2017年04月26日

「キムジョンウン委員長が導入した市場経済」という、さりげないが画期的な一文

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170423-00000005-asahi-int
>> 緊迫、軍事パレードの夜に…大宴会 北朝鮮労働党幹部ら

朝日新聞デジタル 4/23(日) 1:37配信

 北朝鮮が故金日成(キムイルソン)国家主席の生誕105周年を祝った15日、朝鮮労働党が平壌で大宴会を催していた。幹部が豪華料理に舌鼓を打ち、米朝間の高まる緊張を感じさせない雰囲気だったという。金正恩(キムジョンウン)委員長が導入した市場経済により、格差が広がっている実態の一面もうかがわせた。


(以下略) <<
さりげない一文ながらも、「金正恩(キムジョンウン)委員長が導入した市場経済」というくだりは画期的です。なかなか一般紙では触れられてこなかった事実です。

■着実に前進する市場メカニズムの導入
朝鮮における市場メカニズムの導入は、着実に前進していることですが、以前から、韓「国」紙や経済雑誌などでは指摘されていたことです。たとえば当ブログでは、下記の記事で紹介しました。
・チュチェ102(2013)年10月1日づけ「ウリ式市場経済
・チュチェ102(2013)年10月7日づけ「チュチェの市場経済・ウリ式市場経済――共和国の経済改革措置に関する報道簡易まとめ

たとえば最近も下記の記事がそのことを報じています。
http://toyokeizai.net/articles/-/162495
>> 北朝鮮、路上生活の子を減らした金正恩の力
父のやり方を変え、農業改革で食糧事情改善
董 龍昇 :韓国オリエンタルリンク代表 2017年03月30日


(中略)

配給制に依存していた北朝鮮は、1990年代を前後して配給がほぼ途切れ、国民らの食糧調達が難しくなった。食糧を求めるために一家離散となるなど家庭が崩壊し、それゆえコッチェビが急激に増加した。このような観点から、北朝鮮の食糧需給状況に何が起きているのかを見てみたい。特に金正恩政権になって5年間、北朝鮮で何が生じたのかに注目すべきだ。

(中略)

が、北朝鮮の食糧問題は、生産部門から始まった。1970年代に後継者として浮上してきた故・金正日総書記が、継母である金聖愛(キム・ソンエ)と激しく繰り広げた権力闘争を終え、1980年に第6回党大会で後継者として公式にデビューする直前に無理な政策を断行。1979年、金正日は「社会主義は完成段階に入った」と主張し、協同農場の国営農場化を推進したのであった。

それまでの北朝鮮の農民は、協同農場において協同的所有を維持してきた。協同的所有だからこそ、生産された分から分配を受け、ひと月ごとに受け取る「生活費」というものは存在しなかった。ところが金正日は、協同農場員にも安定的な生活費を支給する代わり、すべての生産物は国家から受け取る方式を取り始めた。協同農場員は工業従事者のように生活費を毎月受け取る農業勤労者となった。

飢餓を解決できず、党書記は公開処刑
こうなると、最初のほうは生活費を受け取るのでいいが、仕事をしなくても月給を受け取ることが出きることが徐々にわかり、となると、農場には出ず住居近くの畑ばかりを耕すようになった。こうして協同農場の生産性が明らかに落ち始めた。生産性が落ち、北朝鮮当局はインセンティブの提供など多様な方法を動員したものの、協同農場の生産性は日に日に下落していった。


(中略)

一方、この期間中に、北朝鮮ではチャンマダン(ヤミ市)が広がり、食糧需給の流通網が配給制から市場取引へと、完全に転換した。2000年代は市場における食糧価格の変動幅がとても大きかった。これは、市場レートの変動幅が大きかったことが1つの要因だが、何よりも市場に食糧供給が安定的に行われていなかったためだ。

こうして10年という時間が流れるうち、市場の食糧需給網は安定化し、2010年以降はチャンマダンにおける食糧価格が安定。全国的に価格変動幅の縮小する現象が見られるようになった。これには食糧卸の役割がとても重要だった。彼らは北朝鮮全域のチャンマダンに食糧を供給する大元へと成長していった。


(中略)

ところが、金正恩政権が始まった2012年から、市場が変わり始めた。金正恩が北朝鮮の一般住民に向け初めて公の場で演説した際、「二度と住民がベルトを締め上げることがないように(やせ細らないように)する」と発言。そして、前の金正日政権の十数年間の蓄積を土台に、食糧需給と関連した主な政策をいくつか推進したのである。

まず金正恩は、軍部隊に割り当てられていた農地を拡大する一方、住民を当てにするなと厳命した。軍部隊には約20万ヘクタールの農地を割り当て、軍が自主的に農業を行って食糧供給の問題を解決せよと指示したためだ。これで農民は「先軍政治」の名目の下、生産された穀物を軍部隊から強制的に持ち出されることがなくなり、農民たちは歓迎した。「愛国米」の調達負担も減った。

こんな現象も見られた。2013年に北朝鮮の市場で多く売られていた商品の1つは豚肉だった。これは愛国米として、コメの代わりに年間ブタ1頭分を半強制的に上納していたことがなくなり、豚肉が市場へ流入する現象が発生したせいだった。

次に協同農場の生産性を向上させるよう、画期的な措置をとった。農場員に月給を支給せず、生産分の7割を取り置くことにした。1979年に金正日が協同農場の国営化を行う前の状態に回帰させたことになる。このために「圃田担当制」を実施。この制度は、従来は公平性を保つとの理由から農場員が担当する土地を1年ごとに替えていたが、今後は1ヘクタール程度の圃田を一世帯に任せ、そこを継続して耕作するようにしたものだ。事実上、農家に対し、農地を分け与えたことになる。

さらに国家からは土地を貸し、種や農機具などを貸し与える代価として、生産物の3割を徴収。もちろん土地ごとに生産性が違うため、一括して、国家3対農場員7の原則を適用するのではない。全域の農業地域を対象に土地生産性を再調査し、これに基づいて分配率を決定していった。生産性が相対的に低い地域は、国家2、農場員8とするケースもあるという。

「トウモロコシごはんを食べる人はいません」
北朝鮮全域で完全に定着した状態ではないゆえ、地域ごとにその評価には差がある。たとえば、平安北道は圃田担当制が定着したことで、生産性が最も高まったという。この地域は、中国と国境を接している新義州を通じて各種農業機械を導入する一方、よい種子を熱心に求めている。

一方、相対的に食糧が豊富な黄海南道は、北朝鮮最大の穀倉地帯であるにもかかわらず、農民が生産性向上にそれほど関心を見せておらず、まだ生産性が向上していないという。肥料生産も一部で正常化され、石炭化学工業で出てくる化学肥料の生産が一部で正常化し、外部から調達する肥料の量も減ってきている。

北朝鮮全域で生産される穀物量は、年間約600万〜700万トン程度だ。早い時期に1000万トン生産という目標達成に注力している。金正恩政権が始まってから、チャンマダンで取引されるコメの価格は、1キログラム当たり0.62ドル程度と安定。国際社会の対北制裁で、北朝鮮に流入する食糧が2000年代より大きく減っているにもかかわらず、市場価格が安定化しているのは、内部からの安定供給が続いているために外部から取り寄せる量が減っていることと、比較的安定した供給ルートがあることを意味する。

生活費を調達するには、生産した食糧を市場で売らないといけなくなったため、協同農場を市場と連携させるほかなくなった。金正恩政権が市場を事実上、許容せざるをえなくなったのだ。実際に政権が始まって以降、市場拡大を抑えるための取り締まりがはっきり減っているという。

北朝鮮住民はこのように言う。「今トウモロコシご飯を食べる人がどこにいますか」と。市場に行けば穀物の種類を選んで食べることができる。「国が外部からのリスクをなくすことに注力すれば、北朝鮮住民は自主的に生活できる」とまで言うようになったのだ。
<<
■前向きに取り組まれている市場化――イデオロギーを存在基盤とする国だからこその本気度
ここで重要なのは、当初は「闇市の拡大」に過ぎなかったものの、いまやその自生的秩序を政権が許容していることです。上掲記事では「金正恩政権が市場を事実上、許容せざるをえなくなった」としていますが、私は、朝鮮中央通信の報道を見るに、慎重ながらも前向きに取り組んでいると見ています

たとえば、チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」でも触れたとおり、第7回党大会を控えた昨春から突如として登場した「集団主義的競争」という単語は、悪平等主義的な従来型社会主義との政治的決別を象徴しています。

また、本年の新年辞。1月2日づけ「キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!」でも触れたとおり、「互いに助け導き合いながら飛躍を遂げる集団主義の威力」を「新しい時代精神」と定義づけた点は、伝統的に難題だった「集団主義と競争原理の両立」について、「互いに成功を学びあい、助け合い、切磋琢磨してゆく」タイプの競争を社会主義的競争と位置づけ、「弱肉強食の生存競争」としての資本主義的競争との違いを定義したという意味において、イデオロギー的に重要でした。

東ドイツと同様に国の存在基盤がイデオロギーであり、イデオロギーが倒れれば国がなくなる朝鮮において、その根幹部分での転換は、かなり「勇気」がいる決断です。資本主義であろうと社会主義であろうと日本は日本でありつづける我々が思っている以上のことです。それだけ本気なのです。

政治行政の人事上の布陣からもそのことは推察できます。チュチェ105(2016)年7月2日づけ「分権改革・経済改革の旗印を更に鮮明にした画期的な最高人民会議」で触れた通りです。

■重要な第一歩
しかし、なかなか一般紙では触れられてきませんでした。光市事件を筆頭とする刑事事件報道と同様、勧善懲悪物語の「悪」側として一旦位置づけてしまった以上は、いまさら「軌道修正」しにくいのかもしれません。そんななかでの朝日新聞記事。これ一発で大きく変わるとは思えませんが、重要な第一歩です。
posted by s19171107 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大規模砲撃演習を「極めて挑発的な威嚇」と認識できない単細胞な「世論」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170425-00000051-reut-kr
>> 北朝鮮が軍記念日に大規模砲撃演習、米原潜は釜山入港
ロイター 4/25(火) 13:37配信


(中略)

[ソウル 25日 ロイター] - ミサイル・核開発プログラムを巡り国際的な孤立を強める北朝鮮は25日、朝鮮人民軍の創建85年の記念日を迎えるのにあわせ、大規模な砲撃演習を行った。

韓国の聯合ニュースが韓国政府筋の話として伝えたところでは、北朝鮮の軍が同国東岸の元山市近郊で大規模な実弾演習を行ったもよう。韓国国防省はこの報道を確認していない。

北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は1面の社説で、朝鮮人民軍は「米国の策略と核の脅しの歴史に終止符を打つ」用意があると表明。「人民軍には、様々な精密・小型核兵器、潜水艦発射弾道ミサイルなど、独自の最新鋭軍装備があり、攻撃力に限界はない」と指摘した。


(中略)

4月は北朝鮮で記念日が続くうえ、米韓軍が大規模な合同演習を実施していることから、金正恩政権が挑発行動に出ることが懸念されている。とりわけ朝鮮人民軍創建85年に当たる25日は、6回目の核実験を踏み切る可能性が指摘されており、トランプ米大統領は、空母カール・ビンソンも合同訓練のため朝鮮半島近海に向かわせており、日韓との連帯を示すことで北朝鮮を強くけん制している。

(以下略) <<
コメ欄。
>> ビビッて火力訓練・・だと。。(笑) <<
>> やっぱり、北朝鮮は核実験やミサイル発射はできませんでした笑 <<
>> あれ?核実験やミサイル実験は?
ビビってできないなら始めからデカい口たたくなよw
<<
■いったいいつ「4月25日に核実験を実施する」と宣言したのか?
以前、昨今の「世論」について私は「戦前の朝日新聞のような単細胞」と述べましたが、もっとピッタリの表現がありました。「ミリオタ気取りの中学生」。そういえばこんな手合い、クラスにいましたよ(中学生みたいな思考回路で国際情勢語るなよ・・・)。

いったいいつ、朝鮮政府は「4月25日に核実験を実施する」と宣言したのでしょうか? そんな宣言は一言も発しておらず、日米韓各国の関係者が推測していただけに過ぎません。記念日という点では、「5.1節」(メーデー)が近づいていますし、朝鮮は年中、なんらかの記念日があるものです。

■この大規模砲撃演習こそ「極めて挑発的な威嚇」だと思わないのか?――とんでもないお気楽な脳内補完
ビビッて火力訓練」だったのでしょうか? まあ、中学生くらいのメンタルだとそう見えるのでしょう(いたなぁ・・・懐かしい)が、いまの戦略的状況を大人の視点で確認すれば、この大規模砲撃演習こそ、「極めて挑発的な威嚇」なるものであると言える可能性もあります。すなわち、「我々は核実験を必ず実施する。仮にその時、米軍がシリアに行ったような、軍事施設に的を絞った『限定的』な攻撃をしようものなら、ソウルの街と在韓米軍基地はこうなるぞ!」と。周知のとおりソウル市や在韓米軍基地は、ミサイルではなく長距離砲で攻撃が可能です。

「4月25日核実験実施」という推測がいつの間にか既定スケジュールに脳内変換され、それが現実のものにならないと見るや、さらに脳内補完を強め、相手側の真意をまったく読み違える。自分たちの「推測」に過ぎないものが、いつの間にか「現実」のスケジュールに摩り替わっている・・・日本軍の戦略的敗北の過程――なぜかは分からないが連合国・連合軍の戦術・戦略を決めてかかり、それと異なる兆候を無視する――と瓜二つです。

■「インパール作戦の国」と「ゲリラがこしらえた国」との決定的差
仮に情勢が悪いとみて砲撃演習に切り替えたとすれば、これはキムジョンウン委員長には戦略を見極める眼があることの証左です。勝てる戦いしかしないが軍人であり戦略家。何が一番大切で何を達成しなければならないのかという優先順位が固まっていれば、情勢が悪いならば涙を呑んででも撤収するのは当然の選択です。

この点こそが、「インパール作戦の国」と「ゲリラがこしらえた国」との決定的差です。ますますハッキリしました。ゲリラは勝てる見込みのない状況では戦いません。勝てる見込みのない戦いについて「あれは戦うしかなかったのだ・・・」などと少し陶酔気味に語ったり、あるいは「絶望的な戦いで見事に散華した」などと言い換えるようなのは、朝鮮にとってはまったく関心のないことなのです。

■戦略的認識を誤り大失敗を犯しそうな「ミリオタ気取りの中学生」
「戦前の朝日新聞」どころか「ミリオタ気取りの中学生」のような調子では、戦略的認識を誤り大失敗を犯しそうです。しょうもない私情を優先させてインパール作戦を再現しかねない勢いです。しかし、きっとそうした悪手を「犠牲はつきものだ」や、甚だしくは「見事に散華した」などと言い換えるのでしょう。

■費用対効果の戦略思考
「犠牲はつきものだ」というコメントも今回の中学生みたいなコメント群のなかで何度か見かけました(自分自身が実際に犠牲者になり得るという現実はもちろん捨象しているのでしょう・・・自分の問題としてではなく評論家的に述べているに過ぎないと思われます)。このことについても少し考えておきたいと思います。

「犠牲はつきものだ」という見解自体は、評論家的立場から述べれば、その通りです。しかし、「インパール作戦の国」で易々とこういうセリフが出てくるのは戦略思考としてまずい。たとえばアメリカも「犠牲はつきものだ」と考えている国ですが、あらゆる手を尽くして犠牲を最小化しようと目指しています。「あらゆる手を尽くしてもなお、発生してしまう犠牲はやむなし」という立場であり、費用対効果を常に計算し尽くした上で戦略を考えています

しかし、最初から「そういうもんだ」と考えており、なおかつ、「散華」なる言葉で自己陶酔・自己満足に至ってしまう「インパール作戦の国」では、あらゆる手を尽くして犠牲を最小化しようとしないでしょう。しかし、目標というものは達成すればよいのではなく、最小の費用で達成させるものです。

■コトは体制の問題であり「キムジョンウンの首さえ狩れば問題は解決する」はずがない
国際関係の専門家・軍事評論家がこぞって可能性の低さを指摘している「斬首」についても述べておきたいと思います。「キムジョンウンの首さえ狩れば問題は解決する」といったコメントが割りと実しやかに語られています。

