ニュースソースは、朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』の「朝鮮労働党中央委員会第8期第11回総会拡大会議に関する報道」とします。朝鮮中央通信12月29日づけの日本語訳記事です。
■「党と人民の血縁的きずな」の強化を、国防事業や経済建設よりも先んじて2024年の事業総括の筆頭として取り上げたことの意義
記事によると、総会では「2024年度の党および国家政策実行状況総括と2025年度の闘争方向について」が第一議題として提起されました。キム・ジョンウン同志が綱領的な結語をおっしゃいました。
この結語にかかる報道では、何よりもまず、つぎのくだりが記されたことに当ブログは注目するものです。
今年、わが党の人民大衆第一主義政治史にはもう一つの前例のない記録が記された。昨年の大水害における被災者救援を、朝鮮労働党が掲げる人民大衆第一主義の筆頭出来事として取り上げ「党と人民の血縁的きずなをより一層厚くし、党政策に対する大衆の支持と信頼を強固にする貴重な結果を生んだ」と位置づけた総会報道。キム・ジョンウン同志の執権下において諸改革が進む共和国ですが、この報道ひとつ取っても、いま進みつつある政策の根本には、チュチェ思想が明らかにした社会的存在としての人間の本性に合致した正しい人間観、そしてそれに基づく豊かな人生観に基づいた社会主義が厳然として存在し続けていることが分かります。
今年に一部の地域で洪水による災害が発生したとき、わが党は適時の決心を下して膨大な復旧事業を展開すると同時に、水害被災者を首都平壌に呼び寄せて、安定した便利な生活条件を提供し、児童・生徒には授業を施す非常システムを稼働させた。
この重大措置は、人民に奉仕する本然の使命に忠実であり、不幸に見舞われた人々を失ったもの以上にいたわりたい真心と誠意、次世代の育成を第一の国事とする教育重視の現われとして、党と人民の血縁的きずなをより一層厚くし、党政策に対する大衆の支持と信頼を強固にする貴重な結果を生んだ。
2024年12月31日づけ「2024年を振り返る(1):『社会主義は科学である』発表30年――正しい人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいた社会主義理論を日本の自主化においてどのように参考にするか」で取り上げたとおり、キム・ジョンイル同志は、1994年11月1日に不朽の古典的労作として『社会主義は科学である』を発表され、チュチェ思想に基づく社会主義理論を展開されています。
当該労作でキム・ジョンイル同志は、「人間は社会的存在である」という意味を追究し、そこから人間の生命の本質と生の価値を主体的に解明しておられます。人間には肉体的生命のほかに社会的・政治的生命(社会政治的生命)があり、それゆえ、人間にとって最も誉れ高く甲斐のある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことなのです。社会主義社会では人民大衆は国家主権と生産手段の主人となっており、私的所有に基づく個人主義と階級対立が清算され、社会のあらゆるものの真の主人となっています。このことから、社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間・社会の個々の構成員間に生まれ、全社会が一つの社会的・政治的生命体となって社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく、もっとも強固で生命力のある社会になるとされました。
キム・ジョンイル同志の労作を踏まえると、「党と人民の血縁的きずなをより一層厚くし、党政策に対する大衆の支持と信頼を強固にする貴重な結果を生んだ」として大水害被災者救援を総括することは、朝鮮式社会主義の正道に沿ったものであると言えるでしょう。現在共和国では、社会主義企業責任管理制と甫田担当責任制の導入によって個々の労働者の賃金体系などが変化が生じつつあります。まだ社会を不安定化させるほどの所謂「格差」は生じてはいないとはいえ、この新制度導入の行方には注意を要するものでしょう。その点、キム・ジョンウン同志が率いる朝鮮労働党が「党と人民の血縁的きずな」の強化を、国防事業や経済建設よりも先んじて2024年の事業総括の筆頭として取り上げたことの意義は大であると考えます。
■科学的農法というキーワードが浮上してきた意味合いと朝鮮式社会主義の現況
経済建設に関する総括について見てみましょう。例によって計画に対する達成率の公表であり外部からの評価が難しいところですが、昨年大成果として宣伝された穀物生産が今年も計画比107パーセントと報告されています。整備補強戦略も成功裏に推し進められて自立経済の発展原動力と潜在力が一層打ち固められたとされています。
