会主義
12月31日づけ「2024年を振り返る」第1弾としての「2024年を振り返る(1):『社会主義は科学である』発表30年――正しい人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいた社会主義理論を日本の自主化においてどのように参考にするか」についても、早くも総括しておきたいと思います。

当該記事は、キム・ジョンイル同志が1994年11月1日に労作:『社会主義は科学である』を発表なさってから30周年となるのを記念して、当ブログなりに『社会主義は科学である』の内容を読み解いたものになります。当該記事でも書いたとおり、かねてより当ブログでは社会主義・共産主義の何たるかを追究してきたところですが、キム・ジョンイル同志の『社会主義は科学である』は非常に内容豊富で学び甲斐のある労作であると考えます。それは、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されているからです。

※かなり長い記事になったので、本稿では要点のなかの要点だけを取り出します。なお、当該記事を基に『社会主義は科学である』の内容を手っ取り早く知りたいという読者の方は「おさらい」をお読みください。

『社会主義は科学である』は、第1節において社会主義運動の正統系譜として、集団主義と個人主義との対立軸を設定したうえで、チュチェ思想に基づく社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのかを冒頭に明確になさっています。そして、正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論の限界を説いたうえで、チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となったと指摘なさいます。

第2節でキム・ジョンイル同志は、人間の本質を捉えることは何故重要なのかをまず解説なさいます。人間は社会的存在であるという意味、そして人間の生命の本質と生の価値を主体的に解明します。ここでキム・ジョンイル同志は「チュチェ思想は史上はじめて、人間は肉体的生命とともに社会的・政治的生命をもって生きる存在であることを明らかにした」として、社会的・政治的生命(社会政治的生命)という概念を提示なさいます。この社会的・政治的生命論を柱として、「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」と定式化。チュチェ思想として人生観の問題に解答を与えました

第3節では、前節の最後に「集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる」と指摘したのをさらに掘り下げる形で、「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」とか「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」などと指摘し、その上で、人民大衆が社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たしつつ創造的能力を養う必要があるとしました。さらに、第2節の内容を繰り返す形で「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」と再言及したうえで「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく、もっとも強固で生命力のある社会となる」とすることで、社会有機体論の一種としてのいわゆる社会的・政治的生命体論(社会政治的生命体論)を展開なさいました。

資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。そしてそうした社会であるからこそ、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かす最も貴く美しい生が実現した強固で生命力のある社会が実現するのです。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とは社会的・政治的生命体を形成するための運動であるということが、『社会主義は科学である』において示されていると言えます。

さらに当該記事では、『社会主義は科学である』においては直接的には言及されてはいないものの、チュチェ思想学習においては一つの論点となっている主体的な死生観の問題についても論を展開し、集団主義と個人主義との対立軸は、個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との対立軸にも発展するものであると補足的に述べたところであります。

当該記事の結論部分において述べたとおり、『社会主義は科学である』は、人間観の再定立に始まり、人間は肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っていることを指摘したうえで、より重要な社会的・政治的生命すなわち自主性:自主的本性を輝かしうる生活の在り方、すなわち主体的な人生観と、それを実現し得るのは集団主義に基づく社会主義社会であることを論証しているものと言えます。

集団主義か個人主義かの対立軸は社会主義と資本主義との社会体制における対立軸であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との人間観における対立軸であり、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との人生観における対立軸でもあり、そして個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との死生観上の対立軸として設定できます。

人生観そして死生観にも踏み込んでいる点において、当ブログは、
人間中心の社会主義運動、つまり「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて社会的・政治的生命体を構築することを目指す主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます

人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要だと考えます。

■現代日本の問題に引き付けて
当該記事でも何度も強調したとおり現代日本社会は、人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会、つまり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する人間関係が当然化してしまっています。日本の自主化を目指す当ブログとしては、日本人を変革の主体であると考えるので、正しい人間観に立脚し、社会的人間の属性が如何にして形成されるのかを踏まえた上で情勢分析する必要があると考えますが、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があります。より広い視野で言えば、そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要です。

温故知新という言葉があるように、自主性を生命とする人民大衆が代を継いで創造してきた人類史、とりわけ愛情と信頼に関する蓄積を振り返り、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことが必要だと考えます。古今東西の古典的文学作品をよく読み、それを自分自身の自主性を照らし合わせ、現状が極めて異常であることを自覚することから始める必要があるのです。そして、そうした営みを通じて体得した自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換することが肝要になるでしょう。

ものすごく時間がかかることではありますが、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営む道は地道なものにならざるを得ないでしょう。人間が本来的に持つ人間性を取り戻すためには、人類が代を継いで積み重ねてきたものを再発見し再評価することから始めるべき地道なものであり、そこで培った「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて具体的な組織的力量を形成してゆく運動を展開する必要があります。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成する運動であると当ブログは考えます。