コトは個人の行動によるものではなく体制的に生まれたものであり、システムとして回っているというのが根本的に分かっていないようです。仮に「独裁者」と言われるほどの権力者であっても本当にすべてを一人でまわしているわけではないし、すべての利益を一人で独占しているわけでもありません。こんなのだから小手先の改革を標榜する政治家などに一喜一憂し、社会システム総体の変革に目が向かないんでしょうね。たとえば、仮に桜井誠氏が最高権力者になったところで、この国は何も変わりませんよ。

「幕末の志士」に焦点を当てた大河ドラマの悪影響でしょうか? あの手の作り話では、登場人物たちの「熱い思い」がそのまま直接的に時代を動かしたかのごとく書かれています。しかし、そんなものは「お手本のような観念論」というほかありません。

「熱い思い」が時代を切り開く上で作用することは私も否定しませんが、闇雲な熱意のゴリ押しで時代をコジ開けるように切り開いたわけではなく、その時代の社会体制・システムの「ツボ」を突いたからに他なりません。「熱い思い」と「冷静な状況判断」によって、社会システムの「ツボ」が突かれ、時代が変化したのです。主体としての人間の熱意と客体としての社会システムが相互作用的に反応し合って、結果的に社会が進化するのです。卑近な例でいえば、闇雲な思いだけでは大学には合格できず、過去問研究・出題方式研究を重ねて「○○大学合格の傾向と対策」を極めないとダメなのと同じ、闇雲な熱意だけでは第一志望には就職できず、企業研究を重ね、模擬面接を重ね、採用担当者の「ツボ」を突かないとダメなのと同じです。

観念論的世界観は心に響くものがあるので、あの手の作り話は「熱い思いが通じて歴史が動いた」といったような単純なストーリーを意図的に編成しているのでしょうが、その悪弊がこんなところにも出ているのかも知れません。

■危険千万な平和ボケっぷりが白日の下に
この1ヶ月弱の一連のニュースに対する「世論」は、あつめて分析する価値がありそうです。危険千万な平和ボケっぷり、観念論っぷりが白日の下に晒されました
posted by s19171107 at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月24日

障害者就労施設が「ソ連の遺産」?笑――資本主義スウェーデンとの比較で完全に敗北

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170423-00000064-mai-eurp
>> <ロシア>視覚障害者の雇用守る 生き残ったソ連の遺産

毎日新聞 4/23(日) 20:41配信

 【モスクワ杉尾直哉】ロシアには、視覚障害者らに雇用の場を与えるために特別に設置された製造工場がある。「諸民族の平等」をうたった旧ソ連政府が、障害者を保護する政策を取っていたころの“遺産”だ。ソ連崩壊後の現在は、市場原理の厳しい競争にさらされているが、「障害者の自立」を維持するため、格闘しながら操業を続けている。

 モスクワ西部のクンツェボ地区。古びたレンガ造りの4階建てのビルは、電源コンセントやスイッチを生産する「エレクトロ」社の工場だ。主に視覚障害者の自立を目指して1959年に設置された。従業員260人のうち120人が障害者だ。


(中略)


 勤続3年の女性従業員レーナさん(36)は、かつては幼稚園の先生だったが、徐々に視力を失ったため解雇された。「ここでは安定した仕事ができてとてもうれしい」と言う。月給は日本円で約3万円程度だが、「視覚障害者にとって一番大切なのは、話をする仲間たちがいて、助け合える場があること」という。

 全ロシア盲人協会のウラジーミル・シプキン副総裁によると、ロシア全土では約7600人の視覚障害者がこうした企業で働いている。シプキン氏は「障害者向けの企業はソ連時代のたまものであり、世界でもユニークだ」と話す。

 91年のソ連崩壊後の経済混乱期には、ほかの企業と同様、困難を経験した。企業乗っ取りが横行した時代だったが、全露盲人協会が施設や敷地を維持し、生き残った。

 ロシア全土では視覚障害者は約21万人おり、うち10万人以上が仕事をしたくても雇用の場がないという。シプキン氏は「市場の競争も激しく、全員を雇うわけにはいかない」と話す。だが、政府やモスクワ市当局から支援を受け、工場設備の更新や雇用拡大に取り組んでいるという。

最終更新:4/24(月) 10:51
<<
障害者向けの企業はソ連時代のたまものであり、世界でもユニークだ」――ソ連時代に懐かしさを感じるロシア人が言っている分にはよいとは思いますが、毎日新聞がそれをそのままタレ流すのは如何なものでしょうか。ロシア革命から今年で100年。「ソ連は崩壊したが、ソビエトの理念はこうして生きているんです! 社会主義の再評価を!」というつもりで書いているなら、まずは「資本主義スウェーデン」における障害者就労を踏まえるべきです。ソ連は完敗、再評価の余地などまるでありませんよ。

以前にもご紹介した記憶がありますが、資本主義スウェーデンにおいては「サムハル」という国営企業が、障害者に対して就労機会を提供しています。形態としては「国営企業」ですが、国営企業にありがちな放漫経営とは無縁の厳しい数値目標が課された経営が要求されています。その一端は、「厳しい数値目標が国営企業を鍛えた “障害者集団”、スウェーデン・サムハルの驚愕(2)」に詳しいので、ぜひともご一読いただければと思います。

また、サムハル社は、単なる「障害者の権利の実現」ではありません。下記が端的なので引用しましょう。
http://www.prop.or.jp/global/samhall/20090119_01.html
>> 弱者を変えた冷徹な合理性
“障害者集団”、スウェーデン・サムハルの驚愕(3)


(中略)

ヒューマニズムだけが理由ではない

 なぜサムハルを作ろうと考えたのか――。漆黒の闇に包まれた夕刻。ゲハルトに尋ねると、彼は口を開いた。

 「1つは人間的な理由だ。障害者が他の人と同じように働く。そういう社会を実現することは、人間として大切なことだと思った」

 その当時、スウェーデンでは障害者を施設に隔離し、障害年金を支給していた。障害者は社会の外側にいるアウトサイダーだった。だが、障害者を社会の外に隔離する社会が健全であるはずがない。そう考えたゲハルトは、彼らを社会の一員とする仕組みを作ろうとした。

 社会に組み込むにはどうすればいいか。そのためには何より、健常者と同様に就労の機会を提供し、自立した生活を送ってもらう必要がある。では、仕事はどうやって作り出せばいいか。障害者の仕事を生み出す組織を作ればいい――。こうした一連の思考を経て、国が雇用の場を作り出すというサムハルの原型が生まれた。

 ただ、背景にある思想は、単純なヒューマニズムだけではなかった。早熟の天才はもう1つ別の視点を持っていた。それは、福祉コストの削減である。

 「障害年金モデルに疑問を感じていた」

 当時は障害者に現金を給付する障害年金が障害者福祉の中心だった。だが、障害年金をただ支給するよりも、障害者が働き、納税する方が全体のコストは下がるのではないか。彼らが働けば、その生産の分だけコストは減るのではないか――。ゲハルトはそう考えていた。

 人口900万人のスウェーデンは常に、労働力の確保に苦労してきた。19世紀後半には、貧しさのために国民の4分の1が移民するという辛い出来事も経験している。そういった過去があるため、スウェーデンには「働ける者は可能な限り働く」という意識が国民の間に強く浸透している。

 さらに、70年代に入ると、30年代から続く高福祉路線は曲がり角に差し掛かりつつあった。高い経済成長を背景に手厚い福祉を実践したが、オイルショック後の世界的な不況によって経済成長は鈍化。公的部門の肥大化が国家財政を圧迫していた。

 サムハルを作ろうとした背景にあるのは徹底した合理性。「労働人口を少しでも増やし、少しでも多く税金を徴収する」という冷徹な計算もあった。


(以下略) <<
「厳しい数値目標」と並んで、「ヒューマニズムだけが理由ではない」という制度設計者の告白は、ソ連に郷愁を感じるような化石的左翼崩れにとっては、火病を起こして卒倒するような「邪」な動機でありましょう。

社会主義ソビエトは「階級闘争」の名の下、優秀な人材を追放・抹殺し、促成栽培的に育成した素人連中に重要な経済的権限を与えた結果、とんでもない放漫経営を横行させ、ついに破滅を迎えました。うまくいく根拠などどこにもないのにも関わらず、国民の「ヒューマニズム」を前提とした甘っちょろい制度設計のあげく、「福祉ぶら下がり」を大規模に横行させました。いまどきソ連をお手本にしようという国などありません。

他方、資本主義スウェーデンは、「国民の家」構想の下、緻密な制度設計で階級間利害関係を調整しつつ、さまざまな立場・利益関係・境遇の人々を糾合し、効率的な福祉国家を経営してきました。90年代初頭の経済危機に際しては、「経済的には規制緩和を推進しつつも、福祉の給付水準は維持する」という大胆な改革を推進しました。「思想的純潔性」にこだわることもなく、障碍者に対する雇用機会の提供の動機について「ヒューマニズムだけが理由ではない」と素直に述べて憚りません。そして、いまもなお生き延びています。「規制緩和と社会政策の両立」という意味で新しい試みを展開している点において、いまもなお、福祉国家のひとつのモデルになっています。

とっくの昔に大破滅を迎えた社会主義ソビエト、いまもなお手本として名高い資本主義スウェーデン・・・ロシア革命から100年、ソ連崩壊から26年。そろそろ諦めて成仏しましょうよ。
posted by s19171107 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

「悪口には耐性がある共産党」??

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170423-00010000-senkyocom-pol
>> 「悪口には耐性があるんです」ネットの先駆者・共産党の考える動画メディアとは?

選挙ドットコム 4/23(日) 8:00配信


(中略)

共産党は正直、昔から「反共口撃」にさらされてきたので、悪口には、慣れているんです(笑)。ですから、今更ネットで何を言われても別に構わない。そういう人も含めて接近していこう、働きかけようという思いでやっています。

(以下略) <<
たしかに「今更ネットで何を言われても別に構わない」という態度はその通りかもしれません。というのも、彼らの自己定義は「科学の体現者」であり、自分たち以外は「科学的啓蒙の対象」。所謂「上から目線」という意味で、この言葉は共産党員の態度そのものです。

しかし、当ブログでも繰り返し指摘している通り、二周以上遅れている「素朴な科学主義」の世界観からまったく進歩していないために、共産党員の主張や共産党の政策を少し掘り下げるだけで直ちにボロがでてくるものです。

たとえば福祉。福祉といえば共産党の専売特許といわんばかりの勢いですが、福祉国家として世界的に著名なスウェーデンを筆頭とする北欧諸国は、共産党の主張の正反対を成功裏に前進しています。そしてこのような、共産党の政策の核心部分を真っ向から否定するような事実を突きつけられると、彼らはかなり高い確率で「支配層の情報操作に洗脳されている」などと根拠もなく中傷(参考図書の出版社にケチつけてくることもありましたね・・・商業出版社なんて売れる本なら筆者の立場なんて如何でもいいのに)したり、あるいは自分たちから吹っかけた論争なのに一方的に議論を打ち切ったりしてきます。

このことは、かつて私自身が共産党員たちと親しく付き合った経験からも、そしてその後共産党員たちと直接対峙するようになってからも経験(もともと私はチュチェ思想派なので、マルクス主義共産党とは軌を一にしているわけではなかったものの、敵というわけでもないので、「一点共闘」の立場で是々非々の協調をしていたのですが、主流派の共産党員たちが異論派をムラ社会的な陰湿さを以ってイジメ倒す様子を見て、私は義憤を感じ、「この一点を以って絶対に協調できない!」と決意し、反日共党の立場を取るようになりました)からも言えるし、最近でも共産党員が管理しているツイッターやフェイスブックでのやり取りを見てもいえることです。

そういう人も含めて接近していこう、働きかけようという思い」とは一体どの口が言っているんでしょうか。あくまで「上から目線」でそう言っているに過ぎないんでしょう。
posted by s19171107 at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月21日

「一代限りの生前退位特例法」から見える漸進主義としての保守主義

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS21H6S_R20C17A4000000/
>>天皇退位、有識者会議が最終報告 呼称「上皇」に
2017/4/21 18:49

 天皇陛下の退位に関する政府の有識者会議(座長・今井敬経団連名誉会長)は21日、退位後の天皇の呼称を「上皇」とするなど退位の制度設計を柱とする最終報告をまとめた。天皇陛下の退位を一代限りで認める特例法案の制定を国会が提言したのが前提にある。現憲法に規定のない天皇退位が実現する。

 安倍晋三首相は会議で「国家の基本の問題であると共に、長い歴史とこれからの未来にとって重い課題だ。退位を実現するための法案を速やかに国会に提出したい」と述べた。


(以下略)<<
■天皇退位問題を巡る諸立場
天皇退位問題について当ブログではまったく論じてきませんでしたが、「保守主義とは何であるか」という切り口から注視していました。

天皇退位問題を巡っては、「恒久法制定」を主張する言説が「世論一般」といってもよいくらいの勢力をもっていました。それに対して、巷では「保守」と呼ばれる人々が「退位を巡る歴史的経緯」や「皇室制度の安定性」を理由に、恒久法化に反対したり、あるいは、そもそも退位を認めること自体に反対するといった言説を展開していました。非保守派の意見が概ね一致していた一方で、保守派界隈の意見が必ずしも一致していなかったのが特徴的な事態でした。

■3種類の保守
「保守派」と呼ばれる人たちには、私は3種類あると考えています。ひとつ目が、「伝統的な思考・行動様式そのものに価値を感じる人たち」であり、「守旧派」といってもよいかもしれません。森友学園の籠池氏などはまさにこんなタイプでしょう。この手の守旧派からは、ふるい価値観に心酔し現代的価値観を唾棄するあまり、「伝統を回復するための革命」という語義的には矛盾したプランを展開するような連中も現れることもあります(なお、こうした守旧派の問題は、突き詰めれば「好き嫌い」の問題なので、本稿では基本的に取り上げないことにします)。

2つ目が「伝統的な思考・行動様式は、幾世代にもわたって『検証』を受けてきたものであるから、浅知恵・思いつきで変更すれば予想外の事態をもたらしかねないと考える人たち」です。近代の科学主義・理性至上主義にたいする懐疑主義的立場の人たちです。

3つ目が、懐疑主義者とは似て非なる漸進主義者です。私はこの立場なので、後に詳述します。

■保守派が抱いている懸念
「世論一般」の感性に言わせれば、保守派の言説は、「たしかに昔は退位をめぐって政治が混乱し、皇室制度が揺らいだこともあっただろうが、象徴天皇の時代でそんなことは考えられないから、恒久的な制度化を行っても大丈夫だろう」といったところなのでしょう。しかし、そうした「大丈夫だろう」という「予測」こそが、保守派に言わせれば「甘い」ということになるのです。「いったいどれほど正確・精密な「予測」を以って恒久的制度化を口にしているのか」「『大丈夫』といって大見得を切っておいて、なにかあったら如何するつもりなんだ」というのが、保守派の懸念の根底にあるのです。

人類の歴史を振り返ると、「大丈夫」といって大見得を切っておいて、全然大丈夫ではなかった実例は幾らでもあります。「近代革命」以降の「科学技術」に立脚した大規模な自然改造、社会革命が、偉大な成果を挙げつつも、他方で予想外の破滅的損害を生み、この地球上には既に居住はおろか近づくことさえ危険なエリアが幾つもできてしまっています。大自然の複雑で繊細なシステムの前では、人間の「科学」や「理性」など、どんなに頑張っても浅知恵・思いつきの域を超えないのではないかという懸念が、様々な証拠・実例から突きつけられている昨今においては、理性に対する懐疑主義的な意味での保守主義の説得力は年々増していると思います。

■決め手に欠ける懐疑主義的保守主義
他方で、「理性に対する懐疑主義は、要は『心配のしすぎ』に過ぎない」という再反論にも説得力があります。そもそも、理性に対する懐疑主義者といえども、論理的推論や科学技術をまったく信用していないわけではありません。要するに「程度の問題」ですが、具体的な「線引き」を考えようとすると、理性に対する懐疑主義者の立場は、なかなか説得力のある主張を展開できないものです。結局、懐疑主義は「想定外に備えろ」なのだから、スマートな主張になりにくいのは宿命的。「慎重を超えて臆病」という謗りを免れえなくなるものです。今回の天皇退位問題についても、「退位を巡る歴史的混乱の繰り返しを防ぐ」という懐疑主義的保守主義の立場は、具体的な危険性をズバリと言い当てるものではないので、決め手に欠けるといわざるをえませんでした。