順当にいけば来年1月には朝鮮労働党第9回大会が開かれ、新たな経済計画が提示されるはず。第9回党大会で提示された整備補強戦略の進展がどうにも芳しくないとすれば、「一年間の闘争結果を総括する場で党中央は当然、成果よりもそれが細部的で一部に過ぎない欠点をもっと多く見つけ出し、解決策を導き出すのが正しい態度であり、革命的な姿勢である」のだから当然、このことに対する手厳しい批判が出てくるはずのところ。しかし、特にそういった内容になっていないことを鑑みるに、党中央としては十分に満足できる達成状況であることが推察されます。
農業部門と建設部門が特筆されています。今般、党が特にどの分野に特に大きな関心を寄せているのかが、それぞれ一段落ずつではありますが見て取ることができます。
一昨年末の党中央委総会について当ブログでは、2024年1月15日づけ「朝鮮労働党中央委員会第8期第9回総会拡大会議について」において、農民の熱意や努力といった精神論を単独で持ち出すのではなく、灌漑等の農業インフラ整備に言及した上で農民の熱意や努力を持ち出していること、及び、農民たちの努力の物質的な成果が農民たち自身に還元されていることを強調していると指摘しましたが、今年はそれらへの言及は見られず、代わって「科学的農法を積極的に導入して再び豊作をもたらし」たという文面が登場しました。「科学的農法」が今年のキーワードであると言えます。科学的農法は、ここ数年しばしば耳にするキーワードです。遅くとも2016年の『新年の辞』では言及されているキーワードです(https://chosonsinbo.com/jp/2016/01/20160112suk-2/)。
共和国の農業というと、どうしてもチュチェ農法との関連性が気になるところです。科学的農法とチュチェ農法との関係性は依然として今一つはっきりしませんが、どうやら同じものではないようです。近年の農業生産の急激な上昇は、チュチェ農法の継続では説明がつかないからです。また、大量投入できるほどの化学肥料を生産したとか輸入したとかいう話も聞かないからです。とはいえ、チュチェ農法は過去のものになったのかといえば、正式に撤回されたという情報はありません。テアンの事業体系が社会主義企業責任管理制と取って代わられたような、チュチェ農法が科学的農法に置き換えられたという情報がないのです。
率直に申して、科学的農法というキーワードをチュチェ農法との関係で探ることは、もはやあまり意味のあることではないのかも知れません。科学的農法というキーワードが浮上してきた意味合いは、キム・ジョンウン同志が掲げる科学技術強国路線、科学技術と経済の一体化路線と関連した農業生産路線として認識する必要があるものと考えます。
そのような観点から見たとき、「北朝鮮分析」様の「「科学技術重視」を北朝鮮の農場はどう実践しているか」は、短いながらも興味深い内容です。共和国の科学技術強国路線・科学技術と経済の一体化路線においては、科学的な技術開発と自単位への導入のみならずそれを全社会的に交換し合い普及することに重点が置かれています。2020年12月の最高人民会議常任委員会第14期第12回総会で、これら科学技術に基づく知見を自単位の生産活動に導入し、また、他単位が開発した新しい技術・新しい知見を自単位にも導入する際の契約手続きなどを定めた「科学技術成果導入法」が採択されている点に明白ですが、このことは、単なるスローガンではなく実務レベルで進んでいるものです。IT分野についてはかねてより「全国情報化成果展覧会」が毎年開かれていますが、同様のことが農業分野でも展開されているわけです。
科学的農法というキーワードは、単に園芸学や植物生理学、害虫学、土壌学、はたまた農業気候学といった個別具体的な農業に関する学問分野に依拠することを要求するのに留まらず、それらに基づく実践結果を全社会に広めるまでも含めたものであるという見方もできるでしょう。チュチェ農法には、そこまでの内容は含まれてはおらず、新時代を象徴する新しいスローガンとして「科学的農法」というキーワードが必要になったという考え方ができるのではないでしょうか。
個別の生産単位が開発した新しい技術・新しい知見を全社会的に広めることは、社会主義社会であればこそ存分に実践できるものであると考えます。これは国家の「向いている方向」、つまり基本的な性質によるものであると考えます。
資本主義国家は資本家階級の利益を代表する国家ですが、資本家階級の要求とは具体的には、個人主義原則に基づく個別資本家の要求の妥協点です。個別資本家は自分たちの儲けの種を独占したがるので、さまざまな口実を設けて「所有」権を主張します。それゆえ資本家階級の利益を代表する資本主義国家は、知的財産権の問題がもっとも顕著ですが、極力その「所有」権を保護しようとします。私有財産に基づく個人主義社会においては、社会的に有用な知識が知的財産の名目のもとに、それを考案した人やその権利を購入し所有する人といった一握りの人々の独占物となり得ます。
これに対して社会主義国家は勤労人民大衆の利益を代表する国家であり、勤労人民大衆の利益は具体的には、集団主義原則に基づく共同発展・共同富裕であります。個別労働者の利益にも勿論配慮しますが、集団主義原則に基づき共同発展・共同富裕を目指すからこそ社会的に有用な知見は共同で用いる方向性が基本です。特に、共和国のように生産手段の私有が原則として認められていない高度な社会主義国家では、一握りの人々が社会的に有用な知識を独占することは原理的に不可能なので、知的財産権は個人や少数の集団のものではなくなります。
朝鮮大学校研究員のチャン・キョンソ(張景瑞)氏は、2025年1月16日づけ『朝鮮新報』(電子版)の「〈朝大専門家の深読み経済15〉中国独自のイノベーション(下)/張景瑞」で、「知識や技術をIPRとして囲い込んでその利益を独占し、技術による支配=隷属に向かう資本主義・帝国主義の道を辿るのか、IPRを社会的に、国際的に有効かつ積極的に活用し、技術による共同発展・共同富裕を目指す社会主義の道を切り開くのか。科学技術・イノベーションにおいて世界をどのようにリードするのか、改めて社会主義中国の真価が問われている」と指摘しています。非常に鋭い指摘だと考えます。
もちろん、苦労して考案・発見した新しい技術・新しい知見をタダで使わせろというのは、インセンティブの問題云々以前に、専門家に対する著しい欠礼です。キム・ジョンイル同志は『チュチェ思想教育における若干の問題について』(1986年7月15日)において、「社会的集団の統一をはかるからといって人間の自主性と創意性をおさえるならば、集団内の真の統一ははかれず、逆に人間の自主性と創意性を保障するからといって集団の統一を破壊するならば、個人の生命の母体である社会的集団の生命が弱体化され、個人の自主性と創意性そのものを保障することができなくな」ると指摘なさっているとおり、集団主義原則に基づく共同発展・共同富裕に反するものです。
その点、共和国の知的財産政策においては、前掲の科学技術成果導入法が、他単位が開発した新しい技術・新しい知見を自単位に導入する際の手続きとしての契約の段取りを定めているといわれます。知的財産を巡る制度設計は、強く保護し過ぎると新技術・新知見が広く社会的に活用できず悪影響が大きくなるが、保護が弱すぎると誰も技術革新に取り組もうとしなくなるので、その匙加減が経済学的に非常に興味深いテーマです。共和国は、社会主義の旗の下、その核心である集団主義原則を礎として、知識の社会的活用において新しい試みを展開していると言えるでしょう。
■建築部門の成果と生活水準における実際的変化の実現
総会報道記事に戻りましょう。建築部門については、「多くの市・郡で近代的な農村の建設が完工して全国の人民に大きな喜びと喜悦を抱かせた」とのことですが、このことの強調は、2023年12月30日づけ「諦観とソ連崩壊、その轍は踏むまいとする朝鮮労働党」で取り上げましたが、人民の住まいや日用品などの生活水準において実際的な変化を実現させることで、諦観が社会を支配することを防ぎながら社会主義建設において更なる飛躍に繋げようとしているものと考えられます。
記事では、「経済各部門の生産成長と人民生活の向上に切実な科学技術上の問題を解決する上で進展が遂げられ」たとしつつ、それと並列的に「教育、保健医療、文学・芸術分野でも革新を起こすための積極的な努力が傾注された」と成果を総括しています。前者に比べて後者に言及する紙幅は小さいものの、経済建設と並んで教育、保健医療、文学・芸術分野にも注力する朝鮮労働党の姿勢を見て取ることができます。社会主義の本旨に沿ったものであると考えます。
記事では続いて「地方発展20×10政策」に言及しています。キム・ジョンウン同志は、地方発展20×10政策の今年分の目標を完遂したことによって全国の人民に希望と勇気を与え、創造的意欲と確信を倍加させたと誇り高く言明なさったといいます。そしてキム・ジョンウン同志は、党中央の思想と指導に従って困難を乗り越え、5か年計画遂行の決定的な一年間に力強い奮闘と愛国献身の有意義な創造的・革新的成果をもって輝かせた全国の党員と勤労者、人民軍将兵と青年に党中央委員会を代表してあつい感謝を送られたと記事は報じています。
■新年度の課題と社会主義そのものの革新
さて、2025年は朝鮮労働党第8回大会で採択された国家経済発展5カ年計画の最終年度であり、いよいよ来年は朝鮮労働党第9回大会が開催されることでしょう。記事によると、キム・ジョンウン同志は、今次の5か年計画を成功裏に完結するとともに次の段階の発展道程に入るための準備工程を実質的に推し進めることを2025年度の事業の総体的方向として打ち出し、その実現のための政策的課題を明示なさったといいます。金属、化学、電力、機械、石炭及び鉄道運輸をはじめとする基幹工業部門が達成すべき目標を提示なさいました。その具体的な内容は総会報道記事からは読み取れませんが、引き続き、基幹工業部門の整備補強が2025年度の経済建設の主要戦線であることは間違いないようです。
各地での住宅建設について特別に言及があったようです。ピョンヤン市のファソン地区第4段階住宅建設を推進し、市内に5万世帯分の住宅を建設する事業を完了させるとともに、コムドク地区での住宅建設を終え、農村住宅の建設を引き続き推し進める必要があると言及がありました。また、シンポ市浅海養殖事業所の建設で得た経験に基づいて他の地域にも試験的に浅海養殖事業所を建設する必要があるとの新しい課業が提示されました。朝鮮労働党第8回大会で「人民生活に実際の変化をもたらす」ことを基本課題として提示したので、それをハッキリとした形とすることが何よりも重要なのでしょう。
キム・ジョンウン同志は、これら経済建設にかかる諸課題と政策方向性の提示を提示した上で、共和国の経済構造と具体的実情に合致した経済全般を統一的に管理するシステムの導入や、経済計画化事業と価格事業を改善することなどに関する方法論的問題の解決に注力し、経済成長目標を成功裏に達成することについて重要に強調なさったといいます。つまり、社会主義の原則を固守しながらも、制度そのものを不断にアップデートする必要があるし、そうして行くつもりだと宣言なさったわけです。この発言は非常な関心をもってチェックしておく必要があると当ブログは考えます。
この他、キム・ジョンウン同志は、森林造成と国土管理、生態環境保護活動を改善し、災害防止活動に関連する国家的統一的指揮システムと秩序(行政組織編制)を確立すること、災害救助用装備と救護物資の備蓄などを抜かりなく整え、洪水警報の科学性と正確性・迅速性をはかって災害を最小化することについても言及なさったといいます。災害防止活動に関連する国家的統一的指揮システムの構築は、先般の新型コロナウイルス対応における各種システムや行政組織編制を応用できるものと思われます(上野遼、「科学技術――保健医療へのIT活用:COVID-19対応を中心に」『北朝鮮を解剖する 政治・経済から芸術・文化まで』礒ア敦仁編著、慶應義塾大学出版会、2024 に詳しい)。管見では、これは社会主義的な秩序ある経済管理にも応用し得るものであると考えます。
農業分野にも特別に言及がありました。キム・ジョンウン同志は、朝鮮労働党第8回党大会が人民生活に実際の変化をもたらすことを基本課題として示したので、人民生活に関して策定し進めてきた主要政策的課題を一層頑強に推し進めて、2025年はよりハッキリした成果を収めなければならないと述べられた上で、2025年の農業部門の課題は、党が示した穀物生産目標を達成し、新たな展望計画期間に農業生産量を画期的に高められる土台を構築することであると指摘なさいました。
結語では、農業部門の物質的・技術的土台を強化し、科学的農業を重視し、社会主義農村を変革させる人材を体系的に多く育成することをはじめ、国の農業生産を安定的かつ持続的な発展軌道に乗せるための対策に言及があったといいます。科学技術重視・人材育成重視で農業部門の発展を開拓してゆくという姿勢は、かつての精神論的な農業政策とは全く異なるものであります。
■社会主義経済において消費財の品質改善に取り組む共和国
また、「人民生活に実際の変化をもたらす」に関連して、軽工業部門での質の向上についても言及がありました。基礎食品と必須消費財の質を改善することに力を入れ、特に子供と児童・生徒のための社会主義的施策を責任をもって実行することが強調され、水産部門の物質的土台を強化するための実践方途が明示されたといいます。
消費財の質の改善に社会主義執権党が本腰を入れて取り組む様に当ブログは注目したいと思います。ソ連などでも消費財の品質の改善がまったく謳われなかったわけではありませんが、消費財の品質は資本主義諸国のものと比べて低かったというのが専らの評価です。
このことについては「社会主義制度が抱える欠陥である」という指摘が、昔からよく指摘されてきたものです。たとえば、経済学者(?)の池田信夫氏は、ちょっと古い本ではありますが『ハイエク 知識社会の自由主義』(PHP研究所PHP新書、2008年)で、「企業のプロジェクトでは、与えられた目的を最適化することだけを考え、あとはできた商品が市場で売れるかどうかをみて目的関数を変更すればよいが、計画経済では最初の目的を決めるところで挫折してしまう」(p59〜60)などと主張していました。中央集権的な指令経済では多様で刻々と変化する消費者の嗜好をフォローし切れないが、私有財産が保障され営業の自由が存在する市場経済では個々人が自由に経済活動を展開できるので、市場での消費者の反応を見ることでその嗜好をフォローすることができる、ということらしいです。
しかしながら、4月2日づけ『朝鮮新報』の「顧客ニーズ捉えたヒット商品/朝鮮の最新トレンド」等で報じられているとおり、社会主義朝鮮でも消費者の反応・評価が生産に反映されるようになってきており、多様で刻々と変化する消費者の嗜好を追って西側企業が対応するのと同じことが展開されるようになってきました。計画経済である共和国でも、いったん決まった生産計画、池田氏が言うところの「目的関数」とやらが実践からのフィードバックによって変更対応されているわけです。
最高指導者自らが、生産者に消費者の嗜好をフォローするよう指導している共和国。消費者の嗜好に対応するために各企業が試行錯誤をする余地や、うまくいったときの経済的利益の処分権は、社会主義企業責任管理制によって保障されています。「朝鮮は決心すればやる」(조선은 결심하면 한다)。社会主義経済における消費財の品質改善についても継続的に注目する必要がありそうです。
なお、池田氏は前掲書で「正しいデータを提供するインセンティブが働かない」ので社会主義は、中央集権的なものは勿論のこと分権的なものでも実現できないとも断じています(p59)。たしかに、経済計画立案のための正しいデータを提供するインセンティブの問題は非常に重大なテーマです。ソ連ではノルマに対してトゥフタがあったし、中国では「上に政策あれば下に対策あり」という言葉がありました。しかし、本来的に社会主義は、集団の利益と個人の利益を結び付けて共に実現させることを目指す点において、個人の私的な経済的利益を否定するものではありません。たとえば、2024年2月7日づけ「共和国の経済人事と社会主義そのものの革新について」で取り上げましたが、『朝鮮新報』の2024年1月17日づけコラムは次のように指摘しています。
ともに手を取りつつ競う集団主義的競争は社会主義建設の有力な推進力のひとつである▼社会主義社会を競争の結果にかかわらず等しく分け与える悪平等の制度と見做すのは間違いだ。労働と社会貢献に応じた分配と評価が与えられなかったとしたら、それは社会主義を建設する過程で生じた偏向であって、社会主義の本旨ではない個人の努力に対する正当な報酬、つまりインセンティブの賦与は、社会主義の枠内で位置づけることができるのです。それゆえ、「正しいデータを提供するインセンティブが働かないので社会主義は、分権的なそれでも実現できない」と断じるのは早計であると言わざるを得ないでしょう。
ところで、そうなると「社会主義とは一体何なのか」という問題が浮上してきます。それこそがいま当ブログが探究していることですが、最近の記事でも述べたとおり、やはり社会的・政治的生命体(社会政治的生命体)の形成になると思われます。冒頭でも論じたとおり、「党と人民の血縁的きずな」の強化を、国防事業や経済建設よりも先んじて2024年の事業総括の筆頭として取り上げたことの意義は大であります。
■科学技術と経済の一体化路線を推進しつつ、社会主義国家らしく文化部門の役割も増大させ、社会的人間の本質的要求させる
総会報道記事に戻りましょう。結語でキム・ジョンウン同志は、社会主義の全面的発展への第一段階の開拓闘争、変革闘争を締めくくることになる2025年度においては、科学と文化部門の役割を増大させることを重要な課題として提示なさいました。科学技術と経済の一体化路線を推進しつつ、社会主義国家らしく文化部門の役割も増大させ、社会的人間の本質的要求させるわけです。かつてキム・ジョンイル同志は『反帝闘争の旗をさらに高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(1987年9月25日)において、「人間は、豊かな物質生活を営みながら肉体的に健康に暮らし発展することを求めるだけでなく、みちたりた精神生活を享受し、精神的、文化的に発展することを求めます」(金正日選集第9巻p32)とおっしゃったものです。この点からも、目下展開されている政策が社会主義の正道に位置するものであると言えると考えます。
またキム・ジョンウン同志は、青年同盟の活動家と同盟員を革命の真の継承者としてしっかり準備させることについて指摘なさいました。
キム・ジョンウン同志は対外政策についても力点を置いて綱領的結語を仰ったと総会報道記事は伝えていますが、本稿では取り上げず別稿で考えることとします。
■地方発展20×10政策が体制を安定化させるだろう
総会は、第3の議題として「わが党の新しい地方発展政策と今後の課題について」を討議したと記事は伝えました。
目下遂行中である地方発展20×10政策についてキム・ジョンウン同志は、全国の人民に10年間という短期間で裕福で文化的な新生活を提供し、全ての地域の発展水準を飛躍的に向上させることを目的とした前例のない創造闘争であると改めてその意義を強調。国の全ての地域を均衡的・同時的に振興させることは、朝鮮式社会主義建設の全面的発展における重要な戦略的課題であり、人民大衆第一主義を具体的に発揚させるための喫緊の政治的課題でもあると明言なさいました。そして、先に完成したシンポ市の浅海養殖事業所を具体的に取り上げながら「地方経済の特色のある発展と成長を成し遂げられるように積極的に図り、促す活動も各方面から推し進められた」と指摘なさいました。
朝鮮労働党第8回大会が整備補強戦略を提示し、経済建設と人民生活の飛躍の土台をつくることを宣言したのだから、2025年末までの5年間は生産力の整備と補強に注力すると思われたところ、計画途中の2024年に突如として党を中心として「地方発展20×10政策」が始まったという事実、そしてその中核として軍を投入したという事実が何を示すのか――整備補強の完了を待ってばかりはいられない、闘争目標に対する無条件絶対性やその組織性の高さをゆえに最も信頼のおける革命的軍人らを投入して今すぐに事業を始めなければならないというキム・ジョンウン同志の危機感であると考えます。
各地方の特色を生かす形で、それぞれの地方ごとに発展の在り方があるという前提に立つ地方発展20×10政策は、中央の承認の枠内という制約があるとはいえ地方が自らの意志を挟み込む余地が生まれます。企業所等の裁量権を拡大した社会主義企業責任管理制などと政策理念において通底するものがあると考えます。3月5日づけ『朝鮮新報』は、地方発展20×10政策について「地産地消の新モデル創造へ」という見出しをつけました。
また、地方発展20×10政策は単に地方に働き口を作るだけではありません。記事によると「地方工業工場と共に追加的に先進的な保健医療施設と科学・教育および生活文化施設、穀物管理施設まで並行して建設することを党の新しい地方発展政策に正式に含めることを総会に提議した」とのこと。社会主義の本旨であります。
このようにして、首都だけでなく地方にも発展の波・生活向上の波が波及することは、2023年12月30日づけ「諦観とソ連崩壊、その轍は踏むまいとする朝鮮労働党」で論じたとおり、人民の住まいや日用品など、生活水準において実際的な変化を実現させることで、諦観が社会を支配することを防ぎ社会主義建設において更なる飛躍に繋がるものになると考えます。日常生活が変化・向上するからこそ「よりよい暮らしが可能だ」と希望を持って更に精力的に生産活動に従事できるものです。
また、社会学のアノミー理論を鑑みるに、目標と手段の不整合が生じると社会的逸脱が発生する、つまり「豊かな暮らしを送りたい」という願望とそれを実現しえない社会環境との間の矛盾があるところに社会規範から逸脱した方法での願望充足が発生するわけですが、地方発展20×10政策によって「我が国でも豊かな暮らしを送ることができる!」と実感できるようになれば、願望と社会環境との間に矛盾はなくなるので、体制は安定することでしょう。「外国の豊かな生活」の情報が入ってきたとしても、故郷が自ら発展する道が明確であれば、むしろ外国からの一定の情報流入は「ああいう生活を送りたいから、党の指導の下でもっと頑張って働こう」という「ニンジン」にさえなりうるでしょう。
■教育事業は第一国事である――ニッポンと比較して
第4議題「国の教育土台の強化のための一連の措置を実施することについて」について取り上げましょう。記事によると「この8月、教育事業はどんなことがあっても絶対に揺るがせにできない第一の国事であるとし、水害地域の全ての児童・生徒を平壌に連れてきて勉強させる特別措置を取り、自ら4・25旅館に設けられた臨時教室を訪ねて新学期の教育準備状況を確かめ、限りない心血を注」いだとのこと。「労苦を費やしてきた金正恩総書記の崇高な次世代観は、われわれに学生教育問題、教育条件保障問題をどのような姿勢と立場に立って対するべきかを改めてはっきり刻み付けさせてい」ます。
日本でも先般、高等学校授業料無償化が議題になりましたが、根本的に「誰に対する支援なのか」が共有されていなかったことから「高所得者の子弟にも無償化が必要なのか」という声が上がりました。子どもの未来に対する支援であるという明確な位置付けがあれば、親の所得などそもそも議題に上がらないはず。日本という国には次世代観がしっかりと根付いていないことがハッキリと示されました。
また、たとえば中央大学の中北浩爾教授は、「短期的に言えば、無償化の方向性は国民にメリットがあるかもしれないが、財源が十分示されないまま議論が進む傾向にあり、財政規律を損なう形を取ってしまう」などと宣っています(「【1からわかる】授業料無償化で高校は?」2025年3月11日 11時32分)。まったく倒錯した主張です。財政規律の枠内で教育無償化の財源を探すのではなく、教育無償化を前提として財政を組みそして財政規律を図るのが筋です。教育事業はどんなことがあっても絶対に揺るがせにできない第一の国事です。これを蔑ろにして一体何になるのでしょうか、まったく何のための財政なのでしょうか。完全に目的を見失った主張になっており「財政規律のための財政規律」に陥っていると言わざるを得ないでしょう。当ブログではかねてより「日本人の発想には目的意識性が欠けている、『何のため』が抜け落ちている」と指摘してきましたが、このことからも、日本言論においては次世代観がしっかりと根付いていないことがハッキリと示されたと言わざるを得ません。
最近日本では、減税が政治的イシューとして浮上してきていますが、例によって「将来世代にツケ回しをしてはいけない」なる言説が大手を振っています。ご立派な心掛けです。しかし、そういう割には教育予算が増えません。教育費は高騰を続けているにも関わらず! 本気で後代のことを考えているわけではないことは明白です。
もっとも、かといって日本国家が資本の利益実現のために徹底して仕えているのかといえば、当のブルジョア階級からアレコレと注文を付けられ時に罵倒されている点を鑑みるに、そういうわけでもなさそうです。必ずしも、うすらぼんやりと仕事をしているわけではないでしょう。新型コロナウイルス禍のときもそうでしたが、雁字搦めになってしまっているのでしょう。各方面・各階級階層から批判ばかりされる日本国家は、気の毒といえば気の毒であります。目的意識性を持ちたくても持ち得ないという見方もできるかもしれません。もちろん、気の毒とはいえ、国家なのだからそんなようではダメですが。
キム・ジョンウン同志は結語において「世界的に教育を一番重視し、教育が一番発達した国家建設を目標にした以上、われわれは学用品と教具・校具、教育機材の問題を国家が全面的な責任をもち、教育者と児童・生徒・学生に最大限の活動条件、学習条件を保障する方向に確固と進まなければならない」とし、「今回の総会に上述の議題を特別に上程させた意図と、最短期間内に国の教育土台を新たな高さに引き上げるための実行方途を明示」なさったとのこと。国の経済規模が日本とは比べ物にならないくらいに小さく、また、アメリカとの対決のための軍事費の負担が重くのしかかっている共和国がここまでやっています。どれだけ教育を重大事として認めているのかが分かります。
■組織問題と朝鮮労働党第9回大会
組織問題つまり人事については、キム・ドックン同志が政治局常務委員と内閣総理を解任され、中央委員会書記と部長に起用されたことがやはり注目されていますが、降格ではあるが大左遷というほどではなさそうです。チェ・ソニ同志が政治局員になったことについては、今後の動向を注視する必要があるでしょう。今回の人事は、総じて大きな入れ替えではなく、いままでの陣容で2025年も事業を進めるということなのでしょう。
キム・ジョンウン同志は総会締め括り演説で「来年はわが党が創立80周年を迎える意義深い年であると同時に、第8期党中央委員会が自分の活動を時代と人民の前で総括する年である」とした上で「2025年をわが党の指導史に最も光り輝く地位を占める歴史の分水嶺につくらなければならない」と仰いました。そして、「第9回党大会を勝利者の大会、栄光の大会として堂々と迎えようと熱烈に呼び掛け」られました。記事によると「党中央指導機関のメンバーは、総会に対し無条件的な実行を誓った革命課題の重みを銘記し、果敢な勇気と発奮力、尽きせぬ熱情と献身力を発揮して、2025年をより高い発展段階への上昇局面を開く驚異的な年、偉大な転換の年として輝かせる厳かな意志を固め」たとのこと。
「党と人民の血縁的きずな」の強化と後代育成を最優先課題として位置付け、人民大衆の生活水準における実際的変化の実現を実現させつつ、社会主義そのものをも革新させてゆく共和国。いよいよ党大会です。
あまり関係がない話ですが、朝鮮人民は「韓国は確かにいい暮らしをしているが、それならどうして自殺率があんなに高いんだ?」という質問を外国人にする事があるそうです。他国の「良い」暮らしに関しては理解していても、それがただの物質的な「良さ」でしかない事もある程度共通認識として広まっているのかもしれませんね。
コメントありがとうございます。
中国人はウチとソトとの区別が日本人以上にハッキリしていると言われることがあります。社会主義の本質を集団主義とみなし資本主義の根源を個人主義に求める主体的な社会主義理解に基づけば、中国人は身内に対しては集団主義つまり社会主義的だが、ヨソ者に対しては非集団主義的でありつまり非社会主義的であると言えます。
非集団主義的だからといって個人主義的であるとまでは言い切れず、また、資本主義の根源が個人主義であるとはいえ個人主義=資本主義というわけでもありませんが、ウチとソトを峻別する中国人には、資本主義社会を成立させる重要な要素、「資本主義のエートス」は存在しているのではないかと考えます。
ところで、マルクス経済学者の松尾匡氏は、身内集団的な社会に反対し個人が自立した開放的な社会に基づく資本主義を経た上でアソシエーション社会としての社会主義社会を目指すべきだという趣旨の主張をしています。
松尾氏によると、資本主義への反発は、それが壊した古い共同体へ回帰する(義理や相互援助の復活)志向をもたらすが、これは異質な個人への抑圧と排外主義・集団エゴにつながるものであるといいます。松尾氏は、マルクスは、集団の外を弱肉強食と見なす身内集団社会から見知らぬ他人どうしの取引で共に得をする近代社会への移行を進歩と見なしていたと主張します。近代的システムではどんな大権力者でも一部の者の力で意のままにコントロールできるものではないので、短期的には力の強い一部の者がその力をふるって恣意的なコントロールをして不当に私腹を肥やすことはあるし、食うか食われるかの競争もあり得るが、長い目で見るとあれこれの偏りが相殺され、誰もが得をする均衡が誰の意図もなくもたられされるとマルクスは見ていたと主張しています。資本主義批判は、資本主義が共同体の束縛を壊したときに約束した「自由」が実現されていないという「近代の不徹底」への批判であるべきであり、マルクスの立場は単なる反資本主義ではないといいます。古い本ですが『図解雑学 マルクス経済学』では「マルクスの立場は自由主義の徹底だ」(p38)とまで言い、さらに同書では「商人道」倫理を称揚して「商人道の精神は明治維新後は、押さえ込まれはしましたがなくなったわけではありません。私たちはそれを自覚して表に出せばいいだけなのです」(p220)などと主張しています。
松尾氏流のマルクス解釈に則れば、ウチとソトを峻別する中国人は20世紀において左の極端(人民公社体制)から右の極端(縁故資本主義)に振れたということになり、20世紀の中国社会こそ、彼が理想視する「誰をも所属や身分にかかわりなく扱う近代の開かれた人間関係原理」の重要性を歴史の前に明らかにしているということになるのでしょう。
理屈としては分からないでもない主張ですが、古い共同体に個人への抑圧と排外主義・集団エゴに結び付く部分は確かにあるとはいえ、あまりにも話を単純化していると言わざるを得ず、また、近代の開かれた人間関係原理を徹底して社会を再編成するというのは空想的であると言わざるを得ないと考えます。松尾氏のプランは、伝統的共同体の紐帯を過度に貶める一方で、加速度的に遠心力が働きつつある現代社会を結び付ける紐帯としては弱すぎ、現実の諸問題への処方箋にはなり切れていないように思えてなりません。
「商人道」云々については、松尾氏は「私たちはそれ(商人道倫理)を自覚して表に出せばいいだけ」と言いますが、商いの歴史自体は古いとはいえ長きにわたって人間の経済活動のごく一部分に過ぎず、それが社会の経済的性格を規定するほどの大きな規模になったのは近世以降のことです。それも、近世は勿論のこと現代でも決して「商人道」は主流倫理ではありません。近世の農民(当時の日本人の圧倒的大多数)は商いとは無縁の自給自足的な生活を送っていたし、近世の職人や明治の工場労働者は商人的なそれとは異なる人間関係原理で組織化されていました。現代においても、仕事場で働く一般的な労働者は組織人・単位人であり商人ではありません。賃労働が発展して実現するのは組織の高度化であり商人倫理が発展することとは直接的には関係がありません。では個人事業主らが商人道の体現者かといえば、当ブログでも再三指摘してきたように、彼らは組織生活というものを体験する機会を持っていないので、ブルジョア「個人」主義という他ない発想や行動に走っています。
新しい紐帯によって社会全体を再度組織化することが喫緊の課題となっています。詳しい対比は機会をみて記事にしてみたいと思っていますが、家族や生物学的血縁集団を超えて社会全体を疑似的な血縁関係に結び付ける朝鮮式のやり方(社会的・政治的生命体論)のほうが、復古主義的かもしれませんが、歴史的に長期にわたって社会編成原理として定着していた点を鑑みるに、心理的に人々が受容する余地があると考えられるので、より現実的ではないかと思うところです。
また、松尾氏は言及していませんが、トー横・グリ下の問題などを考えたとき、当ブログでは以前から主張してきたことですが、社会的・政治的生命体論的な包摂の方がより優れているように思えます。「個人が自立した開放的な社会」は聞こえはいいものですが、キム・ジョンイル同志が正しく指摘なさったとおり「品物を売る人と買う人は平等な関係にあるとはいえても、彼らが必ずしも同志的に愛しあう関係にあるとはいえません」(『チュチェ思想教育における若干の問題について』)。やはり人間は、自由と平等はもちろん大切ですが、それよりも高次の関係性として同志愛と革命的義理が大切だと考えます。個人への抑圧と排外主義・集団エゴに結び付く部分には慎重に対応すべきですが、その点こそ克服すれば、共同体にこそ人間が人間たる根本と人間社会の未来があると考えます。
ソーシャルゲームの問題についても、貴見のとおりだと思います。
キム・ジョンイル同志は「資本家は、商品の販路がしだいにとざされていくにつれ、非人間的な需要を人為的につくりだし、人びとの物質生活を奇形化する方向に進んでいます。資本家によって奢侈と腐敗堕落した生活が助長され、人間の肉体と精神を麻痺させる各種の手段がつくりだされた結果、麻薬常習者やアルコール中毒者、変態的欲望を追い求める堕落分子が日を追って急増しており、人びとは精神的・肉体的障害者に変わりつつあります」とか「資本家は、勤労者大衆の自主的な思想・意識を麻痺させ、人びとを資本主義的な搾取制度に従順にしたがわせるため、反動的で反人民的な思想と文化、腐りきったブルジョア的生活様式をヒステリックにまき散らしています。資本主義諸国では、各種の反動思想と迷信が流布して麻薬のように人びとの健全な精神を麻痺させ、人びとを蒙昧化し、弱肉強食の生活方式が助長されて背徳と殺人、強盗などの社会悪がはびこり、人びとを恐怖と不安におののかせています。こうして資本主義社会においては、物質的富が増すにつれて、人びとの精神生活はますます貧困化しています」と仰いました(『反帝闘争の旗をさらに高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』)。
まさに現実は、コンプガチャの問題やゲーム中毒の問題に典型的に現れているように、異常というほかありません。
>朝鮮人民は「韓国は確かにいい暮らしをしているが、それならどうして自殺率があんなに高いんだ?」という質問を外国人にする事があるそうです。
>他国の「良い」暮らしに関しては理解していても、それがただの物質的な「良さ」でしかない事もある程度共通認識として広まっているのかもしれませんね。
重要な論点提示ありがとうございます。当ブログの問題意識もまさにそこにあります。私が一番好きな共和国の歌謡は≪세상에 부럼없어라≫です。
1980年代以降、チュチェ思想に基づいて社会主義が再定義され、近年も定期的に『労働新聞』等で資本主義社会における背信や背徳について取り上げられて論難されていますが、それが一定程度、人々の考え方の中に定着していることを示しているものと考えます。