■総括
振り返れば、「主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をテーマとして優先的に取り上げてきた」と言いつつ、たった4本の記事しか書いていませんでした。とはいえ、ほとんど記事を書いていなかった2024年において、いずれの記事もそれなりに長文だった点において、内容の出来はさておき、力を入れて執筆したことは感じていただけるのではないでしょうか。

当ブログとしては、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた運動指針を理論的に提示している点にこそチュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動の特長があると考えます。そうした特長を、自分自身の学びも兼ねて文章化することに努めてきたつもりです。

そしてそうした運動を日本社会で展開するためには、上掲のとおり、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があります。そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要だと考えます。

死生観の問題については、特に12月31日づけ年末総括第1弾でかなり突っ込んで論じました。チュチェ思想の重要論点の一つではあるが最近はあまり積極的には言及されていない(否定もされていない)論点に傾注したのは当ブログ管理者の関心ゆえのものです。現在共和国では「革命の世代継承」は特に問題になっていないので、死生観の問題を敢えて取り上げる必要がなく、それゆえこの問題がそれほどクローズアップされていないのだと理解していますが、当ブログ管理者には重大な関心事であります。

共産主義運動というものは生涯をかけ、さらに代を継いで続けなければならないものです。そんなに簡単に成就するものではありません。

政論《공산주의로 가자!》で定式化された「すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会」という共産主義の定義が、同時代的な「空間的共産主義論」であるとすれば、死生観の問題は「時間的共産主義論」と言えます。老いた者は当然、時間的共産主義論を意識しなければなりませんが、若い人も「生涯をかける必要がある」がゆえに時間的共産主義論を意識する必要があると考えます。日本社会は現時点で資本主義社会であり、それゆえ共産主義運動には格別な目的意識性をもって自発的に参加する必要があります。自分から動かなければ資本主義社会の歯車の一つにしかなり得ません。資本主義日本において共産主義運動に身を投じる決意を固めるにあたっては、自らの一生の送り方と絡めて考える必要が特にありますが、死ぬまでに何を成し遂げるかを考えることは、死生観の問題を考えることと密接な関係にあります

主体的な死生観においては、全社会が一つの社会的・政治的生命体になり、個々人はその中で有機的に結びついているがゆえに、個々人は、生物学的な意味での死によって肉体的生命を終えたとしてもその社会的・政治的生命は、一つの社会的・政治的生命体の中で永生するとされます。朝鮮大学校学長のハン・ドンソン氏は2007年の著書で「崇高な精神をもって人民大衆のために生涯をささげた人々は、社会的集団と、愛と信頼の絆で結ばれて」おり、「このような人々は、たとえ肉体的生命が途絶えたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、かれらにたいする愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残」るので、「人民大衆の運命を開拓する偉業にすべてを尽くして献身するとき、肉体的には死んでも、社会政治的には永遠に生き続ける」としています(ハン・ドンソン、2007、p169)。

また、ハン氏は、社会的・政治的生命の永生は「歴史の流れとともに限りなく引き継がれ、歴史的価値をもち続け」るとも言います。「個人の一生には限りがありますが、社会と集団は限りなく存在し発展」するので、「人々は、社会と集団の未来の創造に寄与することによって、人間の生の大きな歴史的流れに合流することにな」るからです。これに対して「自分のためだけに生きる生活は、個人の一生で終わる生活で」であり「そのような生活は歴史に残りません」(ハン・ドンソン、2007、p185)。

資本主義社会で、ほどほどの生活を送る選択肢もある中で、敢えて生涯をかけ代を継いで続けなければならない共産主義運動に身を投じるにあたっては、共産主義運動に参加することによって個々人が人間の生の大きな歴史的流れに合流できるという考え方は大きなポイントになるでしょう。主体的な死生観を持てばこそ敢えて共産主義運動に身を投じる決意が固まるものと考えます。このような理由で当ブログは、特に日本が資本主義社会であるからこそ、その自主化を目指すにあたっては主体的な死生観の問題が重要になると考えています

他方、政論《공산주의로 가자!》でも指摘されていたように、完璧な人間・立派な人間でなくとも人間としてごく自然な道徳感情を大切にしていれば、共産主義者の端くれくらいにはなれそうなものであるのも事実です。偉業に身を捧げる革命的ロマンも大切ですが、今を生きる生身の人間の生活もまた大切です。とりわけキム・ジョンウン同志はそうお考えでいらっしゃるとお見受けするものです。あまり堅苦しいことをいうのもキム・ジョンウン時代の共産主義者としては不適切なのでしょう。その点、こうしてこの1年間書いてきた記事を総括すると、当ブログ管理者は些か古いタイプの共産主義者である気がしてきました。キム・ジョンウン時代の共産主義者たらねばならぬと思いを新たにしたところです。

2025年以降も、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた運動指針を理論的に提示しているという点にチュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動の特長を見い出しつつ、あまり堅苦しいことを言い過ぎず、キム・ジョンウン時代の共産主義者として日本社会の自主化を目指す道筋を引き続き考えたいと考えています。
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