■懐疑主義的保守主義を乗り越える漸進主義的保守主義の核心
漸進主義的保守主義は、懐疑主義的保守主義が持つ問題点を乗り越えます。「少しずつ前進し、問題があったら直ちにロールバックする」という方法論は、論理的推論や科学技術に対する過度な慎重姿勢を排して新しい挑戦に取り組みつつも、万が一に予想外の事態が発生したとしても、直ちにロールバックが可能な範囲内での実施に敢えて留めることによって取り返しのつかない事態にも至らないようにもすることができる「よいとこ取り」なのであります。

直ちにロールバックが可能な範囲内での実施を積み重ねてゆく方法論は、理性主義にもとづく方法論――いわゆる「急進主義」もその一種です――に比べて所要時間は少しばかり長くはなりますが、「急がば回れ」というように、安全性・確実性はより高まるものと思われます。「こまめなPDCAサイクルの実施を主軸とする方法論」などと平たく言い換えてもよいかも知れません。

■漸進主義的に仕上がった特例法
私自身は皇室制度自体にはあまり強い思い入れや関心はないのですが、物事の思考法・制度変革の方法論として、漸進主義の立場に立っている関係上、「天皇陛下の退位を一代限りで認める特例法案の制定」という結論は、よかったのではないかと思っています。「天皇陛下の退位を認める」という意味では画期的な結論ですが、他方で、「一代限りで認める特例法」という手続きの面では、一定の慎重さをも持っています。そして、次世代以降の天皇が退位を希望したときには今回の決定を前例として参考として踏まえつつ改めて検討しなおすという方向性は、一世代の思慮・思考だけで恒久的な制度を固めてしまうのではなく、数世代に渡って実験・実践を続けてそれを積み重ねてゆくという方向性です。これこそまさに漸進主義としての保守主義の思想が表れた制度設計であると言えるでしょう。

拙速なる恒久的制度化、臆病の域にさえ達している懐疑主義的保守主義の反対論、論ずる価値も無い守旧派・・・これらアクのつよい言説を退け、妥当な線にまとめあげることができたと思います。
タグ:保守 社会
posted by s19171107 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

虎の威を借る何とやら

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170330-00000061-yonh-kr
>> 北のミサイル発射に…トランプ大統領、韓国に向かうエアフォース2のペンス副大統領と電話

中央日報日本語版 4/17(月) 17:24配信

トランプ米大統領の強力な軍事的圧力に対し、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長が「ジャブ」を放った。米国は空母艦隊の韓半島(朝鮮半島)近海追加配備に続き、16日にペンス副大統領を韓国に派遣したが、金正恩大統領は屈することなくペンス副大統領の訪韓の9時間前に弾道ミサイルを発射した。多数の外交安保専門家らは前例からみて、朝米間の駆け引きによる現在の緊張局面はしばらく続くしかないと分析している。

外交部の趙俊赫(チョ・ジュンヒョク)報道官はこの日の論評で「北が15日(金日成主席生誕105周年)の閲兵式で各種攻撃用ミサイルを誇示し、きょう弾道ミサイル発射を敢行したのは、世界を相手にした武力示威」とし「核実験、大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射など高強度の戦略挑発につながれば、北の政権が耐えがたい強力な懲罰的措置が必ずあるだろう」と警告した。政府当局者は「米最高位級の訪韓を控えて北が意図的に挑発を敢行したようだ」とし「北の誤った行動には相応の懲罰をするべきだというトランプ政権の意志が強まるだけ」と述べた。


(以下略) <<
チョ・ジュンヒョクが言う「強力な懲罰的措置」の実施者は誰か――「北の誤った行動には相応の懲罰をするべきだというトランプ政権の意志が強まるだけ」という「政府当局者」なる人物の言葉を総合すれば、結局のところ、自分自身では何も出来ない韓「国」当局の情けない実情が浮き彫りになります虎の威を借る何とやらとは、まさに連中のことを指すための言葉のようなものですね。まあ、今に始まったことではありませんが。

集団安全保障というのは元来そういう性質が大いにあるものですが、とはいっても、自分自身が主導的に実施するわけでもないのに、「親分」の威を借りる姿は、主権国家とは言いがたいものがあります・・・あ、戦時統帥権は結局、アメリカに預けっぱなしでしたっけ? それも頼み込んでの。
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2017年04月13日

朝鮮半島情勢を巡る、戦前の朝日新聞のような短絡的論調の「世論」

■戦前の朝日新聞のような論調
朝米対立の激化による朝鮮半島情勢の「緊張」が高まるとされているここ数日、戦前の朝日新聞のような短絡的で好戦的な論調の世論が展開されています。いわゆる「斬首作戦」が、もう今にも始まるかのような認識がわりと本気で語られています。

軍事行動は、あらゆるケースを想定し、どう転んでも対応できるように備えてから開始するものであり、きわめて戦略的なものです。軍事行動計画が目指す目標がハイレベルであればあるほど考慮すべきケースは爆発的に増加するものです。「危ないかもしれないから今のうちに・・・」といったレベルでは「斬首作戦」に至るはずもありません。

先日、あのトランプ米政権はシリアにミサイル数十発による攻撃を実施しましたが、逆に言えばその程度の攻撃に留まりました。かつて、イスラエルがイラクの核開発を阻止するために奇襲的空爆作戦を展開しましたが、逆に言えば建設中の原子炉の破壊に留まりました。政権担当者の排除というのは、アメリカやイスラエルのような国であっても、そう易々と選択するものではないのです。

この程度の「緊張」で、もう今にも「斬首作戦」が始まるかのような調子は戦争を軽く見すぎており、戦前の朝日新聞のような単細胞と言わざるをえません。

■甚だしい平和ボケ
また、軍事行動の要諦は兵站です。強力な武器があっても補給路が貧弱では打撃力にはなりません。アメリカといえども補給の展開には一定の時間がかかります。たしかに今、朝鮮近海には空母が向かっているようですが、本気で朝鮮の政権転覆を目指すとすれば、この程度では不可能です。兵站の無視――70年たっても相変わらずという他ありません。

さらに、日本の目と鼻の先で軍事行動が展開されるかもしれないというのに、自分たちの日常生活にはまるで関係の無いことであるかのような甚だしい平和ボケっぷりにも驚かされます。朝鮮人民軍の反撃の可能性、難民問題、日本国内に潜伏している工作員の破壊活動など懸念すべきケースはあまたあるはずですが、それらを考慮に入れている言説は乏しい。甚だしい平和ボケっぷりです。

■軍事行動がもたらす経済的影響を考慮していない軽薄なる世論動向
そんな中、意外なことに『新潮』が、経済の側面から朝鮮半島有事の展開を指摘しています。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170413-00519749-shincho-kr&p=2
>> 金正恩「斬首作戦」 実行ならば日本経済も打ち首に

デイリー新潮 4/13(木) 8:00配信


(中略)

■難民と死者の数は…

 朝鮮半島有事と言えば、参照したいのは、70年近く前の朝鮮戦争である。この戦争で起きた特需が日本の復興の足掛かりとなった。

「有事のドル買い」という言葉もある。これまでもミサイル発射など、半島が不安定になると、必ず円安、株高に振れてきたものだが、

「このタイミングで朝鮮半島有事が起きれば、余程のことがない限り、円高が起こるでしょう」

 と言うのは、第一生命経済研究所首席エコノミストの永濱利廣氏。

「昨年のブレグジットの時がそうだったように、最近は世界的なリスクが起こると、その回避のために円が買われる傾向にあるのです。日本が大被害を受けた東日本大震災の時ですら円高になりました。今回の場合は、最悪100円を割ることも考えられます」

 シグマ・キャピタル株式会社のチーフエコノミスト・田代秀敏氏も同様で、

「円高になるのはほぼ確実で、そうなれば、株価も自動的に下がることになる。暴落と言ってよいレベルかもしれません。国債も外国人投資家から売り浴びせられ、金利が急騰し……」

 経済的に苦境に立たされるのだという。

 それ以上に、作戦が成功し、金王朝が崩壊しても、政情不安は否めず「少なく見積もって5万人、最大で20万人」(前出・志方氏)と言われる難民が日本海を渡って押し寄せ、その財政リスク、治安リスクは未曾有のものとなる。


(以下略) <<
外国為替レートの変動という経済面から日本への影響を分析するのは重要な試みです。軍事行動の展開を想定するということは、こういうケースも考えるということです。その点、こうした分析は世論から自生的には出てきていません。重要な論点を検討することもなく現段階で「斬首作戦」を取り上げ、はしゃいでいる手合いの認識の軽薄さが際立ちます戦前の朝日新聞のような短絡的で好戦的な自分たちの考え方と同じ原理原則で、現代軍事戦略が立てられているわけがありません

■「労働党体制の維持」が至上命題――意外と素直に「遺憾の意」を表明した過去も
今以上に緊迫の度合いが高まって「戦争秒読み」と言われる段階になったとしても、本当に「斬首」に至ることはないと思われます。アメリカ側が踏みとどまることもあるでしょうし、逆に朝鮮側が事態を回避することもあるでしょう。実は過去にもありました。たとえば、ポプラ事件では、情勢が意外な方向に展開し、分が悪くなったと見るや、キムイルソン主席は「遺憾の意」を表明しました。

「ポプラ事件はキムイルソンの老熟した戦略的対応であり、若くて予想不可能な行動をとるキムジョンウンにはできない」という指摘もあるかもしれませんが、キムイルソン主席もキムジョンウン委員長も「労働党体制の維持」もっといえば「自分の生存」を最重要事項として位置づけ、その目標を達成するためには何でもするという点においては、まったく同じです。キムジョンウン体制においても、国家記念日等のミサイル発射実験・核実験を行い国威を発揚するには絶好の節目であっても、対米関係を考慮して見送ったことがありました。キムジョンウン委員長は、「労働党体制の維持」を至上命題とする点においてブレはまったくなく、すでにそれを実践しています

この点は、よく言えば「名をこそ惜しむ」国、悪く言えば「インパール作戦」の国である日本とは根本的に異なります。キムジョンウン委員長も名誉・メンツは大切にしていますが、労働党体制の維持・自分の生存のほうが重要であるという点には少しもブレがありません。戦前の朝日新聞のような短絡的で好戦的な自分たちの考え方と同じ原理原則を、キムジョンウン委員長がとっているはずがありません。それほどまでに愚かであれば、来年で建国70年になる朝鮮民主主義人民共和国は、とっくの昔に滅亡しているはずだし、キムジョンウン体制が5年も続くはずがありません。

「あなたとは違うんです」。
posted by s19171107 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

功利主義に対するレッテル貼り・エゴイズムへの堕落の危険を孕んだ主張――法学者の旧態依然な「教育指導」では人権教育にならない

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170409-00000024-asahi-soci
>> 自白強要は仕方ない? 高校生7割が肯定的 1千人調査

朝日新聞デジタル 4/9(日) 15:14配信

 憲法で権力を制限するという「立憲主義」への理解が8割の高校生に浸透する一方、差し迫った重大犯罪を防ぐためには自白を強要してもよいと考える高校生が7割近くに上ることが、高校生1千人を対象にした研究者の調査でわかった。

 法教育に取り組む研究者のグループ(代表・橋本康弘・福井大教育学部教授)が昨年9〜12月、関東と関西の8高校、1370人に法に関する知識や考え方を聞いた。橋本教授は「自分の頭で考え、判断する知識が身についているかを見るのが調査の目的」と話す。

 法教育に取り組む研究者のグループ(代表・橋本康弘・福井大教育学部教授)が昨年9〜12月、関東と関西の8高校、1370人に法に関する知識や考え方を聞いた。橋本教授は「自分の頭で考え、判断する知識が身についているかを見るのが調査の目的」と話す。

 「日本国憲法は、国民の権利や自由を守るために、権力を制限する仕組みを定めている」との説明が正しいか尋ねたところ、正解の「○」が81・1%に上った。

 その一方で「法の支配とは、法によって人間のわがままな行為を規律し、それに反すれば厳しい罰を与えるべきであるという考え方をいう」の正誤を尋ねると、正解の「×」と答えたのは35・0%。国家権力が法に縛られるという「法の支配」の考えが浸透していないことがわかった。質問を作った土井真一・京大院教授(憲法)は「法の支配の理解が浸透していないのは、法は人々の行為を規制し、違反すれば罰せられるという、古来中国の法治主義のイメージが日本社会に強く残っているためだろう」とみる。


(中略)

 土井教授は「自白強要が悪だと知りつつも、多くの人命を奪う、より大きな悪を避けるためには仕方ないとする最大多数の最大幸福の考えがうかがえる。悪いやつには厳しくという素朴な勧善懲悪の意見の表れでもある。問題は、悪いやつだとだれが、どのように決めるのか。自分が悪いやつだと決めつけられたらどうするか。その気づきをどう深めるかが授業のポイントになる」と話している。(編集委員・豊秀一)

朝日新聞社

最終更新:4/9(日) 17:16
<<
■惜しいなあ・・・
旧ブログ時代から司法、とりわけ刑事事件に関する「世論」「庶民感覚」といったものを継続的に分析してきた身からすると、直感的に感じていたことが実証された思いです。引用部分にある土井教授の「悪いやつには厳しくという素朴な勧善懲悪の意見の表れ」や「問題は、悪いやつだとだれが、どのように決めるのか」といった指摘は、私もまったく同感であります。

他方、極めて残念な総括も見られます。「多くの人命を奪う、より大きな悪を避けるためには仕方ないとする最大多数の最大幸福の考えがうかがえる」や「自分が悪いやつだと決めつけられたらどうするか」といった切り口です。

■功利主義に対するレッテル貼り的な誤った認識
最大多数の最大幸福」は、功利主義を代表するキーワードですが、憲法学者のわりに土井教授は、功利主義について正しい認識をもっていないようです。功利主義は、決して「全体主義的な多数派主義」ではありません。私もアカデミックな世界には少しばかりの実体験がありますが、(土井教授にレッテルを貼るつもりはありませんが)特に左翼学者を中心に、「最大多数の最大幸福」という功利主義の思想を、キーワードからのフィーリングで語るきらいがあります。我々の民主主義は功利主義を理論的基盤としているのに・・・

功利主義は決して多数派主義ではなく、全体主義に通ずるものではありません。それは、ウイキペディアでさえ言明されています。引用しましょう。
>> ベンサムの理論には、ミルの理論とは異なり、公正さの原理が欠落している、としばしば言われる。例えば、拷問される個人の不幸よりも、その拷問によって産出される他の人々の幸福の総計の方が大きいならば、道徳的ということになる、という批判がある。しかしながら、P. J. ケリーが著作『功利主義と配分的正義―ジェレミ・ベンサムと市民法』(Utilitarianism and Distributive Justice: Jeremy Bentham and the Civil Law)の中で論じているように、ベンサムはそのような望ましくない帰結を防ぐような正義論をもっていた。ケリーによれば、ベンサムにとって法とは、「個々人が幸福と考えるものを形成し追求できるような私的不可侵領域を定めることによって、社会的な相互作用の基本的枠組みを提供する」(op. cit.、p. 81)ものなのである。私的不可侵領域は安全を提供するが、この安全は期待を形成するための前提条件である。幸福計算によれば、「期待効用」(expectation utilities)は「自然効用」よりもはるかに高くなるので、ベンサムは多数者の利益のために少数者を犠牲にすることを支持しないのである。

功利主義が肯定的に語られる例として、当時のイギリスでは禁止されていた同性愛の擁護が挙げられる。ベンサムは、同性愛は誰に対しても実害を与えず、むしろ当事者の間には快楽さえもたらすとして、合法化を提唱した。この他、功利主義によれば被害者なき犯罪はいずれも犯罪とならない。
<<
大学教授といえば、一般的には博識の人物であり、法学者であれば古今東西のあらゆる法理論に通暁していると思い勝ちです。しかし、実態としては、意外とウィキペディアにも載っているようなレベルの知識であっても、直接的な専門でなければ素人ほどの知識もなかったりすることが多々あります。大学教授は、意外と「専門バカ」であることが少なくないのです。この、さりげない一言は、そのことを典型的に示しているのかもしれません。

■エゴイズムへの堕落の危険
自分が悪いやつだと決めつけられたらどうするか」という主張についても述べておきましょう。なんとなく正しい言説に見えますが、国家・社会を集団主義的に語るにあたっては、下手するとエゴイズムに堕落しかねない結論に至りうる言説であります。

自分が」という判断基準を突き詰めるならば、究極的には「税金を払いたくないでござる」に至ります。しかし、国家・社会を集団主義的に語ろうとすれば、皆がみんな税金を払わないわけにはいかないでしょう。個人の人権に配慮しつつも、どこかで「自分が」という判断基準とは一線を画する必要があります。

土井教授個人が直ちにそうだというわけではないのですが、「自分が」という判断基準を取り上げる人たちのなかには、結局単なるエゴイズムでしかない結論を平気で述べる人がいるものです。「その気づきをどう深めるかが授業のポイントになる」と教育指導的な指摘を展開するのであれば、同時に、単なるエゴイズムに終わらないようなコメントを展開すべきでした。

■ある意味で典型的
功利主義に対するレッテル貼り的な誤った認識にもとづく主張と、エゴイズムへの堕落の危険を孕んだ主張――典型的な法学者の言説です。「その気づきをどう深めるかが授業のポイントになる」などと教育指導的な指摘を展開する土井教授ですが、ある意味で「使い古されている上に間違った認識に基づく言い分」です。正しい認識に基づく新しい切り口を提示できない限り、若い世代を対象とした人権教育にはなり得ないでしょう。

推定無罪の大原則に立つならば、「問題は、悪いやつだとだれが、どのように決めるのか」で十分です。よく知りもしないのに功利主義批判を展開したり、「自分が」などという必要は、そもそもないのです。
posted by s19171107 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

「雁字搦めの事前規制による不正防止」から「事後処罰をチラつかせた不正抑止」への「常識のシフト」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170308-00010006-norimono-bus_all
>> コインパーキングから「ロック板」消える? 不正防止よりも重要視することとは

乗りものニュース 3/8(水) 16:10配信

不正の言い逃れはできない「ロック板なし」

 近年、ロック板(フラップ)を廃したコインパーキングが少しずつ増えています。もちろん、出入口のゲートもありません。

 無防備すぎるように思えますが、不正に利用されるおそれはないのでしょうか。駐車場のシステムを手掛けるアイテック(東京都文京区)に、誕生の背景を聞きました。


(中略)


――ロック板をなくして、不正に利用されるおそれはないのでしょうか。

 確かに、料金を払わずに出庫することは容易です。しかし、駐車マスに埋設されたセンサーで車両を認識し、マスの奥に立つポールに取り付けられたカメラで車両のナンバーを記録することで、出入りを管理しています。また、場内全体を見渡す監視カメラで、全体の出入り状況も随時記録していますので、不正の証拠を把握して、あとから料金を請求します。言い逃れはできません。
.

導入の背景に「ロック板式」の問題点

――仮に不正するとどうなるのでしょうか。

 不正に出庫したクルマを、すぐ捕まえて料金を請求するわけではありません。ナンバーや不正の証拠は把握しているので、そのクルマが全国にある同方式の駐車場に再び入庫した際に、警備員が未払いぶんの支払いを促す紙をクルマに貼ります。紙を貼られた人は、その場の精算機で支払うこともできますが、請求書の発行を申し出て後日、支払い手続きを行うことも可能で、実際には後者のケースが多いです。

――なぜこうしたシステムを開発したのでしょうか。

 最大の目的は、ロック板による事故やトラブルを避けることです。ロック板は、精算から一定の時間内に出庫しないと再び跳ね上がりますが、たとえば、料金の精算後に車内で電話していて、それに気づかず発車し、クルマが破損してトラブルになるケースがあります。また、乗降の際にロック板でケガをしたという人も多く、当社が実施したロック板式駐車場に関するアンケート調査では、20パーセント以上の人がなんらかのトラブルを経験していました。


(中略)

最終更新:3/9(木) 11:00 <<
■「雁字搦めの事前規制による不正防止」から「事後処罰をチラつかせた不正抑止」へのシフト
いささか旧聞かつ大したことのないようなニュースに見えますが、「雁字搦めの事前規制による不正防止」から「事後処罰をチラつかせた不正抑止」へのシフトという点において、重要な取り組みです。

■「雁字搦めの事前規制による不正防止」は高コストかつ副作用的犠牲が大きい
日本人は、「清さ」に対する意識が強く、不正を撲滅しようとする国民性があります。このこと自体は私は貴重なものであり、末永く守ってゆかねばならない美徳であると考えています。しかし、そうした意識が強すぎるがゆえに、「雁字搦めの事前規制による不正防止」という方法論を取ってしまい、そのせいで効率性を著しく損ね、甚だしくは他の要素を犠牲にしてしまうこともあります。

コインパーキングの例に則れば、ほとんどの人が監視が無くとも正しく料金を払うが、ごくごく一部の不届き者の所業を防止するために、すべての駐車車両に板ロックしてきました。また、ごくごく一部の不届き者の所業を防止するための仕掛けが、善良なる市民のクルマを損傷させるケースが相次いでいました。「正直者が馬鹿を見るのはオカシイ」というのは私も強く頷けますが、かといって全員のクルマに板ロックを施す経費は如何ほどなのでしょうか? 善良なる市民のクルマを損傷させてまで防止しなければならなかったのでしょうか?

「雁字搦めの事前規制による不正防止」は、それが完全を期そうとすればするほどに手の込んだものになり、それゆえに莫大なコスト・多大な副作用的犠牲を伴うものです。そして、これは一見して「完全」に見えますが、不届き者は悪知恵が働きイタチゴッコになりがちだし、あまりにも強硬な抑止策は民主的市民社会の基本原理と対立しかねない領域に達するものです(「社会的に正しくない」所業を完全に封じ込めるには、NKVDやシュタージなみの秘密警察監視網が必要になるでしょう)。実際には完全なる抑止などはできない以上は、どうしても不十分です。

■「事後処罰をチラつかせた不正抑止」も強力な選択肢
完全を期するための手法は、「雁字搦めの事前規制による不正防止」だけではありません。結局不正が起こらなければよいのだから、雁字搦めの仕掛けを用意するだけが能ではなく、不届き者に不正行為を断念させる仕掛け、インセンティブの付与もまた選択肢です。その意味で、「事後処罰をチラつかせた不正抑止」はもう一つの強力なツールであり、多くの場合、雁字搦めの仕掛けを用意するよりも低コストかつ副作用的犠牲が抑えられるものです。

反社会的な不届き者は、単に「不正利得」を期待値的に追求しているのではなく、不正行為に手を染めるにあたっての「不利益の期待値」と比較し、その結果、不正利得がプラスであれば、不正行為を実行するものと考えられます。「雁字搦めの事前規制による不正防止」は、不正利得の期待値をゼロに近づける試みであると定式化できますが、他方、「事後処罰をチラつかせた不正抑止」は不利益の期待値を極大化させる試みであると定式化できます。結局不正が起こらなければよいのであれば、不利益の期待値を極大化させるアプローチもまた有力な選択肢です。

コインパーキングの例に則りましょう。既に述べたように、板ロックによる雁字搦めの事前規制のコスト・副作用的犠牲は多大です。他方、監視カメラを活用した事後処罰的な請求は、同程度の効果が期待でき、かつ、板ロックのようなコスト・副作用的犠牲の恐れは小さいものと考えられます。そうであるならば、より低コストかつ副作用的犠牲の小さい方法論を取るべきです。

■飲酒運転への厳罰化も「事後処罰をチラつかせた不正抑止」の一種
こうした「事後処罰をチラつかせた不正抑止」は、特殊な言説では決してなく、ある分野においてはむしろ一般的な言説でさえあります。たとえば、凶悪犯罪・重大犯罪、とりわけ飲酒運転に対する厳罰化を以ってしての抑止効果を求める世論は、まさしく「事後処罰をチラつかせた不正抑止」であります。

飲酒運転に対する厳罰化を以ってしての抑止効果を求める世論に対して、「『事後処罰』って・・・飲酒運転で人が死んでからじゃ遅いんだよ!」などと口走る人は、そうそう居ないでしょう。厳罰化論者のなかに「事故が起こっても仕方ない」と思っている人はまずいません。飲酒運転事故を絶対に起こさせないがために厳罰を要求しているのです。

飲酒運転を雁字搦めの事前規制で完全に封じ込めようとすれば、これはもう全てのクルマに監視員を同乗させるくらいしか方法はありません。「呼気アルコール濃度が一定以上であればエンジンが掛からない」といった仕組みだって、身代わりや細工などで結局は突破されてイタチゴッコになるでしょう。また、その泥沼に足を踏み入れれば、自動車一台あたりの製造コストは跳ね上がってしまうことでしょう。他方、厳罰を確実に科すことを事前に宣言しておくことは、雁字搦めの事前規制よりも低コストで目的を達成できることでしょう。

現実的には、事前規制と事後規制は併用すべきです。コインパーキングの場合は、そこまで躍起になることはないのかも知れませんが、飲酒運転については、こまめな検問による検挙(事故発生前の規制)と併せて、厳罰による抑止力の整備にも注力すべきです。

■「事後処罰をチラつかせた不正抑止」はあちこちで有用
昨今問題になっている保育園・こども園での不正保育も同様です。行政の抜き打ち検査(事前規制)に加えて、「不正発覚の暁には必ず認定を取り消し、責任者には刑事告発を行う」という事後処罰による抑止力の整備にも注力すべきです。

経済分野にも通ずる考え方です。そもそも経済学は「インセンティブの学問」とまでいわれるくらいなのだから、「ど真ん中の論題」であるとさえ言えます。粗悪な商品・サービスの流通は抑止しなければなりません(命にも関わる場合がありますからね)が、それは事前の行政的規制だけではありません。「評判」が極めて重要なファクターとして作用する自由な競争的市場経済においては、粗悪品を世に送り出せば、自社の評判がガタ落ちになり、市場メカニズムの作用によって自らが淘汰されるのは時間の問題です。

市場淘汰は作用としては事後処罰として位置づけることが出来ます。営利を追求する合理的な企業家であればあるほど、継続的に商売を続けるために、一定の品質を維持しようと自ら努力するものです(他方、競争のない独占市場や計画経済体制では、粗悪品や有害物質を用いた商品が延々と生産されていました)。経済分野においても事後処罰は強力な作用をし得ます。

■「国民の常識」が問い直され始めている兆候
凶悪犯罪・重大犯罪には「事後処罰による抑止力」を声高に主張しつつも、コインパキーングについては「雁字搦めの事前規制による不正防止」を主軸にすえる・・・チグハグな言説です。これは結局のところ、一貫した軸足が定まっていないことに起因するのでしょうが、決して悪いことではありません。過渡期とも捉えられるからです。

先に述べたように、日本人は国民性として事前規制に傾きがちです(凶悪犯罪・重大犯罪への厳罰要求は例外的といってよいでしょう)。そんな中で始まった「事後処罰の方法論に則り、コインパーキングからロック板方式が消えはじめた」という情勢は、少し大袈裟かもしれませんが、「雁字搦めの事前規制」が問い直され、「事後処罰による抑止力」という新しい考え方が実践に移され得るほどに広まりつつある、「国民の常識」が問い直され始めている兆候であるとも捉えることが出来るでしょう。

何世代にもわたって連綿と受け継がれてきた常識は、歴史的試練を乗り越えてきたという点で、かならずしも間違いではないと思います。その点、私はナイーブな合理主義的な左翼に組するつもりはなく、伝統主義・保守主義にも理解があります。しかし、常識は常に問い直し続けなければならないとも考えています。伝統に立脚しつつ、常識を常に問い直す。そして漸進主義の原則にたって、少しずつ段階的・実験的に新しい試みを実践してゆくべきです。コインパーキングのロック板方式を巡る実践は、事前規制と事後処罰の適切な配合の水準を検討する実験的試みと位置づけることも可能でしょう。いつの日か、個別具体的な実践経験を総合するときがくるはずです。
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2017年03月27日

自主権の問題としての労働環境vs自主権の問題としての多様な消費行動――一方的な「あるべき」論では判断できない

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170326-00010003-nikkeisty-bus_all
>> 外食産業やスーパー、営業時間なぜ短縮? 「意地でも24時間続ける」業界は?
NIKKEI STYLE 3/26(日) 16:10配信


(中略)

なぜ営業時間を短縮したり休業日を増やしたりするのですか。

 「一つは、消費者の行動の変化があります。これまで小売業や外食産業、サービス業は20世紀型のビジネスモデルの延長で、営業時間を長くすることによって売り上げを増やそうとしてきましたが、そうしたビジネスモデルが通用しなくなっているのです」

 「少子高齢化の進展やインターネットの普及に伴って、夜中に店舗で買い物をしたり、ファミレスやファストフード店でたむろしたりする若者が減り、朝型の生活を送る高齢者が増えました。一方で24時間営業のコンビニエンスストアがコーヒーの販売に力を入れ、店内で飲食できるスペースを設ける店を増やしているほか、総菜の品ぞろえも充実させています。そのため、外食産業や食品スーパーが担ってきた需要の一部を取り込んでいる面もあります」

 「もう一つ見逃せないのが、働く人たちの労働環境を改善しようという働き方改革です。人手不足で従業員を十分に確保するのが難しくなっている一方で、長時間労働に対する風当たりは強くなっています。人材を確保するためにも労働環境の改善が欠かせません。そこで営業時間を短くしたり休業日を増やしたりして、従業員満足度を高めようとしています」

 こうした動きは今後も広がりますか。

 「検討する企業が増えることは間違いありません。ただし、コンビニ業界だけは石にかじりついてでも24時間営業を続けようとするでしょう」

 「十数年前、一部の大手コンビニチェーンが実験的に一部店舗で24時間営業をやめたところ、売り上げが激減してすぐに24時間営業に戻したことがあります。四十数年前のコンビニ創業の頃は24時間営業は多くなかったのですが、地方で24時間営業をしたところ、昼間の売上高も大幅に伸びました。いつでもあいている安心感が顧客をひき付けているのです。また来店客が少ない深夜の時間帯に品ぞろえの補充や清掃などをすることで効率経営しています。コンビニが社会的なインフラになったことも大きいでしょう」

 「企業側の動きとともに、私たち生活者も、本当に年中無休で24時間営業が必要なのか、便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すときに来ているかもしれません」


(以下略) <<
本当に年中無休で24時間営業が必要なのか、便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」――漠然と正しいように聞こえるものの、具体的な落とし所を考えれば直ちにその困難性に直面する「言うは易し」の典型であるに留まらず、下手するとライフスタイルの押し付けにも転落しかねない言説です。

■具体的な線引きを考えるとき「それを必要とする人」の存在に直面する――「あるべき」論では判断できない
このような問題提起をうけたとき、人々はどのように思考を展開するのでしょうか? 「自分自身のライフスタイル」を基にその要否を判断するか、あるいは、「人間は夜寝て昼間に活動すべきものだ」といった「あるべき」論を持ち出すのが大抵のケースだと思われます。

しかし、自分自身のライフスタイルや、自分自身の「あるべき」論を根拠に「不要」だと思われるからと言って、社会全体で不要と言い切れるとは限りません。少数かもしれませんが、それを必要とする人・せざるを得ない人も社会には存在するのです。システム等の運用監視、時差のある国との貿易、医療、警備のように、どうしても深夜時間帯を正規の勤務時間として働かなければならず、午前2時くらいに休憩時間が設けられている人、突発的な事態で急に必要性が生じた人、社会にはいろいろな人がいるのです(経験談含む)。

便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」という言説は、漠然と正しそうな気にさせられますが、何を以って「必要」と見なすべきなのか、そして具体的に「何時開店・何時閉店」にすべきか、という具体的な線引きを考えようとすれば、その難しさに直ちに直面する課題です。

「多数派の横暴に反対!」などとして「少数派の守護者」を自認する市民運動界隈が、「便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」という甘言の下に、少数派のライフスタイルが圧殺されてもおかしくない状況であるにもかかわらず、問題提起の声や抗議の声をあげないのはどうしたことでしょうか? ああいう手合いの中には、都市型ライフスタイルに敵対意識を持ち、「早さよりも心の豊かさ」などと言って、田舎暮らしを無邪気にプッシュしているケースが少なくありませんが、そのせいでしょうか? もうそうなら、結局ただの「あるべき論」でしかないのだから、運動のスローガンに「多様性」という単語を使わないようにしてほしいものです。

■自主権の問題としての労働環境vs自主権の問題としての多様な消費行動――一方的な「あるべき」論では判断できない
続いて「働く人たちの労働環境を改善しようという働き方改革」→「そのための営業時間短縮」という文脈に即して考えみたいと思います。問題の核心は「自主権の問題」なのです。

いわゆる働き方改革は、従業員(労働者)の自主化に必要不可欠な取り組みです。私は以前から立場を鮮明にしているように、労働環境・労働問題は、労働者階級の自主権の問題であると考えています。そして、自主権の追求は最大限に支持・擁護しなければならないと考えています。他方、消費者の多様な消費行動もまた自主権の問題であり、これも最大限に擁護する必要があります。

そもそも、従業員にとっての「働き方改革」も、消費者の「多様な消費行動」も、突き詰めれば「多様なライフスタイルの追求」の一環という点において、従業員という立場と消費者という立場の違いはあれども、根底にあるものは同一です。また、消費者は同時に従業員であり、従業員は同時に消費者です。

立場の違いによって対立関係に立ってしまっているとはいえ、根底における「自主権の追求」が双方がともにもつ正当な権利追求である以上は、慎重に、具体的数値として調整するほかありません(いわゆる「集団主義原則」)。この線引きを誤れば、それは「一方が他方にライフスタイルを押し付けている」という結果に成り下がるでしょう。

私個人の考えとしては、「欲しいときにいつでも欲しいものが手に入る」というのは、消費者の立場としては、まことに豊かで自主的な社会の証左であると考えています。私自身もかつて深夜営業には助けられたものです。人間はモノを消費・活用することで、大小あらゆる自己の目的を達成します。流通は自己目的の物質的スタートラインである以上は、待ち時間が短ければそれに越したことはありません。

「私は深夜にコンビニには行かないから」といった個人的事情や「人間は夜寝て昼間に活動すべきものだ」といった「あるべき論」など持ち出してこないでいただきたいと強く思います。「あなたが使わないのは分かったし、べつに使わなくていいから、黙っていて」「あなたの『あるべき』論なんてどうでもいい」「『あるべき』論の展開を認めるとすれば、『サザエさんのように、午前は掃除洗濯をすべきで、買い物なんて昼過ぎから夕方4時までにやるもんだ』といった、より厳格(説教臭い)な言説が出てくる可能性もあるが、あんたどう反論するつもりなのよ」といったところです。

他方で、「消費者の消費文化生活」が「従業員の無理」の上に立っているのであれば、その部分に限って是正すべきです。私自身もかつて夜勤労働を行ってきた経験からも強く申し上げたいものです。たとえば、いわゆる「深夜割り増し」を、深夜増員の目的を特定した原資に当てるといった方法で、一人の労働者が一ヶ月間に行う夜勤回数を減らすなどといったプランで、消費者の利便性の核心を守りつつ、生身の労働者の負担を軽減させるという展開ができればベストでしょう(←いまニワカに思いついたプランなので、熟慮はしておらず、穴があるかもしれません)。

24時間営業問題に限りません。日本は物資の多くを輸入に頼っていますが、一部生産国においては、奴隷労働のような働かせ方で安価な製品(運動靴は以前、世界的に問題になりましたね)を輸出に回しているケースもあります。これは絶対に是正が必要なことですが、だからといって、「我々日本人は、そうした商品を我々の生活文化から一掃すべきだ」「運動靴なんていらない」という話にはならないでしょう。「奴隷労働をさせている工場の製品は買わない」「フェア・トレード運動に参加する」という方法論をとるのが常識的発想でしょう。同じことです。

■危惧すべき昨今の議論動向
本当に年中無休で24時間営業が必要なのか、便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」という言説は、ターゲットも具体的水準も曖昧に過ぎます。そして、問題の所在はどこで、どこをどういう観点で是正すべきで、その具体的数値は何とすべきかという方向に議論が展開することなく、それぞれが自分自身の都合や「あるべき」論だけでアレコレと主張を展開しているのが昨今の状況です。

ライフスタイルの見直しを掲げる昨今の風潮は、私は決して悪いものではないとは思っています。しかし、ライフスタイルの多様性を殺し、説教臭い世の中に突き進みかねない「落とし穴」が随所に掘られているとも見ています。
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2017年03月25日

タリウム毒殺事件被告人を取り巻く人々の軽薄な人間観・人格形成論

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170324-00000022-khks-soci
>> <タリウム事件>元名大生に無期懲役判決
河北新報 3/24(金) 15:46配信

 名古屋市で知人の高齢女性を殺害し、仙台市で同級生2人に劇物の硫酸タリウムを飲ませたとして、殺人や殺人未遂などの罪に問われた元名古屋大女子学生(21)=仙台市出身、事件当時未成年=の裁判員裁判で、名古屋地裁(山田耕司裁判長)は24日午後、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。


(以下略) <<
判決自体にはさして驚く部分はありません。法廷で認定された事実に基づけば、至極当然の結論に至ったものと思われます。事件自体は特異・異常な案件でしたが、裁判は「普通」に展開されたものと思います。

ただ、裁判中、一点だけ注目に値する場面がありました。下記の一幕です。
http://mainichi.jp/articles/20170217/k00/00m/040/127000c
>>
元名大生公判
母、涙で謝罪…異変に対処できず
毎日新聞2017年2月16日 23時54分(最終更新 2月17日 02時07分)

 名古屋市で高齢女性を殺害し、仙台市で高校の同級生ら2人に硫酸タリウムを飲ませたなどとされる元名古屋大学生の女(21)=事件当時16〜19歳=の裁判員裁判で、元学生の母親が16日、名古屋地裁(山田耕司裁判長)の公判に証人として出廷して謝罪した。元学生の言動を振り返り、異変がありながらも「事件を起こす少年とは違うと勝手に決めつけていた」と語った。【金寿英、山本佳孝】


(中略)

 2014年12月、女性殺害後に仙台市の実家に帰省した元学生から「人を殺したかもしれないけれど、夢か現実か分からない」と打ち明けられたと証言した。以前から同様の発言をしていたため「またかと思った」という。

 事件を起こす少年少女は学力低下が著しかったり、過酷な家庭環境で育ったりしている印象があり「経済的にバックアップしているし、現役で大学にも合格するぐらいだから、うちは違うと思っていた」と話した。

 母親は元学生が高校生だった時、劇薬物を所持していたとして警察に厳重注意されたことを把握した学校から呼び出された。「犯罪にも興味があり、通常の規範から外れている」「急に視力の悪くなった生徒がいるが、何か心当たりはあるか」と言われた。硫酸タリウムの所持は知らず「当時は娘のせいにされるのは心外だと思った」と振り返った。

 元学生が大学1年の夏に帰省した際、犯罪者や犯罪を称賛する発言をしたため、たしなめたところ「あんたはもっと早く自分を精神科に連れて行くべきだった」と言われたと述べた。その後、元学生を仙台市の発達障害の専門機関に伴い、面談を受けさせていた。

 母親は専門機関の職員から、元学生が「人を殺したいという願望は誰にでもある」と話していたと聞かされ、「(殺人を犯せば)処罰されるなどと理論で教えるしかない」と指摘されたという。


(以下略) <<
ご家庭全体にある程度の、中途半端な教養水準があったのでしょう。「事件を起こす少年少女は学力低下が著しかったり、過酷な家庭環境で育ったりしている印象があり「経済的にバックアップしているし、現役で大学にも合格するぐらいだから、うちは違うと思っていた」」――ふた昔くらい前の「教育」書にありそうな、経済還元論的な人格形成論です(俗流マルクス主義くずれの死に損ない「評論」家は、今でも同じようなことを言っていますかね?)。

人間が周囲の環境から影響を受けつつ人格を形成してゆくこと自体に私は異論を唱えるつもりはありません(それは観念論です)。しかし、人間は周囲の環境に一方的に規定されるわけではなく、その刺激の影響を受けつつも、他方で、ある程度は自生的に人格――脳細胞の回路――形成を進めるものです。まして、「経済的にバックアップ」だの「現役で大学にも合格する」だのというのは、あくまで「一要素」に過ぎません。このことは、たとえば、オウム真理教幹部たちが、おしなべて「優秀だが倫理観が決定的に欠如した学者」であった厳然たる事実からも容易に推察できることです。人間は、周囲環境(特に経済的環境)を説明変数とする単変数関数ではないのです。

仮に「経済的にバックアップ」や「現役で大学にも合格する」が重大な決定的要素だったとしても、それはあくまで統計的な事実であり、すべてのケースで当てはまるものではありません。本件被告人は「ハズレ値」の可能性もありました。

また、「専門機関の職員」の「(殺人を犯せば)処罰されるなどと理論で教えるしかない」。理論――「正常」であれば「理論」も通用するかも知れませんが、「異常」を疑われている相手に「理論」を説いたところで効果があるのでしょうか。いったいどういう「専門家」なのでしょうか? 

前述したように、被告人の母の証言は、ふた昔くらい前の「教育」書の受け売りのような言い分です。また、「理論で教えるしかない」などと凡そホンモノの専門家とは思えないようなイイカゲンな「助言」を与えられました。その意味では、あくまで素人であろう被告人の母は、イイカゲンな経済還元論者連中が「専門家」を僭称したがために生まれてしまった被害者とも位置づけることができるかもしれません。

本件事件は、被告人の周辺の人々がおしなべて、軽薄な人間観をもち、かつ、「統計」的事実を機械的に当てはめるがために、生身の人間そのものを直視しようとしない「観念」論者だったことが大きな一因だったのでしょう。

娘がサイコパスな犯罪を犯したからには、ご家族は生きた心地はしないでしょうから、私のようなお気楽な立場の人間が、こういうブログ記事を書いて追い討ちを掛けるのも本来は避けるべきなのかもしれません。しかし、教訓としてこのことは記憶しなければならないとも考えます。人間はそんなに単純な理屈で類型化できるものではなく、やはり個別に検討すべきものなのです。
タグ:社会
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2017年03月17日

軽薄な人間観に基づく経済還元論、彼我断絶的な人間関係論

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170316-00162569-toyo-soci&p=1
>> 売れっ子芸能人が相次ぎ引退している理由

東洋経済オンライン 3/16(木) 5:00配信


(中略)

■漠然とした不安が広がっている社会で

 スキャンダルに対する人々の目もだんだん厳しくなっています。高度経済成長がとっくの昔に終わり、未来に希望を持ちづらい時代になってきました。将来への漠然とした不安が広がっている社会では、人々は自分の未来を追いかけるよりも、先を行っている人の足を引っ張ることにとらわれがちになります。

 芸能人にまつわるスキャンダラスな報道は、富と名声を得ている(と思われる)スターを地の底に引きずり下ろすためのゲームと化しています。だからこそ、芸能人同士の不倫など、本来ならば当事者以外には何の関係もないようなことでも世の人々は大げさに騒ぎ立て、バッシングの嵐を引き起こします。その結果、ターゲットになった芸能人は必要以上に精神的に追い詰められていくのです。


(中略)

ラリー遠田

最終更新:3/16(木) 12:09
<<
■程度の低い経済還元論まで持ち出してきた
ゲス不倫問題について、当ブログでは昨年12月29日づけ記事で基本的な見解を述べており、今回改めて付け加えることは特にありません。便宜のため、上掲過去ログの主旨を以下に抽出・再掲します。
・不倫は信頼に対する裏切りであり、信頼は社会的人間の本質である。
・家族からの信頼も気分次第で守ったり裏切ったりするような人物は信頼するに値しない。
・そうした反社会的性格の人物が我々の市民社会で生活していることは、脅威以外の何者でもない。
・社会的人間の本質である信頼の裏切りを許容する社会規範は存在しない。弁護の余地はない。
・サザーランドの犯罪行動の分化的接触理論に基づけば、仮に自分自身とは無関係な場所での出来事であったとしても、「対岸の火事」として傍観してはならず、旗幟鮮明に反対すべき。
・我々の市民社会の基本原理を揺るがしかねない「文化」については反対し、その侵入に警戒すべき。
・我々の市民社会が人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている以上は、その根本を揺るがすような性格の人物の所業は、たとえ「ヨソの家庭内問題」であったとしても、「対岸の火事」として看過してはならない。

筆者であるラリー遠田氏の言説は、程度の低い「擁護」論の域を脱していないと言わざるを得ませんが、上記引用記事を見るに、彼の主張は、いまどき化石のような教条主義的マルクス主義の経済還元論者でも言わないようなコジツケを展開している点、輪をかけて程度が低いと言わざるを得ません。

高度経済成長が終わったのはもう40年以上も前の話です(ラリー遠田氏が生まれる前)。バブル崩壊以降の「失われた時代」も、まもなく30年になろうとしています。日本経済は長く停滞を続けています。もし、日本経済事情が昨今のゲス不倫問題への批判の主たる要因であるのならば、この40年間おなじ社会構造が続いていたのだから、同じようなことがずっと繰り返されてきたはずです。しかし事実に即して述べれば、芸能界の不倫ニュースは昔から定番中の定番ですが、今のような取り上げ方をされるようになったのは、つい去年・今年の話です(ついでに言えば、芸能界の薬物汚染も昔から変わりませんし、はっきり言って芸能人がヤク中でも一般人の生活にはあまり関係ありませんが、最近のほうが世論が厳しいという点では、よく似ています)。

ここ最近俄かに注目を浴びるようになったゲス不倫問題への批判の主たる動機を、日本社会の長年の構造的状況である「高度経済成長がとっくの昔に終わった」ことに対して人々が「未来に希望を持ちづらく、将来への漠然とした不安が広がっている」からだとする理屈は、時間的に因果関係の論証に無理があり、あまりにも説得力がありません(まさか、高度経済成長が何年に終わったのか知らない?)。特に「高度経済成長」を持ち出すのは、無茶苦茶過ぎるのです。教条主義的マルクス主義の経済還元論者だって、もう少しマシな理屈をつけるでしょう。

■総体としての生活を経済活動・生産活動に還元する軽薄な人間観
ある社会現象を時代の風潮に結び付けて説明すること自体は間違ってはいません。それを否定することは「観念論」という他ないと思います。しかし、なぜそこで経済状況に還元してしまうのでしょうか?スターリン主義者の生産力主義、教条主義的マルクス主義者の訓詁学、ナンチャッテ左翼のインチキ理論の負の遺産が未だに根強く残る日本の悪しき状況です。

経済活動・生産活動が人間と自然の物質代謝であることは私も認めます。また、経済活動・生産活動が自己疎外を引き起こし得ることも認めます。しかし、あくまで経済活動・生産活動は生活の一局面に過ぎず、生活総体は決して経済活動・生産活動だけに規定されるものではありません。自己疎外はあくまで人類史における一時的事象であり、人民大衆の意識的運動がそれを打破してゆくわけです。経済還元論者が理論の前提とする、いわゆる「下部構造−上部構造の関係」は、相互作用的と見るべきです。

経済活動・生産活動に限定することなく社会一般の標準的な生活をトータルに見渡せば、たとえば「東日本大震災以降の絆重視の風潮においては、不倫=裏切りは最も唾棄すべきものだから、強く批判されるようになった」という理屈付けのほうが、まだ幾許かの説得力があるといえるでしょう(もっとも、東日本大震災は発生から3・4年目で既に「風化」が指摘されていたのですから、この理屈付けでさえ少しコジツケ気味ですが・・・)。

■「経済成長の終焉」は「閉塞感蔓延の始まり」ではない
ラリー遠田氏の土俵に敢えて上って、仮に「高度経済成長がとっくの昔に終わった」という社会的状況が、昨今のゲス不倫問題への批判の要因だとしましょう(万に一つもないと思いますがね)。それでもなお、「未来に希望を持ちづらい時代」という分析は飛躍している(皆が皆そのように捉えるとは限りません)し、まして「将来への漠然とした不安が広がっている社会では、人々は自分の未来を追いかけるよりも、先を行っている人の足を引っ張ることにとらわれがち」という結論には直結しません。ラリー遠田氏は時代の流れを読み違えているだけでなく、論理を飛躍させてもいるのです。

高度経済成長がとっくの昔に終わった時代」イコール「閉塞感が蔓延する時代の始まり」とは言えません。低成長時代は見方を変えれば、「右肩上がりの時代が終わり、経済的自己利益の追求に限界が見えてきたからこそ、いままで見落としていた経済以外の分野にも視野が広まるようになった時代」とも言い得るからです。

たとえば、朝鮮大学校政治経済学部教授であり、いまや朝鮮総連幹部に出世なさったハン・ドンソン氏の著作『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』では、次のような、ラリー遠田氏のようなナンチャッテ左翼的な分析ではなく、ガチ左翼の資本主義分析が展開されています(同書113〜114ページ)。
>> (中略)歴史発展過程においては、経済生活、政治生活、思想文化生活が、つねに均衡的に発展してきたわけではありません。階級社会の搾取と抑圧のもとでは、社会生活の三大分野においてアンバランスが生じてきました。それは主に、経済生活の発展にくらべ政治生活と思想文化生活の発展が立ち後れることで表現されました。
 今日、資本主義社会では社会生活の三大分野で大きなアンバランスが生まれています。
 資本主義社会では、発展した経済が、人々のために正しく奉仕していません。非人間的な需要が人為的に操作され、人々を堕落させる各種の手段がつくられることによって、腐敗した生活が助長されています。物質的富の増大につれて、かえって人々の健全な精神が麻痺し、不道徳と社会悪が広まる一方、政治は保守化し、人々が自主的な政治活動を行ううえでの障害が大きくなっています。一言でいって、経済が成長するほど、物質生活が腐敗し、思想文化生活が貧困化し、政治生活が反動化しています。
(以下略) <<
資本主義的な経済は、生活の経済的側面を奇形的に刺激することによって、人々の健全な精神を麻痺させるといいます。

飽くなき経済成長が止まったからこそ、物欲・金銭欲の過剰な刺激が弱まり、それによって視野が広まり、隣人の不幸に共感を寄せられるようになり、自分とは直接関係のない不義不正に対して義憤を感じられるようになり、共に悲しみ共に怒ることができるようになったとすれば・・・これは決して悪いことではありません。もともと人間がもっていた社会的人間の本質的属性が資本主義経済によって奇形化されていたものの経済成長の鈍化に伴って元の姿を取り戻した、経済成長の鈍化を契機に経済的利益・利己的利益の追求に偏った異常状態が是正されて生活総体のバランスが取れるようになった、というのであれば、それは「社会における人間性の回復」という点において、むしろ進歩であると言ってもよいものです。

消費生活社会論的な見地に拠れば、昨今は、仲間内での時間・空間・感情の共有を志向する消費が好調であるそうです。「過剰な優しさ」も指摘される時代です。飽くなき経済成長が止まったからこそ、いままでになかった視野が広まりつつあることは、諸々の調査から推察できます。「経済成長の終焉=閉塞感蔓延の始まり」と図式化して断じるラリー遠田氏の言説は、あまりに一面的に過ぎると言わざるを得ません。

■社会との関連性が曖昧で彼我が断絶している軽薄なる人間観
こうした視野の広まりを「人々は自分の未来を追いかけるよりも、先を行っている人の足を引っ張る」というのは、あまりに決め付けすぎています。

仮に世論が奇怪極まる理屈を展開しているのであればまだしも、不倫問題はそうではありません。以前からの繰り返しになりますが、不倫というのは信頼への裏切り行為であり、家族からの信頼も気分次第で守ったり裏切ったりするような人物は信頼するに値しません。我々の市民社会が人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている以上は、その根本を揺るがすような性格の人物の所業は、たとえ「ヨソの家庭内問題」であったとしても、「対岸の火事」として看過することはできません。不倫は表面的には「ヨソの家庭内問題」ですが、本質においてはもっと重大な事象なのです。決して「先を行っている人の足を引っ張る」行為(そもそも根本的疑問として、芸能人は「先を行っている人」なのでしょうか?笑)ではありません。

こうした決め付け的言説の前提には、「満ち足りた人は隣人愛と正義感に基づいて連帯して抗議を行い、貧乏人は不満と嫉妬ゆえに寄って集ってイチャモンを口にする」といった想定が横たわっているものです。しかし、人間同士が連帯して主張する状況は、満ち足りた世界だけで生まれるものではありません。貧乏人にだって人間としての正義感はあります重要なのは、発言者の属性ではなく、その主張の正当性です。

過酷な時代であるからこそ連帯意識が生まれるケースもあるものです(ユダヤ民族のケースなど)。貧乏ゆえに不正に直面する頻度が高く、だからこそ覚醒しやすいとさえ言えます(公害運動・社会運動の同志的連帯のケースなど)。満ち足りた安穏な生活は、むしろ、多少の不義不正にも鈍感になってしまいかねないと私は考えています。「人間は自分の生活に余裕がなくなるにつれて、他人のことが気になって仕方なくなり、ささいな不正に目くじらを立てるようになる」という図式をよく目に・耳にしますが、私は逆に、「生活に余裕が出来ると鈍感になるってこと? それって自分のことにしか興味のないタイプの人間、自分の利益が守られていれば他人への不当な仕打ち、他人同士のトラブルなど眼中に無いタイプの自己中心的人間を、自己弁護的に言っているだけじゃないの?」と受け止めています。自分だけで生きているつもりになっている、他人に対して共感できない哀れで軽薄な人物像が滲み出ているなと思っています(まあ私もエラそうなこと言えるほど立派な人間ではありませんけどね笑)。

こういう理屈を展開する方々は、「社会的集団の一員」という位置づけとしてではなく、人間を「社会との関連性が曖昧な『個人』」として位置づけていることが推察できます。たとえ他人同士のトラブルであっても、人間がみな社会に参加している以上は、どこかで必ず繋がっています。特に、信頼関係の問題は社会の基本的紐帯であり、それを脅かすような性格をもった人物の行動は、最初は他人同士のトラブルであったとしても、その問題人物が社会生活を送ってゆくことによって、ゆくゆくは各地で問題を引き起こし、全体のシステムにも悪影響を及ぼしかねません。

その意味で、人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている我々の市民社会のうちにおいて、不倫という裏切り行為の最たるものが敢行された事実は、決して「ヨソの家庭内問題」「対岸の火事」では済まされません。この重大な事態を「本来ならば当事者以外には何の関係もないようなこと」などとするのは、結局、人間を「社会的集団の一員」ではなく「社会との関連性が曖昧な『個人』」として見る軽薄な人間観の発露、すなわち、他人同士のトラブルが永遠に他人同士のトラブルであり続ける、自分は他人と関連していない関係してない、要するに彼我の断絶という思い込みの発露と言わざるを得ないのです。

■社会的人間の本質を捉え損ねた軽薄な人間観の憂慮すべき拡散状況
化石のような教条主義的マルクス主義の経済還元論に加えて、社会との関連性が曖昧で彼我が断絶している、軽薄な人間観に裏打ちされた無茶苦茶な不倫「擁護」論。社会的人間の本質を捉え損ねた軽薄な人間観が、意外と広範に拡散していることに憂慮します。
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2017年03月15日

「ブラック研究室」の根本に存在する前近代的師弟関係・人間関係

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170315-00010001-newswitch-soci
>> 学生を追い詰める「ブラック研究室」の実態

ニュースイッチ 3/15(水) 8:30配信

不正を暴いて波風を立てることにメリットがない…

 学生や研究員を追い詰めるような「ブラック研究室」は研究不正の温床になる。学生にとってはブラック研究室の実態を暴くことにメリットはなく、目標にはなり得ない。研究室から円滑に卒業し、就職やステップアップなど次の活躍の場を得ることがゴールだ。そのためには不正を暴いて波風を立てることは合理的でない。果たして倫理教育で学んだモラルはどこまで有効なのだろうか。


(以下略) <<
■「ブラックxx」の本質を抉る「ブラック研究室」という問題提起
「ブラックxx」――ブラック企業を筆頭に、いまやあらゆる分野において見られています。それだけ自主性のの侵害が横行しているということなのでしょう。今回は「ブラック研究室」です。

ブラック研究室という問題提起は、いわゆるブラック企業以上に問題の核心を抉っている、上手い問題提起です。ブラック企業という言葉は、「労働者を酷使することによって利益を得るモデル」という意味合いで使われることが多い言葉です。たしかそういう側面は否定できませんが、必ずしも、他人を踏み台にすることを厭わない極端な利己主義・利益至上主義的なケースのみがブラック企業というわけではありません。チュチェ105(2016)年10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度――言いたいことは分かるが洗練されていない」で取り上げた「秋山木工」という時代錯誤的な「徒弟制度」を維持している企業のように、利益至上主義とは異なる動機でブラックな振る舞いをしているケースもあります。通念とは異なり、「ブラックxx」は、権力者の利己主義の発露とは限らないのです。

学問の世界というのは、前近代的な師弟関係が未だに根強い世界です。たとえば一部経済学分野や歴史学分野では、諸外国ではまず相手にされないレベルの笑ってしまうくらい化石的・図式的なマルクス主義唯物史観による歴史的事実のコジツケ解釈が未だに連綿と受け継がれています。アカデミックでない「読み物」的な経済学・歴史学の本のほうが、実は国際標準だったりするくらいです。たとえば最近、山川出版社の高校世界史用語集が改訂されましたが、「産業革命は『革命』には当てはまらないという指摘もある」といった記述がようやく掲載されるようになりました。欧州の経済史学では遥か昔からの国際的常識で、日本国内でも「変わり者」的な歴史学者が以前より提唱してきた見方ですが、唯物史観が根強い日本の学界ではなかなか浸透しませんでした。ようやく日本にも世界標準が波及してきたわけですが、いかに日本のアカデミック界隈が時代錯誤なのかがこの一例からも分かります。

■「ブラックxx」の2類型
こんな時代錯誤な研究がいまも生き残っているのは、学者たちの目が節穴である可能性を除けば、何らかの「強制力」が働いていると見るほかありません。その点において、本記事が告発する学問世界における師弟関係の強さ、そしてそれに起因する「研究室のブラック化」という問題提起は、「ブラックxx」の構成原理には前近代的な師弟関係が横たわっているケースもあり、それゆえに「弟子」たちは、明らかにムチャクチャな指導であっても遵守しなければならない強制的圧力に晒されている現実を告発する問題提起になっています。「ブラックxx」は、権力者の自己利益至上主義型と、前近代的な師弟関係型の2つがあるわけなのです。

■何をなすべきか
こうした、前近代的な師弟関係型の「ブラック」な事例を打破するにはどうすればよいでしょうか? チュチェ105(2016)年1月19日づけ「テンプレの域に達しつつある「労働組合結成の勧め」――中世的芸能界の近代革命のために必要な組織とは?」において私は、学問世界以上に前近代的人間関係が横行している芸能界におる「SMAP解散問題」を具体例として取り上げながら論じました。その中で私は、前近代的人間関係の打破は、まさに中世から近代への歴史の変化と同様に、古い社会的人間関係の枠内で「運動」を展開するのではなく、新しいフィールドで新しい人間関係を築きなおすことによってのみ実現されると述べました。詳しくは当該記事をご参照いただきたいのですが、要するに、古い人間関係から脱出し自由を得た後に、その新しい人間関係を自主的に管理するという経路を辿るしかないのです。

「ブラック研究室」の打破もまったく同様です。前近代的な師弟関係を要求する指導教官ではなく、現代的・自主的な人間関係を前提とする指導教官に教えを乞うのです。仮に前近代的な師弟関係を要求する指導教官が学会の大権威あるいは自分の研究テーマの第一人者であるがゆえにその人に当面は師事するほかないとしても、自主化の魂だけは失ってはならず、いつか必ず来る自分の時代においては、弟子たちに対して自主的に接するべきなのです。指導教官はいつかは引退します。負の人間関係を再生産しないことを固く決意し、自分自身は茨の道を歩むことも必要であるといえます。

利益至上主義という文脈で捉えがちな「ブラック企業」という問題提起からでは、なかなか到達することができないこの結論は、前近代的師弟関係・人間関係という文脈が鮮明に浮かび上がる「ブラック研究室」という問題定期からは容易に到達できました。「ブラック研究室」、上手い論点設定です。

今日は3月15日。ロシア帝国(ロマノフ王朝)崩壊からちょうど100年になるそうです。ロシア2月革命が成就した日でした。革命100年を記念します。
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2017年03月14日

労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利――ゼンショー社で「勤務間インターバル規制」が実験的導入

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170313-00000097-asahi-bus_all
>> 「すき家」のゼンショー、社員休息の新制度 負担減狙う
朝日新聞デジタル 3/13(月) 20:36配信

 牛丼チェーン「すき家」を運営するゼンショーホールディングスは、終業と始業の間に一定の休息時間を確保する「勤務間インターバル規制」を実験的に始める。13日、今春闘の労使交渉で合意した。慢性的なアルバイト不足のなか、社員の負担軽減を狙って終業と始業の間を11時間以上あけるようにする。2017年度中に数店舗で始め、全店への展開を検討する。今春闘では、月1400円のベースアップでも合意。パート・アルバイトについても時給を引き上げる。


(以下略) <<
■労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利
あの「ワンオペ」で悪名高い「すき家」のゼンショー社が、慢性的な人手不足を背景に、実験的導入とは言うものの先進的な「勤務間インターバル規制」を導入する運びになりました。

当ブログでは以前から述べてきているように、労働者が勤め先に対して自主的な立場を獲得・維持するためには、常に「辞める」という選択肢を留保しておくべきだと述べてきました。経済学的に考察したとき、特定の企業に対して依存することは、自らの自主的な立場を弱めます

「辞める」という選択肢が無い状態においては、仮に労使交渉によって利益を獲得したとしても、それは同時に勤め先への結びつきを強めることでもあります。おそらく企業側は、「巻き返し」を虎視眈々と狙ってくることでしょう。むしろ、いったん「好待遇」を提示することで囲い込み、後々になってから労働需要独占者としての立場を利用して買い叩いてくるかもしれません。

他方、「辞める」という選択肢がある状態で企業側から譲歩を勝ち取ったケースにおいては、企業側が「巻き返し」を図ろうものなら、労働者はすぐに逃げ出すことでしょう。合理的な商売人であれば、「金のなる木」を逃がさない程度に搾取することでしょう。

今回のゼンショー社の譲歩は、慢性的な人手不足=労働市場における売り手市場という社会的な状況下で出てきたものです。つまり現在、労働者階級は、「辞める」という選択肢がある状態です。こうした状況下で、市場メカニズムを活用する形での要求活動を展開することこそが労働組合が本来的に行うべき要求活動です。ゼンショー社の労働組合は上手くやったと思います。

■偉大な勝利とは言っても勘違いしてはならない
ただし、勘違いしてはいけないのは、今回の要求の実現は、あくまで「慢性的な人手不足」という社会的状況が決定打だった、つまり、「粘り強い組合運動」に対して企業側が譲歩したというよりも、市場メカニズムの作用に企業側が反応・対応した結果に過ぎないということです。「ワンオペ」が中止に追い込まれたときと同様の構図です。「ワンオペ」のときも労働組合の改善要求に企業側が折れたのではなく、ワンオペの悪評が労働市場に広まり、アルバイトの応募が激減したことが決定打でした。時代の流れに上手く乗ってチャンスを生かすのも十分に才能だと言えますが、自分自身の力を過信してはなりません

労働組合が労働市場を常に意のままに操作すること自体は困難ですが、しかしながら、世論を醸成・喚起するキッカケづくりは可能です。世論への訴えを通じて、間接的に労働市場に影響力を行使し、労働供給側のパワーを強める手順・方法論を整備すべきでしょう。労働環境に対する社会的関心がかつてなく高まっていますが、この世論を維持する努力は今後も続けるべきでしょう。

■好況のうちから実力を
景気は循環するものであり、いつかまた不況は必ず来ます。不況下でも同じ調子で要求活動を展開すると、今度は「辞める」という選択肢が実質的にとれない状況下なので、逆に企業側に足許を見られることになるでしょう。不況下であっても買い叩かれないように、好況のうちから技能や知識を熟練化させておくべきでしょう。

■好況のうちからソーシャル・ブリッジの構築も
なお、社会人デビュー・労働者デビューが不況時代に重なってしまった運の悪い世代については、ソーシャル・ブリッジの構築が必要だということは申し述べておきます。以前から繰り返し取り上げている、スウェーデンの「人は守るが、雇用は守らない」(=労働者の生活は守るが、特定企業への財政支援・産業保護はしない)を原則とする労働政策に則ったものです。
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2017年03月12日

ご近所トラブルからの草の根レイシズム――「我々が彼らに寛容になろう」ではなく「ご近所同士お互いに配慮し合おう」

ちょっと古い記事になりますが、重要な記事です。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170225-00010002-dime-soci
>> 7割の人が住むのをためらう○○が多いマンショ

@DIME 2/25(土) 9:12配信

 ここ数年、訪日外国人の数は増加傾向にあり、観光地だけでなく、スーパーや飲食店でも見かけるようになった。また都心の飲食店やコンビニでは、外国人の店員も多い。身近なところで外国人と接する機会が増えた分、「言葉の違い」や「文化の違い」などからトラブルへと発展してしまうこともあるのではないだろうか。オウチーノが2015年に、首都圏在住の20歳〜59歳男女498名を対象に、「『外国人トラブル』に関するアンケート調査」を行なったところ、「外国人が多いマンション」は7割の人がためらうと答えていることがわかった。


(中略)

■約7割が、外国人が多くいるマンションに住むのはためらう

 最後に、「仮にこれからあなたがマンションを購入するとして、購入したいと思ったマンションに外国人が多く住んでいると分かった時、あなたはどうしますか?」という質問をした。

 結果、「購入をとりやめる」と答えた人が21.9%、「購入を迷う」と答えた人が23.7%、「どこの国の人かによる」と答えた人が24.9%、「特に気にしない」と答えた人が29.5%だった。なお、「外国人とトラブルになったことがある」と答えた人の場合、48.8%が「購入をとりやめる」と答えた。やはり一度トラブルを経験してしまうと、近隣に住むことをためらう人が多いようだ。

「購入をとりやめる」と答えた人にその理由を聞くと、
「価値観や生活習慣が違うとトラブルになるから」(45歳/男性)
「治安やコミュニケーションに不安があるから」(36歳/男性)
「ゴミ出しや生活習慣の差による騒音など、トラブルが多そうだから」(58歳/女性)などが挙がった。

「購入を迷う」と答えた人にその理由を聞くと、
「言葉が通じなかったり、日本の文化を知らない人がいるとちょっと不安だから」(28歳/女性)
「トラブルが発生しそうだから」(34歳/男性)
「住んでいる人が日本的な生活をできているのか、確かめる必要があるから」(27歳/女性)などが挙がった。

「どこの国の人かによる」と答えた理由を聞くと、
「反日思想の国の人なら購入をやめるから」(46歳/男性)
「モラルのない国は困るから」(33歳/女性)などが挙がった。

「特に気にしない」と答えた理由を聞くと、
「日本の文化に溶け込もうとしているなら問題ないから」(58歳/男性)
「外国人と交流するいい機会だから」(29歳/男性)
「日本人だって問題のある人はいる。外国人と言うだけで躊躇することはないから」(50歳/男性)などが挙がった。

 約7割が、購入予定のマンションに外国人が多く住んでいたら、購入をためらうことがわかった。一方で、交流するいい機会になる、といった前向きな声も挙がった。マンションの管理側も、居住者同士がうまく共同生活を送るために、現行のルールをただ守れというだけではなく、管理規約などを多言語化すること、文化・生活習慣の違う外国人がいる前提でルールを作ることなどが必要になるのではないだろうか。

 日本に来る外国人が増えることで、日本人が享受するメリットがある一方、トラブルの増加も避けられない。どう外国人と上手に付き合っていくのか、他人事と思わず考えていく必要があるのかもしれない。

【調査概要】
有効回答:首都圏在住の20歳〜59歳男女498名
調査方法:インターネットによるアンケート調査
調査期間:2015年11月11日(水)〜11月13日(金)

文/編集部
@DIME編集部

最終更新:2/25(土) 9:12
<<
価値観や生活習慣が違うとトラブルになるから」「治安やコミュニケーションに不安があるから」「ゴミ出しや生活習慣の差による騒音など、トラブルが多そうだから」――外国人に対して溝を作る発想に基づく言説です。ヘイトスピーチ問題が注目を浴びるようにきた昨今、日本第一党vsのりこえネット、ネトウヨvsパヨクの「イデオロギー空中戦」が激化する一方ですが、そうした連中がほとんど関与していない「近所づきあいの現場」という生活に密着した土俵で、外国人に対する溝が深まっています

価値観や生活習慣が違うとトラブルになる」といった生活上の摩擦は、「やはり一度トラブルを経験してしまうと、近隣に住むことをためらう人が多いようだ」という一文からも分かるように、ゆくゆくは深刻な外国人に対する嫌悪感に発展します。差別意識というのは、特定個人との間での不満・トラブルの蓄積が、その個人が所属している集団の問題に増幅されることで生じるものです(サンプル数過少のインチキな統計的推論のようなものです)。また、実際に自分自身が外国人とトラブルになったことがない人物であっても、こうした情報に接すると、「外国人は生活習慣が違うから・・・」というイメージが定着し、外国人敬遠に繋がってしまいます

こうした発想を「思い込みに過ぎない」などと批判することは、理屈の上では正しいものの、被害経験者の被害者感情や、とにかくトラブルを徹底的に避けたい人物の切なる生活上の願いの前では、ほとんど意味がありません。たとえ「レイシスト」と言われようとも、自分自身の生活を守ることを選択する人は少なくないでしょう。

快適な日常生活をお互いに送るためにも、特定個人によるトラブルを差別問題に発展させないためにも、生活の現場;近所づきあいの過程で生じるトラブルを最優先で、一つ一つ解決してゆく必要があります。

ここで重要なのは、問題は近所づきあいの過程で生じている以上は、お互いに配慮する必要があるということです。外国人・異人種に対する寛容を要求する人たちや、あるいは、「反レイシズム」の人々は、「異なる文化の人たちを仲間として受け入れよう!」といった具合に受け入れ側への「変化」を要求します(日本国内に限らず、欧米の移民受入国でも見られます)。しかし、「近所づきあい」のような生活に密着した視点に立って考えるとき、日本人住民同士のケースであっても日本人vs外国人のケースであっても外国人住民同士のケースであっても等しく、既に住んでいる人と新しく引っ越してくる人とが、お互いに配慮し合う必要があるといえます。イデオロギー空中戦でお忙しいネトウヨやパヨクの皆さんはご存じないかも知れませんが、一般生活者同士の近所づきあいは、お互いに配慮しあってやるものなんですよ。

レイシズムに関するネトウヨvsパヨクのイデオロギー空中戦は一進一退の攻防が展開されていると言えます。しかし、それとはまったく隔絶された「戦線」では、レイシズムを推進させかねない大きな勢力が育ちつつあることがこの記事から分かります。そして、「反レイシズム」を自称する勢力が、その状況にまったく気がついていないのが現状です。気がついたころには、「草の根レイシズム」が相当の規模になっていかねない状況にあるのです。

日本第一党など相手にしている場合ではないし、のりこえネットのイデオロギー空中戦志向に期待は掛けられません。繰り返しになりますが、近所づきあいの過程で生じるトラブルを「我々が彼らに寛容になろう」ではなく「ご近所同士お互いに配慮し合おう」で対処してゆくべきなのです。
タグ:社会
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2017年03月10日

なぜ朝日はすぐに跳ね返ってくるブーメランを森友学園に投げるのか

http://www.asahi.com/articles/DA3S12834085.html
>> (社説)教育勅語肯定 稲田大臣の資質を問う

2017年3月10日05時00分

 稲田防衛相に閣僚としての資質があるのか。重大な疑義を抱かざるを得ない発言である。

 稲田氏は8日の参院予算委員会で、戦前の教育勅語について次のように語った。

 「日本が道義国家を目指すというその精神は今も取り戻すべきだと考えている」

 「教育勅語の精神である道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なものとして維持をしているところだ」


(中略)

 いざという時には天皇に命を捧げよ――。それこそが教育勅語の「核」にほかならない。

 稲田氏のいう「道義国家」が何なのかは分からない。ただ、教育勅語を「全体として」(稲田氏)肯定する発言は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という憲法の理念と相いれない。

 教育勅語は終戦後の1948年、衆院で排除の、参院で失効確認の決議がされた。衆院決議は勅語の理念は「明らかに基本的人権を損ない、且(か)つ国際信義に対して疑点を残す」とした。

 当時から、「いいことも書いてある」などとする擁護論もあった。これに対し、決議案の趣旨説明に立った議員は「勅語という枠の中にある以上、勅語そのものがもつ根本原理を、我々は認めることができない」と言い切っている。

 当時の文相も「教育勅語は明治憲法を思想的背景としており、その基調において新憲法の精神に合致しないのは明らか」と本会議で答弁した。

 こうした議論を踏まえることなく、勅語を称揚する姿勢は閣僚にふさわしいとは思えない。

 まして稲田氏は自衛隊を指揮監督する立場の防衛相である。軍国主義の肯定につながる発言は国内外に疑念を招く。


(以下略) <<
稲田氏が言う「教育勅語の精神である道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にする」が、本当に教育勅語の「核心」と言えるのかは大いに疑問であり、「いざという時には天皇に命を捧げよ――。それこそが教育勅語の「核」にほかならない」という朝日社説の言い分のほうが私はシックリと来ます。

しかし同時に、過去に生み出された思想や著作・文言等から「何を教育・英知として引き出すのか」というのは、その時代によってマチマチです。教育勅語の核心は、作成当時は「いざという時には天皇に命を捧げよ」だったのかもしれません。しかし、現代的な視点から再検討したとき、「道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にする」という部分に注目し、その点については復権させることは、物事は多面的である以上は、私は悪いこととは思えません。報道機関であれば、稲田氏が「いざという時には天皇に命を捧げよ」という部分については如何考えているのかを問うべきでしょう。

もし、朝日社説の言い分の通りに行けば、朝日も時折、特集記事を組んでいるマルクスやレーニンに対する「再評価」はどうなるのでしょうか。マルクスやレーニンの主張の核心は、「階級闘争・暴力革命・政権転覆」に他ならないのは明らかです(「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである。」――マルクス)。

マルクスについては、「文筆家 兼 大志を成就できなかった『革命家』」だったので、ある程度の言い逃れはできるものの、レーニンは実際に政権を暴力で転覆させ、そして血の粛清・反対派虐殺を敢行しました。「マルクスの『資本論』、レーニンの『帝国主義論』は、いまも生きている」などというのは、マルクス・レーニンの「階級闘争・暴力革命・政権転覆」という核心的要素に比べれば枝葉。教育勅語の「いざという時には天皇に命を捧げよ」に対する「道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にする」の関係性と同じです。

私は、昨今の森友学園の大炎上っぷりにはニヤニヤが止まらないのですが、こんなにすぐにブーメランが返ってくるような雑な理屈による森友学園批判・自民党政治家批判は、たいへん迷惑です
タグ:メディア
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2017年03月08日

「マレーシアは北朝鮮に友好的な国だ」――「戦前の朝日新聞」のような単細胞は通用しない

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170308-00000042-reut-kr
>> 北朝鮮との断交は計画していない=マレーシア首相

ロイター 3/8(水) 12:29配信

[クアラルンプール 8日 ロイター] - マレーシアのナジブ首相は8日、マレーシア政府が北朝鮮との国交断絶を計画していないことを明らかにした。

首相は議会で「われわれは北朝鮮に友好的な国だ」と語った。


(以下略) <<
ラングーン事件の再来ならず! マレーシア首相はこのタイミングで敢えて「われわれは北朝鮮に友好的な国だ」とまで言いました

「国際的孤立を深める北朝鮮」の筋書きに沿わない展開は、日本メディア、韓「国」政府筋にとっては極めて面白くない展開でしょうし、そして、いまだに何かというと「断交」「戦争」「膺懲」だのと戦前の朝日新聞のような単細胞な発想ばかりが飛び出してくる日本「世論」にとっては、意外な展開であることでしょう。断交というのは外交戦略としては選択肢の一つとしてあり得るものですが、そう易々と繰り出せるようなものではないのです。マレーシア政府の今後の決断は、これからの捜査の動向に応じて依然として注視すべきだと私も思いますが、このタイミングで国交断絶を選択するという展開を本気で予想するのは、あまりにも短絡的です。

事実のデータを基に物事を判断する人間にとっては、「国際的孤立を深める北朝鮮」は正しくない認識です。日本「世論」によれば、「へー、マレーシアは北朝鮮なんかといままで国交を結んでいたんだ」といったところでしょうが、外務省(日本)によると、162カ国が朝鮮民主主義人民共和国を国家として承認し、国交を結んでいます。ちなみに、国連加盟国は、全世界で193か国です。アメリカや日本、共産圏とは国交を結ばないバチカンや、冷戦期以来そのままの国々(中南米に多めですが、あのあたりの国々にとって極東アジアには余り関心がないのでしょう)は国交を有さないものの、全世界の8割以上の国々が朝鮮民主主義人民共和国と国交を結んでいます。いわゆる「孤立」のイメージに反する事実のデータです。

エジプトで過去最大規模の「制裁逃れの密輸」が発覚しています。密輸というのは商売であり、つまり「買う人」がいるということです。アフリカ諸国を中心に、「国連の制裁」をヨソに朝鮮民主主義人民共和国と貿易を続けている国は決して少なくありません。また、地理的に遠い朝鮮半島方面からアフリカ方面に「遠征」するには何度か寄港する必要がありますが、わざわざ「敵国」に寄港するはずもなく、シーレーンには「基本的に友好国」が複数存在していることが推察されます。また、このロケット弾事件は、「中国・南京で荷積みされた「水中ポンプの組み立て部品」と虚偽の説明が記されていた」とのことで、やはり中国共産党政権の影がチラつきます。こうした事実のデータは、朝鮮民主主義人民共和国が「孤立」しているとは言いがたい現状を示唆します。国交は「単に結んでいるだけ」という実態を伴わないケースもあるでしょうが、実際の貿易活動の場合、そうはいえないでしょう。

視点を朝鮮民主主義人民共和国本国に移せば、首都ピョンヤンの開発が盛んです。「貧乏で孤立している北朝鮮」が本当であれば、いったい何処からあの資金が出てきたのでしょうか。あれだけミサイルを連射しているのだから、都市整備にかける金銭は国内だけでは逆立ちしても出てこないはず。やはり、「輸出先」があり、「外部からの投資」もあることが推察できます。やはり「孤立」しているイメージに反する事実のデータです。

地方都市に目を移しましょう。もし、朝鮮民主主義人民共和国が対外的に断絶された閉鎖経済であれば、途方のないインフレが今もつづいているはずです。価格も流通物資量も破滅的な状況であるはずです。しかし、事実のデータは異なります。
http://jp.reuters.com/article/north-korea-prices-currency-idJPKCN10K0BB?sp=true
>> World | 2016年 08月 10日 09:34 JST
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アングル:北朝鮮、制裁下でも安定する物価と通貨の「謎」


[ソウル 8日 ロイター] - 相次ぐ核実験や弾道ミサイル発射実験に対して、国際社会が制裁を強めているにもかかわらず、北朝鮮の食料と燃料の価格は、金正恩朝鮮労働党委員長の下でおおむね安定を維持している。孤立する同国内部から得た珍しいデータから明らかとなった。

父親の故金正日総書記の時代とは対照的に、現在は物価と通貨の両方ともに比較的安定しているが、その要因の1つには、ますます進む市場本位の経済に正恩氏が不干渉主義的なアプローチを取っていることが挙げられる。また専門家らは、北朝鮮政府が何らかの政策を習得していることの表れだと指摘する。


(中略)

「金正恩氏が政権を握ってから、ジャンマダンに対する支配、あるいは取り締まりは行われていない」と、脱北者で現在は韓国の北朝鮮専門ネット新聞「デイリーNK」で働くKang Mi-jinさんは話す。Kangさんは定期的に北朝鮮の市場筋と話をするという。

「金正恩氏は悪いこともたくさんしているが、市場を開放し続けることは国民にとってポジティブな効果がある。他に選択肢はない。国民を養えないので、完全に市場を閉鎖することなどできない」

脱北者で運営される「デイリーNK」から得た情報に基づいてロイターがまとめたデータによると、昨年のコメ、トウモロコシ、豚肉、ガソリン、軽油の価格は比較的安定しており、国内外の出来事に対する価格抵抗力を示している。


(中略)

「過去2年に見られるウォンの効果的な安定は、皆にとってちょっとした謎だ」と語るのは、米カリフォルニア大学サンディエゴ校の北朝鮮経済専門家ステファン・ハガード氏だ。

「通貨の転換が大失敗に終わった後、何らかの貨幣政策の習得があったことはほぼ間違いない」と、同氏は指摘する。

金正恩政権の下で、歯磨き粉から香水まで国内産の消費財が増え始めており、これが価格の安定にも寄与した可能性がある。

平壌の一部の店では現在、ほぼ国内製品だけを販売し、市場の実勢レートに従って価格は決められている。

「北朝鮮で製造された中国製品のコピー商品は、オリジナルよりも安く、人気がある」と、脱北者のSeo Jae-pyoungさん。Seoさんは2001年に北朝鮮を離れたが、定期的に同国内にいる情報筋と話をしている。

北朝鮮の一般国民は差し当たり、国が孤立を深めているにもかかわらず、比較的うまくやっている。

Seoさんは「今年新たに制裁が科されたにもかかわらず、一般市民はうまくやっている」としたうえで、「その効果は来年から徐々に表れ始めるかもしれない」と話した。

(James Pearson記者、Ju-min Park記者 翻訳:伊藤典子 編集:下郡美紀)
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ここで重要なのは、「北朝鮮の一般国民は差し当たり、国が孤立を深めているにもかかわらず、比較的うまくやっている」という事実のデータだけではなく、「金正恩氏が政権を握ってから、ジャンマダンに対する支配、あるいは取り締まりは行われていない」という指摘です。つまり、自生的・無政府的な闇市が盛んになっているのではなく、朝鮮労働党政権が、政策としてその自生的秩序を容認しているのです。

このことは、当ブログでも以前から取り上げてきました。2013年10月7日づけ「チュチェの市場経済・ウリ式市場経済――共和国の経済改革措置に関する報道簡易まとめ」では、朝鮮民主主義人民共和国政府関係者の「すべての工場・企業所の国家管理ができなくなってきたので、、産業の現場における権限を拡大する」という、ある意味において、ハイエクの計画経済批判を認めるがごとき発言を紹介しました。また、昨年の最高人民会議においても、2013年以来の経済改革が否定されませんでした。経済改革は政策として進んでいます。さらに、本年1月2日づけ「キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!」でも触れたとおり、こうした経済改革のイデオロギー的後ろ盾も着々と強化されています。朝鮮民主主義人民共和国はイデオロギー過剰な国家です。「背に腹はかえられず、経済改革」ではなく、それを積極的に正当化しているのが昨今の朝鮮労働党政権・キムジョンウン体制なのです。

決して孤立などしていないし、それどころか、立ち位置を固めつつあるのです。諸外国の暗黙の協力下、貿易活動を展開し、その利益を国内で循環させつつあるのが、今日の朝鮮民主主義人民共和国なのです。
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2017年03月06日

コストカットと稼働率は両立しうる――システム科学的な冗長化思想を物流業界に

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170306-00010001-nkogyo-ind
>> コストダウンの集中か、リスク回避の分散か アスクル火災で選択迫られる物流業界

日刊工業新聞電子版 3/6(月) 11:50配信

コーセー、バランス見直す

 アスクルの物流倉庫火災が、物流拠点の集約化を加速してきた物流業界に新たな課題を突きつけている。物流網に1カ所でもトラブルが起これば、企業の経営に大きな影響を与える事態が浮き彫りとなった。コストダウンの“集中”か、リスク回避のための“分散”か、ビジネスモデルの選択を迫られている。

 「まさかあんなに燃えるとは」。鎮火までに12日間を要したアスクルの物流倉庫「ASKUL Logi PARK 首都圏」(ALP首都圏、埼玉県三芳町)の火災は、物流関係者やメーカーに大きな衝撃を与えた。

 物流業界関係者は「物流戦略を見直す教訓となった」と話す。コーセーは「物流倉庫の(集中と分散の)バランスを見直した方がよい。国内に4カ所の大型物流拠点があるが、拠点増設に向けたコスト試算を始めた」(新本浩一執行役員)と対策に動く。


(中略)



 アスクルは近く、岩田彰一郎社長兼最高経営責任者(CEO)が火災の状況報告や事業への影響を説明する予定。しかし「横浜に倉庫がなかったら企業存続すら危ぶまれた」(業界関係者)との声もある。倉庫や在庫が自社保有という特性も加わり、短期的な業績への影響は大きくなりそうだ。

最終更新:3/6(月) 11:50
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■システム科学的な冗長化という考え方はないのか
異業種の視点から述べれば、「えっ、物流業界
は、そんなレベルの『選択』を『迫られ』ているの?!」と驚くばかりです。一点に集中させた財産に何かあったらどうするつもりなのか・・・コンピュータ・システムに幾らかの造詣がある人物であれば、デジタルデータは一瞬で跡形も無く消失する特性があるだけに、「システム・エンジニア」のレベルに達しないまでも「冗長化」という考え方が浸透しています。「まさか物流業界の皆々様は、そんな基本的なところで頭を悩ませているってことは、大切なデータをバックアップなしでハードディスクで集中管理しているの?」と疑わざるを得ません。まあ、東日本大震災のとき、たった1系統が不通になっただけで一気に「東北地方物流危機」が起こった前例を思い返せば、そうなのかもしれません。

コンピュータ・システムは高い稼働率を要求されます。「年間稼働率99%」は高い数値にみえて、年間3日は停止している計算になります。99.999%でも、年に5分は停止する計算になります。人命に関わるようなシステムの場合、99.9999%(年32秒停止)であっても重大なリスクです。それだけに、業務継続のために多重の安全機構が整備されています。その基本的な視座が冗長化と呼ばれるものです。ここで冗長化そのものについて深くご紹介する予定はありませんが、冗長化は、かなり科学的に探究されており、客観的な指標が形作られています。バックアップも冗長化の一種であると位置づけることが出来るでしょう。

■コストカットと稼働率は両立しうる――「戦時設計」の真実
物流業界にコストダウンの圧力があるのは私も十分に承知しています。しかし、極端なコストカットのあまり「手抜き」の代名詞とさえ見なされてる「戦時設計」は、実は大切な場面では敢えて手間を掛けてまで稼働率向上に取り組んでいます。たとえばWikipediaの「戦時設計」の項にもあるように、戦時の物資不足期に開通した関門海峡トンネルは、複線形式ではなく敢えて単線並列方式をとることによって、爆撃等で片方のトンネルが不通になったとしても、もう片方のトンネルを単線で運行できるようにしています(要するに、普通の複線では信号システム的に不可能な「逆走」が、単線並列では可能です)。何が何でも稼働率を向上させなければならない戦時という特殊な状況が、自然発生的に冗長化思想を生んでいると言えます。

なお、共産党・左翼界隈がしばしば「過剰なコストダウンに反対!」などと口走っていることは、私も実体験からよーく存じ上げていますが、あの手の主張のほとんどは、科学的な冗長化理論にのっとっていないと言わざるを得ない・・・というよりも、漠然お題目を掲げているだけで実際的な内容に乏しいと言わざるを得ません。

■「ムダのカット」と「稼働率の向上」との両立――物流は社会的システムである
これを気に、めったやたらな集約化でもなく、共産党・左翼界隈の漠然としたお題目に組するのでもない、科学的な冗長化思想に則った「ムダのカット」と「稼働率の向上」との両立に取り組んでいただきたいと切に願うのであります。

物流は社会的システムであり、システム的思想を適用させやすい業界であると私は考えています。プログラミング教育が2020年から義務教育に取り入れられることになった、つまりシステム的思考に堂々の市民権が与えられるようになりつつある昨今流れに乗って、システムとして物流を再構築すべきでしょう。

■「プログラミング教育」の真の効用
プログラミング教育について、ついでに述べておきたいと思います。専門家は「論理的思考を養う」と言います。それは正しい指摘ではありますが、プログラミング教育やコンピュータ・システム教育の効用は、それに留まることはありません。システム的な考え方は、物事は、構成要素同士の相互作用によって動いているという見方を養います。また、要素還元主義的な見方を排除します。これらは、たとえば一昔前の古臭い「科学」のパラダイムと現代科学との際立つ差異であり、現代科学の基本的見方を固める上で大切な視点を提供するでしょう。また、いまだにシブトく生き残っている、一昔前の「科学」をベースにしたマルクス主義的な「科学」の「解毒剤」となり得ます。

また、昨今のシステム構築においては、「反復型開発」や「テスト駆動開発」という方法論が取り沙汰されています。稼動テストを開発の中心に据え、こまめに動かしてみることによってコーディングの正しさを「机上の検証」ではなく「実証」によって確認する方法論であり、まさに漸進主義的な方法論です。

従来の「優等生」型のやり方;「最初にしっかり計画し、それに忠実に作業してゆく。最後には『きっと』ちゃんとしたものが出来ているはず。」という方法論は、急進的設計主義(計画経済)につながる発想ですが、システム開発は、文字通り血を吐くような壮絶な修羅場を越えるなかで、こうした「優等生」型のやり方ではなく、「反復型開発」や「テスト駆動開発」といった、漸進的方法論に至ったのであります(完全に切り替わったわけではありませんヨ。いまだってウォーターフォール・モデルは広く用いられています)。システム構築の現場が編み出した説得力のある漸進主義的方法論を学校教育の場で教えることは有用でしょう。

さらに、システムを構築するにあたっては、知識の集約が必要になります。いわゆる「知識集約労働」の特殊性は、2月14日づけ「増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす――「働き方改革」の逆効果」においても述べた通りです。昨今の「働き方改革」の流れは、1月25日づけ「「働き方改革」「残業規制」は相対的剰余価値搾取の時代の入口」でも述べたとおり、システム業界については逆効果になりかねません。大部分の労働法・社会政策界隈、労働組合運動家、経済学者たちの言説は、「知識集約労働」の特殊性を踏まえているとはいえませんが、システム構築に関する知識が広まれば、こうした「観念論」にも一定の歯止めがかかるのではないかと考えています。

■おわりに
すこし脱線してしまいましたが、システム的思想、冗長化の思想で物流業界、そしてより多くの業界に広まることを期待しています。
タグ:社会 経済
posted by s19171107 at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

「人権」論者の「命の価値の差別」論

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170302-00005761-bengocom-soci
>> 重度知的障害者の事故死「逸失利益ゼロ」提示…命の価値、どう考えるべきか?

弁護士ドットコム 3/2(木) 9:32配信


(中略)

重度の知的障害を持っていた松澤和真さん(当時15歳)が、入所していた施設から行方不明になり、死亡した事故をめぐって、両親が施設の運営法人に約8800万円の損害賠償を求めて、裁判を起こしている。争点は、請求金額のうち約5000万円を占める「逸失利益」(将来稼いだと予想される収入)がどこまで認められるかだ。

事前の賠償交渉で、施設側は過失を認め、慰謝料として2000万円を提示した。しかし、逸失利益はゼロとしていたため、両親が裁判に踏み切った。

両親の代理人によると、重度の知的障害者の逸失利益は長らく認められてこなかった。近年、認められる裁判例も出てきたが、金額は「最低賃金」や「障害年金」が基準だ。

一方、今回両親が求めているのは、障害のない同い年の男子が亡くなった場合と同じ扱い。具体的には、日本人男性の平均年収(約540万円)を基準に計算して欲しいという。両親らは「(逸失利益の多寡による)命の差別を是正したい」と話している。

重度の知的障害者の逸失利益をめぐっては、これまでどのような判決や議論があったのだろうか。障害者の差別問題にくわしい岩月浩二弁護士に聞いた。

●「就労は困難」として、今でも逸失利益が認められないことが多い


(中略)

生命侵害の不法行為に対しては、金銭賠償でしか償うことができないのですから、賠償額は「生命そのものに対する法的評価」だともいえます。この差はあまりにも不条理です。

(中略)

●知的障害者の「命の価値」が不当に低く評価されている

(中略)


重度知的障害児の逸失利益をめぐる問題は、膨大な裁判実務の壁との闘いで、きわめて困難な課題です。しかし、誰かが切り開いていかなければ、重度知的障害児の生命価値は不当に低く評価されたままになります。

そうした評価は「障害者の権利条約」や「障害者差別解消法」の精神に反し、個人の尊重に根本的な価値を置き、法の下の平等を保障する憲法の精神にも反するものと言わざるを得ないのではないでしょうか。
<<
生命侵害の不法行為に対しては、金銭賠償でしか償うことができないのですから、賠償額は「生命そのものに対する法的評価」」というのは正しい指摘だと私も思います。しかし、その賠償額の根拠を「重度の知的障害者の逸失利益」に据え、そしてその具体的算出基準を「就労」に置く考え方そのものに、もっと疑問をなげかけるべきであり、「逸失利益」という「奴らの土俵」に上がるべきではないと私は考えます。

人間にとって労働は中核的な位置づけにあることは否定しません。労働は生活の手段であり、自己実現であり、世界を創造する活動であり、社会参加であり、豊かな思想文化生活の糧であります。生活の3大分野(政治生活・経済生活・思想文化生活)のいずれにも深く関与するものである以上は、そこでの損得が損害賠償額に一定の影響を与えることは当然です。しかし、だからといって人間の価値を労働によってのみ判断するべきでありません。人間の本質的な価値は、その存在自体、その人格自体であり、労働能力などではないのです。

(逸失利益の多寡による)命の差別を是正したい」という切実で、私も全面的に共感できる思いを貫徹する上で、「日本人男性の平均年収(約540万円)を基準に計算」するようでは、結局は「命の差別をしている連中」と同じ土俵に立ってしまっています。「一生のうちに稼げたはずのゼニ」で「生命の価値」を量る、金銭万能主義的な考え方から脱し「市場における稼ぐ能力ではなく、その存在自体、その人格自体に価値がある」という切り口で臨むべきではないかと思うのであります。

「人権」を語りながら、結局は資本主義的な金銭万能主義から脱し切れていない、昨今のブルジョワ「人権」論者の軽薄さには呆れるほかありません。

人間の価値を労働能力;市場における稼ぐ能力に換算とようとする人間に対する冒涜的な発想は、障害者福祉分野こそが先陣を切って打破・突破すべきです。障害者福祉こそが、人間の価値の源泉を、その存在自体、人格自体に取り戻す中核になるべきです。自らの存在こそが自らの価値の源泉である、自らの価値は自らが持っているという意味での自主化は、障害者福祉を基地とすべきです。人類の自主化を達成する上での核心階層が、資本主義的な金銭万能主義に毒されていることは、極めて憂慮すべきことです。
posted by s19171107 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月28日

飲酒運転で一番死んでいるのは「運転者自身」――厳罰の抑止力とは?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170223-00000058-asahi-soci
>> 飲酒運転死者、25%は巻き添え 総数は16年ぶり増加

朝日新聞デジタル 2/23(木) 11:20配信


 全国で昨年、飲酒運転による交通死亡事故は213件で221人が亡くなり、そのうち運転者・同乗者以外の巻き添えの形で亡くなった第三者は、25%の56人にのぼった。警察庁が23日発表した。


(中略)

 死亡した221人のうち、運転していた本人は149人(67%)、同乗者が16人(7%)。第三者は56人(25%)で、内訳は歩行者33人、車13人、バイク9人、自転車1人だった。

朝日新聞社
最終更新:2/23(木) 16:47
<<
やや旧聞に属する記事になってしまいましたが、重要なデータを示しています。

朝日編集部は、「飲酒運転死者、25%は巻き添え」などとタイトルをつけるものの、記事中に掲載されている統計を見ると、なんと飲酒運転による死亡者の3分の2は、運転している当人だそうです。同乗者も含めれば、死亡者の4分の3は飲酒運転を「している側」から出ていることが分かります。意外なことに、飲酒運転によって第三者を死に至らしめるケースよりも、自分自身が傷ついたり死亡したりするケースのほうが多いことが、このデータから読み取ることが出来ます(自業自得の死亡事故なんてニュースにならないか)。

私は旧ブログ時代から、いわゆる「厳罰化」には慎重な姿勢をとってきました。「悪いことをやった人間が罪を償うのは当然」という応報刑的主張が間違っているというわけではありません(いわゆる「人権屋」に与するつもりはありません)。いわゆる「感情屋」的な感情任せ、勧善懲悪原理主義的な刑罰体系の整備にばかり注目する昨今の「厳罰化」の流れは、本当に必要とされている対策を後回しにしかねないという意味における慎重姿勢であります。

このデータを受けてなお、いや、受けたからこそ一層の「厳罰化」を要求する言説が、すでにコメ欄にも現れています。厳罰とは、本質的において、「自己にとっての不利益」を回避するインセンティブを付与する仕組みであり、刑罰の威光による抑止力を期待したものです。最強の抑止力は「自分自身が死ぬリスク」です。それ以上の抑止力などありません。

飲酒運転によって負傷する可能性が最も高いのは「偶然の第三者的通行人」ではなく「自分自身」です。つまり、飲酒運転によって「自分自身が死ぬリスク」が高い確率で存在しているにも関わらず、それでも、少なからぬドライバーは飲酒運転をしているわけです。いったいこれ以上、どのような「抑止力」があるのでしょうか? 飲酒運転に対する「厳罰による抑止力」は、まったく効力が無いとはいいませんし、「悪いことをやった人間が罪を償うのは当然」というのは理解できますが、それに頼りきりにすべきではないと思うのであります。
posted by s19171107 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする