2018年02月21日

国労・動労の方法を克服した東労組のスト戦略

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180221-00000065-it_nlab-bus_all
>> “電車を止めないストライキ”をJR東労組が予告 「それって効果あるの?」「これが現代のストか……」の声も
2/21(水) 16:08配信
ねとらぼ

 厚生労働省は2月20日、東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)から「ストライキ等の争議行為を行う予告」を受けたと公表しました。


(中略)

 予告された内容は、2018年3月2日以降に「全組合員(助役を除く)による本来業務以外に対する非協力(自己啓発活動など)の形式による争議行為の実施」。今回のストライキでは、「列車運行に支障をきたすことはない」としています。要求内容は、組合員一律での定額賃金ベースアップ(定期昇給分を除く)です。

 この報道を受け、ネット上では「そもそも電車が止まったら困る」という声があった一方で、予告内容を確認したユーザーからは「電車が止まらないストライキなんて意味あるの?」「自己啓発活動をしないことがストになるの?」という声も寄せられました。

 ストライキ決行の可能性についてJR東日本に取材しましたが、現時点、同社広報では分からないとのこと。JR東労組に対して「自己啓発活動とは、具体的に何か」などの取材申し入れをしていますが、2月21日15時時点で、回答は得られていません。


(以下略) <<
■ストは「労働市場における商売人」である労働者の商行為の一環
昨年12月26日づけ「商行為の一環としてのストライキ――自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは展開すべきだが、その労働者の利益にとっての弊害についても認識すべき」でも言及したとおり、「労働市場における商売人」である労働者は、慈善活動・ボランティア活動で働いているわけではないのだから、いくら労働契約を結んでいるからといって、いつでもどんな場合でも自身の労働力を販売するわけには行きません。

ストライキという行為は、労働者の人間としての権利(人権)である以前に、「受け手と買い手の取引交渉失敗による取引停止・操業停止」という点において、市場取引における商売人としての合理的行為;商行為の一環であるとも位置づけられるものです。そのため私は、今回のJR東日本労組(東労組)のストを辞さない構えを支持します。

■お客様を敵に回さない形でのストを!
また、前回記事で私は、労働運動のやり過ぎは労働者自身の首を絞めることに繋がる点において、「利用客を敵に回さない一方で、企業当局側には打撃を与える」という方法論がスマートでよいと述べました。一企業の労使はお客様(消費者)との関係においては「呉越同舟」の関係にあるという事実を直視し、「誰を敵に回してはならないか」ということを十分に承知した上で戦術を練らなければならないわけです。

今回の東労組のプランは、「ストライキが決行されたとしても、列車の運行に支障はない」ことを明言し、いわゆる非協力闘争の形式を宣言しました。戦術面においても私は、強く支持するものです。

■世論の後押しがないので「電車を止めるスト」が成功する条件は熟していない
ところで、ねとらぼ記事中では、「電車が止まらないストライキなんて意味あるの?」という声が掲載されていますが、むしろこの段階で「電車を止めるストライキ」を打っても、目指すところの成果は得られないであろうと見るべきです。ストライキに対する利用客・世論の支持を広く受けているわけではなく、他社労組との連携もない状態だからです。以下に述べるとおり、@何の効果も生まないか、A逆にクレーマーのような利用客にエサを与えることになるか、B労使諸共に没落してゆくキッカケになるかのいずれかになりかねないものと考えます。

このような状態でのスト突入は、まさに「独走」であり、かつて公労協(国労・動労)が飛び込んだ「スト権スト」(1975年)の失敗の轍を踏みかねないものです。

あのとき公労協は、総評との連携さえも十分とは言えないままに単独的にストに突入したところ、私鉄網の発達で国鉄の「地位」自体が低下しつつある中で私鉄が「スト破り」的に列車を運行(そもそも公労協側が私鉄労組に協力を要請していなかったのだから無理もないことだけど)したこともあり効果は上げられませんでした。もともと私鉄線を利用していた通勤通学客はいつも通り私鉄線を利用し、国鉄線の通勤通学客は「ま、私鉄動いているし・・・」といった具合に落ち着いて(とはいっても混雑はしているけど)経路を切り替えたわけです。

また、スト継続に対する世論の支持も取り付けきれていませんでした。世論は、「国鉄当局は何をやっているんだ、組合に譲歩して早く紛争を収めろ!」とはならなかったのです。

その結果、空前の大規模・全面的ストであったにも関わらず、当局側に打撃を与えることが出来ず、敗北を喫したのです(当人たちもスト権奪還闘争を後退させたとは認めているくらいの完敗)。

1975年当時よりも私鉄鉄道網の発展は著しく、「国鉄の地位低下」が指摘された当時よりもJRの「地位」は低下しています。仮にここで「電車が止めるストライキ」を打っても、そのことに戦術的な意味がどれほどあるのか甚だ疑問であると言わざるを得ないところでしょう。ただでさえ昨今は毎日のように事故や点検等で運転見合わせになるJR東日本管内。平然と経路を切り替える大多数の利用客たちの姿が容易に想像できます。社会的議論を喚起し、組合運動に有利な世論形成には至らないことでしょう

■「兵糧攻め」は無産階級としての労働者、消費者から見れば企業の一員である労働者の戦い方ではない
なお、「利用客による経路切り替え」という事態は、労使諸共に影響を受ける事態です。「一企業の労使は呉越同舟の関係」と述べた通りです。その点においてこの事態は、企業側にとって労働者側の要求を呑むインセンティブになりうるようにも見えます(もちろん、逆も――労働者側が企業側の労務を受け入れる――然りです)。単独ストにも一定の効果がありそうな気もしてきます。

しかし、一般的に考えたとき、企業側の「体力」と労働者側の「体力」には歴然とした差があります。そして、企業側も当然に反撃してくることでしょう。「利用客による経路切り替え」という事態によって、一種の「兵糧攻め」的な意味で企業側が困り始める頃には、無産階級としての労働者側は干からびているでしょう。そう考えると、「利用客による経路切り替え」の長期的効果は、「企業側が労働者側の要求を呑む」ことよりも「労働者側が折れる」ことの方が先に発生するものと思われます。

「利用客による経路切り替え」が一種の「兵糧攻め」的な効果を発揮し始めて企業側が実際に困り始めたり、そこまで行かなくとも、現実的な経営の脅威として本格的な危機を感じ始めた状態は、既にマーケットにおける企業全体の立場が相当に危うくなっている段階です。「呉越同舟」の船が呉越諸共に沈没し始めた段階です。まさに国鉄の末路。スト戦術としては危険すぎると思われます。

■クレーマーのような利用客にエサを与えることになる恐れ
上述の「効果なし」とは逆の事態も想定できます。国鉄があった時代はまだスト等の労働争議に対する社会的理解があった時代でしたが、そんな時代でも公労協(国労・動労)のストには批判的な声が巻き起こっていたものです。あの頃よりも階級連帯意識が乏しい昨今(ぶっちゃけて言うと、自分勝手な奴が多い時代)において「電車を止めるストライキ」を打つことは、パンドラの箱を開けることにならないでしょうか?

前述のとおり、お客様を敵に回してはならず、お客様を敵に回した側の敗北は確定的と言っても過言ではないものですが、今やそのお客様の「扱いづらさ」は空前のレベルに達しつつあります。そのご機嫌を損ねかねないプランを採用すべきではありません。労働者階級の利益を優先するからこそ私は、「電車を止めるストライキ」は敬遠して、他の方法で企業側を揺さぶる方がよいと考えています。

つまり、ストライキに対する利用客・世論の支持を広く受けているわけではなく、他社労組との連携もない状態における「電車を止めるストライキ」は、@何の効果も生まないか、A逆にクレーマーのような利用客にエサを与えることになるか、B労使諸共に没落してゆくキッカケになるかのいずれかになりかねない、というわけです。

■「本来業務以外」を労働者に押し付けたツケを払うとき
ちなみに、ねとらぼ記事中では、非協力闘争について「自己啓発活動をしないことがストになるの?」という声が掲載されていましたが、「自己啓発活動」はあくまで一例に過ぎません。日本の労働現場は残念ながら「本来業務以外」が不可欠的な重要な役割を果たしているものです。本来業務以外に対する非協力」は、打撃になることでしょう。それに、「自己啓発活動」なんて、実態においては「研修」に近いようなもの・・・「『本来業務以外』を労働者に押し付けたツケを払うとき」と見ておきましょう。
posted by s19171107 at 20:19| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年02月20日

言うは易く行うは難し

「言うは易く行うは難し」の典型。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180220-00000039-reut-bus_all
>> 政権奪還なら金融セクターは産業に奉仕へ=コービン英労働党党首
2/20(火) 12:53配信
ロイター


(中略)

コービン党首は「一世代の間、金融が産業に奉仕せず、政治家が金融に奉仕してきた。その結果、生産的経済、わが国の公共サービスと国民生活は少数の『大き過ぎてつぶせない』銀行とカジノ金融業者に人質として取られてしまった」と批判。

「もはやそれも終わりだ。次の労働党政権は40年ぶりに、実体経済のために立ち上がるだろう。わが党は金融を、全ての人の支配者ではなく、産業への奉仕者とするため断固たる行動を取る」と述べる予定だ。

さらに、自動車部品大手GKN<GKN.L>に対する投資会社メルローズ<MRON.L>の敵対的買収案に言及。「われわれはGKNのような企業の成長を適切に評価しているが、同社の崩壊の可能性に直面している時、対応するすべがない」とし、「次の労働党政権は『公益性テスト』の範囲を広げ、国内の産業基盤を破壊する敵対的買収を防ぐため政府が介入できるようにする」考えだ。

大手企業は労働党に対し警戒しており、米モルガン・スタンレーは投資家に対し、コービン党首の政権奪還はEU離脱以上の政治リスクになると警告した。


最終更新:2/20(火) 13:12
<<
産業への奉仕者とするため断固たる行動を取る」――本来的な意味での金融業の在り方に立ち返らせるという意味においては、お題目としては文句のつけようのない正論中の正論です。しかし、実際の政策に落とし込むとすれば、これは実に難しいものです。

どこまでが実体経済に奉仕していると言えて、どこからがそうでないと言えるのかのでしょうか。実際の政策は、「程度の差」の問題、換言すれば、「線引きの問題」と言い切ってしまっても過言ではありませんが、どうするつもりなのでしょうか?

ちなみに歴史上の類似した構造の事例を振り返るとき、スターリンの「階級としての富農(クラーク)絶滅」の計画の例が思い出されます。すなわち、ボリシェヴィキが掲げる意味における共産主義においては、富農の存在は相容れないものであり、その意味においては、「富農絶滅」は理論的には理解可能ではあるものの、実際に「誰を富農と見なすべきか」「どこまでが『団結対象とすべき中農』で、どこからが『打倒すべき富農』と言うべきなのか」という基準については曖昧模糊としていました。ボリシェヴィキは最後まで明確な線引きを提示できず、結局、雑なキャンペーンに終始したものでした。お題目が明確であったとしても、実際の政策への落とし込みが困難な好例です。

また、一見してただの投機行為に見えても、思いもよらぬ実体経済に対するプラス効果があり得ることは、現代よりも遥かにシンプルな経済構造かつ、「自由民主主義」などという概念が存在しなかった日本の江戸時代における幕府のコメ先物禁止令とその撤回の一例を見るだけでも明白です。

それよりも驚くべきは、「われわれはGKNのような企業の成長を適切に評価している」という認識。メルローズの魂胆が幾ら何でもハチャメチャすぎるのかも知れませんが、たぶんそんなにも「分かりやすい」のは、今回切りの極めて稀な幸運なるケースでしょう。たかだか政治家ごときが一企業の成長を「適切に評価」することはできないと言い切ってよいと思います。一周遅れの計画経済論者だって、もう少し「謙虚」でしょう。

こういうことを言いたくなる気持ちはすごくよく分かるのですが、実際の政策的課題として考えたとき、まさに「言うは易く行うは難し」の典型と言わざるを得ないところです。

モルガン・スタンレーの言い分を認めるのも何となく癪な気もしますが、マーケットにおける百戦錬磨のプロでさえ眉を顰めるような極めて一握りの「輩」を対象にしたパフォーマンスに留まってくれればよいものの、これを本気でやろうものなら、その影響たるや確かにBrexitどころではないかもしれません。
posted by s19171107 at 22:54| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年02月16日

【광명성절경축】チュチェ思想の神髄が「図らずも」実践された例は、その必然性・正当性を示すもの【2.16경축】

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180213-00000069-sasahi-soci
>> 北海道「突出して何もない町」が地方創生に成功 陰にアイデアマン公務員〈AERA〉
2/14(水) 11:30配信
AERA dot.

「地方創生」の名のもとに、各自治体が奮闘している。昨年12月、地方創生の司令塔、内閣府の「まち・ひと・しごと創生本部」は「移住・定住施策の好事例集(第1弾)」を発表した。3大都市圏以外から、行政・民間の取り組みによって転入者数から転出者数を差し引いた社会増減数を始点年の総人口で割った「社会増減率」がプラスに転じた、または社会減の減少幅が縮小した自治体を選定。全18自治体を紹介した。成功した地方自治体は一体どんな取り組みをしたのか。そのひとつを取材した。


(中略)

 北海道南部にある厚真町は人口約4700人。日本創成会議が「消滅可能性」を指摘した自治体の一つだ。

 大坪さんは1987年の入庁以来、都市計画を担当した。町は、60年代の高度経済成長期から人口減少がつづいていた。人口を増やすためには、外から人を呼んでくるしかない。

「成功した町の事例をそのまま真似してもうまくいくとは限りません。自治体の役割は、それぞれの地域にあった戦略をいかに見つけ出し、それを行政が一丸となって実現させるか。そのためには、役場内の自由な発想とそれを受け入れる雰囲気づくりが必要だと思っています」


(中略)

「失敗? あまり考えませんでした(笑)。それよりも、うまくいったらいいなあという、わくわく感のほうが圧倒的に大きかったですね」

 町は、若手職員を中心に地域資源を生かしたローカルベンチャー支援などにも乗り出した。

 厚真をもっと魅力的な町にしたい──。強い意志と希望を持った職員が増えているという。
 

(以下略) <<
こんなことを言うと当人たちは極めて心外だと思いますが(笑)、「成功した町の事例・・・」のくだりは、まさにチュチェ思想が教える所のど真ん中です。「チュチェ思想の神髄」を正確に言い当てていると言ってよいコメントです。

「成功した他国の経験をそのままコピペ的に模倣しても成功するとは限らない」「他国の経験や支援を無批判に受け入れるのではなく、一概に排斥するのでもなく、我が国の条件に合わせて自分の頭で考えて選択せよ」「党の周りに一心団結して我々の革命事業を推進しよう」――こうしたチュチェ思想が提唱する心構えが実践されたわけです。

また、「わくわく感のほうが圧倒的に大きかったですね」というコメントからは、主体的なチャレンジで充実した職業生活を送っているご様子が窺えます。主体性を堅持しつつ、実践活動を自主的で創造的に楽しんでいる姿は、まさしくチュチェ思想が目指す理想像です。

元来、チュチェ思想は実践を重視する思想です。仮に「チュチェ思想」という名称を看板として掲げていなくとも、その神髄を踏まえた実践行為は、チュチェ思想的であると言えます。その点、本件記事が伝える事実は、ほぼ間違いなく当人たちはチュチェ思想を意識して取り組んだわけではないものの、実態としては、チュチェ思想的実践が成功裏に推進された例といえるでしょう。

そして、「チュチェ思想」という看板が掲げられていない場面で実質的に「チュチェ思想的実践」と言い得る展開が成功裏に推進されているという事実は、チュチェ思想の神髄は、特に意識的に仕向けたり無理矢理にコジツケたりせずとも自然発生的な試行錯誤の結果として到達する点において、その必然性・正当性を示すものと言い得るものでしょう。

광명성절 축하합니다!
ラベル:チュチェ思想
posted by s19171107 at 21:30| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

「価値観の相対化」――危険な劇薬、取り扱い注意

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180210-00000046-asahi-soci
>> 選択的夫婦別姓「容認」4割超 「必要ない」は3割切る
2/10(土) 17:20配信
朝日新聞デジタル

 内閣府の家族と法制度をめぐる世論調査で、夫婦別姓を選べる「選択的夫婦別姓制度」を導入してもよいと考える人の割合が過去最高の42・5%だった。導入する必要はない、と答えた人は過去最低の29・3%。ただ、政府は「国民の意見が大きく分かれている」として制度の導入に慎重な姿勢だ。

 制度をめぐっては法制審議会(法相の諮問機関)が1996年に導入を答申したが、法改正のめどはたっていない。調査は全国の18歳以上から無作為抽出した5千人を対象に面接で実施した。回収率は59%。

 調査結果によると、質問は三択で、制度を導入してもよいと答えた人は過去最高の42・5%。
(中略)制度容認派のうち19・8%は自分も結婚前の姓を名乗りたいと回答した。(以下略) <<
制度として存在するのは構わないと考えているが、自分自身が夫婦別姓を選択する予定である人は、ごくごく少数にとどまる――制度利用予定者が思ったよりも少ない結果で少し驚きました。まあ私自身も、別姓を名乗りたい夫婦は名乗ればいい(どうでもいい)と思うが、自分たちの問題として考えたときは、この問題について特別なコダワリはないので、ウチは世間標準通りに夫婦同姓でいいんじゃないかと思っているクチですが。

それはさておき、この問題に関しては、右派界隈からしばしば「選択的夫婦別姓論は、家族の結束を弱める左翼勢力の陰謀的な制度改悪であり、その狙いは『家族の解体』にある」といった非難が浴びせられます。この世論調査と選択的夫婦別姓論者の論法を見る限り、それは「杞憂」「被害妄想」といってよいのではないかと考えているところです。

選択的夫婦別姓論者の論法が、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」である限り、選択的夫婦別姓論を「容認」することこそ可能ではあるものの、それをデフォルトに「仕向ける」ことは不可能です。そして、今回の世論調査結果を見る限り、ごく一部の夫婦は夫婦別姓を選択するものの、大多数の夫婦と「夫婦予備軍」は今のまま夫婦同姓を選択するであろうことが見込まれます

選択的夫婦別姓論者が言うように、「夫婦同姓という伝統」の根拠を問い詰め、あらゆる考え方を相対化した上で考え抜いたとき、夫婦が同姓を名乗らなければならない根拠など存在しないという結論に至らざるを得ません。その点において、夫婦別姓を妨げる根拠はありません。同様の論法に従えば、当たり前のことながら夫婦同姓を妨げる根拠も存在しないので、夫婦別姓でなければならない根拠もまた存在しません

それゆえ、仮に夫婦別姓が実現したとして、その社会において旧来的な夫婦同姓論――家族が一体感を持つためには、同姓であるべきだから、ウチは同姓にする――という夫婦がいたとしても、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」を制度成立の論拠にしている限りは、そうした考え方を批判できる根拠は存在しません

もし、ここで、「『家族が一体感を持つためには、同姓であるべきだから、ウチは同姓にする』なんて考え方に合理的な根拠はない」などと説教しようものなら、まさに「選択的」であるがゆえに、「余計なお世話」として門前払いされることでしょう。また、この制度が「価値観の相対化」を経て成立したのであれば、「合理的な根拠」という判断基準もまた相対化された上で棄却され得るものです。この世には「絶対的基準」が存在しない以上は、価値観を相対化する立場を突き詰めれば、「伝統」に縛られる謂れがないのと同様に、「合理性」に縛られる謂れもまた存在しなくなるのです。合理的に行動しなければならない理由など存在せず、ただ気の向くままに好きにしても非難される謂れはありません。

現在の選択的夫婦別姓論者の論法は、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」に留まっています。こうして考えると、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」を主軸とする現在の選択的夫婦別姓論は、「夫婦同姓制度を打破」することは可能であるものの、新しい価値観としての「夫婦別姓を推進」し得るものではないのです(そもそも、選択的夫婦別姓論は「夫婦別姓を推進」するものではありませんが)。

そして、今回の世論調査。制度として存在するのは構わないと考えているが、自分自身が夫婦別姓を選択する予定である人は、少数にとどまるわけです。人々は、都度都度に合理的に行動を選択することよりも、伝統や習慣に合わせて定型的な行動をとる方を好むと言われています。また、Hayekは、伝統や習慣の特徴について「権力によって強制されなくとも、内面化されているがゆえに、自発的に遵守するもの」と述べています。つまり、人間心理の観点から考察すれば、実際に制度化されたところで自発的に夫婦別姓を選択するケースは多くないと見込まれるし、また、価値観が相対化された状況下での自由選択制であるがゆえに個別の夫婦に対して別姓を推奨できないわけです。

こんな現状で「選択的夫婦別姓論は、家族の結束を弱める左翼勢力の陰謀的な制度改悪であり、その狙いは『家族の解体』にある」などと言うのは、杞憂というべきか被害妄想というべきか。右派界隈の頭の悪さは今に始まったことではありませんが、老婆心ながら、お止めになった方がよいのではないかとお勧めするところです。

ところで、私が特に昨年あたりから、「『不合理なルールを変えて多様性を実現する』を単なる『何でもあり』にしてはならない」という強調するようになったのは、昨今の「変革」論が「価値観の相対化」という劇薬をあまりにも安易に利用している嫌いがあるためです。

上述のとおり、この世には「絶対的基準」が存在しない以上は、価値観を相対化する立場を突き詰めれば、個人を縛る理屈は存在しなくなりますキムジョンイル総書記が指摘されているように、「自由」と「放蕩」は根本的に異なります。自由はあくまで集団的枠組みを破壊しない範囲内――集団主義の枠内での個人的自由と集団的生活の調整と接合・両立――でなければならないという点において、一定の程度において「個人を縛る」理屈は存在しなければなりません。安易なる「価値観の相対化」の濫用は、古臭い制度の破壊には絶大な威力をもたらすものの、その副作用として新しい制度の樹立を困難にしかねません。社会革命の立場に立つからこそ私は、「価値観の相対化」の利用には慎重でなければならないと考えています

夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという程度であれば、どっちに転んでもどうでもいい話ですが、この程度の「どうでもいい話」でさえ「価値観を相対化」という劇薬の効果は抜群に発揮され得るものです。そして私は、この程度の「どうでもいい話」とは言えども、それにしても「価値観を相対化」の劇的な効果に対する慎重さが足りないのではないかと思うのです。

もっと社会集団の根底を規定するような分野において、この調子で安易に「価値観を相対化」が導入されれば、いったいどんなことになるでしょうか? 不合理で人々の自主性を縛り付けるような旧来型の制度は粉砕されるでしょうが、それにとって代わる新しい制度を樹立し得るでしょうか? どういう理屈で人々を新制度に従わせるというのでしょうか? 破壊するだけ破壊してそのままにならないのでしょうか?

夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという問題については、上述のとおり、現行制度を壊したところで大多数の夫婦は自発的に同姓を選ぶ見込みである点、大きな影響はないでしょうし、繰り返しになりますが、この程度の問題であれば、どっちに転んでもどうでもいい話です。しかし、もっと社会集団の根底を規定するような分野における「破壊」の影響は不透明です。

まあ、あらゆる価値観を相対化し破壊したものの「プロレタリア文化」の創造には失敗したと言わざるを得ない、かの文化大革命でさえ、最終的には収まるところには収まりました。その点において「長期的(歴史的)視点」で見れば、「価値観を相対化」路線は、社会の成熟度に応じた時間を掛けて「それなりの地点」に落ち着くのかもしれません。しかし、「生活的視点」からみれば、「それなりの地点」の落ち着くまでの「数か月」「数年」の間にも日常生活は連綿と続くわけです。私は生活的視点を徹底させたいと考えています。

「価値観の相対化」――危険な劇薬です。取り扱い注意。夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという程度の「どうでもいい話」であるからこそ、これを機に「価値観の相対化」の劇的効果について、じっくりと考えを巡らせるべきでしょう。
ラベル:社会
posted by s19171107 at 22:05| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年02月11日

首領様は依然として、お面の題材にしてよい御方ではありません

https://jp.reuters.com/article/idJP2018021101001536
>> 「金日成仮面」と韓国報道で混乱

 【平昌共同】平昌冬季五輪アイスホッケー女子の南北合同チームが10日出場した試合の会場で、北朝鮮応援団が男性のお面をかぶって歌う場面があり、韓国の一部メディアが「故金日成主席の仮面」と伝えた。


(中略)

 お面の正体は、男性の片思いを描いた北朝鮮の歌謡曲「フィパラム(口笛)」を歌う際、男性役を演じるために使う「美男子仮面」との説が有力だ。 <<
写真見ましたが、首領様のお若い頃にはあまり似てなかったな・・・プロバガンダ・イラストによく出てくるような男性という印象でした。

というよりも、いくらキムジョンウン委員長の時代になり、堅苦しさが軽減されてきたとはいえ、首領様のお面が許容されるような日はまだまだ遠いと言わざるを得ない現状です。偉大な首領であり、チュチェ思想においては「肉体的生命とは区別される政治的生命の父」。平たく言えば「人民の神」という地位に依然として位置しているわけです。国威発揚のオリンピック応援のためとはいえ、お面の題材にしてよい御方ではありません

ちなみに個人的な話になってしまいますが、だいぶ以前にチャイナ・タウンに遊びに行った時の話ですが、怪しげなお土産物店で売られている「毛沢東トランプ」を見たとき、「モテクドン・ドンジ(毛沢東同志)がトランプの絵柄になるのか。共和国もいつか、首領様がトランプの絵柄になる日が来るのかな・・・?」と思ったものです(我ながら純粋だなーw)。毛沢東は中華人民共和国の建国者であり、今も昔も中国共産党政権の正統性の源泉であるとともに、トランプの題材になるくらいは大目に見てもらえる「キャラクター」です(在日チャイニーズ社会ではOKなだけで、本国ではどうだか知らないけど)。同じように首領様がトランプの絵柄になる・・・畏れ多いものの、そういう時代もいいかもな、と思ったものでした。ええ、なんてことのない、ただの個人的思い出話です。なんとなく、ずっと忘れていた記憶を思い出したので。
ラベル:メディア
posted by s19171107 at 18:35| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

BGMから読み解く朝鮮人民軍創建70周年慶祝閲兵式

2月8日挙行の朝鮮人民軍創建70周年慶祝閲兵式について。

普通のことを書いてもあまり面白くないし、ヤフーニュース等を引用したところで「有識者」なる人々のご高説(割と外れる)を再構成するだけになるので、ここは趣を変えて「閲兵式中にどんな曲がBGMとして流れたのか」という点に絞って記事を執筆したいと思います。題して「BGMから読み解く朝鮮人民軍創建70周年慶祝閲兵式」。

以前から述べているとおり、共和国は「音楽政治」の国音楽をプロパガンダの主要な手段としてフル活用している国です。音楽に乗せてあからさまにメッセージを伝えるケースもあれば、その場では面と向かっては言えないような内容を含む曲をBGMとして流すことで腹の内を婉曲に伝えるケースもあるものです。

たとえば、太陽政策を掲げていた南側のノムヒョン大統領(当時)は、任期満了直前のチュチェ96(2007)年に訪朝しましたが、歓迎の花束を渡された際と儀仗隊行進の際に流されたBGMが何と「朝鮮人民軍歌」。この歌は、朝鮮半島の赤化統一を歌う曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=yZR3isKgY20#t=231

中国やベトナムなどの要人訪朝の例を見るに、花束贈呈時は「歓迎曲」、儀仗隊行進時は「遊撃隊行進曲」が定番である点、わざわざ「朝鮮人民軍歌」を流したのは異例であり、ここには意図があると見るべきでしょう。

周知のとおりノ大統領の太陽政策は、武力を用いず、吸収統一を目指さず、和解と協力を推進する外交政策です。そんな彼の任期満了直前における訪朝は、当然、太陽政策の集大成的な位置づけでありましょう。それに対する共和国側の接遇は、キムジョンイル総書記自ら出迎え、一般大衆を大量動員して歓迎の花束を渡すという点では一見してノ大統領と南側当局者を大歓迎しているかに見えるものの、わざわざ「朝鮮人民軍歌」をBGMとして流している点において、実は腹の内では嗤っていたものと思われます。

前置きが長くなりましたが、今回の2.8절(2.8節)について見てみましょう。
動画はhttps://www.youtube.com/watch?v=sgMj7OOss3Eより。

キムイルソン大元帥万々歳」またはそれに準じる曲から閲兵式の本行進(太陽肖像画の行進ではない方)が始まるのが最近の定番であるところ、「祖国保衛の歌」(00:58:03)に始まり、「決戦の道へ」(01:00:20)、「進軍また進軍」(01:01:56)、「党中央を命懸けで死守しよう」(01:03:50)といった、祖国防衛系の戦時歌謡が続いた点、やはり今回の2.8節は、「正規軍・自衛戦力としての朝鮮人民軍」の位置づけを強調するための閲兵式と言えそうです。

キムイルソン大元帥万々歳」は、ようやく5曲目に登場。チュチェ96(2007)年4月25日の人民軍創建75周年記念閲兵式で演奏された、「遊撃隊行進曲」や「今日も七連隊はわれらの前にいる」といった抗日パルチザン時代を歌う作品や、「朝鮮の姿」「我らは銃をさらにかたく握らん」あたりの伝統的一品は採用されませんでした。

共和国も世代交代の時代なのか、こういった昔ながらの定番の曲が採用されなかった一方で、モランボン楽団の持ち歌と化している「戦車兵の歌」(01:21:24)や「砲兵の歌」(01:23:47)は採用。「正規軍・自衛戦力としての朝鮮人民軍」の位置づけを強調するにあたっても適した歌詞内容なので納得の選曲です。

戦車・装甲兵員輸送車・偵察戦闘車よりも自走砲・自走式多連装ロケット砲・地対空ミサイル車両の方が登場台数が多く、そして名曲「海岸砲兵の歌」(01:24:29)に合わせて登場したのもメッセージ性を強く感じるものです。戦車等は敵地に侵攻・制圧できるが、自走砲・自走式多連装ロケット砲・地対空ミサイル車両はそういう目的で設計されていません。後者の登場台数が多いという事実、そして「海岸砲兵の歌」をBGMとしている事実は、この閲兵式のテーマが「正規軍・自衛戦力としての朝鮮人民軍」という位置づけを強調する点にあることを更に論証するものであると考えられます。パレード映えする侵攻向けの兵器、好戦的な軍歌など幾らでもあるのに、それらが採用されなかったわけです。

そして最後の最後に「共和国ロケット兵行進曲」の曲に合わせての戦略軍部隊の行進。昨年は頻繁に発射実験を実施していたものの、1回の発射実験で登場するのは単一の形式だけだったので、こうして複数形式が一堂に会するのは実は初めてのケースかもしれません。「あれ、いつの間にこんなにバリエーション豊富に揃えたんだ?」と一瞬思ってしまうくらいの壮観であります(もちろん、それこそが閲兵式を全世界に公開している狙いであるわけですが)。

朝鮮労働党政治局の1月23日づけ決定によって、40年ぶりに2月8日に「戻ってきた」建軍節。当ブログでは1月25日づけ「自主独立国家建設の必須的要求である正規軍としての朝鮮人民軍――「2.8建軍節」の意味」にて、このタイミングでの党政治局の決定は、「自主独立国家建設の必須的要求である正規軍としての朝鮮人民軍」という位置づけを強調するところにあると考えるのが自然な見立てだと述べましたが、その内容を論証するかのような閲兵式でした。

なお、共和国が「マルクス・レーニン主義」の旗を降ろし、「共産主義」について言及しなくなって久しい今日。チュチェ100(2011)年10月10日の建国63周年閲兵式の時点では掲げられていたものの、チュチェ101(2012)年4月15日の太陽節閲兵式の時点では撤去済みだった(すなわち、キムジョンウン委員長の時代になるや否や早速撤去された)、マルクスとレーニンの肖像画は、あいかわらず画面から確認はできませんでした。「社会主義企業責任管理制」を政策の大黒柱として掲げている以上は、いまさらマルクスやレーニンの肖像画を掲げている場合ではないので、当然といえば当然ですけど。

キムイルソン大元帥万々歳」を後回しにしてまで「祖国保衛の歌」や「決戦の道へ」といった戦時歌謡を先発させ、「砲兵の歌」や「海岸砲兵の歌」を歌う。戦車・装甲兵員輸送車・偵察戦闘車よりも自走砲・自走式多連装ロケット砲・地対空ミサイル車両を大動員する。多種多様にわたる戦略軍の陣容を誇示する――完全に自衛モードに入っている共和国です。
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2018年02月05日

「20年、50年先の安全安心」と「目の前の経済」とを密接に結びつけて

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180205-00000004-asahi-pol
>> 落選の稲嶺氏「真摯に市民の選択受け止め」 名護市長選
2/5(月) 0:37配信
朝日新聞デジタル

 現職の稲嶺進氏(72)は後援会事務所で、相手候補の当選の一報を見ると、険しい表情になり、テレビ画面を見続けた。集まった支持者たちは静まりかえった。

 記者団に対しては「名護市民の選択の結果で、真摯(しんし)に受け止めないといけない」と話した。さらに「20年、50年先の安全安心を訴えてきたが、結局は目の前の経済優先という形で敗れた」と述べ、辺野古移設の問題が争点とならなかったと振り返った。


(以下略) <<
今回の有権者の投票動向を単純に「20年、50年先の安全安心を訴えてきたが、結局は目の前の経済優先という形で敗れた」と割り切ってよいかはさておき、重要な観点に立った分析です。

20年、50年先の安全安心を構想することは、まさしく政治が取り組むべき大課題です。しかしながら同時に、以前から述べてきたとおり、政治は現実=人々の日常生活の要求に立脚しなければなりません。たとえ長期的展望に則るにしても、人々の日常生活の上に据え付けなければなりません。チュチェ105(2016)年6月24日づけ「「生活の現実」とEU離脱派の主張」で私は、次のように述べました。
>> ■政治の立脚点、政治の目的とは何か
さて、政治は現実に立脚しなければならないことは、議論の余地はないと思います。たとえ理想を追求するにしても、「国家百年の計」を考えなければならないにしても、「今の現実」の上に据え付けなければなりません。では、政治がまず考慮に入れなければならない「今の現実」とは何でしょうか? 人々は何を求めているのでしょうか?

以前から繰り返し述べているように、それは「生活」です。人々は「日々の生活」を営みながら、「よりよい明日の生活・自主的な生活」を追求しています。よりよい明日の生活を追求する上では様々なビジョン・理想社会論が出てきますが、それらはすべて「生活のためのビジョン」です(生活を目的としない理想論は無意味・空虚です)。人々が立脚する現実は生活であり、人間活動の目的は生活であり、すべては生活のための道具です。「生活の現場こそが現実」なのです。
<<
人々は日々の生活を営みながら、よりよい明日の生活・自主的な生活を追求しています。20年、50年先の安全安心は大切ですが、まず「目先」のことに目途が立たなければ、そういった課題をじっくり考えることはできないのです

今回、稲嶺氏は20年、50年先の安全安心を訴えるという、政治が取り組むべき課題の一つを正しく取り上げたと言えます。しかし、日々の生活についてより明るいビジョンを提示する対立候補者と比べて見劣りしてしまったことは否めません。人々の投票行動においてウェイトが高く位置づけられる経済振興について対立候補者がリードしたことは、敗因といっても過言ではないでしょう。すくなくとも、稲嶺氏自身がそのように総括しているわけです。

稲嶺氏陣営や、それと足並みを揃えてきた翁長知事派が、このことを受けて、人々の日常生活に関しても突っ込んだ政策を立案し、それを選挙公約の政策パッケージに組み込む方向に舵を切るのか、それとも「目先の利益に走った馬鹿者たち」と見下す方向に舵を切るのか・・・稲嶺氏たちが、人々の日常生活を無視してきたとは私は思っていませんし、理想一辺倒の活動家マインドではないと考えています。新人左翼候補ではなく、既に2期務めてきた名護市行政の「政権担当者」だったのだから、ある程度の政権担当能力はあるわけで、おそらく前者的な方向性になるだろうと思います。稲嶺氏陣営と足並みを揃えてきた翁長知事派だって、まったくの無能無策ではないと信じています。

であるからこそ、今回を教訓に、「20年、50年先の安全安心」と「目の前の経済」とを密接に結びつけた政策パッケージの立案に期待したいと考えています。県知事選は正念場。そこまでに稲嶺氏陣営と足並みを揃えてきた翁長知事派が、どれほどまでに政策パッケージを洗練させられるかが問われています。

私自身も、当ブログで以前から展開してきているとおり、人民大衆の自主化・生産の自主管理化という気の遠くなるような果てしないビジョンを提唱しています。これらは、「20年、50年先」どころの話ではなく、また、社会総体の大変革が必要になる事業でもあります。それゆえ私は、遠大なる「革命精神」を提唱しつつも、革命的ロマンに浸り過ぎないように「生活主義」を掲げ、また、急進主義に走らないように「漸進主義」を掲げているところです。

生活主義や漸進主義が、自らの革命的力量の力不足の責任回避になってはならないことは当然のことです。しばしば、「唯物」論的な立場をとると自称する人々は、自分たちの力不足を「客観的条件の悪さ」のせいだったり、「黎明期」だの「ミニ組織」だのと言い訳して責任回避する嫌いがあります。ある程度は、そういう事情も汲む必要はあるものの、それを以って自動的に免責するわけにはいきません。ケース・バイ・ケースで審査しなければなりません。観念論に転落してはなりませんが、醜い責任回避になってはなりません。急進主義になってはいけませんが、官僚的事なかれ主義・日和見主義になってはいけません。

このあたりのバランスのとり方については、従来型の左翼思想においては、「科学」なる基準が取り沙汰されるところです。しかし、「科学」の万能性について懐疑的である立場である私としては、この基準を「人民大衆の生活」に据えたいと考えています。最終的に到達すべき基準は、結局のところ、「人民大衆の生活の改善」だからです。

もちろん、「人民大衆の生活」は、概念として漠然としています。一口に「人民大衆」、すなわち、勤労者大衆と言えども、その利害関係は複雑に錯綜しています。素朴な階級的世界観が想定しているほど現実世界は単純ではありません。世代間の関係性も重要な要素です。しかし、それらの要素があってもなお、「人民大衆の生活」という看板を下ろすわけにはいかないのであります(この点については、別稿で更に掘り下げる予定です)。

自主権の問題としての労働問題」において、「自由化と自主化による『二段階革命』」を提唱し、最近は更に、「ソーシャルブリッジの構築」といった具合に、徐々に構想を詰めているように、私自身も、「20年、50年先」と「目の前」とを密接に結びつけたビジョンを考えてゆきたいと思っているところです。

【2月5日初版、2月7日更新】
ラベル:政治 社会
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2018年02月02日

多様性重視の時代だからこそ、押し付けがましい言説をスルーするスキルを獲得すべき

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180202-00000082-asahi-soci
>> 「結婚機運を醸成」都が動画配信 押し付け?疑問の声も
2/2(金) 21:35配信
朝日新聞デジタル

 「オリンピックとパラリンピックを一緒に観(み)ませんか?」。東京都は2日、こんなセリフで物語が始まる「結婚に向けた気運(きうん)醸成のための動画」のネット配信を始めた。都民は未婚率が高く、結婚を増やすのが狙いというが、「行政が結婚を押し付けるようだ」と疑問の声もある。


(中略)

 国の調査(15年)では、18〜34歳の未婚男女の約9割が「いずれ結婚するつもり」と回答した一方、都民の生涯未婚率(同)は女性が19・20%で全国1位、男性は26・06%で同3位。2日の記者会見で動画を紹介した小池氏は「結婚は個人の自由、人生観に基づいて決めること」としつつ、結婚を望みながら未婚の人を念頭に「そういう人の背中を押して応援することも必要」と説明した。「人口は国の基本中の基本」とも述べた。

 「恋愛しない若者たち」の著書があるマーケティング会社社長の牛窪恵さんは動画について、「多様な生き方を選べる時代に、多くの独身男女が『なぜ東京都に言われないといけない?』と疑問を抱くだろう。行政が一定の型にはめようとしているようだ」と指摘。「非正規雇用が増え、経済的な事情から恋愛に意欲が持てない人も多い中、理想型の見せつけでは共感を得られない。受け手の気持ちが分かっていない」と話す。(石井潤一郎)

最終更新:2/2(金) 21:41
<<
そう、朝日新聞編集部が述べているとおり、時代は「多様性重視」なのです。だからこそ、各人はチュチェ(主体)を確立し、押し付けがましい言説をスルーするスキルを獲得すべきなのです。いちいちこんなことに反発したり、気分を害しているようでは、本当の意味での「多様性重視」の時代とは言えません。大胆なる胆力を持って、誰に何と言われようとも自分自身が歩む道に対して、自分自身を信じるからこその確信を持つべきなのです。これこそが、革命歌謡≪신심드높이 가리라≫などで歌われているチュチェの確立です。

「多様性の重視」と「チュチェの確立」は表裏一体的にあるべきです。チュチェを確立しない状態で「多様性」を重視しようものなら、結局のところ、お互いに腫れ物を触るようなヨソヨソしい関係性に陥ることでしょう。

その点、こんな記事を書き立てている朝日新聞編集部は、まだまだ多様性重視の時代に乗り切れていないと言わざるを得ないところです。むしろ、こういうお節介も甚だしい行政的キャンペーンをスルーするべく、多様な生き方のモデルを創造せんとする若人たちを鼓舞するような論陣を張るべきでしょう。

しかしまあ、少子化になれば文句を言われ、結婚サポートに乗り出せば「行政が一定の型にはめようとしているようだ」とは・・・何をやっても文句を言われる。辛い話です。
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2018年02月01日

平和の問題も福祉・労働の問題も詰めが甘い日本共産党

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-01-31/2018013101_04_1.html
>> 2018年1月31日(水)
非人道的惨禍が前提 「核抑止力論」を批判
衆院予算委 藤野氏、政府を追及

 日本共産党の藤野保史議員は30日の衆院予算委員会で、北朝鮮の脅威と「核抑止力論」を理由に核兵器禁止条約に背を向ける日本政府の態度をただし、安倍晋三首相に正面から条約参加を強く求めました。


(中略)

 藤野氏は、「核抑止論」について、「広島・長崎のような非人道的惨禍を引き起こしても許されるという考え方だ。唯一の戦争被爆国の政府が続けていいのかが問われている」と指摘。「核兵器を違法化し、『悪の烙印(らくいん)』を押すことが核兵器開発の放棄を迫る国際的な大きな力になる。日本政府は条約に参加してこそ、北朝鮮にも核兵器を捨てなさいと強い立場で迫ることができる。北朝鮮問題の解決には、核兵器禁止条約が最も抜本的かつ現実的な道だ」と指摘しました。 <<
核抑止論は、広島・長崎のような非人道的惨禍を回避しようとする合理的思考に対する期待があればこその外交戦術のはずですが、それはさておき、「日本政府は条約に参加してこそ、北朝鮮にも核兵器を捨てなさいと強い立場で迫ることができる」という言い分。大丈夫かな? 共和国の興味関心は徹底してアメリカであり、日本など眼中にないというのが実態でしょう。

日本共産党の理屈ではこうなのかもしれませんが、交渉事なのだから、問題は、朝鮮労働党がどういう理屈に立脚しているかです。自分が拠って立つ理屈を相手側に当てはめることは愚かなことです。国際関係でも「科学的指導」をするつもりなのでしょうか?

『しんぶん赤旗』の編集が悪いのかもしれませんが、日本共産党は平和と労働を政策的柱にしている割には、筋の通らない理解困難な言説がますます増えています。直近でも、1月30日づけ「大東建託労組員の夢物語的願望に付き合う日本共産党の著しい後退」で言及したとおり、ブラック企業の大家である大東建託について、労働運動による「体質改善」を目指す言説を好意的に取り上げるという、科学的社会主義・革命的共産主義者としては驚くべき言説を展開したところです。

当該記事でも述べましたが、一般的なレベルの企業であれば労組運動は必ずしも無意味・無価値ではないと思いますが、しかし、大東建託のケースでは無意味・無価値と言っても過言ではありません。それだけ大東建託は悪質です。大東建託のケースのような経営者・資本家が改心するはずなどなく手遅れです。

当該記事では「辞める」ことの効果を述べました。すなわち、@ミクロ的には、個別労働者が心身の無理をせず「退職」するのは、取り急ぎ安全地帯に脱出するという意味で最善的であること、そしてAマクロ的には、労働市場においてブラックの悪名が立つと求職者が減ってしまうので、企業側としては営利的判断として待遇改善に取り組むようになるわけです(もともと日本共産党はEconomics的な分析には批判的であり、かつ疎いので、これは仕方ないかなと思いますが・・・いやまあ、ダメだとは思うけど、新しい分析の視座を消化するのには時間がかかるから・・・)。

もちろん、特筆的に悪質なブラック企業といえども、現実として大東建託に勤めている人々がいる以上は、長期的には倒産・破産を目指すべきですが、短期的には現従業員の生活を擁護する必要が絶対的に存在します。それはまさしく政治の課題、経済政策の課題です。その点について私は、「社会的に好ましくない企業の淘汰」のためにこそ、スウェーデンの福祉国家モデルを参考に、ソーシャル・ブリッジの構築を急ぐべきだと述べました。かの国では、斜陽産業の淘汰を促進させつつ当該企業従業員の生活を擁護するためにソーシャル・ブリッジを構築しています。スウェーデン・モデルの神髄を「企業の適者生存のためにソーシャル・ブリッジを構築すること」に位置づけた上で、それが指し示す前例を摂取し、来るべき「日本モデル」を「ブラック企業の淘汰のためにソーシャル・ブリッジを構築すること」とすべきでしょう。しかし、日本共産党の政策パッケージからは、そういった観点を見出すことは、ほとんど不可能です。

平和の問題も福祉・労働の問題も詰めが甘い・・・というよりもともとの客観的事情の認識がズレていると言わざるを得ない、後退著しい日本共産党の姿が改めて浮き彫りになったわけです。地域の生活上の課題解決には依然として存在感があるとは思っていますが、そのレベルを超えるスケールになると一気に意味不明な「政策」が目白押しになるのが今日の日本共産党の姿です。
posted by s19171107 at 22:22| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年01月30日

大東建託労組員の夢物語的願望に付き合う日本共産党の著しい後退

【お断り:過去ログとの内容的連続性を強めるため、2月2日に主旨が変わらない程度に補足的に加筆しました。リンクも大幅に増やしています。】
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-01-30/2018013015_01_1.html
>> 2018年1月30日(火)
大東建託 元内部監査室社員の証言
架空契約・はんこ偽造
背景に「業績あげないと徹底差別」
追及 アパート商法の闇

 “契約取れないとクビ”。大手賃貸不動産「大東建託」の過酷なノルマ主義を背景にした労働者トラブルの記事(本紙2017年11月27日付既報)が反響を呼んでいます。同社は「一括借り上げで長期の家賃保証」などを売り文句に、賃貸アパート建築を勧誘するサブリース業界の最大手です。記事を読んだ本社内部監査室の元社員が本紙に証言しました。

 「もはや成果主義ですらない。労働者が会社に残ることを考えない『労働者使い捨て』経営です」


(中略)

常に罵声飛ぶ

 処分事案には「架空契約と文書偽造も多くあった」といいます。

 「ある支店で顧客と取り交わす文書の偽造が分かり、全支店で調べたら出るわ、出るわ…。少なくとも数十件はあった。顧客のはんこをカラーコピーなどで偽造していた。解雇者も出しました」

 背景に契約を取れない「無実績者」への「徹底した差別」があったといいます。

 ―「私は無実績」と書いたタスキをかけて支店前で掃除をさせる。

 ―ノルマ未達成を理由とする懲罰的な無実績者研修。

 ―支店内では日常的に罵声怒声が飛び交う。

 ある支店では営業担当社員をスタンガンで脅す「スタンガン支店長」までいたといいます。

 「10%ぐらい」という高い解約率も当時の特徴だったといいます。

 「もとの契約が荒っぽい。ノルマに追われた結果、法律上建てられない土地でも契約する」


(中略)

体質の改善を

 一方、同社でつづく高い離職率やパワハラなどの数々の問題―。

 「私はコンプライアンス(法令)遵守を掲げ、顧客対応、職場環境の改善に努力してきたつもりです。『赤旗』で報道されたようなことがいまだに発生しているのは非常に残念。結局、ザルから水がこぼれ落ちるようなもの」と声を落とします。

 昨年、創業以来初の労働組合が結成されたことを歓迎します。

 「労組づくりの動きは何度かあったが、なかなかうまくいかなかった。根本体質を変えるには労組のような組織が必要です。労組を敵視するのではなく、社員とともに会社体質の改善にとりくみ、社会的な信用を得る企業になってほしい」


(以下略) <<
事実であるかどうかは別として(←免罪符)、大東建託については、今更どんな証言が出て来ようとも驚くに値しない「ブラック企業の大家」です。いや、赤旗も言及していますが、架空契約や文書偽造に至っては、もはや「ブラック企業」の枠を超える悪質さと言うほかありません(かのワタミでさえ、自社社員に対してはブラックであったものの、顧客に対しては一定水準の価値を供給していたものです)。

しかし、もっとも驚愕すべきは、そんな大東建託において労働組合が結成されたことを好意的に評する声を報じている『しんぶん赤旗』編集部です。社員を使い捨てにするだけでなく、顧客をも食い物にするような極端な利益至上主義者、ブルジョア利己主義者に対して労働運動を展開し、会社の「根本体質」を変えようとすること、換言すれば、交渉を通じて極端な利益至上主義者、ブルジョア利己主義者の「改心」を期待することなど、まったく甘っちょろいブルジョア的「博愛」主義精神の産物と言う他ありません。驚くべき「共産主義」者です。単なる冗談か組合商法の一環でないと言うのであれば、正気を疑わざるを得ないものです。

こんな会社の企業体質が組合運動で変わると本気で思っているのでしょうか? 私は、現経営陣と、この経営陣の「お引き立て」と「適者生存」によって幹部クラスに君臨している次期経営陣たちが居る限り、大東建託の組織体質に変化などあり得ないと思っています。人間はそう簡単に改心しないし、そういう経営モデルでようやく企業として市場におけるポジションを得ている以上は、現状のブラック経営からの改善はすなわち、ビジネスモデルの革命になります。そう簡単な話ではないでしょう。

以前から繰り返しているようにこの手の極端な利益至上主義者、ブルジョア利己主義者が「改心」などするはずがなく、こういった手合いは我々の経済社会から追放する必要があります。我々の社会にはВЧК(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)やНКВД СССР(ソビエト連邦内務人民委員部)のような「階級的暴力装置」は事実として存在せず、また存在する必要もなく、そもそも存在してはならないものです。その代わりに、我々の社会には、労働市場という名の「淘汰メカニズム」が存在します。また、営業の自由、結社の自由といった権利もあります。これらを組み合わせれば、ВЧКやНКВД СССРが血の雨を降らせてようやく実現した成果を達成しうる展望を見出すことができます。

これらの事実を踏まえた上で私は、極端な利益至上主義者、ブルジョア利己主義者の「改心」に期待するような労働運動の展開ではなく、@労働市場を活用することによる労使間の勢力均衡;ブラック資本家の市場淘汰、そして、A資本家・経営者の「善意」に頼るのではなく、営業の自由、結社の自由を基盤として、労働者階級が自ら企業経営を自主的に管理することを提唱してきました。

変革の第一段階としての「労働市場の活用」は、「辞める」ことを当然に含むものの、その効果はそれだけには留まりません。

チュチェ105(2016)年12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論」でも述べましたが、心身の無理をせず「辞める」というのは、取り急ぎ安全地帯に脱出するという意味で最善的です。逃げた方がよいケースも存在します。またそもそも、労働者が企業側・資本家側の支配から脱して自主的な立場を獲得するためには、特定の勤め先に対する依存を低減させなければりません。

それと同時に、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」を筆頭に以前から述べているとおり、和民やすき家のケースがそうであったように、労働市場においてブラックの悪名が立つと求職者が減ってしまうわけです。現従業員は使いつぶせばいいとしても、新しい従業員の供給か途絶えれば、ビジネスとして立ち行かなくなるので、企業側には待遇改善のインセンティブが発生するのです。待遇が改善できなければ、破産するだけです。これは、「改心」の問題とは別個の営利的判断に属する話です。どっちに転んでも労働者階級としては損はありません。

つまり、「労働市場の活用」には、@ミクロ的には個別労働者の個人的かつ取り急ぎの避難でありつつも、同時に、Aベクトルの合成の如き要領でマクロ的で長期的な効果を生むのです。

なお、「辞める」ことを労働者の立場からサポートする形での労組運動には意義があるということは、チュチェ104(2015)年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」を筆頭に以前から繰り返している通りです。

また、直近では1月9日づけ「解雇規制緩和とソーシャルブリッジ構築はセットで!――硬直した議論を止めるためにこそ90年代以降のスウェーデンに学ぼう」など、以前から繰り返しているように、社会的に存在が好ましくない企業を市場淘汰するためにこそ、スウェーデンを参考にした形での「ソーシャル・ブリッジ」の構築が必要です。ブラック企業といえども、現実としてそこに勤めている人々がいるわけです。彼らの生活を守りつつ、悪徳ブルジョア分子を淘汰するためには、ソーシャル・ブリッジの構築は必要不可欠です。「スウェーデン・モデル」の場合、斜陽産業の淘汰促進のためにソーシャル・ブリッジを構築していますが、来るべき「日本モデル」においては、ブラック企業の淘汰のためにソーシャル・ブリッジを構築すべきでしょう

変革の第二段階としてのAの自主管理志向は、マルクスの『資本論』からも読み取れることです。共産主義者としてはやはり、「御代官様・資本家様への陳情」に留まるべきではなく、自主管理を目指さなければならないのです。

その点、共産主義者の結社である日本共産党の中央機関紙『しんぶん赤旗』が、大東建託の労組員の「社員とともに会社体質の改善にとりくみ、社会的な信用を得る企業になってほしい」などという夢物語的願望を好意的に報じていることは、驚愕すべきことであると言わざるを得ないのです。革命的・共産主義的立場からここまで後退したわけです。

なお、チュチェ103(2014)10月5日「資本家の権力の源泉を踏まえた自主化闘争――自立的な自主化であるために」でも述べましたが、資本家・経営者側の所有権、分配権、指揮命令権に対して労働者階級側が一定の影響力を保持すること目指す形での労働運動には意義があるでしょう。「自主管理」とまでは行かないまでも、「管理の一端を担う」ことは第一歩的に重要なことです。その点、近く論考を展開すべく準備中ですが、一般的なレベルの企業であれば、労組運動は必ずしも無意味・無価値とは断じ得ないところです。しかし、大東建託についていえば、そんな展望すら描き得ない企業体質です。大東建託に対して願望を描くことは非現実的・夢想的です。
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2018年01月25日

自主独立国家建設の必須的要求である正規軍としての朝鮮人民軍――「2.8建軍節」の意味

http://www.kcna.co.jp/calendar/2018/01/01-23/2018-0123-005.html
>> 조선로동당 정치국 2월 8일을 조선인민군창건일로 결정

(평양 1월 23일발 조선중앙통신)조선로동당 중앙위원회 정치국은 2월 8일을 조선인민군창건일로 할데 대한 결정서를 22일 발표하였다.

결정서에 의하면 주체37(1948)년 2월 8일은 조선인민혁명군을 정규적혁명무력으로 강화발전시켜 조선인민군의 탄생을 선포한 력사적인 날이다.

위대한 수령 김일성동지께서는 해방후 강력한 정규군대의 창설을 자주독립국가건설의 필수적요구로 내세우시고 탁월한 군건설사상과 정력적인 령도로 3년도 안되는 짧은 기간에 항일의 전통을 계승한 주체형의 혁명적정규무력인 조선인민군을 창건하시였다.


(中略)

1. 위대한 수령 김일성동지께서 조선인민혁명군을 정규적혁명무력으로 강화발전시키신 주체37(1948)년 2월 8일을 조선인민군창건일로 할것이다.

이와 관련하여 위대한 수령님께서 첫 혁명적무장력을 창건하신 주체21(1932)년 4월 25일은 조선인민혁명군창건일로 할것이다.


(中略)

3. 각급 당조직들은 해마다 2월 8일을 계기로 인민군군인들과 당원들과 근로자들에게 위대한 수령 김일성동지의 정규적혁명무력건설업적을 깊이 체득시키기 위한 정치사상교양사업과 다채로운 행사들을 의의있게 조직할것이다.

(以下略) <<
40年ぶりに元に戻る建軍節。チュチェ37(1948)年2月8日からチュチェ21(1932)年4月25日に建軍節が移動したのは、キムイルソン同志の革命的正統性を示すための「遡り」と位置付けることができますが、今回の「復活」は、"정규"(正規)という語句が繰り返されている点からも、こんにちの朝鮮人民軍を正規軍として位置付けるところに重点を置きたいことが推察されます。

記事第3段落"위대한 수령 김일성동지께서는 해방후 강력한 정규군대의 창설을 자주독립국가건설의 필수적요구로 내세우시고 탁월한 군건설사상과 정력적인 령도로 3년도 안되는 짧은 기간에 항일의 전통을 계승한 주체형의 혁명적정규무력인 조선인민군을 창건하시였다."(偉大な首領 キムイルソン同志におかれては、解放後、強力な正規軍の創設を自主独立国家建設の必須的要求として掲げ、卓越した軍建設思想と精力的な領導によって、3年に満たない短期間に抗日の伝統を継承したチュチェ型の革命的正規武力である朝鮮人民軍を創建なさった。)というくだりには、正規軍が「自主独立国家建設の必須的要求」であると明示されています。

その上で、政治局決定第3項"각급 당조직들은 해마다 2월 8일을 계기로 인민군군인들과 당원들과 근로자들에게 위대한 수령 김일성동지의 정규적혁명무력건설업적을 깊이 체득시키기 위한 정치사상교양사업과 다채로운 행사들을 의의있게 조직할것이다"(各級の党組織は毎年2月8日を契機に人民軍軍人と党員、勤労者に偉大な首領 キムイルソン同志の正規的革命武力建設の業績を深く体得させるための政治思想教育事業と多彩な行事を有意義に組織する。)を読めば、このタイミングで「2月8日」を改めてしっかり祝うという決定の意図は、「自主独立国家建設の必須的要求である正規軍としての朝鮮人民軍」という位置づけを強調するところにあると考えるのが自然な見立てでしょう。

平昌五輪開幕の前日であるというのは、あまり意図は感じず、ほとんど偶然の域に属するものだと考えられます。あまりにも「イベント」が目白押しだったために忘れているかもしれませんが、「斬首作戦」だの「空母群派遣」だの「Xデーは4月25日」「9月9日空爆」「クリスマス休暇名目で米軍家族が不自然なく帰国できる年末に開戦」などと大騒ぎしていてからまだ1年たっていません。世界最強の軍事力を誇る米国と直接対峙するという強度の緊張状態にある共和国が、「あの日々」から最初に迎える2月8日、それも70周年の2月8日(共和国において「5の倍数の年」は特別な意味が付与されがちです)を契機に記念日を制定し、以って朝鮮人民軍の位置づけを「自主独立国家建設の必須的要求としての正規軍」であると強調するのは、それほど不思議なことではないでしょう。

アメリカ帝国主義との直接対峙という厳しい現実を踏まえた引き締めであると見るべきでしょう。
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2018年01月22日

「現場の奮闘」だけでシステムとしての組織全体について「妥当だった」と語ることはできない

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20180120-00000017-jnn-soci
>> 新潟のJR列車立往生、バス輸送支援をJRが断る
1/20(土) 6:56配信

 新潟県三条市で、15時間にわたり乗客が閉じ込められたJRの列車立往生から1週間、JRは、地元自治体からのバス輸送支援の申し出を断わっていたことがわかりました。

 「多大なるご迷惑・ご心配をお掛けしたことに深くおわび申し上げます」(JR東日本新潟支社 今井政人 支社長)

 19日、JR東日本新潟支社の今井政人支社長が会見して陳謝しました。三条市は県を通じて、マイクロバスによる乗客輸送をJRに提案していましたが・・・

 「(三条市の)要請をお断りした形ではないが、情報提供という認識だった」(JR東日本新潟支社 今井政人 支社長)

 道路状況からマイクロバスでの輸送は難しいと判断していました。この対応について、国土交通省は自治体に支援要請をしなかったことを問題視しています。


(以下略) <<

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180119-00000066-jij-soci
>> 代替バス申し出を放置=信越線立ち往生で―JR東
1/19(金) 12:49配信
時事通信

(中略)
 また、同市から代替バスを提供するとの打診を、検討せずそのままにしていたと明らかにした。

 同支社によると、電車が動けなくなってから約5時間半後の12日午前2時半ごろ、三条市から乗客避難のためマイクロバスを提供するとの打診が県を通じてあったが、具体的な検討に入らなかったという。

 今井支社長は「情報提供という認識だった。乗客の全員救済を前提に動いており、マイクロバスでは十分な容量がなく、全員の救済は困難と考えた」と説明した。
<<
今回の信越線立ち往生の一件については、現場社員の奮闘や、大雪という不可抗力的事情を以って「JRの対応は妥当だった」という認識が広まりつつあったところでした。

たしかに、現場社員は最善を尽くしたと言えるので、「現場の対応」については妥当だったと言えるでしょう。しかし、そのことのみ以って「JR東日本新潟支社の組織としての対応全体」を妥当だったと判断するのは早計です。このような短絡的な判断を下す人物は、物事を構造的に理解することができていないと言わざるを得ません

組織というものは、それぞれ異なる分担があり、それらが全体としてシステムを構成しています。最前線が最善を尽くしているからといって、それ以外の部署が必ずしも最善を尽くしているとは言い得ず、最前線の事情だけでシステムとしての組織全体について語ることはできないわけです。

15時間立ち往生のJR信越線、乗客から運転士に感謝のツイート 「泣きたかっただろうし、帰りたかっただろうなと思います」」という記事が出て来ていた点、このまま「鉄道マンの奮闘」ストーリーとして美談的に終わってしまいかねないところでした。最前線の現場社員の奮闘に過ぎないのに!

物事を構造的に理解することができない手合いは、こういう美談仕立てに引っかかり、組織としての問題の本質を捉え損ね、責任回避の誤魔化しに騙されるものです。乏しい手段・権限しか与えられていないものの、やはり「目立つ」現場レベルの奮闘にばかりに目を奪われ、目立ちはしないものの手段・権限については現場よりは豊富に揃っている組織幹部レベルの判断や選択に目が行かなくなるのです。

美談仕立てにの風潮に対して私は、たいへんな違和感と危機感を感じていたところでしたが、しっかりと組織分析の観点に立って、危機管理の問題として設定しなおす機運が生まれたことはよかったと思う次第です。

もちろん、詳しく検討してみれば、現場レベル以上の判断も「やっぱり妥当だった」と言えるかもしれません。しっかり振り返った結果として、そういう結論に至るのであれば、それならそれでよいのですが、ここで言いたいのは、「現場の奮闘」だけを以って、それ以外の組織部門を含めた全体について短絡的に「妥当だった」と言ってのけるその思考回路は問題だということです。
ラベル:社会
posted by s19171107 at 22:48| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年01月15日

最低賃金引上げの経済学的効果について

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180115-00019335-forbes-bus_all
>> 最低賃金の引上げは労働者の不都合に ウォルマートの例に見る真実
1/15(月) 17:00配信
Forbes JAPAN

ウォルマートは先ごろ、数十万人に上る自社の従業員に良いニュースをもたらした。米連邦政府が決める法定最低賃金を上回る金額に、最低賃金を引き上げたのだ。一方で同社は、従業員たちにとって悪いニュースも明らかにした。

ウォルマートは傘下の会員制スーパーマーケット、サムズ・クラブの一部店舗の閉鎖を決定した。これにより、何千人もの従業員たちが再び、求職活動を開始せざるを得なくなる。さらに、すでに伝えられているとおり、同社は数千台のセルフサービス方式のレジを導入し、レジ係の数を大幅に削減する計画だ。

「全労働者の利益」はあり得ない
最低賃金の引き上げは、理論的には良いことだ。より多くの収入を最も必要とする低所得の人たちに、企業がより多くの賃金を支払うのだ。だが、実際には最低賃金の引き上げの恩恵を受けるのは、必ずしもそうした低所得の人たちではない。人件費の増加は、企業が労働者にとって不利な経営方針の変更を行うきっかけになる場合もある。

つまり、労働者の利益となる賃上げの裏側には、いくつかの醜い真実があるということだ。その一つが、前出の「セルフ清算レジ」の採用に見られるような、労働者に代わる機械の導入だ。企業は増大した労働費用を、高度な作業をより安価に行うことができる機械によって相殺しようとする。

もう一つは、企業が新たな給与体系の下では利益を上げられないと判断した事業について、縮小に乗り出すことだ。サムズ・クラブの店舗閉鎖がその明らかな例だ。
(以下略) <<
至極当然で何の不思議もない展開です。しかしながら、「最低賃金の引き上げは、理論的には良いことだ。より多くの収入を最も必要とする低所得の人たちに、企業がより多くの賃金を支払うのだ。」というくだりについては、指摘しておかなければなりません。労働屋を中心として最低賃金制度に「幻想」を抱いている手合いは少なくないものですが、必ずしも彼らの願望を実現させる方法論ではないのです。

経済学的に考えたとき、最低賃金は「価格規制」です。最低賃金が労働市場における均衡水準を上回っているとき、労働の供給量は労働の需要量を上回るので、失業が発生します。その結果、既に就業している労働者は最低賃金制度によって所得が増加するものの、未熟練労働者のうちの幾らかは失業の憂き目にあう(雇用機会が失われる)わけです。既に失業状態にある人物に至っては、ますます働き口を探すのが困難になることでしょう。最低賃金制度を以って、低所得者層の救済を目指す手合いは少なくないものですが、既に失業状態にあるような低所得者――低所得者層の中でも、とりわけ困窮している可能性が大きい人物です――の救済においては、最低賃金制度は役に立たないのです。

こんなことは、大学1回生が「経済学入門」といった類の授業で学ぶこと。Mankiw(2002)Principles of economicsによると、真っ先に切られやすい未熟練労働者としての10代労働者の雇用は、賃金の10%上昇に対して1〜3%減少するとのこと(邦訳第2版p168より)です。狙いに対して逆効果と言わざるを得ません。

低賃金労働者は必ずしも努力を以って貧困から脱出しようとしている人物ではありません。それゆえ、低所得者救済にはもっとピンポイントで効果的な代替案があるはずだという指摘もあります。それどころか、最低賃金の上昇は、より多くの人々を労働市場への参入させるインセンティブを付与するので、小遣い稼ぎ目的の人物の参入によって競争が激化する恐れさえあるのです。

その点、「最低賃金の引き上げは、理論的には良いことだ。より多くの収入を最も必要とする低所得の人たちに、企業がより多くの賃金を支払うのだ。」とは必ずしも言い切れないわけです。

もっとも私は、Mankiwが述べているようなミクロ経済学の競争的市場の原理が現実世界ではそのまま実現しているとは思っていません(Mankiwだって、無邪気にそう思っているとは言えない書きっぷりですけどね――図書館等で参照元原文をご参照ください)。現実の労働市場を「生産手段の所有の有無」という観点から考察すれば、労働供給(労働者)側のプレイヤー数に対して労働需要(企業・資本家)側は相当に少数派である点、労働市場は需要寡占状態であると言うべきです。また、そんな寡占市場においては、労働者の価格弾力性は極めて硬直的である一方、企業・資本家のそれはかなり弾力的であるといってよいでしょう。つまり、現実の労働市場は、企業・資本家に価格支配権があると言ってよいわけです(マルクス経済学ではなくミクロ経済学の立場からこの結論を導出していることにご注目ください!)。

一円でも安く買いたたきたい企業・資本家が寡占的に価格支配権を掌握している事実に対しては、最低賃金制度の存在は一概には悪いこととは言えません。また、私個人としては、チュチェ106(2017)年7月25日づけ「全国一律最賃制度こそ、非効率企業を淘汰し、高福祉・高効率・好景気サイクルを始動させる決定打」でも述べたように、未熟練・低賃金労働者には教育が必要であり、安易に労働市場に参入すべきではないし、また、そうした労働力に依拠するような生産性の低い産業は淘汰されるべきだと思っているので、最低賃金制度の存在を否定するつもりはありません。しかし、やはり上掲引用記事は理論的に誤りであることは指摘しておかなければならないところです。

もし、低所得問題の解消を最低賃金制度を以って実現しようとしているのであれば、それは的外れなのです。経済学的に考察したとき、最低賃金制度は、@企業・資本家が寡占的に掌握している価格支配権を緩和し、既に職を得ている労働者が異常に安価に買いたたかれないようにする保安機能であると同時に、A生産性の低い人物が安易に労働市場に参入してくることを防ぎ、教育を受けることにインセンティブを与える機能を果たすと考えられるのです。
posted by s19171107 at 22:59| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年01月11日

典型的な陰謀論者・宗教詐欺師の手口と重なるテレ朝編集部

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20180110-00000034-ann-soci
>> メルカリに大量の振袖 「はれのひ」に新たな疑惑?
1/10(水) 17:06配信

 着物のレンタル業者が成人式の当日に突然、営業を停止した問題で、謎の現象が起きていた。インターネット上のフリーマーケットで、大量の振り袖が売りに出されていたという。


(中略)

 ネット上で個人が品物を売ったり買ったりできるフリーマーケットのようなアプリ「メルカリ」。そこに、大量の振り袖や帯、草履などが出品されているという指摘が相次いだのだ。メルカリの運営会社に聞いたところ、2カ月ほど前から、禁じている法人利用の疑いがある数十の大量出品があったので、9日に非公開にしたという。
 メルカリHPから:「一部報道において、メルカリ上で『振り袖』を複数出品しているアカウントがはれのひの関係者ではないかという憶測がなされておりますが、現時点でそのような事実は確認されておりません」
 メルカリは現在、出品者に連絡を取ろうとしていて、商品の入手先を確認するとしている。また、楽天のフリーマーケットアプリ「フリル」を調べたところ、業者の大量出品ではないかと疑わしいものがあったので、非公開に。だが、すでに数件が取引されていたという。

最終更新:1/10(水) 17:06
テレビ朝日系(ANN)
<<
私は、自分自身も身内も本件被害者ではないので、「はれのひ」の一件は完全に他人事ながらも、激しい義憤を感じているところです。自分で言うのもアレですが、「感情豊か」な私。まったくの他人事ながら、許しがたいことだと思っています。しかしながら、この記事は流石に「典型的陰謀論」のレベルと言わざるを得ないシロモノです。

テレ朝編集部には、「偶然」という観念はないのでしょうか? メルカリ上における振り袖を複数出品と「はれのひ」の反人民的所業との間に、どういった必然性・因果関係があるとみているのでしょうか? そういった確たる証拠も提示せずに、近い時期に振袖の大量出品があった「だけ」で、「新たな疑惑?」とは、「『保守速報』じゃあるまいし・・・」と言わざるを得ないところです。非科学的です。

陰謀論者の典型的口上として、「単なる偶然を、仕組まれたモノと位置付ける」が挙げられるところです。宗教の教義も多用する手口である点、詐欺師の典型手口といってよいでしょう。

その点、本件記事の構造は、記事を読む限りにおいては、メルカリ上における振り袖を複数出品と「はれのひ」の反人民的所業との間における必然性・因果関係は自明ではありません。にも関わらず、「新たな疑惑?」などと報じているテレ朝編集部の編集姿勢は、典型的な陰謀論者・宗教詐欺師と重なると言わざるを得ません。
ラベル:メディア 社会
posted by s19171107 at 00:36| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年01月09日

解雇規制緩和とソーシャルブリッジ構築はセットで!――硬直した議論を止めるためにこそ90年代以降のスウェーデンに学ぼう

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180108-00007234-bengocom-soci
>> なぜ日本で「解雇規制の緩和」が進まない? 倉重弁護士「硬直した議論はもうやめよう」
1/8(月) 9:22配信

旭化成の小堀秀毅社長が朝日新聞のインタビュー(2017年12月7日掲載)で、「30代後半から40代前半の層が薄くなっている」と話したことについて、ネット上で「就職氷河期世代に何をしたのか覚えてないのか」「採用しなかったのは企業側だろ!」などと話題になった。

(中略)
日本の雇用形態をめぐっては、終身雇用の慣行があり、それを法的に裏付けるものとして、高度経済成長期に判例によって形成された厳しい解雇規制がある。不況時代に正社員を解雇できない状態で人員を削減せざるをえないなら、新卒の採用抑制になるのも仕方がない面がある。

雇用をめぐる法規制あり方についてどう考えればいいのか。自身も就職氷河期世代で、解雇規制の緩和を訴えている倉重公太朗弁護士に聞いた。(編集部・新志有裕)

●新卒採用の抑制がてっとり早かった

(中略)
そうなると、新卒採用を抑えるのが手っ取り早かったわけです。減らしやすいところから減らして、その結果、新しい時代についていける人材がいなくなり、日本企業の競争力をそいでしまうことになっているのが現状です。リーマンショックの時も同じことが起こったでしょう。もっと雇用が流動化していれば、新卒をたくさん採用することもできたはずです。

−−これから中途採用をすればいいのではないか

中間管理職になれそうな人材がいるのであれば、中途で採用すればいいはずです。しかし、日本の企業の転職率は40歳を過ぎると落ちてしまうので、なかなか採用できないのです。それは旭化成の社長が「なかなか人が集まりません」と発言している通りです。

社会全体で5年先、10年先が見通せない中で、一つの企業で新卒一括採用、そしてその後の終身雇用ということにこだわるべきではなかったはずです。働く側からしても、新卒で入る会社は、ただ最初に勤めるだけの会社です。色々と経験してから分かることもあるはずです。

今の労働法は、1つの会社で働く終身雇用を大前提にしていると考えていますが、時代の変化にそぐわないものになっているのではないでしょうか。

●簡単にクビにできない金銭解雇制度を導入すべき
−−法制度はどう対応すべきなのか

やはり解雇規制のあり方を変えるべきでしょう。ただ、アメリカのように、アットウィル(雇用主が自由に採用、解雇できること)の雇用はやりすぎで、日本の雇用環境にはマッチしないと思います。解雇問題を金銭で解決する欧州型を目指すべきです。

(中略)

結局、現状の制度のもとでも、解雇問題は労働審判で金銭和解するケースが多く、裁判に至るケースはごくわずかです。そうであるならば、裁判という手間をかけなくても解雇することのでき、労働者としても金銭を得ることができる仕組みにした方が、企業にとっても、労働者にとっても良いのではないでしょうか。

●0か100かの議論から脱却を
−−長年、解雇規制の緩和論が様々な立場の人から主張されてきたが、そういう方向に日本社会が向かっていないようにみえる。それはなぜなのか

完全に解雇を自由にするか、全くできなくするかという、0か100かの議論になって、硬直しすぎているように見えます。しかし、物事の本質はそう簡単に0か100かで割り切れるものではないでしょう。アメリカ型がいいと言っているわけではないんです。解雇規制を緩めて、どう社会全体で労働者を保護するのか、という議論をすべきなのです。

0か100かという意味では、新卒採用だって同じことです。雇用が流動化したからといって、新卒採用を全部やめるべきではないでしょう。人材教育などの面で、新卒採用にもいいところがあります。ただ、「新卒採用しかしない」と就職活動時の景気動向により人生が左右されすぎてしまうのがおかしいと就職氷河期世代としては思います。

(中略)
労働法の議論は、正社員の保護というミクロな話ばかりで、もっと広い意味で、日本全体で見た時の経済的・社会的合理性は何か?という点を議論すべきです。ある問題社員を守るがゆえに、新卒採用が1名減ったり、契約社員や派遣社員、業務委託者の切り捨てが起きたりするわけです。正社員だけを守っていても、必ずどこかにしわ寄せがいきます。また、守られる側が悪者だということになって、社会の分断のような不幸な事態が生まれることもあるでしょう。

では全員を正社員にできるかというと、企業の「財布」は限られていて、人件費の総額は決まっています。結局のところは原資をどう分配するのかという議論で、全員正社員にして一生給与保証できるのならいいですが、今のままで全員正社員にすると、給与が支払えなくなり、会社自体が立ちゆかなくなれば本末転倒です。

「解雇規制緩和ダメ・ゼッタイ」ではなく、これからの時代に相応しい合理的な雇用システム、労働者保護のあり方はなんなのか、法律だけでなく、経済も含めて、日本の雇用社会の未来を考えたうえで、新しい労働法をデザインする。そういった流れに向かっていって欲しいと思います。

(以下略) <<
重要な提起が凝縮された記事です。とりわけ、0か100かの議論から脱却を」というご指摘には強く賛同するものです。であるからこそ、倉重先生には、スウェーデンにおける社会政策と連動した雇用政策を踏まえていただきたかった!

1990年以降のスウェーデン型の福祉国家モデルの研究をライフワークとしてきた私は、当ブログにおいて、同国における社会政策と連動した雇用政策について以下の通り、触れてきたところです。
チュチェ106(2017)年8月1日づけ「「生贄」を捧げる段階に突入した「タクシー同業者ムラ ジリ貧物語」の第2章
ならびに、
チュチェ102(2013)年2月18日づけ「いやいや全然違うから共産党さんw
チュチェ102(2013)年8月18日づけ「「小泉改革」を克服した新しい改革を
チュチェ106(2017)年7月25日づけ「全国一律最賃制度こそ、非効率企業を淘汰し、高福祉・高効率・好景気サイクルを始動させる決定打
チュチェ106(2017)年11月19日づけ「男女平等は人権問題であると同時に経済成長のツール――福祉国家革新の先駆者としてブレないスウェーデンの現実を正しく報じる意味

これらの記事で私は、幾度となく、スウェーデンにおける労働政策の基本を「人は守るが、雇用は守らない」と表現した同国元財務相のペール・ヌーデル(Pär Nuder)氏の発言を引用してきました。すなわち、解雇規制の緩和とソーシャルブリッジの構築は一体的に行わなければならないのです
>> 既に申し上げたように、ここでの考え方は、人を守るということです。雇用を守るのではありません。フランスやドイツにあるような法律は、私たちにはありません。そういった法律は、産業が消滅してしまいますと、かえってコストを高めてしまいます。一方、私たちは、その産業を生き残らせるためにお金を提供するのではなく、個人が自分の身を守るために使えるお金を提供するという考え方です。競争が激しくなることによって自分の働いている会社が例え倒産したとしても、自分の人生は揺るがないのだという自信を人々に持たせなければなりません。

つまり、ソーシャルブリッジは、古い、競争力をなくした仕事から、新しい競争力のある仕事に人々を移らせるためのインセンティブにならなければならないわけです。スウェーデン人が変化を好んでいるのかといえば、それは全くのうそになります。スウェーデン人は、変化を好んではいません。しかし、ほかの国よりも変化を受け入れる大きな土壌が多分あるでしょう。
<<
最優先すべきなのは生身の人間の生活を守ること、人々の暮らしを守るには古い競争力をなくした仕事から新しい競争力のある仕事に人々を移らせる必要があること、ソーシャルブリッジの存在は、「自分の人生は揺るがないのだという自信」を人々に与えることによって、人々が転職しやすい環境をつくるというわけなのです

スウェーデンがこうした境地に至った経緯は、当ブログでも何度も触れているように、同国が1990年前後に深刻な経済危機を経験したところにあります。かつてはスウェーデンも産業保護に熱心だった時代が長く続きましたが、懲り懲りするような痛い目にあって以来、大きく舵を切ったのです。とりわけ、福祉国家というアイデンティティを守るためにこそ、経済再建を優先させなければならないという正しい認識の下に、痛みを伴う経済改革を推進し、最終的に好循環を実現させたのです!

解雇規制緩和に対する一般的な日本人の不安は、やはり、規制緩和による生活不安でありましょう。そして、この点につけ込んで、左翼活動家連中が暗躍しているところです。スウェーデンが既に実現させているように、解雇規制緩和議論にはソーシャルブリッジの構築を抱き合わせるべきです。そうすれば、双方による好循環が生まれることでしょう。

このことについては、最近は、かの大前研一氏も提唱しておられます。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171208-00000017-pseven-bus_all&p=1
>> 企業が不要な人員を解雇できるスウェーデン式ルール
2017/12/8(金) 16:00配信

 企業が賃上げをしない一方、建設、飲食、運送、医療、介護などの業界では人手不足が深刻だ。逆に、人が余っている業界のひとつ、銀行では、メガバンクが次々と人員と業務量の削減を発表した。経営コンサルタントの大前研一氏が、名目賃金が20年にわたって下がり続けている日本の雇用環境を打ち破るために、雇用ルールの変更を提案する。

(中略)
 この問題の解決策は、企業が不要な人員を解雇できる制度を整えることだ。スウェーデンでは、修正社会主義の下で企業が人を解雇できなくて社会が硬直化したため、解雇できるようにルールを変えた。ドイツもシュレーダー首相(当時)が「アジェンダ2010」で同様の改革を断行した。

 企業が簡単にクビを切れるようにするひどい制度だと批判する向きがあるかもしれないが、それは違う。その一方で、失業手当を手厚くしたり、解雇された人たちが21世紀に飯が食えるような新しい技術やスキルを身につけられる職業訓練システムをしっかり整えたりしたのである。

 要するに今の日本の問題は、人手不足なのに低賃金の一方で、業界によっては人余りなのに給料が高止まりして、トータルの生産性が下がっていることなのだ。ここにメスを入れ、再雇用のための職業訓練システムを充実しない限り、日本人の給料は未来永劫、上がらないだろう。

※週刊ポスト2017年12月15日号
<<
失礼承知で申し上げれば、大前氏を崇拝している人たちが、おしなべて、決して専門家ではない「忙しいビジネス・パーソン」たちであり、大前氏も当然、そういう人たちをターゲットとしている関係上、大前氏が言及する範囲の内容は、わりと「通俗的」というか、なんとなーく「浅い」感じが否めないところです。しかし、そんな大前氏の「忙しいビジネス・パーソン」たちをターゲットにした記事でさえ、スウェーデンの解雇規制がソーシャルブリッジとセットになっていることが言及される時代になってきているのです。

スウェーデンで既に成功例が報告されている、緩い解雇規制とソーシャルブリッジの「政策パッケージ」が徐々に日本国内でも広まりつつある昨今。元来、労働法の議論はすなわち、福祉国家像の議論であります。そうであればこそ、時代錯誤的な議論に固執・終始するのではなく、現代スウェーデンの実践を踏まえた議論を展開すべきです。そのためにはまず、「ソーシャルブリッジの構築」を肯定的に位置づけるべきでしょう。

その点、繰り返しになりますが、倉重先生の問題提起は正しい! だからこそ、「ソーシャルブリッジの構築」についても言及しなければならないわけです。
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2018年01月05日

今年も「社会主義企業責任管理制」の旗の下に前進する社会主義朝鮮

새해를 축하합니다!
チュチェ107(2018)年が幕を開けました。今年は共和国創建70周年の節目の年であります。
今年も、第1号記事はキムジョンウン同志の「新年の辞」を取り上げたいと思います。

今年も、「小林よしおの研究室」様に掲載されている邦訳を活用させていただきたいと思います。以下。
http://kcyosaku.web.fc2.com/kju2018010100.html

■経済改革の目玉;社会主義企業責任管理制は変わりなく継続の見込み
日本メディアは、「核ボタン」発言やオリンピック参加表明に反応したものですが、経済改革の動向に最大の関心を寄せている私としては、次の、さりげないくだりに注目しました。
>>  内閣をはじめ経済指導機関は、今年の人民経済計画を遂行するための現実性のある作戦を立て、その実行のための活動を責任を持って頑強に推し進めなければなりません。

 国家的に社会主義企業責任管理制が工場、企業、協同団体で実効をもたらすように積極的な対策を講じるべきです。
<<
今年もまた、経済改革の基幹である「社会主義企業責任管理制」について言及がありました。ほんの一言しか触れられていないものの、余計な誇張なく取り上げられているということは、これからも変わることなく継続する方針であることを示していると言えます。大成功を喧伝するかのような表現ではない点、いわゆる「西側の制裁」は、ある程度は効いているのかもしれません。しかし、音を上げるほどではないということなのでしょう。

キムジョンウン同志による経済改革は、今年も継続される見込みというわけです。

共和国の経済改革について取り上げた当ブログ掲載の過去ログ
○チュチェ102(2013)年4月11日づけ「経済改革
○チュチェ102(2013)年10月1日づけ「ウリ式市場経済
○チュチェ102(2013)年10月7日づけ「チュチェの市場経済・ウリ式市場経済――共和国の経済改革措置に関する報道簡易まとめ
○チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会
○チュチェ105(2016)年7月2日づけ「分権改革・経済改革の旗印を更に鮮明にした画期的な最高人民会議
○チュチェ106(2017)年1月2日づけ「キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!
○チュチェ106(2017)年7月27日づけ「政策としての朝鮮民主主義人民共和国における市場経済化は着実に前進している――韓銀推計という第三者的立場の分析からも明らか
○チュチェ106(2017)年9月9日づけ「共和国における経済改革の進展――建国69年目のチャレンジの行方


■「チュチェ農法」は何処へ?
科学的農法」や「多収穫農法」という単語は出てくるものの、「チュチェ農法」という単語が出てこなかったことも気になったところです。

もっとも、ほぼ1年前のチュチェ105(2016)12月6日に発表された「チュチェの社会主義偉業遂行において農業勤労者同盟の役割を強めるために」においては、「チュチェ農法にも精通するようにしなければなりません」とか「すべての農作業をチュチェ農法の要求どおりに科学的かつ丹念におこない、農業生産計画を間違いなく遂行するようにしなければなりません」などと指導されている点、今回の「新年の辞」では、単に話の流れで「チュチェ農法」という単語が出てこなかっただけなのかもしれません。

これが3回くらい続けば、何か「地殻変動」が起きていると言えるかもしれませんが、今の段階では確たることは言えないところです。今後の農業関連演説・談話で、「チュチェ農法」という単語が出てくるか否かは、チェックポイントとすべきでしょう。

■チュチェ思想における「血」の意味について(再論)
チュチェ思想の訓詁学っぽくなってしまいますが、次のくだりに私は注目しました。
>>  政治的・思想的威力は、わが国家の第一の国力であり、社会主義強国建設の進路を切り開く偉大な推進力です。

 我々に課された闘争課題を成果裏に遂行するためには、全党を組織的、思想的にさらにかたく団結させ、革命的党風を確立して、革命と建設全般において党の戦闘力と指導的役割を絶えず高めなければなりません。

 すべての党組織は、党の思想に反するあらゆる不純な思想と二重規律を絶対に許容せず、党中央委員会を中心とする全党の一心団結を全面的に強化すべきです。

 全党的に党の権威乱用と官僚主義をはじめ、古い活動方法と作風を一掃することに力点をおき、革命的党風を確立するためのたたかいを強力に展開して、党と人民大衆の血縁的つながりを磐石のごとく打ちかためるべきです。
<<
党と人民大衆の血縁的」――党は組織であり自然人ではないのだから、「血縁」も何もないという点で、西側的感覚では意味不明な語句でしょう。まして、思想の文脈で唐突に「血統的つながり」というのは、理解に苦しむことでしょう。

しかし、チュチェ106(2017)年2月24日づけ「「白頭の血統(ペクドゥの血統)」における「血」は生物学的な親子関係のことではない」でも論じたように、チュチェ思想における「血」とは、生物学的な意味での意味ではないのです。

上掲記事でも引用した、韓東成(ハンドンソン)先生の著書『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』の99ページより引用します。
>> 血縁の共通性は、民族形成の基礎です。
 ここでの血縁の共通性とは、人種のような生物学的なものではなく、社会歴史的に形成された血縁的関係を意味します。
 血縁的関係は、人々に身体的および心理的な共通感を抱かせ、民族という堅固な集団とに結合させるうえで重要な作用をします
<<

日本メディアはしばしば、「白頭(ペクドゥ)血統」という表現を「三代世襲の正当化」と評していますが、チュチェ思想における「血」というのは、決してそういう意味ではないというのが、このことからも改めて分かるのではないでしょうか。

もし、生物学的な意味での「親子関係の血統」が権力の正当化の源泉であるとすれば、前掲記事でも述べましたが、そのことをもっと直接的であからさまで大袈裟でわざとらしい、傍から見れば逆効果なんじゃないかというくらいの「マンセー!」な表現で宣伝しているはずです。しかし、実態はそうではない。やはり、共和国における「血・血統」は、生物学的な意味でのそれではないと見るべきなのです。

■전진하는 사회주의
演説外の要素になりますが、西側の共和国ウォッチャーたちは、キムジョンウン同志の服装について注目しています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180102-00000030-jij_afp-int
>> 人民服ではなくスマートなスーツ…金正恩氏の服装一新に識者ら注目
1/2(火) 22:17配信
AFP=時事

【AFP=時事】北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン、Kim Jong-Un)朝鮮労働党委員長が1日の新年の辞の発表に際し、スマートなグレーのスーツで臨んだことについて、北朝鮮問題の専門家らは、2018年における外交の一新と関連しているのではないかと分析している。


(中略)

 態度の軟化に加え、おなじみの人民服とは明らかに異なる、驚くほど粋な西洋風のスーツとそれに合わせたグレーのネクタイという装いを目にしたアナリストらは、この予想外のスタイル変更が示唆する内容の読み解きを試みている。

 韓国のソウルにある北韓大学院大学(University of North Korean Studies)の梁茂進(ヤン・ムジン、Yang Moo-Jin)教授はAFPの取材に対し、「金正恩氏のシルバーの西洋式スーツとべっ甲製の眼鏡姿、さらに祖父と父のバッジを着用していないという事実は、自信と安定を表している。金氏が状況を制御していることを示唆する」と述べた。

 米紙ニューヨーク・タイムズ(New York Times)は、金委員長がイタリア高級ブランドの「『アルマーニ(Armani)』を着た銀行員」のように見えたとする釜山大学(Pusan National University)のロバート・ケリー(Robert Kelly)教授の話として、「金氏は北朝鮮を、よりモダンで世間通な国に見せようとしているという臆測が多々出ている」という意見を引用した。

 また韓国政府が資金提供している韓国統一研究院(KINU)は、北朝鮮は「イメージづくりのためなら何でもする」という姿勢の表れではないかと指摘。「以前の黒っぽい人民服から、よりソフトな色合いのグレーの西洋式スーツへの変化は、演説でも強調されていた平和のイメージを打ち出し、核保有国という地位の確立を受けて落ち着いた精神状態を反映させることを狙ったものと考えられる」という見方を示した
。【翻訳編集】 AFPBB News

最終更新:1/3(水) 14:58
<<
共和国のことだから、服装一つにもメッセージを込めているであろうことは想像に難くありません。しかし、残念ながら私には、その意図が図りかねるところです・・・

引用記事中、「金正恩氏のシルバーの西洋式スーツとべっ甲製の眼鏡姿、さらに祖父と父のバッジを着用していないという事実は、自信と安定を表している。金氏が状況を制御していることを示唆する」という表現がありますが、記憶と記録をたどる限り、晩年のキムイルソン同志も、銀色系のスートをお召しになっていました。そう考えると、まだまだ「キムイルソン同志の記憶に頼っている」と言えなくもないかもしれません。

とは言うものの、自信と安定」という見立ては私も同感です。服装のことは分かりませんが、音楽のことなら少しは分かります。

ソ連崩壊以降25年余り、共和国では折に触れて≪사회주의 지키세(社会主義を守ろう)≫が歌われてきました。


しかし、一昨年の≪전진하는 사회주의(前進する社会主義)≫が発表され、続く昨年には≪사회주의 전진가(社会主義前進歌)≫が発表されたのです。


共和国は「音楽政治」の国。音楽をプロパガンダとしてフル活用かる御国柄です。そんな国において、約25年間「守る対象」だった社会主義が、「前進する主体」に変化したわけです。このことは、キムジョンウン同志におかれては、執政に自信を持ち始めたことと捉えてよいのではないかと考えます。

■総括
共和国創建70周年を迎える今年、共和国は変わることなく並進路線すなわち、経済改革の継続が見込まれるところです
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2017年12月31日

チュチェ106(2017)年を振り返る(3)――朝鮮半島情勢をめぐる日本国内の情勢

「チュチェ106(2017)年を振り返る」の第3弾として、「朝鮮半島情勢をめぐる日本国内の情勢」について振り返りたいと思います。今年の漢字が「北」になった点からも明らかなとおり、共和国のミサイル開発・核開発を巡って日本国内が騒然とした一年でした。

■下半期以降、共和国の自衛論理が報じられるようになった
さて、共和国の1年は「新年の辞」に始まります。今年は「ICBM最終段階」発言があった関係上、核実験とミサイル実験が相次いだ一年でした。

このこと自体については、特に7月29日づけ「ICBM発射実験は安保理決議違反だが正当防衛」で述べ尽くしているところです。すなわち、@国連安保理決議は帝国主義勢力の邪なる魂胆を基盤としてできたシロモノではあるものの、それを「不当だから」というだけで破る行為は、帝国主義勢力にとって利益になるだけであり、極力避けるべきである。Aそもそも共和国のミサイル開発は米帝の急迫不正なる直接的脅威に対する正当防衛である。以上より、今回のICBM発射実験は、「安保理決議に違反するが、正当防衛的に違法性は阻却されるので、不法行為ではない」という認識です。正当防衛的な自衛措置の一環というわけです。

このことは、春の時点では「北朝鮮の挑発」という認識で一色だったマスメディアにおいても、下半期以降、少しずつ触れられるようになってきました。たとえば10月8日づけ「共和国の自衛論理が報じられるようになった」では、毎日新聞が共和国の自衛論理を割と正確に報じていることを取り上げました。日本の世論は、「悪者」認定された者の主張を伝えようものなら、その伝達者までをも激しく叩く傾向があります。「悪者」の言い分には一切耳を傾けてはならず、耳を傾けることは「悪者」の肩を持つことになるとされる御国柄で、敵国の主張がそのまま報じられることは異例なことでした。

下半期以降の急転回は、上半期に展開されていた言説があまりにも短絡的だったための「揺り戻し」かもしれません。それだけ上半期に展開された言説は酷かったものです。

■上半期の短絡的・好戦的世論は、平和ボケの証拠
上半期の短絡的・好戦的世論について振り返りましょう。まさに「戦前の朝日新聞」と言わざるを得ない短絡的で好戦的な言説が氾濫し、いまにも「斬首作戦」が発動されるかのような見通しが、まことしやかに流布していたものでした。

4月13日づけ「朝鮮半島情勢を巡る、戦前の朝日新聞のような短絡的論調の「世論」」では、米軍の攻撃が国際経済に与えうるリスクに関する考察も、米軍の兵站の進捗の関する考察も抜きにして「斬首作戦」の開始時期について云々する、途方のない平和ボケっぷりを取り上げました。軍事行動計画が目指す目標がハイレベルであればあるほど考慮すべきケースは爆発的に増加するものです。「危ないかもしれないから今のうちに・・・」といったレベルでは「斬首作戦」に至るはずもありません。

4月26日づけ「大規模砲撃演習を「極めて挑発的な威嚇」と認識できない単細胞な「世論」」では、共和国側は、そんなこと一言も宣言していないにも関わらず、勝手に「4月25日に核実験がある」という「単なる憶測」が、いつの間にか「既定のスケジュール」に摩り替り、それが現実のものにならなかったや否や「ビビった」などと扱き下ろす言説を取り上げました。なぜかは分からないが連合国・連合軍の戦術・戦略を決めてかかった日本軍の戦略的敗北の過程と瓜二つの現象が、戦後72年たって再現したのです。「戦前の朝日新聞」を越えて「ミリオタ気取りの中学生」レベルの認識で国際情勢を語っている、とんでもない実態が明らかになったのです。

また、「キムジョンウンの首さえ狩れば問題は解決する」といったコメントが割りと実しやかに語られたことについて私は、コトは個人の行動によるものではなく体制的に生まれたものであり、システムとして回っているというのが根本的に分かっていないと批判しました。お手本のような観念論的現状認識。やはり、中学生レベルの認識に留まっていると言わざるを得ないものでした。

4月28日づけ「ポプラ事件(板門店事件)が「北朝鮮の完敗」に見える産経新聞の表層的分析――戦略的目標を達成したのは誰だったのか」では、共和国側が「名を捨て実を取った」チュチェ65(1976)年の板門店事件(ポプラ事件)を「北朝鮮の完敗」と位置付けた産経新聞記者の不見識を笑いました。同記事末尾で私は、「中学生程度のメンタルだと「常勝・完勝」でなければ気がすまないものですが、大人の世界ではそんなことは二の次、泥臭かろうと目的を達成することこそが重要」と述べました。

春に展開されたこれら程度の低い諸言説は、まさに現代日本の一般的水準が、甚だしい平和ボケの状態にあることを示す事実です。戦争というものをあまりにも手軽に考えていると言わざるを得ない軽薄な言説が氾濫していました。9月22日づけの記事で述べましたが、ただ漠然と「備えあれば憂いなし」というのであれば、「宇宙人の地球侵略」や「ゴジラの東京上陸」にも対策を打たなければならなくなります。その程度の言説が氾濫していたのでした。

■「丸腰平和主義の面目躍如」と言わざるを得ない平和ボケっぷりを見せた日本共産党
平和ボケつながりで、共和国が置かれている客観的条件を捨象し、ワイドショーと一緒になって「挑発」だのと繰り返していた日本共産党についても是非とも述べておかなければなりません。10月22日づけ「朝米のどちらが真に挑発的なのか」で取り上げたとおり、社民党でさえ正しく理解している国際情勢を、世間の顔色を窺っているのか、歪曲的に認識していたのが日本共産党でした。

8月の弾道ミサイル発射をうけて日本共産党中央委員会は、「米国を含めて国際社会が対話による解決を模索しているもとで、それに逆行する性格をもつ行為であることを、強調しなければならない」などという表現を含めた談話を発表しました。しかし、それを言うのであれば、「元はと言えば、朝米間の緊張状態を作り出しているのは誰なのか、朝鮮戦争休戦協定にある『外国軍の撤退』の定めを無視しているのは誰か」という点について問わねばならないところです。また、祖国解放戦争(朝鮮戦争)停戦以来の歴史的経緯を振り返った時、共和国に「武器を置く」という選択肢はあり得たのでしょうか? 日本共産党は、「累次の国連安保理決議などに違反する暴挙」といいますが、共和国は以前から一貫して、アメリカの急迫不正なる侵略策動に対する正当防衛であると述べてきました。「丸腰平和主義の面目躍如」と言わざるを得ない平和ボケっぷりです。

日本共産党が、いくら「自衛隊を活用する」といった形での現実主義路線を提唱しても、こうも認識がズレているようでは、肝心なところで自衛隊を上手く活用できないのではないかと心配になるところです。

また、記事でも述べたように、ここまで軍事的緊張が高まったタイミングで「緊張緩和のための対話」が展開されるということは、すなわち「軍事力を背景にしてこそ対話は成立する」ことの実例になるにも関わらず、日本共産党は、日本国憲法第9条の活用例であるかの如く位置付けています。ボケ過ぎではないでしょうか?

■総括
右も左も真ん中も、みんな揃って平和ボケ。朝鮮半島情勢をめぐる日本国内の情勢から明らかになったのは、とんでもなくボケボケな平和国家・日本の姿でした
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チュチェ106(2017)年を振り返る(2)――各種ルールと自主性・多様性の問題

「チュチェ106(2017)年を振り返る」の第2弾として、「各種ルールと自主性・多様性の問題」について振り返りたいと思います。

私が掲げている「自主」とは、「一人ひとりの生身の人間の多様な事情にあわせて、その人自身が自らの運命の主人になる」という視点で物事を思考・判断する立場です。「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」というチュチェ思想の根本原理に基づくものです。

ところで、人々が自主化を志向して行動し始めれば、既存の制度や仕組み、システム等との調整が必然的に発生します。自主化とはすなわち変革のプロセスであります。

■各種ルールと自主性・多様性をどう調整するのか――自主性・多様性と無政府状態は根本的に異なる
自主化は一人ひとりの人間の運命開拓の営みであると同時に、社会集団の内部で展開される営みです。個人は社会集団から隔絶された存在ではなく、社会集団の構成要素です。チュチェ思想は、個人と集団の関係を調整するにあたって「集団主義」という概念を導入します。集団主義原則を具体化するにあたって私は、「各種ルールと自主性・多様性の問題」について取り組まなければならないと考えているところです。その観点から今年、私は、5月6日づけ「「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために」を発表しました。

タイトルが問題意識を示しています。自主化を果たすことは止めることのできない正当なことでありながらも、それが「何でもあり」に転落することは避けるべきです。集団主義を具体化する必要があります。

記事中でも述べた通り、「こんなのは不当であり、合理性はない」と思えたからといって、皆がそれを行動計画の前提的枠組みとして活用しているルールを勝手に破ってはいけません。それは「多様性」という言葉では正当化されないのです。多様性は一定の枠組みがあって初めて成り立つものであり、枠組みのない「無政府状態」とは根本的に異なるものです。

■ルール破りを安易に認めることは悪人を利するだけ
もちろん、正当防衛や緊急避難が成立するようなケースでの自己判断は認められるべきものです。これは当然のことです。しかし、それはあくまでも例外的ケース。5月6日づけ記事では、正当防衛的なルール破りを根拠にそれ以外の一般的規制を議論を展開する言説を批判しました。このような言説が罷り通るならば、およそあらゆるルールは「自己判断」を理由に破ってもよいことになり、あっという間に「無政府状態」に陥ることでしょう。

すこし話のスケールが大きくなってしまいますが、7月29日づけ「ICBM発射実験は安保理決議違反だが正当防衛」において私は、朝鮮民主主義人民共和国の国連安保理決議に疑いの余地なく正面から違反する行為としてのICBM発射を擁護したいならば、「安保理決議は不当、ICBM発射は独立国家の自由だから従う必要はない」という論法を立ててはならないと述べました(ちなみに、共和国政府はこのような論法を採用してはいません)。というのも、資本とその代弁人たる帝国主義列強諸国が、「自由」の概念を最大限に悪用している現実に照らせば、各種のルールを「自己判断」で破る行為を前例として歴史に残したり、あるいは成文法的に認めることで一番喜ぶのは、ほかでもない帝国主義者たちだからです。

「こんなのは不当であり、合理性はない」というルール破りの理屈を正当防衛・緊急避難以外に認め始めることは、「本当の悪人」たちを利するだけであり、善良な市民のささやかなる自主化・多様化の実現とは全く異なる方向に話が進みかねないのです。

集団主義は文字通りの意味において、集団の秩序を重視すべき立場です。集団主義を基礎とする社会主義朝鮮ではよく「社会主義順法精神」が訴えられますが、ルールを尊重する立場を貫かなければなりません

■社会的議論こそが正攻法
「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないためには、不合理であってもルールはルールであるとしたうえで、「だからこそルールを変えるんだ!」という正攻法で立ち向かうべきであります。多様性は一定のルールがあってこそのものであり、ルールなき「多様性」は無政府状態に過ぎません。そして、「このルールはおかしい」という合理的思考は尊重すべきですが、「だから破っても良い」には必ずしも直結しません。繰り返しになりますが、「既存の価値観の打破」が「なんでもあり」に転落しないためには、「あくまでもルールを守る、正当防衛的緊急事態を除いて、非合理的なルールだとしても自己判断で勝手に破らない」という大原則をあくまで守るべきなのです。

その点、つい先日入ってきた次のニュースを、私は全面的に支持するものです。5月6日づけ記事でも「「漸進主義としての保守主義」の観点は、ルールの改変に当たって持つべき心構えです。社会的議論は漸進主義的なプロセスの踏み方です。」と述べたとおりです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171215-00000000-resemom-life
>> そのルールは必要ですか?「ブラック校則をなくそう!」プロジェクト発足
2017/12/15(金) 12:15配信
リセマム

そのルールは必要ですか?「ブラック校則をなくそう!」プロジェクト発足

 地毛を強制的に黒髪に染髪させるなどの学校現場のルールを、一般社会から見れば明らかにおかしい「ブラック校則」と定義し、その改善を目指すプロジェクトが立ち上がった。公式Webサイトでは賛同者の署名活動を行っている。
(以下略) <<
■社会的議論は決して万能ではない――漸進主義としての保守主義の導入
社会的議論は、漸進主義の立場に立てばこそ慎重に運用しなければならないものです。そうした観点から発表したのが、7月11日づけ「「新しい」ものの魔力」でした。「ポリアモリー」なる「新しい家族の形態」を取り上げた記事です。

この中で私は、「時代は変わる、常識も変わる」ということを認めたうえで、だからこそ、その変化の荒波のなかにあっても「変わってこなかった常識・観念・思考・言説」は、何世代にもわたる「長期的な実践的社会実験」に耐えてきたという点において、超時代的な強固な基盤があると言えるのではないかと述べました。そして、一世代の範囲での実証も中途半端な「短期的な社会実験」の中には、単なる「素人の思いつき」の枠を超えていないケースも含まれているのではないか、素人考えの結果、「予想していなかった分野・局面での不都合な事態」を招かないだろうかと問題提起しました。

その上で私は、「1対1のパートナー関係がデフォルトでありつづけている意味」について、珍しくマジメな内容のヤフコメを取り上げて考察しました。子どもたちに与える影響、本人たち以外の家族・親類の受け止め方――そうした諸問題に対してポリアモリー支持者・実践者たちは、キチンとカウンターを用意しているのかという疑問が上がりました。

個人的には、多角的な検討の上でポリアモリーを実践しているわけではなく、狭い視野と想定の範囲での実践に見えます。たしかに、パートナー間での合意が取れているので「信頼に対する裏切り行為としての不倫」には当てはまらず、その点に限っては問題は生じ得ないものの、「子どもたちに与える影響」という点においては、まさしく「予想していなかった分野・局面での不都合な事態」のリスクに直面しているように思えるところです。

「新しいモノ」の正しさを実証するという営みは元来、即断できない性質のものです。今後の展開を注視しなければならないと結んでいるとおりです。

彼・彼女らがそのリスクを最後まで背負うというのであれば、第三者がとやかく言うことではないのかもしれません。しかし、こういった中途半端なシロモノを「新しいスタイル」として報じることは、また別の問題です。内実や展開がはっきりしないものを肯定的に位置づけて他人に知らせるというのは、「無責任な煽り」になるからです。

内実がはっきりしないのに、「新しい」や、あるいは「多様性」といった語句をつけれてさえいれば何だか正しそうな「空気」を作ってはなりません。もともと、現代人は「新しいモノ」に惹かれる傾向がありますが、「新しいモノ」は即断的には評価できない性質があります。予想していなかった分野・局面での不都合な事態がいつ表面化するか誰にも分からないのです。「『新しいモノ』の魔力」には十分に注意しなければなりません

だからこそ私は以前から繰り返しているように、遠大な理想像を描きながら、実践においては一つ一つロールバックできる程度の小改善を繰り返す「漸進主義」を提唱しているのです。バカの浅慮が急進主義的に実践されることによって不可逆的・破滅的結果になることを防ぎつつも、「石橋を叩き壊して橋を架けなおす」ような臆病に陥ることをも防ぐわけです。

社会的議論についても、「ロールバックできる程度の小改善を繰り返す」という意味での漸進主義の立場から推進すべきなのです

■一見して「自己判断のルール破り」でも「ルールに従っている」というケース――ルールをnomosとthesisに分ける
ところで、私は以前からF.A.ハイエクの著作研究に注力してきました。ハイエクの言説は、当ブログ執筆にあたってのベースの一つです。

ハイエクは、ルールをnomos(ノモス)とthesis(テシス)に分類します。nomosは、社会の中で自生的に生成、発展してきたルール(自生的秩序)であり、thesisは権力的に制定された命令の形をとる組織規則としてのルールです。ルールは、自生的に生成、発展してきたものと、権力的に制定されたものに分けられるというわけです。

thesisは「成文法」といってしまってよいと思いますが、nomosについては実例を含めて解説を加えた方がよいでしょう。nomosの実例としてハイエクは、伝統や習慣などを挙げます。これらは誰かが意識的に創作・制定したものではなく、何世代にも渡って沢山の人々が形成してきたルールです。

たとえば、言語は、伝統や習慣などと同様の経緯で生成・発展してきたルールである点、nomosの性質を持っていると言えるでしょう。誰かが言語を発明したわけではないし、文法や語法、語句の意味は、人々の間で自然と形作られてきたルールです。たしかに、国民国家においては言語の整備を管轄する行政機関が存在しますが、まったく新しい文法や語法、語句の意味を創作・創造しているわけではなく、巷で出回っている文法や語法、語句の意味の「交通整理」をするに留まっています。

いま「交通整理」という言葉を使いましたが、交通ルールにもこうしたnomos的な側面が大いにあると考えられます。道路交通法はthesisですが、交通ルールには法律としては制定されていない慣習的なルールが多数存在しています。たとえば、パッシングやハザードランプでメッセージを伝えることは、法定の正式なルールではありませんが定着しています。また、法律に従えば、規制速度は表示通りに遵守すべきものですが、実際の交通の流れ次第では逆に規制を越えた速度を出すことが求められる場面もあるものです。さらに、地域によっては、交差点では「右折優先」というコンセンサスが成立しているケースがあります。どうやら、法律通りに左折・直進車を優先させていると右折車はいつまでたっても右折できないので、自然発生的に「右折優先」になったようです(「なったようです」ってところが、いかにも自然発生的ですね)。

「規制速度超過」や「右折優先」などというのは、法律の規定に照らせば、「自己判断のルール破り」以外の何物でもありません。しかし、ルールをnomosとthesisに分類する観点から考察すれば、「規制速度超過」や「右折優先」というコンセンサスが自生的秩序として成立し、皆がそれに従っている点において、既にこれ自体がnomos的な意味でルール化されているのです。「自己判断のルール破り」どころか、「ルールに従っている」ということになるのです。

■thesisはnomosから大きな影響を受けている
thesisがnomosから大きな影響を受けているという点を見逃してはなりません。

具体的な紛争に成文法を当てはめるにあたっては解釈が必要になりますが、解釈には常識や慣習、伝統からの影響が入り込むものです。前述の交通ルールについて述べれば、「右折優先」は警察の取り締まり対象になっているそうですが、「規制速度超過」は、敢えて超過した方が交通ルールの目的;「円滑で安全な交通の実現」に沿うケースがあります。そうしたケースにおいては、thesisを操る権力側からも黙認・容認されるのです。権力的な取り締まりを受けず、有効な社会秩序として作用するのです。

また、まったく何もないところから急に成文法が出てくるわけがなく、立法過程では常識や慣習、伝統からの影響があるものです。

■総括
このことは、ルールを考える上で極めて重要なことです。@thesisの観点からはルール違反だが、nomosの観点からはルールには違反していない行為の存在。Aまったくの自己判断と、成文法的ルールとの間に自生的秩序があること。そしてまた、Bどこまでが「まったくの自己判断」になり、どこからがnomos的な意味でのルールに従っていると言えるのか――私はハイエクの法哲学を学んでいる真っ最中ですが、伝統や慣習などの役割にスポットを当てる彼の法思想は、本当に興味深いフロンティアであると日々実感しているところです。

来年は、以下の観点から更に考察を掘り下げてゆく予定です。
@ルールを守ることを重視する立場、そして漸進主義の立場から、私は、不合理なルールを改めるためにこそ社会的議論を大いに展開すべきであるという立場に立ちます。
Aまた、ルールをnomosとthesisに分けた上で、thesisには反しているがnomosには合致している自生的秩序の存在を認める立場に立ちます。
Bどんな行為が「まったくの自己判断」に留まるものであり、どんな行為がnomos的な意味でのルールに従っていると言えるのか見極めつつ考察します。
Cそして、nomosが如何にしてthesisに影響を及ぼしているのかを考察します。
ラベル: 社会 法律
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チュチェ106(2017)年を振り返る(1)――労働者階級の自主権の問題としての労働問題について

チュチェ106(2017)年も昨年同様に、過去ログの読み返しを通して一年間の出来事を振り返りたいと思います。

振り返れば今年は、昨年に引き続き「自主権の問題」について考察を継続してきた一年でした。その第1弾として、「労働者階級の自主権の問題としての労働問題」について最初に振り返りたいと思います。

■「働き方改革」を巡って――生産問題・経済問題としての観点がまだ不足している
今年は「働き方改革」が声高に叫ばれ、労働環境・労働問題に対する社会的注目が高い一年でしたが、そこで展開されていた言説は必ずしも労働者階級の自主化に資するものばかりではありませんでした

1月25日づけ「「働き方改革」「残業規制」は相対的剰余価値搾取の時代の入口」において私は、「残業規制」の効果は、マルクス経済学で言うところの「労働時間の際限の無い延長による『絶対的剰余価値』の搾取」の時代から「労働密度の強化によって単位時間当たりの労働生産性の向上を目指す『相対的剰余価値』の搾取」の時代を切り開くことに繋がりかねないと指摘しました。

その上で私は、「ブラック企業被害対策弁護団」代表である佐々木亮弁護士の指摘を批判的に取り上げました。佐々木弁護士も自民党政府主導の「残業規制」への警戒を訴えている点では私と同意見であるものの、この新たな法規制が機能するよう、行政がしっかり動けるように、労働基準監督官の純増が必要」という方法論を掲げた点を、私は批判しました。

労働基準監督官は、絶対的剰余価値の搾取については取り締まり易いものの、相対的剰余価値の搾取を取り締まることは困難であると見るべきです。相対的剰余価値の搾取というものは、マルクスが『資本論』で言及しているように、客観的指標に基づいた知覚がし難く、それゆえ権力的にも取り締まり難いと考えられるのです。相対的剰余価値の搾取が主体となる時代においては、労基的取り締まりは一層、困難になることでしょう

「働き方改革」や「残業規制」が、かくも大きな危険性を持っているにも関わらず、そこへの警戒があまりにも弱いのが、今年展開されてきた「働き方改革」の諸言説だったのです。労働運動界隈でさえも、このことについて、しっかりと理解できているようには見えない危機的状況だったのです。今後の「働き方改革」を巡る「労働者側」の対応の行方を心配させるものです。

また、上掲記事で私は、「産業への要素投入は、経営判断だけではなく生産方法・生産技術的に規定されているケースもあります」とし、長時間労働の代名詞的存在であるソフトウェア開発業における「ブルックスの法則」に言及しました。

ブルックスの法則とは、フレデリック・ブルックスという著名なソフトウェア工学者・開発技術者が自身のソフトウェア開発経験をもとに提唱しているものですが、知識集約的労働に共通する法則的現象であると考えられます。「常識」とは全く異なり、人員の追加投入は労働時間短縮には資さないどころか、逆効果になるというのです(詳細は、2月14日づけ「増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす――「働き方改革」の逆効果」でさらに掘り下げて検討しましたので、ご参照ください)。

長時間労働問題の解消を試みるのであれば、「生産に必要な労働量は、経営判断だけではなく生産方法・生産技術によっても規定され得る」「人員を増やせば解決するわけではないケースもある」という論点をも踏まえて考えなければなりません。決して避けては通れない論点であるにも関わらず、「労働者側」を自称する労働運動界隈の人々からこうした指摘を見ることは稀です。馬鹿の一つ覚えのように「人員増」を繰り返します(おそらく彼らは、「足りないなら増やせばいい」などという子供でも思いつくような素人的発想から脱しきれていないか、あるいは、『資本論』が前提としている労働集約的な産業資本主義的工場労働の枠組みから脱しきれていないかの何れかでしょう)。

むしろ、8月15日づけ「「人に仕事をつける」日本の働き方は「ブルックスの法則」が作用し易い」でも取り上げたとおり、「日本は、仕事に人を付けるのではなく、人に仕事をつける。だからワークシェアもやりにくい。1人が仕事を抱え込む傾向がある」とインタビューに答えた福井県経営者協会専務理事(企業側)の方が、この事実を正しく認識しているわけです。

労働問題は、生産の問題であり経済の問題であるのだから、単なる人権問題・法律問題としてのみ捉えるようでは誤り・失敗は免れ得ません。相対的剰余価値の搾取の問題、ブルックスの法則を筆頭とする生産方法・生産技術の問題にも注目する必要があります。このこともまた、今後の「働き方改革」を巡る「労働者側」の対応の行方を心配させるものです。

もちろん、次項のとおり、まったく欠落しているわけではありません。少しずつ広まりつつあります。

■ブラック企業問題を単なる労使問題としてではなく経済構造の問題として捉える見方が育ち始めた
さて、当ブログでは、労働者階級の自主化について、@自由化とA民主化に段階分けした「二段階革命論」を以前から提唱してきました。昨年も年始からSMAP解散問題と結びつけて論じてきましたが、今年もその路線を継承しました。

「二段階革命論」を簡単に言うと、取引先の多角化によって特定企業への依存を下げることによって相対的な自立度を高める「自由化」を第一段階とし、経営への関与を強める(自主管理・協同経営化)「民主化」を第二段階とする路線です。

この路線を下敷きとして私は、8月17日づけ「ブラック企業問題は社会経済総体の問題であり、自主管理化の道こそが解決策」を発表しました。厚生労働省が公開した「ブラック企業リスト」にリストアップされている企業の多くが中小企業だった事実、大手企業との「主従関係は絶対」 であるという事実から出発した論考記事を取り上げました。「大手企業と下請け中小企業の主従関係。「しわ寄せブラック」はある意味、大手企業が下請け企業を支配するという垂直統合を得意としてきた日本の産業構造が生み落とした陰の部分とも言えそうです」という極めて重要な構造的事実を正確に抉った記事が、ようやく出てくるようになってきたのです。

「主従関係」は「自主」とは対極をなす構造です。ブラック企業問題の根底に「下請け構造」=企業間における主従の関係性があるとするのであれば、その解決の道筋はまさしく自主化です。その点において、大企業と中小企業との間の垂直的構造、そしてそこで発生する「しわ寄せブラック」の問題は、そのまま自主の問題になるのです。

このことは、マルクス主義の世界では当然すぎることですが、中途半端な労働屋たちにはどうしても理解できないようで、連中は労組運動を単純な「労使階級闘争物語」の枠内に押しとどめてきました。そうした状況が漸く打開される見込みが出てきたのです。

もっとも、記事中でも論じたように、「しわ寄せブラック」の問題を解決するために「下請けGメン」を活用すべきだという方法論は、まさに下請け構造があるからこそ見込みが薄いと言わざるを得ないということ、そしてまた、大企業もまた資本主義的な「競争の強制法則」に直面している点において、これを悪役として槍玉に挙げるような方法論は誤りであるとも述べました。

大企業と中小企業の垂直的構造の中においては、中小企業側が大企業側の不当な要求を逐次通報するという展開は、現実味が薄いと言わざるを得ません。よって中小企業が自主化するためには、取引先の多角化によって、特定の大企業に依存せざるを得ない弱い立ち位置から脱する他ありません。また、大企業も「競争の強制法則」に直面している点において、大企業叩きではなく社会経済総体を自主管理志向で変革するしかないのです。

依然として是正策に不備があると言わざるを得ない状況であるものの、「大企業と中小企業との間に存在する主従関係」という経構造上の事実をブラック企業問題の背景として取り上げた視点は画期的でした。

「企業問題を深堀すればするほど、その根本的解決には、自主管理化の道しかない」――こう私は記事を結びましたが、改めて強調したいと思います。

■労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利――ゼンショー社で「勤務間インターバル規制」が実験的導入
労働運動の成果について、2つの事例を取り上げたいと思います。

3月14日づけ「労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利――ゼンショー社で「勤務間インターバル規制」が実験的導入」は、自主化を目指す労働者階級にとって吉報でした。労働市場における空前の人手不足を背景に、かつて「ワンオペ」で大きな社会的非難を浴びた「すき家」のゼンショー社が、実験的導入とは言うものの先進的な「勤務間インターバル規制」を導入する運びになったのです。

労働者が勤め先に対して自主的な立場を獲得・維持するためには、常に「辞める」という選択肢を留保しておくべきだと述べてきました。「辞める」という選択肢が無い状態においては、仮に労使交渉によって権利を獲得したとしても、それは同時に勤め先への結びつきを強めることでもあります。企業側は「巻き返し」を虎視眈々と狙い、いったん「好待遇」を提示することで囲い込み、後々になってから労働需要独占者としての立場を利用して買い叩いてくるかもしれません。他方、「辞める」という選択肢がある状態で企業側から譲歩を勝ち取ったケースにおいては、企業側が「巻き返し」を図ろうものなら、労働者はすぐに逃げ出すことでしょう。合理的な商売人であれば、「金のなる木」を逃がさない程度に搾取することでしょう。

労働市場における空前の人手不足;超売り手市場という社会経済的な状況は、すなわち、労働者階級には「辞める」という選択肢がある状況です。こうした状況下において要求活動を展開することは、企業側への依存度を上げずに要求を呑ませるという点において、労働組合が本来的に行うべき要求活動です。ゼンショー社の労働組合は上手くやったと思います。

他方、記事でも強調したとおり、今回の勝利は「ワンオペ」が中止に追い込まれたときと同様に、「粘り強い組合運動」に対して企業側が譲歩したというよりも、空前の人手不足に企業側が反応・対応した結果であるということを認識し誤ってはなりません。「ワンオペ」のときも、労働組合の改善要求に企業側が折れたのではなく、ワンオペの悪評が労働市場に広まりアルバイトの応募が激減したことが決定打でした。

このことを認識し誤り、労働市場が買い手市場になるような不況下でも同じ調子で要求活動を展開すると、今度は逆に企業側に足許を見られることになるでしょう。あるいは、人余りの不況下で幾ら大声を上げようとも、そもそも「不要な労働力」である以上は企業側には応対する利益が無いので、無視されるかもしれません。

とはいえ、勘違いしてはならないものの、空前の労働市場の活況を有効活用できたゼンショー社の労働組合は、一つのモデルをデザインしたと言ってもよい大慶事でした。

■「危険な油断」と「禁欲的闘争への妙な自信」に繋がりかねない「シュレッダー係事件」の電撃和解
他方、5月24日づけ「「危険な油断」と「禁欲的闘争への妙な自信」に繋がりかねない「シュレッダー係事件」の電撃和解」で取り上げた、「アリさん引越社」と「シュレッダー係」の電撃和解は、和解したことはよかったものの、このことが「危険な油断」と「禁欲的闘争への妙な自信」に繋がりかねない点において、諸手を挙げて歓迎できない結末を迎えました。ゼンショー社の一件は大勝利といってもよかった一方で、シュレッダー係氏が和解を勝ち取ったことは、「勝った」といってよいのか難しいところです。

紛争期間中の「アリさん引越社」側担当者のヤクザ顔負けの恫喝や、紛争を通じて白日の下にさらされた真っ黒な労務管理の実態は、ブラック企業が跋扈する昨今の中でも特に酷い・・・というよりも「雑」という感想を禁じ得ないシロモノでした。「ふつう」のブラック企業であれば、もう少しスマートな方法を採るものでしょう。

おそらくあの「電撃和解」に会社側が踏み出した動機は、昨今の労働市場における著しい人手不足の影響を受けてのことだと思われます。これ以上、ブラック企業の悪評が立てば、人員募集に対する応募者が減ってしまうので、それを避けるためにお抱えの弁護士か社労士、あるいはコンサルタント業者あたりに入れ知恵されて、象徴的な本件において「ソフト路線化のフリ」を打ち出しているに過ぎないと考えられます。

あのようなヤクザそのものと言っても過言ではないような恫喝を平気で展開してくるような手合いが、裁判官の和解勧告ごときで心を入れ替えるはずもなく、今も尚、巻き返しを虎視眈々と狙っていると見た方が自然です。ブラック経営者・資本家の改心に期待しているのであれば、労組としては余りにも甘い。その意味では「営業職への復帰」は罠であると見た方が無難。「雑なブラック企業」から、「少しスマートなブラック企業」になっただけと見るべきであり、「大勝利的な和解だ」などと、はしゃいでいる場合ではないのです。

さらに言えば、和解を「勝ち取った」とはいえ、今回の紛争のさなか、原告男性は「自分にとって、仕事は達成感や社会貢献が含まれるが、今はお金を稼ぐだけの労働だ。ほとんど無の境地でシュレッダーをやってい(た)」と正直な心境を吐露していました。ここまで大きな犠牲を払う闘争は、クライアントの利益を最優先する立場にとっては方法論的に最悪の部類というべきものです。

今回の原告男性は、これでもよかったのかもしれません。しかし、これを「ブラック企業との闘争の成功例」などと位置付けようものなら、「ブラック企業を相手にするということは、こんなにも苦労しなければならず、また、それでもまだ『巻き返される』リスクが完全には摘み取りきられていない」という点において、一般人にとって労働運動は魅力的なものとは映り得ないでしょう。もっとスマートな闘い方がなければ、「ちょっと闘ってみようかな」とは思えないでしょう。

禁欲的主義的労組活動家が、今回の電撃和解をうけて妙な自信を持たないか懸念せざるを得ない一幕でした。

■労組が個別労働者から取捨選択されるようになった時代
7月19日づけ「労組が個別労働者から取捨選択されるようになった時代、あるいは単なる労働界の内ゲバ」では、高度プロフェッショナル制度の条件付き容認を巡って日本労働組合総連合会(連合)が労働者からデモられる事態について取り上げました。ぶっちゃけこの件は、より少数派たる左派系運動家たちによる「内ゲバ」の様相を呈しているものの、労組が労働者からデモられているという事実には変わりありません

「労組が『労働貴族の荘園』と化さないためには、労組もまた個別労働者のチェックをうけなければならず、役に立たない労組は淘汰されなければならない」「『労組も所詮は欲のある人間の組織』という現実的な認識に立ち、労組に対して警戒を持って、自主的・取捨選択的に対応しなければならない」――これは私の従前からの基本的主張でしたが、本件がその嚆矢たればよいことです。

■総括
「空前の人手不足」と「働き方改革の掛け声」が、今年の労働問題の動向を規定した2つの主要因でした。ゼンショー社での「勤務間インターバル規制」の実験的導入は、この2要因を上手く階級的に活用できた偉大なモデルでした。その意味で、チュチェ106(2017)年の労働運動は前進の一年だったと言えます。

ブラック企業問題を単なる労使問題としてではなく経済構造の問題として捉える見方が育ち始めた点、労組が個別労働者から取捨選択されるようになった点なども、労働運動を展開する上での認識が前進したという意味で吉報でした。

他方、「働き方改革」を巡る著名な労働屋の見解や対応を見るに、相対的剰余価値を搾取する時代が目前まで迫っているにも関わらず、それに対する理論的備えがまったく見られなかったり、「アリさん引越社」の電撃和解を「大勝利」などと無邪気にはしゃいでいる等、心配にさせられる事案もありました。

私自身は、トータルで「若干の前進」になったのが本年の労働運動の展開であったと見ています。来年も「人手不足」は続くと見込まれています。この状況をいかに有利に活用できるか、そしてまた、景気動向に関わらず自主化を目指しうるプランを立てられるかという点について、来年も継続的に考察を展開したいと考えています。

具体的には、次の4つの記事で展開した認識をベースにする予定です。

第一が1月29日づけ「「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」――フリーランス協会の行く手について」で述べた認識。システムとしての市場経済で自主化を達成するために、需給双方は、「市場における契約交渉」の原則に忠実に、お互いに相手の事情を汲みながら主体的立場にも立って相互牽制的に交渉を展開し、時に袂を分かつべきです。

他方、従来型の要求運動型の労働組合活動において活動家たちは、階級二分法的発想で行動しています。「主体的立場」を鮮明にする点においてはよいものの「需給双方の協調」に欠けた言動・プランが目立ち、それどころか、システム的な大局観に立っていないために、逆に労働者としての利益をも損ねかねない「素人考え」が見え隠れしています。とても全面的な支持をすることはできないのです。

「システムとしての市場経済」という現実から出発しなければなりません。売り手と買い手は、時に利益が相反するケースはあるものの「呉越同舟」の関係。大きく捉えて「全体として渾然一体」な関係にある「システムの構成要素同士」であることには変わりないのです。

第二が、3月14日づけ「労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利――ゼンショー社で「勤務間インターバル規制」が実験的導入」で述べた認識。「辞める」という選択肢を留保した状態での要求活動を展開することは、企業側への依存度を上げずに要求を呑ませるという点において、労働組合が本来的に行うべき要求活動であるという認識です。

また、今回の勝利は「ワンオペ」が中止に追い込まれたときと同様に、「粘り強い組合運動」に対して企業側が譲歩したというよりも、空前の人手不足に企業側が反応・対応した結果であるということを認識し誤ってはならないということ

第三が、12月26日づけ「商行為の一環としてのストライキ――自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは展開すべきだが、その労働者の利益にとっての弊害についても認識すべき」において展開した認識です。

労働者は、自身の労働力を切り売りしている点において「労働市場における商売人」なのだから、ストライキは、労働者の人間としての権利(人権)である以前に市場取引における商売人としての合理的行為であり、その経済的作用は、市場メカニズムの働きを実現させるものであると言えるという認識です。ストライキの本質は、経済学的に解析すれば、「受け手と買い手の取引交渉失敗による取引停止・操業停止」に過ぎないわけです。

他方、ストライキ等による要求実現は、企業側・資本家側との利益共同体に参画することを意味します。本来、労働者階級が自らの立場を強化するためには、企業側・資本家側への依存から脱却して自立的になるべきなのに、要求を勝ち取って行けば行くほどに、むしろ企業側・資本家側との結びつきが強化されてしまう点において、逆効果があることも肝に銘じるべきです(これが戦闘的組合の御用組合化の実態です)。労働者階級の自立・自主管理の推進のためには、ストライキに留まっていてはならないわけです。資本家からの自立と生産を自主管理を目指すべきなのです。

さらに第四として、8月17日づけ「ブラック企業問題は社会経済総体の問題であり、自主管理化の道こそが解決策」で展開した自主管理化路線を、社会主義理論と結びつけて深化させてゆく方針です。
posted by s19171107 at 22:08| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年12月26日

商行為の一環としてのストライキ――自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは展開すべきだが、その労働者の利益にとっての弊害についても認識すべき

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171225-00000001-nagasaki-l42
>> 九州商船 全便ストライキに突入 長崎ー五島列島年末年始へ混乱必至 旅客船巡るストは全国でも異例
12/25(月) 7:56配信
長崎新聞

 九州商船(長崎市、美根晴幸社長)の船員112人が加盟する全日本海員組合長崎支部(松本順一支部長)は25日、長崎、佐世保と五島列島を結ぶ全便・無期限のストライキに突入した。旅客船を巡るストは全国的に珍しい。年末年始の繁忙期に及べば、帰省客や物流に影響し混乱は必至だ。

 長崎県によると、五島列島発着便の輸送人員で九商のシェアは約6割に上る。このうち長崎―福江は独占状態だ。全便止まれば一日約2千人の足に影響し、物流も滞る。五島産業汽船(新上五島町)はストの間、長崎―福江3往復6便などを臨時運航するが、どこまでカバーできるか見通せない。

 組合は、九商がジェットフォイル整備員の採用形態を船員から陸上従業員に変えた「陸上化」に反発。撤回しない限りストに入る方針を示していた。一方、九商の美根社長は、陸上化は経費削減や船員不足への対応に必要として「撤回する考えはない」としていた。


(以下略) <<
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171225-00000081-mai-bus_all
>> <九州商船>スト解除 26日は一部除き通常運航
12/25(月) 20:19配信
毎日新聞

 長崎県の本土から五島列島への離島便を運航する九州商船(長崎市)の船員112人が加盟する全日本海員組合は25日、会社側の合理化策に反発し、始発便から無期限ストライキに突入した。全32便が欠航となったが、会社側が同日、合理化策を白紙撤回したことから、組合側はストを解除し、26日は一部を除いて通常運航される。


(以下略) <<
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171226-00000003-nagasaki-l42
>> 九州商船スト2000人に影響 26日から平常運航
12/26(火) 9:45配信
長崎新聞

 九州商船(長崎市、美根晴幸社長)の船員112人が加盟する全日本海員組合長崎支部(松本順一支部長)は25日、長崎、佐世保と五島列島を結ぶ全32便でストライキを実施し、約2千人に影響した。組合は同日午後、九商が要求事項を受け入れたためスト解除を決定。26日から定期運航が再開する。年末年始に及べば帰省客や物流の混乱は必至だったが、最悪の事態は免れた。

 組合は、九商が経費削減などを理由にジェットフォイル整備員の採用形態を船員から陸上従業員に変え、加入組合も企業内組合に決めたため「海員組合の弱体化を進めている」と反発。組合は陸上従業員の海員組合加入を認めることや誠実な団体交渉を求めて対立してきたが、最後は九商が組合の要求をのんだという。


(中略)

代替手段が限られる離島航路がストで止まるのは九州運輸局が「聞いたことがない」という異例の事態だった。

 九商と組合はそれぞれ長崎市で記者会見。九商の大内田義一専務は「これ以上、ストを長引かせて利用者に迷惑は掛けられない。組合に譲歩せざるを得なかった」、組合の松本支部長も「利用者に迷惑を掛けた。ストは最終手段だったが、早く回避できてよかった」と語った。

最終更新:12/26(火) 9:45
長崎新聞
<<
長崎新聞記事に対するNPO法人POSSE代表の今野晴貴氏のコメントも引用します。
>> ストライキはなぜ許されるのだろうか? 法律では、労働組合の正当な行為(ストを含む)に関しては、刑事的、民事的に「免責」されることになっている。つまり、本来業務妨害などの刑事罰が与えられるところ、それは免責される。また、ストによって生じた損害が何億、何百億だろうと、すべて免責されるということだ。それだけ、労働組合は強い権利を持っている。
労働組合にそれだけ特別な力が与えられている理由は、そもそも労働側が市場で不利だからである。原則として、市民社会において私人間(会社と労働者を含む)は、対等・平等が原則だ。だが、その原則を労働市場にそのまま適用すると、組織規模が大きい会社側が、圧倒的に有利になる。そこで、対等・平等の「実質」を保障するために、労働法は労働側が有利になる権利を付与している。
したがって、法的には、これは「特権」ではなく、対等・平等を最低限保障するものに過ぎないのだ。
<<
■市場経済における商行為の一環としてのストライキの効用(1)――市場メカニズムは企業側の横暴への歯止めになる
このご時勢のストライキですから、組合側も相当な苦悩の末に下した決断だったものと推察します。後述のとおり私は、自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは大いに展開すべきであると考えています。

さて、「ストライキ」だの「労働者の権利」だのと言われると、なんだか「アカい」感じがし、それゆえに反感・反発を覚える人も決して少なくないものと思われます。しかし、「色」の問題はさて置き、economics(非マルクス主義的な経済学、特にミクロ経済学)の観点から考察すれば、今野氏が正しく指摘している「実質的な労使間の対等・平等を保障するための免責」に裏打ちされたストライキの経済的作用は、市場メカニズムの働きを実現させるものと言えます。その点においてストライキという行為は、当事者や自称「支援」者の狙い・魂胆はさておき、自由な市場経済システムに親和的な行動であるとさえ言えます。

最も初歩的なミクロ経済学の理論である、競争的市場経済に関する部分均衡分析――消費者にとっての支払い上限価格を示す「需要曲線」と生産者にとっての販売下限価格を示す「供給曲線」で構成されている、中学生でも知っているアレ――においては、対等な関係性にある消費者と生産者との間での交渉妥結点(均衡点)において商品の取引価格と取引数量が決まるとされますが、生産者にとっての供給曲線は、本質において限界費用(Marginal cost)曲線です(単純化のために短期−長期の問題は捨象します)。これはすなわち、資本主義的・市場経済的な商売人(民間営利企業)は、入ってくる収入と持ち出しになる費用を比較して生産計画を立案しているわけです。商売は慈善活動・ボランティア活動ではないのだから、至極当然のことでしょう。

労働者は、自身の労働力を切り売りしている点において、「労働市場における商売人」であると言えます。労働者もまた商売人である以上は、慈善活動・ボランティア活動で働いているわけではないのだから、いくら労働契約を結んでいるからといって、いつでもどんな場合でも自身の労働力を販売するわけには行かないものです。

今野氏が正しく指摘しているように、事実として労働者は企業に対して不利な立場にあるわけです。現実の労働市場を「生産手段の所有の有無」という観点から考察すれば、労働供給(労働者)側のプレイヤー数に対して労働需要(企業・資本家)側は相当に少数派である点、労働市場は需要寡占状態であると言うべきだからです。また、市民法的秩序の枠内においては、労働者は「契約上取り決められた一定時間内は『使い放題』の労働力」である以上は、労働者は、牛馬のように使役されても「違法」ではありません。もちろん、それを看過するわけには行きません。それゆえ、ストライキを筆頭とする労働争議行為は、通常の市場取引であれば「債務不履行」として訴えられても文句は言えない「契約違反」であるものの、例外的に免責が認められているのです。労働市場における商売人には、市民法的秩序では認められ得ないような例外が認められているわけです。そのおかげで、事実として企業に対して不利な立場に立っている労働者は、辛くも企業に対して対等な関係性を実現させ、交渉力を持つのです

なお、今野氏は、労働者が企業に対して不利な立場に立っている理由を「組織規模」としていますが、正しくは「生産手段の有無」と言うべきでしょう。企業は生産手段;稼ぐための設備を持っているが、労働者はそれを所有していないので、企業で「働かさせもらわなければならない」わけです。稼ぐための設備を所有している側がより強い立場に立つのは必然的なことです。

このことは、後述する自主管理を目指す立場にとっては極めて重要な事実だと考えているところです。「組織規模」の問題に焦点を合わせる今野氏の言説は、単に組織規模を大きくするだけの「労働運動・組合運動」に留まったり、労組運動の単一組織化を志向するものになりかねない点、危惧するものです。チュチェ106(2017)年7月19日づけ「労組が個別労働者から取捨選択されるようになった時代、あるいは単なる労働界の内ゲバ」等の記事で以前から述べているように、労働組合同士も競争的関係性にあるべきだと考えているところです。

労働争議行為に対する免責規定の存在こそが、労働市場において市場メカニズムを正常かつ円滑に作用させるのです(これは歴史的な試行錯誤の上に積み重ねられてきた「労働市場における伝統」であり、漸進主義としての保守主義の立場としては、何か「合理」的な思考でリセットすべきものではないと考えているところです)。その点において、ストライキは、労働者の人間としての権利(人権)である以前に市場取引における商売人としての合理的行為なのです

労働屋が妙な「色」を付けてくれているお陰でストライキという行為は、左翼運動の一環であるかのように見えるところですが、経済学的に解析すれば、その本質はあくまでも「受け手と買い手の取引交渉失敗による取引停止・操業停止」なのです。左翼はストライキを自らの専売特許であるかのように位置づけたり、革命運動に「利用」しようと試みたりしているものの、経済的効果の面においては本質的には民間営利企業のそれと同様、商行為の一環なのです。そして、免責規定がそれを支えているのです。

労働者のストライキについてアレコレ御託を並べて非難する手合いは、民間営利企業の経営選択についても非難してくれるのでしょうか? 労働運動に対する非難度合と民間営利企業の経営選択に対する非難度合には大きな差があるように思えてなりません。今野氏が正しく指摘しているように、労働者が労働市場において不利な立場に置かれているにも関わらず、その不利な立場に立っている方が取引の一時停止を宣言すれば叩かれる一方で、労働者と比べれば強い立場にある企業が営利的理由で取引の停止を宣言したときには、それほど反発を受けていないのが現実です。しかし、両者とも慈善活動・ボランティア活動ではなく、商売でやっている点では共通なのです。

当ブログでは以前から「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げた上で、ミクロ経済学に立脚しつつ市場活用型の労働運動の展開を提唱してきました。後述のとおり、自主管理社会主義を信奉している関係上、ストライキを主たる武器とする従来型の要求実現型の労組運動は「お代官様への陳情」に留まっているという点において批判的だし、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」」で述べたとおり、要求実現型労組運動は、むしろ労働者階級の立場を弱める効果さえあると考えています。

しかし上述のとおり、ストライキの経済的効果の本質は「受け手と買い手の取引交渉失敗による操業停止」であり、これは市場メカニズムを利用している点において市場的な行動であると言えるので、一概には否定してこなかったところです。1月29日づけ「「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」――フリーランス協会の行く手について」においても、既に次のように述べています。
>> ■システムとしての市場経済で自主化を達成するためには
以前から繰り返し述べているように、市場経済はシステムです。売り手と買い手は、時に利益が相反するケースもありますが、そうした場合であっても「呉越同舟」の関係。大きく捉えて「全体として渾然一体」な関係にある「システムの構成要素同士」であることには変わりはありません。

システムとして市場経済を見たとき、自らの自主化を目指すのであれば、需給双方は協調すべきであると同時に、利益が相反するケースにおいてはシステム的としての大局観を意識しつつ、主体的立場に立って条件交渉を行うべきであります。お互いに相手の事情を汲みながら主体的立場にも立ち、相互牽制的に交渉を展開し、時に袂を分かつ――そもそも「市場における契約交渉」自体が原則的にそうしたものです。

■「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」
そうした原則の下、当ブログでは「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げて論考してきました。一連のシリーズ記事において私は、従来型の要求運動型の労働組合活動については、活動家たちの階級二分法的発想・行動について批判を展開してまいりました。「主体的立場」を鮮明にする点においてはよいのですが、「需給双方の協調」に欠けた言動・プランが目立つのです。それどころか、システム的な大局観に立っていないために、逆に労働者としての利益をも損ねかねない「素人考え」が見え隠れしています。とても全面的な支持をすることはできません。
<<

また、上掲のチュチェ104(2015)年10月8日づけ記事でも述べたように、現実問題としてそう簡単に勤め先を辞められるものではありません。その点において、短期スパンの補助的役割として団体交渉の意義は十分にあると私も認めているところです。

ストライキ路線の弊害については論考を重ねてきていたので、私のことをストライキ否定論者だと思っている読者様がいるとするならば、上述のとおり、そうではないと述べておきたいと思います。「退職」という選択肢を取り得、市場メカニズム(需給法則)が円滑に実現する長期においても、それができない短期においても、「労働市場の商売人」としての労働者が打って出るストライキには経済学的に意味があるのです。

■市場経済における商行為の一環としてのストライキの効用(2)――市場メカニズムは過剰なスト・権利運動に対する歯止めにもなる
ストライキに伴う「社会的影響」、平たく言えば「世間様への迷惑」という論点は、労働運動・労組運動において、しばしば取り沙汰されるものです。

「世間様へのご迷惑」――このことは、とりわけ運輸業を筆頭とするインフラ産業においては十分に検討しなければならないことです。私は以前から、福祉国家の祖国;スウェーデンにおける労働政策・労働運動の研究をライフワークの一つとしてきましたが、スウェーデンにおいては「労組の社会的責任」という観点が定着しています。「労働運動は権利運動ではあるものの、それを展開するにあたっては社会的な影響を考慮して実行しなければならない」「労働組合・労働運動にも社会的な責任を果たすことが期待されている」という考え方が定着しているのが福祉国家の祖国;スウェーデンです。

これに対して日本では、「企業の社会的責任」は声高に提唱される一方で、労組に対して社会的責任を要求する声は、まだまだ低調であると言わざるを得ません。国労の前例を振り返れば、社会的悪影響など顧みていないが如き運動が大々的に展開されて来、なおかつその総括が中途半端に留まっている経緯もあって「ストライキ=他人の迷惑を顧みない自分勝手な行動」というイメージが根強く残っているところです。

「労働組合の社会的責任」という文化が根付いていない日本において、国労の記憶がまだ消え去っていない日本において、労働運動の盛り上がりに懸念はないのでしょうか?

労働運動のやり過ぎが自分自身の首を絞めることに繋がるのは、それこそ国鉄の例を見れば明々白々です。国鉄は利用者不在の労使対決に明け暮れた挙句、利用客の私鉄へのシフトの流れ等に対処しきれず、労使諸共に没落してゆきました。自由主義経済では買い手側の需要が存在する限り、誰かが市場に参入してサービスを供給するものです。「お前の代わりは居る」というわけです。短期間のストライキであれば顧客が逃げるということはないでしょうが、競合他社の体制が整うくらいにまで労使紛争が長引けば、会社ごとマーケットから競争淘汰されてしまいます。利用客にとっては労使関係なく「会社」。その意味において、一企業の労使は、消費者との関係においては「呉越同舟」の関係にあるのです。

※ちなみに、公務員のスト権が制限されているのは、公務労働においては「競合他社」が存在しないという点が一つの理由になっています。

前掲引用記事によると、五島産業汽船等、九州商船以外の船会社による増便が実施されていたそうですが、このストライキが長期化しようものなら九州商船の利用客は五島産業汽船にシフトすることでしょう。そうなれば、九州商船は労使諸共に没落してゆくことでしょう(幸い、ストは1日で原則解除される見通しですが)。

そう、ここでも市場原理が作用するのです。労働者がストライキという形で労働供給を拒否することによって企業側の身勝手な労務管理に牽制球を投げつけるのと同様に、顧客は消費者としての選択の自由の行使を行使することによって顧客不在の労使紛争に牽制球を投げるのです。「労組の社会的責任」が定着していなくとも、市場メカニズムが健全に作用しており、そして労使双方が市場メカニズムの原理と自分自身の言行の経済学的意味について正しく理解していれば、「世間様への迷惑」には一定の歯止めが自動的にかかるのです。利用客や競合他社の反応を無視するがごとき労使対決は、労使諸共に競争淘汰されることに繋がるので、なによりも当事者自身のためになりません。それゆえに、市場メカニズムの健全な作用は労使対決において一定の歯止めになり、結果的に「世間様へのご迷惑」が回避されるのです。

ちなみに、国鉄における労働運動の結末と比較したとき、私鉄における労働運動は注目に値すると私は考えています。すなわち、国鉄における労働運動は利用客を直撃するような運動を展開したのに対して、私鉄における労働運動は利用客にはそれほど影響が及ばない場面での運動が展開されていたのです。利用客を敵に回さない一方で、企業当局側には打撃を与える・・・一企業の労使は消費者との関係においては「呉越同舟」の関係にあるという事実を直視し、誰を敵に回してはならないかということを十分に承知した上で戦術を練らなければならないのです。労働運動にもスマートさが必要だと思うのです。

労働運動がスマートになれない要因として、私は以前から指摘しているとおり、労働運動の担い手たちは、社会をシステムとして捉えるのではなく、階級対決的な思考回路で考えている点があると考えています。階級対決的な思考回路は、消費者との関係における一企業の労使が「呉越同舟」の関係にあるという事実を見誤らせるものです。

■本来的な自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは大いに展開すべき
利用客や競合他社の反応を注視する限りにおいてのストライキ・労使対決については、私は、市場主義の立場に立つからこそ大いに展開すべきだと考えています。左翼的な階級闘争云々などとは全く無関係に、売り手と買い手が対等な関係性で経済的取引を展開する健全な市場経済、本来的な自由経済を維持・拡大するためにこそ、ストライキ・労使対決は大いに展開すべきです。

■ストライキの逆効果
ストライキの逆効果についても語っておきたいと思います。ストライキは、市場取引における商売人としての労働者の合理的行為であるとは言っても、万能ではありません

チュチェ105(2014)年8月3日づけ「「ブラックバイトユニオン」は逆効果――やればやるほど資本家への依存を高める」やチュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」」でも述べたことですが、要求実現型労組運動は本質において利益分配要求運動です。企業側・資本家側に対する利益分配要求が認められるということはすなわち、彼らとの利益共同体に参画することを意味します。本来、労働者階級が自らの立場を強化するためには、企業側・資本家側への依存から脱却して自立的になるべきなのに、要求実現型労組運動を深化して行けば行くほどに、むしろ企業側・資本家側との結びつきが強化されてしまうのです。この点において、要求実現型労組運動は労働者階級の立場を弱める効果さえあると考えています。

チュチェ105(2016)年6月19日づけ「マクドナルドの「殿様商売」「ブラック労務」に改善を強いたのは労働組合ではなく市場メカニズムのチカラ」でも述べたとおり、ミクロ経済学における価格弾力性の議論を思い出せば、仮に免責規定に裏打ちされたストライキによって「労使対等」を実現したところで、労働供給側の価格弾力性が労働需要側以上に硬直的であれば、依然として実質的な意味において「労使対等」は実現されていないと言わざるを得ないところです(経済学的分析については、Mankiw(2002)Principle of economicsあたりを参照)。価格弾力性の大小は「代わり」の存在に規定されるものですが、このことはすなわち、ストライキを主たる武器とする要求突きつけ型の労働運動は、労働供給側の価格弾力性を下げ得ないどころか、逆に上げかねない点において逆効果であるとさえ言えるものです。ストライキは商行為の一環ではあるものの、依然として「途中の過程」なのです。ストライキは、手段の一つではあるものの、手段の一つでしかないのです

■労働者階級の自立・自主管理の推進のためには、ストライキに留まっていてはならない!
私は、市場経済を活用する形での自主管理社会主義を目指す立場なので、市場主義者であると同時に自主管理社会主義者でもあります。その点において前述のとおり、健全な市場経済・本来的な自由経済を維持・拡大するためにこそストライキ・労使対決は大いに展開すべきであると考える一方で、そこに留まってはならず、資本家からの自立と生産を自主管理を目指すべきであるとも考えています

ストライキや要求実現型労働運動は左翼運動の推進にはなり得ません。左翼運動とは、労働者階級が社会の主人になるための運動です。資本家からの自立と生産を自主管理を目指すのが左翼運動です。その点において、以前から繰り返しているように、ストライキを主たる武器とする従来型の要求実現型の労組運動は「お代官様・地主様への陳情」に留まっているといわざるを得ません資本家から自立していないし、生産を自らの管理下に置いているわけでもないのです。

ストライキは運動の第一弾であるとはいえ、これで「要求が達成された」などと言って満足してはならないと考えているところです。

■やっぱり労働弁護士は・・・
ちなみに、当ブログでも何度か批判的に取り上げてきた「ブラック企業被害対策弁護団」代表である佐々木亮弁護士が、本件について経緯を説明しています。佐々木弁護士は本件代理人として参画しているそうで、その立場から主張を展開しています。

クライアントの立場に「一方的に偏った」主張を展開することは、弁護人として当然のことだと私は考えている(旧ブログ時代に光市事件裁判を筆頭とする凶悪刑事事件の裁判について考察を展開してきたころから一貫した立場です)ので、そのことについて私はどうこう言うつもりはないのですが、それにしても佐々木弁護士の主張からは、「なんで会社側は、ここまで強硬だったんだろう?」ということが丸で見えてきません

私がストライキを肯定的に評価するのは、上述のとおり「商行為の一環」故ですが、ストライキが商行為の一環であるということはすなわち、相手側の思いを汲みつつ落としどころを用意しながらストライキを決行しなければならないということです。

労組批判はお門違い」のパラグラフにおける権利講釈、「ストライキを止める方法」のパラグラフにおける「会社が組合の要求を飲めばいいだけ」――間違いではないんですけどね。。。まあ、佐々木弁護士はあくまで労組側代理人であって調整役ではなく、本人も調整役であるとは一言も言ってませんからね。。。しかし、労働問題がかつてないほどに社会的注目を浴びている今日においては、法律のプロである佐々木弁護士におかれては、代理人としての視点とともに、調整役としての視点からも論じて欲しかったなぁと思うところです。
posted by s19171107 at 23:31| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする