2017年11月27日

朝鮮民主主義人民共和国政府の研究にこそ「クレムリノロジー」を

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171127-00010003-wedge-kr
>> 「テロ支援国家」再指定に北朝鮮は“猛”反発してはいない
11/27(月) 12:20配信
Wedge

 「反発のレベルが低いね」
 米国によるテロ支援国家への再指定に北朝鮮が初めて反応した11月22日夜。私はたまたま北朝鮮情勢の研究会に参加していた。参加者の一人に速報が入り、その場で皆が朝鮮中央通信をチェックした。朝鮮半島情勢を専門とする研究者と官僚、記者の集まりだったが、そこで一様に漏れたのが前記の感想である。「予想通り」あるいは「予想以上に」激しい反応だと主張した人はいなかった。

 ところが日本の新聞、テレビには「猛反発」というような記事が目立った。詳しくは後述するが、「反発する談話」などという専門家なら即座に分かる間違いをおかした記事まで散見された。「国難」をあおる傾向に協力しようとしているのか、便乗しているのかもしれないとさえ思える。だが、北朝鮮が態度を変えた時、あるいは変えなかった時に、きちんと判断するためにも現実はきちんと評価しなければいけない。


(中略)

 トランプ米大統領による国連演説に反発して「老いぼれ」と激しい個人攻撃を加えたのは、金正恩国務委員長による「国務委員長声明」だった。国務委員長声明はこの時が初めてだが、北朝鮮の体制を考えれば、現在は国務委員長声明が最も重いということになるだろう。

 社会主義体制においては形式が非常に重要視される。これは対外発信についても変わらない。そして、公式の声明や談話ではなく、記者から質問されたので北朝鮮の立場を説明するという「記者の質問に答えた」というのはもっとも軽い形式だ。朝鮮半島を担当する記者でこれを知らない人はいないはずなのに、「談話」などという表現を記事に使う神経を私は理解できない。今回のものを「談話」と書いてしまった場合、9月の安保理制裁への反発との違いを説明するのが難しくなるという問題点も指摘できるだろう。

 なお、この「記者の質問に答えた」形式は日本の読者になじみがないので、普通は「北朝鮮外務省報道官は○○○という立場を表明した」とか「北朝鮮外務省は○○○と米国を批判した」などという書き方になることが多い。今回も、そうした書き方をしているメディアもあった。


(中略)

具体的な挑発行動は示唆せず
 中身も見てみよう。
(中略)経済建設と核開発を並行して進めるという、金正恩時代の政策である「並進路線」の正しさを強調してもいる。全体として、米国による圧力強化にもかかわらず核・ミサイル開発を続けるという強い意思を示した内容だ。ただし、具体的な挑発行動を示唆するような発言はなく、トランプ大統領に対する個人攻撃もなかった。激しい表現のように見えるかもしれないが、これは通常レベルである。

「様子見モード」と報じた韓国メディア
 北朝鮮は9月15日に北海道上空を飛び越える軌道で弾道ミサイル「火星12」を発射して以降、本稿執筆時(11月24日)まで挑発行為を行っていない。地上でのエンジン試験実施などの開発は続いているし、複数の弾道ミサイルを搭載できる大型潜水艦を新たに建造しているとも見られる。

 だから、今回の反発が穏やかだったことで対話路線への転換だなどと判断することはできない。北朝鮮がしばらくミサイルを発射していないことにしても、単純に技術的な理由である可能性を排除できない。米国が何をするかにかかわりなく、技術開発上の理由で必要があれば発射し、必要がなければ発射しないのではないかというのが多くの専門家の見立てである。

 韓国メディアはさすがに冷静だった。聯合ニュースは「北、『テロ支援国再指定』に低いレベルで反発…様子見モードが続くのか」という解説記事を配信した。聯合ニュースは、北朝鮮は再指定への動きに対して事前に「過酷な代価(を米国は払うことになる)」などと警告していたのだから反発するのは当然だと指摘。そのうえで「反発するかどうかより、反発のレベルがどの程度かが注目された。(今回の)発表形式と内容を見てみると、憂慮していたより低いレベルだという評価が支配的だ」と報じた。根拠は、私が紹介したものとほぼ同じである。

 聯合ニュースは「北韓の抑えた反応から考えると、すぐに軍事的挑発で対応するというより、しばらくは周辺情勢をながめながら様子見モードを続けるのではないかという展望が出ている」と踏み込んだ。この判断はいささか性急かとも思うけれど、冒頭に紹介した研究会では「米国との水面下の協議が続いていることを反映した可能性があるのではないか」という見方も出た。少なくとも、今回の朝鮮中央通信報道を「追加の軍事的挑発の可能性」に結びつけるのは無理がある。

 北朝鮮の意図を正確に知ることはできないだけに、少なくとも表面に出てきたものは予断を持たずに判断する姿勢を持ちたい。そうしてこそ不気味な「静けさ」であることを理解できるのだから。

澤田克己 (毎日新聞記者、前ソウル支局長)
最終更新:11/27(月) 12:20
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昨今珍しい、「クレムリノロジー」の基本的素養に基づく指摘で、私も同意するものです。

共和国に限らず、政権担当者の地位にある人々は、市井の人間にはその違いがよく分からないような「言い回し」に意味合いを持たせるものです。とりわけ、「様式」に拘る社会主義者・共産主義者にはその傾向が強い。その点に着目して「言い回し」の法則性を探究したのが、いわゆる「クレムリノロジー」であり、冷戦終結後の今日に振り返れば、かなり「いい線」を行っていたことが判明しています。

以前から述べているように、朝鮮民主主義人民共和国の政権は、「朝鮮」そして「社会主義」という点において、正統性を重視する二大要素を具有する特徴を持っています。すべてのアナウンスされたアクションは、朝鮮民族の民族的思考傾向と、科学的社会主義の思考傾向に照らせば、正統性の実践・発露であります。その点において、朝鮮民主主義人民共和国の政権が公式に発表する事物内容は、彼ら自身が現実の情勢をどのように認識しているかに関する「リトマス試験紙」なのです。その意味で、朝鮮民主主義人民共和国政府の公式発表は、ソ連や東欧の旧社会主義政権の発表以上に、彼ら自身の認識がどのようなものであるのかを知る貴重な資料です。いわゆる「クレムリノロジー」は、ソ連政権に対するケース以上に、朝鮮政権に対しては、示唆するものが多いと言えます。

その意味において、本件記事の分析は重要なものです。このご時世においても、いわゆる「クレムリノロジー」の原理原則を貫徹した結果、貴重な見解を呈したものであると評価できるでしょう。

他方、「デイリーNKジャパン」編集長のコ・ヨンギ氏の「予測」。「すでに経済制裁をおこなっているためこれ以上目に見える制裁はないが、トランプ大統領の“テロ支援国家”発言に北朝鮮は当然反発すると予想される」とのこと。以前から、コ編集長が素人染みた「分析」しかできないクレムリノロジー的素養の欠如を強く感じていたものですが、いよいよ明白になってきたものです。
ラベル:共和国
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2017年11月26日

「1件のサンプル」

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171126-00005046-bunshun-int
>> 体内から27センチの巨大寄生虫 「脱北兵士」が伝える北朝鮮の現実
11/26(日) 7:00配信
文春オンライン


(中略)

 驚くべきことに兵士の体内からは、最大27センチの寄生虫が50匹以上も摘出されたという。北朝鮮では、野菜などの肥料として人糞を用いるためと思われる。

(中略)

 北朝鮮の現実を世界に知らしめた兵士は、依然、生命維持装置で人工呼吸をしている。

朴承a
最終更新:11/26(日) 13:15
<<
(あれ? 意識戻ったんじゃなかったの・・・?)

キムイルソン同志は、チュチェ55(1966)年10月20日づけ『社会主義的医学は予防医学である――保健省の幹部との談話』にて次のように指摘されています。
http://kcyosaku.web.fc2.com/ki1966102000.html
>>  衛生宣伝活動を決定的に強化し、保健医療事業ではここに主力をそそぐべきです。

 まず、勤労者の間で野菜をきれいに洗って食べるよう宣伝活動を活発に行なうべきです。今、衛生宣伝活動がゆきとどかず、野菜をきれいに洗って食べないために回虫の駆除が完全になされていません。

 朝鮮人は本来、生のあえ物を好むため、特に衛生に注意を払う必要があります。今、家庭でキムチを漬けるとき、野菜をおおざっぱに水洗いして漬けるため、寄生虫の卵が付着したままの状態になっています。そのため、キムチを食べると回虫か生じ、栄養もみな寄生虫に吸いとられてしまいます。

 勤労者の間で衛生宣伝を活発に行い、野菜をきれいに洗って食べるようにし、消毒剤で野菜や果実を消毒する方法を教えなければなりません。保健医療従事者が取り組めば、寄生虫の駆除くらいは十分にできることです。大衆的運動で寄生虫を駆除しなければなりません。
<<
上掲労作からも分かるように、共和国における寄生虫の問題は、50年以上前から指摘されているところですが、今も尚、問題でありつづけていることは、化学工業の生産が正常に戻り切っていないことを示す事実でしょう。

キムジョンウン同志が、就任早々から化学工業・肥料工業の復興を大々的に掲げている点から言っても、やはり化学工業の生産は復興途中なのでしょう。

私自身は、統計値や推計値を基に社会経済の情勢を考察することよりも、人々の生活の一場面から透けて見えてくるものを基に考察することを好む方なので、「体内から27センチの巨大寄生虫が発見された脱北兵士」のニュースを大変興味深く読んだところですが、冷静に考えたとき、本件はあくまでも「1件のサンプル」に過ぎない点、これだけで全てを語ることはできないとも考えています。

巷に氾濫する「北朝鮮情勢報告」の大多数は、エピソード的な代物です。それゆえに、「それだけじゃ全体像を論じるにはサンプル不足過ぎるだろう」というケースが多々あります。それどころか、少数のサンプルを取って付けたように組み合わせて、悪意的な結論を導出しようとする確信犯も少なくないものです。

しかし、今回の「1件のサンプル」は、様々な断片的な情報を総合するに、「全体像を正しく体現しているサンプル」であると言うべきでしょう

※余談ですが、前掲『社会主義的医学は予防医学である――保健省の幹部との談話』において首領様は、何度か「モデルケースをつくって方式講習を行なう」というプランを提唱されています。以前から指摘しているように、社会主義国は一般的に「急進的な設計主義的方法論による制度建設」の路線を歩みがちなところ、共和国は、意外なことに、「実験的・試行錯誤的方法論による制度進化」がよく見られる御国柄です。首領様の提唱と共和国の政策的伝統は、11月7日づけの記事で提唱した、21世紀の社会主義運動にとって必須の立場となるであろう「漸進主義」の一つの方法論であると私は考えています。その点において私は、共和国を特に注目しているところです。
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2017年11月24日

主体が確立していない、これに尽きる

http://news.livedoor.com/article/detail/13930397/
>> 前文部科学事務次官いわく、ネトウヨは「教育の失敗」
2017年11月23日 11時0分
文春オンライン

 文部官僚は地味と寡黙で知られる。政治家にほとんど転ぜず、著作も少ない。それゆえ、まずは物珍しく読んだ。先日発売された、前川喜平と寺脇研の対談本『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)である。

 対談者のふたりについて詳しい説明はいるまい。前川は加計学園問題で一躍有名になった前文部科学事務次官、寺脇は「ゆとり教育」の推進で知られる元文部官僚だ。

ネトウヨは「学び直す機会が必要」

 能弁な寺脇にくらべて前川は控えめながら、ときおり驚くような発言をする。

「『ネトウヨ』といわれる人たちは、きっと自己肯定感の低い人たちなんだろうと思います。『個の確立』ができていないのでしょうね。ある意味、教育の失敗だと思います。学び直す機会が必要なんじゃないでしょうか」

 教育行政の事務方の前トップから直々に「教育の失敗」と認定され、「学び直せ」といわれるネトウヨもなかなかに哀れである。「ひとりひとりの学ぶ権利の保障」を丁寧に説く前川だけに、その放言はいっそう際立つ。よほどネット上の批判が腹に据えかねたのだろうか。

 このほか、官房副長官(当時)の萩生田光一が事務次官会議で『シン・ゴジラ』を「ぜひ観るように」と話していた、文科省時代の前川のノートパソコンの待ち受け画像がチェ・ゲバラの肖像写真だった、などのエピソードも興味深い。


(以下略) <<
元文部科学次官が「教育の失敗」だの「学び直す機会が必要」とは・・・そんな「欠陥製品」を作ってきたのは、まさしく、文部科学省の統制下にある日本の教育ではなかったのかとw


元文科次官が言える言葉ではないものの、発言者の属性を捨象して純粋なロゴスの問題として考えたとき、「『ネトウヨ』といわれる人たちは、きっと自己肯定感の低い人たちなんだろうと思います。『個の確立』ができていないのでしょうね。」という指摘はまったく正しいものと言わざるを得ません。10月9日づけ「多様性を軽視し、異文化を理解せず、不寛容な悪意的記事を書き立てる毎日新聞」において、私はネトウヨを含むバカウヨについて、以下のように述べました。
>> 他方、日本のバカウヨたちの言行は、自分とはまったく何の関係のない先人たちの努力の成果を何故か自分が達成したことであるかように誇る意味不明な自慢話です。共通点なんて唯一「お互いに日本人であること」だけ。自分たちのチームが挙げた努力の成果を誇っている中国に対して、バカウヨは、努力した先人たちのチームに勝手に入り込んで、自分自身は何もしていないのに他人の努力の成果を自慢し回っているに過ぎないのです。「その話は確かにすごいとは思うけど、なんでお前が鼻を高くしているの?」と言わざるを得ないのがバカウヨの言行です(こっちは建前でさえ自分の成果ではない。バカウヨはまったくをもって自分自身とは無関係のことを自慢している)。(以下略) <<
また同時に、左翼連中も、「個の確立」ができていないという点においては、ネトウヨと同列です。左翼の安易で無邪気なヨーロッパ崇拝は、主体が確立されていない証左です。

その点、朝鮮民族であることをスタートラインにし、主体をしっかりと確立している朝鮮労働党の隊列と比較したとき、日本左翼の情けなさが際立つものです(日本左翼の中でも取り分け主体性において軟弱なる社会民主党が、朝鮮労働党と長年にわたって「友好関係」を築いてきたことは、なかなか理解しがたいものです)。

ネトウヨや左翼の情けない姿を見るに、結局、日本の教育において最も欠けていることは、「自分が何者であり、どこに所属しており、所属集団と自分はどのような関係性にあるのか」ということについて、正しい認識を与えられていないということになるのでしょう。主体が確立していない、これに尽きるわけです。
posted by s19171107 at 22:44| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年11月23日

強い敵より愚かな味方の方が脅威的――民営化論者として、デタラメな「公営廃止」に反対する

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171123-00010002-agora-soci
>> 都営バスの公営廃止を強く求める! --- 荘司 雅彦
11/23(木) 16:29配信
アゴラ

「こんなに狭い道をバスが通っているのか!」と驚いた経験をした都内在住の方が、案外多いのではないでしょうか?

都内を走っているのは(観光バス等を除けば)都営バスで、運転手さんは地方公務員です(待遇は若干異なるようですが)。

ちなみに、2016年3月20日時点で、公営バスが運行されているのは東京都と長崎県のみです。
それ以外の自治体の公営バスは全て民間委託か民営化がなされています。


(中略)

なぜ東京都が採算の合わない都営バスを直接運営しているかといえば、都の財政が豊かであるという理由しか私には思いつきません。住民の足の確保という点では、他の地方自治体の方がはるかに必要性が強いからです。

狭い道を走ってくるバスは歩行者や自転車にとっても危険です。
また、追い越しの効かないところにバス停があるので、交通渋滞の大きな原因になっています。
さらに、車高の高いバスは後続車の安全を脅かします。
信号が見えないバスの後ろにいて、バスに付いていったら信号が変わっていてヒヤリとした経験をお持ちの方も少なくないと思います。

都営バスの運行本数が減れば、短い区間を安い料金利用できる「ちょい乗り」を始めたタクシー業界にとってかなりの収益向上が見込めるはずです。
最寄りの地下鉄やJRの駅までの利用者が増えるでしょうから。

そういう意味では、官業が民業を圧迫しているとも言えます。


(以下略) <<
荘司雅彦氏――割と「頭でっかち」な記事を量産される方です。「公営廃止」といった類の荘司氏の従来からの主張には、私も基本的には賛同しているものですが、今回ばかりはちょっとデタラメが酷過ぎるものです。強い敵より愚かな味方の方が脅威的です。

都内を走っているのは(観光バス等を除けば)都営バス」という認識がまず大間違いです。山手線沿線だけが生活圏なのでしょうか? 都内では、東急や京王、小田急といった大手私鉄沿線であれば私鉄系バス、そのほかにも関東バスや国際興業バス、神奈川中央バス(かなちゅうが我が物顔で走り回る東京都町田市・・・)といった民営バスが数多く運行されています。都営バスは、23区内の私鉄系バスと競合しないエリアだけを担当しており、なおかつ、青梅支所管轄の数路線を除き東京都内の市部には一路線も擁していません

そして、「こんなに狭い道をバスが通っているのか!」と驚かされるバス路線は、ほとんどの場合、民営バス路線です。「追い越しの効かないところにバス停があるので、交通渋滞の大きな原因になっています」という指摘も、ほとんどの場合、民営バス路線での話です。こんなのは路線図を見るだけでも分かることだし、どこかテキトウに私鉄駅を降りてバスに乗ってみれば、ただちに分かることでしょう。

都内のバス路線はかなり明確に「棲み分け」されているものですが、都営バスのシマは、都心部の比較的大きな通りです。これは、もともと都営バスが都電やトロリーバスの代替として誕生したことに起因するものです。都営バスが狭い道で歩行者や自転車の間を縫うようにして走ったり、追い越しができないような片側一車線道路や一方通行道路を経路にしているケースは、絶無ではないものの、かなり少数なケースと言ってよいものです。

官業が民業を圧迫している」と言いたいのであれば、放っておいても誰かがきっと参入するであろう、都心部の大通りを経由する路線を都が独占していることを槍玉に挙げるべきでしょう。たとえばこのことを、毛沢東の『新民主主義論』における「たとえば銀行、鉄道、航空事業などのたぐいは、国家がこれを経営管理し、私有資本制度が国民の経済生活を左右できないようにする」という著述に連結させ、「都営バスの存在は社会主義的統制経済の残滓!」と騒ぎ立てるのであれば、ぶっちゃけ正気を疑う尋常ならざるアクロバットな言い分だとは思いますが、「都内を走っているのは(観光バス等を除けば)都営バス」などと大嘘を書くよりは遥かにマシだったでしょう。

はとバスへの業務委託もある以上は、「運転手さんは地方公務員」というのも正確な記述ではありません。都が出資して、民間企業であるはとバスが受注することは、決して悪いことではないでしょう。

都営バスの運行本数が減れば、短い区間を安い料金利用できる「ちょい乗り」を始めたタクシー業界にとってかなりの収益向上が見込めるはず」などというものの、多くの人々がおのおのでタクシーの「ちょい乗り」を使って最寄りの鉄道駅まで行くのと、乗合自動車としての路線バスを使って最寄りの鉄道駅まで行くのは、果たしてどちらが社会的資源の効率的活用を実現できるのでしょうか? 経済学や経済政策というものは、単に経済活動を活性化させればよいものではなく、社会的資源の効率的配分について考慮しつつ経済活動を活性化させることが使命です。「とりあえずタクシー業界が活況」だからよいという考え方はしないものです。

荘司雅彦氏は弁護士先生ですが、弁護士先生にありがちなのが、目の前の事象に囚われて社会全体を見据えた視野に欠けること。「個々人の私的な都合や権利を無視せよ」などというつもりは毛頭ないものの、自身が肩入れしているクライアントの要求を満たすことだけが法律家の任務ではなく、限定空間における個人的事情と公的空間における社会的事情とを調整することもまた、法律家の任務でありましょう。その点、荘司氏の上掲の言説は、あまりにも短絡的に視野が狭いと言うほかありません。

荘司雅彦氏は弁護士なので頭の回転は速いのでしょうが、インプットデータや立場がこうもデタラメだと、せっかくの頭の良さも台無しです。
ラベル:社会 経済 経済学
posted by s19171107 at 20:30| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年11月20日

やっぱり自立した個人の自由の国

http://www.yomiuri.co.jp/world/20171119-OYT1T50083.html
>> レディース&ジェントルマン、NY地下鉄で禁止
2017年11月20日 10時13分

 【ニューヨーク=有光裕】米ニューヨーク交通公社(MTA)は、ニューヨーク市内などで運行している地下鉄やバスなどの乗務員が、アナウンスの際に乗客に呼びかける「レディース・アンド・ジェントルメン(Ladies and gentlemen)」という言葉の使用を禁止したと明らかにした。

 同性愛や性同一性障害など、性的少数者への配慮とみられる。

 MTAは、読売新聞の取材に「乗客とのコミュニケーションを根本的に改める取り組みとして行った」と回答した。乗務員は代わりに、「Everyone(皆さん)」や「Passengers(乗客の皆さん)」などと呼びかけている。


(以下略)<<
「ポリコレ文化大革命」の最先端を明後日の方向に驀進するアメリカですが、意外なことに、「この程度で済んだ」ようです。"Everyone"だの"Passengers"だのと、「あなたたちの存在は認めるけど、あくまで他人です」という意味で、「棲み分け的自由主義」の範疇での言い換え運動です。

これが、どこぞの国だったらどうでしょうか? 「あなたたちの存在は認めるけど、あくまで他人です」という意味での「棲み分け」では飽き足らず、「我々を友人として受け入れろ!」などといった調子で、活動家たちは、包摂を要求してきたことでしょう。どこぞの国のノリであれば、「皆さん」や「乗客の皆さん」ではなく、「友人の皆さん」「隣人の皆さん」、甚だしくは「同志諸君」くらい要求しかねないところです。

なんだかんだ言って、アメリカは本質的に自由主義の社会なんでしょう。人間同士の関係は、主体が確立している自立した個人同士の関係性なのでしょう。どこぞの、ムラ社会の延長線上を未だにフラフラしている国、主体が確立し切れておらず、他人に対して親友的関係・家族的関係を要求する観念がしぶとい社会、他人の包摂的承認がないとアイデンティティが危うい社会とは違います。
ラベル:社会
posted by s19171107 at 23:59| Comment(0) | 日記じゃない雑記 | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

男女平等は人権問題であると同時に経済成長のツール――福祉国家革新の先駆者としてブレないスウェーデンの現実を正しく報じる意味

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171119-00010003-huffpost-int&p=1
>> 「男女平等は決して、自動的には達成できない」スウェーデンの閣僚が語る3つの転機
11/19(日) 12:22配信
ハフポスト日本版

11月2日に発表された世界経済フォーラム(WEF)のジェンダーギャップ指数で、日本は昨年(111位)からさらに順位を落として114位にまで後退した。一方で、上位を占めたのは北欧の国々だった。(泉谷 由梨子 / ハフポスト日本版)

その中でも5位につけたスウェーデンは「フェミニスト政府」を世界で初めて自称し、男女平等政策を国の最重要政策に位置付けている。

1.労働者が足りなくなったこと
スウェーデンでは、1970年代の経済発展に伴って、女性の労働力が必要になった。

人手不足に悩んだ経済界は、男女の別や子供の有無を問わずに働く労働者を必要としていた。また、福祉国家を目指すため、国家としても税収の増加を必要としていた。

そこで進めたのが、社会保障制度や課税単位を世帯から個人単位へと変更することだった。これによって、家事労働をしていた女性たちが外で働くモチベーションを高めたという。

「男女平等は人権の問題でもありますが、同時に経済成長のツールでもあります。これは、決して女性への贈り物ではない、ドライでテクニカルなものなんです。日本では配偶者控除の廃止が2016年に大きな議論になったと聞いています。スウェーデンでは、課税システムの変更は男女がそれぞれ外で働くためのモチベーションを大いに高めました」とレグネール氏。

同時に、スウェーデンでは保育園や介護施設の整備による「福祉国家」化と、育児休業制度の充実を進めた。そして、働く女性と保育・介護職などとして働く場所の両方を増やすことに成功したという。

2015年の調査では、20〜60歳の労働力率は女性が83.7%、男性が88.7%。国民1人当たりの名目GDPも5万1125米ドルで、世界第12位(日本は22位)だった。平等政策が経済発展に寄与したと考えられているという。

ただ、女性の賃金は男性よりも12%少なく(日本は28%)賃金格差や、経営者層に女性が少ないなどの問題は依然残っている。


(以下略) <<
■福祉国家革新の先駆者としてブレないスウェーデン
男女平等は人権の問題でもありますが、同時に経済成長のツールでもあります。これは、決して女性への贈り物ではない、ドライでテクニカルなものなんです」――当ブログでも以下に挙げた記事を筆頭として以前から指摘しているように、スウェーデンにおける社会政策・福祉制度の設計は、経済成長との相互作用;「好景気と高福祉の好循環」を目指して行われてきたものです。福祉国家革新における先駆者としてスウェーデンの取り組みは、生活福祉、障害者福祉、失業者対策だけではなく、男女平等においてもまったくブレていないわけです。

■このことが報じられるようになった意味――左翼的福祉国家路線を乗り越えるキッカケになり得る
以前からスウェーデンの福祉国家論について関心を持って調査・研究してきた身からすると、目新しい情報は特にないのですが、この事実がYahooニュースで報じられるようになったことは大きな意味があるものです。

というのも、旧来型の左翼活動家が、スウェーデンをしばしば悪用している事実があるからです。とりわけ、スウェーデンにおける社会政策・福祉制度の充実っぷりを単なる「権利運動の成果」として位置づけることによって、「日本人も労働組合に入り、革新政党に投票し、国民の声と力で権利を獲得しよう!」というストーリーに利用しようとしているのです。

しかし、本件記事ならびに下記に列挙した当ブログの過去ログを読めば分かるように、スウェーデンにおける社会政策・福祉制度の充実は、決して単なる「権利運動の成果」ではありません。単なる「権利運動の成果」として位置付ける左翼活動家たちの言説はウソ・デタラメに過ぎないのです。

チュチェ102(2013)年1月15日づけ「サプライサイド・エコノミクス
チュチェ102(2013)年2月18日づけ「いやいや全然違うから共産党さんw
チュチェ102(2013)年8月18日づけ「「小泉改革」を克服した新しい改革を
チュチェ106(2017)年4月24日づけ「障害者就労施設が「ソ連の遺産」?笑――資本主義スウェーデンとの比較で完全に敗北
チュチェ106(2017)7月25日づけ「全国一律最賃制度こそ、非効率企業を淘汰し、高福祉・高効率・好景気サイクルを始動させる決定打

また、スウェーデンにおける好景気と高福祉の好循環は、スウェーデンが国是として挙げてきた「国民の家(Folkhemmet)」構想による労使協調・労使対話の産物であることも注目に値することです。Folkhemmetは、明らかにマルクス・レーニン主義的な労使間の階級対決・階級闘争路線を否定するものです。

マルクス・レーニン主義的な労使間の階級対決・階級闘争路線が、歴史的な意味でまったく無意味・無価値だったとは言いません。しかし、階級対決・階級闘争路線の失敗例が少なくない中、この方法論とは相対するFolkhemmetが今も昔も福祉国家論のモデルとして名高くあり続けていることは事実です。「とちらが、より成功の確率の高い方法論なのか」という点において、マルクス・レーニン主義的な労使間の階級対決・階級闘争路線に対してFolkhemmetを軸とする労使協調・労使対話の方が優れていると言えるのではないでしょうか。マルクス・レーニン主義的階級闘争路線を「科学」などとする左翼活動家のインチキを暴くものです。

この点を履き違えている・・・というよりも、断片的情報を都合よく継ぎ接ぎしている左翼活動家たちは、無邪気にスウェーデンを取り上げがち。そのため、少しスウェーデン事情を知っている人たちに突っ込まれて恥をかくのが定番になっています。

しかしながら、そもそもスウェーデン事情を知っている人が日本ではあまり多くないのに対して、左翼活動家たちの「声」が相対的に大きいことから、残念ながら突っ込みの手が回り切らずに悪用されたままになってしまっているケースも決して珍しくありません。私自身、悔しい展開が放置されている場面に直面したことは少なくありません。

■左翼活動家によるスウェーデンの悪用に対する「予防接種」になる
そんな中に登場した本件記事。記事冒頭から「労働者が足りなくなったこと」という小見出しをつけ、さらに「男女平等は人権の問題でもありますが、同時に経済成長のツールでもあります。これは、決して女性への贈り物ではない、ドライでテクニカルなものなんです」というレグネール男女平等担当相のインタビュー・コメントを掲載した本件『ハフポスト日本版』記事は、左翼活動家によるスウェーデンの悪用に対する「予防接種」になることでしょう。

スウェーデンの社会政策・福祉政策に関する日本語資料が全体的に乏しい現状において、数少ない日本語資料の一つとしての本記事が、左翼活動家たちの言説とは明白に異なる事実を報じていることは、貴重なことです。この記事を読むことによってスウェーデンに関する知識を蓄えた人は、左翼活動家たちに騙されなくなるでしょう

■左翼的福祉国家モデルを乗り越えよう
以前から述べているように、高い水準の福祉と活気のある効率的な自由経済との好循環を達成し、福祉サービス受給者にとっての選択の自由を確保する新しい時代の福祉国家像を目指すにあたっては、旧来型の左翼活動家たちが長年提示してきた福祉国家モデルは乗り越えなければならないものです。

そうした「福祉国家論の革新」においては、この道の先駆者としてのスウェーデンの前例は大いに役立つものであり、旧来型の左翼活動家たちによる「スウェーデンの悪用」は何としてでも除去しなければならないものです。その点、本件『ハフポスト日本版』記事は、前述のとおり「福祉国家論の革新」において重要な役割を果たすものだと言えます。
ラベル:福祉国家論
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2017年11月17日

20世紀的社会主義の崩壊から一歩も進歩していない「デジタル・レーニン主義」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171116-00010002-socra-int
>> 中国 デジタルで蘇るレーニン主義
11/16(木) 15:00配信
ニュースソクラ

10月革命100周年 新たな体制競争の始まりか
 初の社会主義国家、ソビエト連邦を生んだロシアの「10月革命」からちょうど100周年。そのソ連は4半世紀前に世界地図から消えた。社会主義の凋落は「計画経済が市場経済との競争に負けた」から、が通説だ。

 だが、歴史の遺物のはずの「社会主義」を、先月の中国共産党大会で、習近平総書記が連呼した。ビッグデータなどデジタル技術の活用で、計画経済の“敗者復活”があるかも、という見方が出てきた。名づけて「デジタル・レーニン主義(Digital Leninism)」。


(中略)

 ソ連崩壊後、市場経済の優位が世界の常識になり、中国も、とう小平の「改革開放」以来、市場経済化を進めてきた。ところが習近平政権で風向きが変わった。

 その変化を「デジタル・レーニン主義」と名づけたのは、ドイツのメルカトル財団・中国研究所のセバスチャン・ハイルマン所長。習政権がデジタル技術を利用し、経済や社会の統治を再構築しつつある、と見る。

 この見方なら、市場経済化に逆行するような最近の動きも合点がいく。国有企業改革を唱えながら、民営化しないで国有企業同士を合併させ、巨大国有企業を次々誕生させていること。上場企業で、共産党の経営介入を容認する定款改正(もちろん政権の意向を忖度して)が相次ぐことなどだ。

 以前この欄で、アリババ集団のジャック・マー(馬雲)会長の「ビッグデータの時代に、人工知能(AI)の力を借りれば、市場の“見えざる手”に代わる計画経済が実現する」という持論を紹介した。


(中略)

 1世紀前の10月革命の申し子「ソ連」の消滅で冷戦に終止符を打って4半世紀、デジタル・レーニン主義との新たな体制競争が始まるのだろうか。

(以下略) <<
「数年以内には『ビッグデータとAIによる計画経済』を言い出す輩が出てくるだろうな」とは思っていましたが、早速でてきましたね。

■周回遅れの計画経済論が装いだけは新たに登場
何かスゴいことが書いてあるのかと思えば、なんのことはない、社会主義経済計算論争のときに計画派のO.ランゲが持ち出した新古典派一般均衡理論をAIに置き換えたようなものハイエクの計画経済批判を乗り越えていません

市場の“見えざる手”に代わる計画経済」なる言説の科学的合理性は、アリババ集団の馬会長のご高説を待つまでもなく、既に数理科学的に証明されています。経済を多元連立方程式とした上で数理計画の最適化問題として演算すれば、市場における自由競争を実際に行わなくとも計画的に経済の一般均衡解を得られることは、既に1950年代には証明されています

一般的に、ランゲの理論が登場したことを以って社会主義経済計算論争は、計画派の勝利とされています。また、ハンガリー人民共和国ではこの理論を根拠にした計画経済が施行されました。しかしながら、数理科学的には正しいことが証明されたはずの計画経済が、「なぜか」完全なる失敗に終わっていることは動かしがたい歴史的事実です。ハンガリー人民共和国の計画経済も失敗しています。

この「奇妙な事実」を説明するにあたっては、社会主義経済計算論争におけるハイエクの指摘を踏まえる必要があります。ハイエクは、ランゲらが展開した計画化理論について、そうした演算を行うにあたって必要とされる「入力値」を計画当局者が十分には収集できないので、計画経済は理論的には可能だとしても、現実の方法論にはなり得ないとしたのです。

何故、「入力値」を計画当局者は十分には収集できないのかといえば、それは、ひとり一人の経済主体が持つ情報はいずれも私的なものであり、彼らにはそれらを余すことなく計画当局者に提供するインセンティブがなかったり、あるいは、そもそも言語表現できないような情報も経済活動においては重要な役割を担っているからです。

このことについて私は、7月16日づけ「自衛隊幹部OBの発言から透けて見える中央集権的指令経済(社会主義計画経済)の発想」において、ハンガリーで実際に当局者として経済の計画化に従事してきたコルナイ(Kornai János)の回顧録を引用しました。再引用します。
>>  この問題を今の頭で考え直してみると、既述したハイエク・タイプの議論に辿り着く。すべての知識すべての情報を、単一のセンター(中央)、あるいはセンターとそれを支えるサブ・センターに集めることは不可能だ。知識は必然的に分権化される。情報を所有するものが自らのために利用することで、情報の効率的な完全利用が実現する。したがって、分権化された情報には、営業の自由と私的所有が付随していなければならない。もちろん、最後の断片まで情報を分権化する必要はないとしても、可能な限り分権化されているのが望ましい。
 ここで我々は、「社会主義中央集権化の標準的な機能のひとつとして、数理計画化が有効に組み込まれないのはどうしてだろうか」という問題を越えて、「所与の社会主義政治・社会・経済環境の中で、中央計画化が効率的に近代的に機能しないのはどうしてだろうか」という一般的な問題に辿り着く。
 計画化に携わる諸機関の内側で、長期間のインサイダーとして仕事に従事してみて、
(中略)社会主義の信奉者が唱えるような期待は、どのような現代的な技術を使っても、社会主義の計画化では実現できないという確信がより深まったのである。 <<
コルナイ・ヤーノシュ『コルナイ・ヤーノシュ自伝 思索する力を得て』(2006)日本評論社、P158から

果たしてAIと言えども、生身の人間が持っている私的な情報を収集できるのでしょうか? 生産にかかわる暗黙知、誰にも知られていない儲けのタネ、消費にかかわる嗜好や必要性・・・これらに関する情報は膨大であり、一つ一つを洗い出して挙げ切れるものではありません(我々の貨幣経済においては、それらの情報のすべてを「価格」に凝縮することによって、効率的に流通を裁いています)。ましてそれらを、いくらAIと言えども、生身の人間から余すことなく聞き出すことなどできるのでしょうか? 後述するように、経済現象にはしばしばカオスが発生する以上は、「だいたい」などではなく「余すことなく」聞き出すことが不可欠です。あまりにも楽観的な展望です。

昨今のAI信仰には、「人工知能の技術が発展すれば」という「近未来小説」に成り下がっていることが往々にしてあります。全知全能に近いAIが実現すれば、何だって簡単にできるでしょうが、そんなものが「技術の進歩」によって本当に出来得るのかということを問わねばならないでしょう。この手のAI信仰は、「ドラえもんが居れば・・・」レベルの話であると言わざるを得ないものが少なくないものです。

■「昨日と今日が連続している」ことがビッグデータ活用の大前提
ビッグデータ、つまり統計的推論の限界については、チュチェ105(2016)年7月16日づけ「「ビッグデータによる参議院選議席予想」からみる社会予測の原理的困難性」においても言及しています。すなわち、ビッグデータの予測手法は、過去の人間思考・世界構造が今日も続いているという大前提のもと、過去のデータを基に将来を予測するものに過ぎません。しかし、上掲過去ログでも述べているように、人心すなわち社会の構成主体である人々の意思決定は、突発的かつ激しく変動するシロモノです。そうである以上は、長期的な予測には原理的に困難性が伴い、せいぜい、短期的な予測の繰り返しにしかならないことでしょう。

ビッグデータの解析は、短期的な意思決定の円滑化を補助するツールにはなり得るかも知れませんが、もともと計画経済という語句には「経済の長期的組織化・計画化」という意味が込められているものです。とてもではありませんが「ビッグデータによる計画経済」など執行できないことでしょう。

■AIと言えども、カオス系の初期値鋭敏性を乗り越えることは出来ないだろう
また、経済現象においてはカオスがしばしば発生するものですが、カオス系においては原理的に長期予測が不可能です。というのも、シミュレーションを行うにあたって必要な入力値に、小数点以下無限桁レベルの僅かな違い(誤差)があるだけで、長期展望に大きな差異が生じてしまうからです。これは、「初期値鋭敏性」というカオス系を特徴づける重要な要素ですが、このために、カオス系における長期予測は事実上、不可能になるのです。

AIを持ち出そうとも、ビッグデータを持ち出そうとも、何をしてもこのことは変わりありません。AIと言えども、小数点以下無限桁レベルの「精度」までフォローし切れるものではなく、初期値鋭敏性を乗り越えることはできないでしょう。このことは、科学の進歩で乗り越えられるような「程度の問題」ではなく「原理の問題」です。原理レベルで予測は不可能なのです。

■「デジタル・レーニン主義」の正体
結局、「デジタル・レーニン主義」なる理屈は、『フォイエルバッハ論』でマルクスが開陳しているような素朴な唯物論、科学の進歩への無邪気な幻想を未だに墨守している人々の楽観的空想の域を脱していないと言うべきでしょう。20世紀の科学は、唯物論的科学を突き詰めた結果として、科学的予測の原理的限界を解明し、近代以来の進歩主義的哲学・世界観に大変革をもたらしました。

哲学・世界観が19世紀レベルに留まる人たちが、21世紀の最新ツールをツマミ食い的に導入した結果、発生したのが、「デジタル・レーニン主義」という他ないでしょう。19世紀レベルの素朴な科学信仰・進歩幻想から進歩できなかったがゆえに失敗に終わったのが20世紀的社会主義の末路でしたが、20世紀的社会主義の崩壊から何も学んでいない、一歩も進歩していないのが「デジタル・レーニン主義」です。「デジタル・レーニン主義との新たな体制競争が始まる」はずがありません。

もっとも、「デジタル・レーニン主義」など、社会主義・共産主義の面影がおぼろげになって久しい中国「共産」党政権が一党独裁を維持し続けるための方便に過ぎないのかもしれません。そうだとすれば、これほどまでにデタラメな理屈であっても何の不思議もありません。

■まとめ
@いくらAIと言えども、生身の人間から余すことなく「聞き出す」ことなどできるのか?
Aビッグデータは、過去の構造が今日も続いていることが前提だが、人心はもっと移ろいやすいものではないのか?
短期計画ならまだしも、長期計画を見据えた計画経済はビッグデータを以てしても不可能ではないのか?
Bそもそも経済現象においては、しばしばカオスが発生するが、AIを持ち出そうとも、ビッグデータを持ち出そうとも、カオス系は原理的に長期予測が不可能である。
ラベル:経済 経済学
posted by s19171107 at 23:58| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年11月10日

「他人を叱る」ということは本質的に重大な責任を背負ってのこと

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171109-00000059-asahi-soci
>> 女児、大声で叱られPTSDに 祭り主催の市に賠償命令
11/9(木) 18:38配信
朝日新聞デジタル

 秋祭りでボランティアスタッフの高齢男性に大声で叱られ、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したとして、当時5歳の女児が、主催者の埼玉県深谷市に約190万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が9日、東京地裁であった。鈴木正紀裁判官は症状との因果関係を認め、約20万円の支払いを同市に命じた。

 判決などによると、女児は両親らと2014年11月に同市内であった秋祭りを訪れた。その際、輪投げ会場の受付の机の上にあった景品の駄菓子を手に取ったことを、80代のボランティア男性に大声で叱られた。女児は駆けつけた父親の前で泣き出し、父親と男性が口論するのを見て、4カ月後にPTSDと診断された。


(以下略) <<
相手がどんなに小さい子どもであっても、教育的な意味で「他人を叱る」ということは本質的に重大な責任を背負ってのこと。この女児がそうだと言うわけではないのですが、一般論として、世の中には、信じられないくらいヤワな豆腐メンタルの人間が事実として存在するので、教育的な見地に立って叱るにあたっては慎重に慎重を重ねる必要があるものです。

「そんなこと言ったら叱れないじゃないか!」? そう、他人を叱るって本当に本当に難しいことなんですよ。そこら辺の一般人が素人考えで気軽にできることではないのです。

今回の件について述べれば、実際に地裁判決とは言え、因果関係が認められたわけです。高裁や最高裁でひっくり返る可能性も残っていますが、地裁で一度認められた以上は、「まったくのデタラメ」というわけではないのです。

精神的な問題と言うものは、ひたすらに「受け手次第」のものです。たしかに、ボランティアの高齢男性が怒鳴ったのがキッカケでPTSDになるというのは、私にとっても予想を超える事態です。しかし、事実として女児はPTSDになっているのであれば、高齢男性の責任問題が発生するのは当然のことです。前述のとおり、相手がどんなに小さい子どもであっても、教育的な意味で「他人を叱る」ということは本質的に重大な責任を背負ってのことであり、本当に本当に難しいことなんです。

「もしかすると、相手が豆腐メンタルであり、それゆえに自らの叱責によって相手が精神病を発症するかもしれない」という可能性を受容できる覚悟のある人物のみが、他人を叱責できるのです。ひたすらに「相手次第」であるということが分からない人には他人を叱る資格はありません。
ラベル:社会
posted by s19171107 at 00:17| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年11月08日

空想から科学へ、科学から信仰へ――社会主義の発展

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171108-00196567-toyo-bus_all
>> ロシア革命100年、なぜこうも忘れられたのか
11/8(水) 9:00配信
東洋経済オンライン

 1917年10月25日(新暦では11月7日)、ロシアの首都で労働者や兵士による武装蜂起が起きた。ロシア革命(十月革命)である。それからちょうど100年の節目を迎えたわけだが、ほとんど語られることはなく、すっかり忘れ去られた感がある。

 いつの時代にも、歴史を規定するのは現在である。客観的歴史などというものなどない。事件を巡る解釈の変化は、いくらでも行われる。しかし、ロシア革命の場合は、たんに解釈が変わったというレベルではない。「無意味な革命」として歴史から抹殺されようとしているのである。

 なぜ、ロシア革命が歴史から抹殺されようとしているのか。そのことについて考える前に、1789年のフランス革命の解釈の変化について述べていく。実は、「フランス革命の解釈の変化」と「ロシア革命の歴史からの抹殺」は密接に関係しているからだ。


(中略)

■社会主義・共産主義運動は「反革命」になった
 フランス革命が自由を求めるものであれば、その後に続く平等を求める声、社会主義・共産主義運動の声は、すべてが反革命のように見えてくる。そのことを示すべく、ロベスピエールによる恐怖政治が持ち出される。自由を求める声は一人の独裁者によって封殺されたのである、と。だからフランス革命は、ロベスピエールが出現して、反革命になったのだと喧伝される。

 ロベスピエールが、行き過ぎた自由を抑制するために国家統制を行ったことは、すべて反自由、反革命といったマイナス・イメージで捉えられた。そうなるとパリ・コミューンやロシア革命も、ロベスピエールと同じ流れに位置づけられるようになる。資本主義の行き過ぎた自由、それが引き起こす不平等に対して国家が統制すること、それが社会主義であるとすれば、社会主義はロベスピエールの恐怖国家のように、自由に対する不自由、自由主義に対する全体主義を意味することになる。人類の進歩が自由にあるのであれば、全体主義はそれに対する退歩である。

となると、社会主義・共産主義運動の歴史は退歩の歴史になる。1989年にパリで開かれた地味な学術会議の中で、ロシア革命にいたる19世紀の社会主義、共産主義の歴史は、静かに葬りさられていたのである。


(中略)

 ロシア革命は、歴史の徒花になった。あの革命がなかったならば、ロシア、東欧は今以上に発展し、自由を満喫できたはず、というのが今の主流の解釈だ。こうして、ロシア革命に言及することは歴史のネジを逆に回すことのように見られるようになり、語られることも少なくなっていった。マルクスやレーニンの名前に変わって、新しい英雄の名前トクヴィルやアーレント、そしてフランス革命新解釈の仕掛け人元共産党員フランソワ・フュレが、記念碑に刻まれるようになった。

■もとの解釈が復活する可能性だってある
 1960年代にロシア革命をフランス革命と並ぶ歴史的革命だと教科書で学んだ旧い世代、そして自由の結果である貧困に苦しむ人々は、今のところこの劇的な解釈の変化にため息をつくしかない。もちろん歴史は後世、いや後世に支配権を握ったものが決める。だから、もう一度もとの解釈が復活する可能性はある。

 実はフランス革命がナポレオンの敗北によって終焉を迎えたころ、フランス革命の解釈は大きく変化した。王政復古の勢いを借りて、フランス革命は不幸な暴徒による革命となり、とりわけロベスピエールがその不幸の象徴となったのである。しかし、1830年7月革命によって、また形勢は逆転する。その後に続く革命の結果、フランス革命=ブルジョワ革命説が定着するのである。

 後世恐るべし。古い世代は、捲土重来を期待しながら「我が後に大洪水きたらん」と、考えるのかもしれない。

的場 昭弘 :神奈川大学国際センター所長、教授
<<
■ひたすら言い逃れることが可能な非科学的理屈
もう一度もとの解釈が復活する可能性はある」――そりゃまあ、誰も未来のことを確定的に語ることはできない上に、具体的な期日や期間の指定もなく、ただ漠然と「可能性」を述べるだけであれば、なんだって「あり得る」でしょう。理論的予測・考察を否定する事実がどれだけ発生しようとも、漠然とした「未来」について語るのであれば、「これは一時的・例外的事象に過ぎず、いつかは理論を裏打ちする事象が発生する」などと、ひたすら言い逃れることが可能になります

また、的場氏の理屈の場合、いったいどういうキッカケがあればロシア革命への見解が再転回し得るのか、その展望がまったく見えてこないものです。

キムジョンイル総書記が古典的名著「社会主義は科学である」で述べた理論、すなわち、
 @人間には、世界と自己の運命の主人として、なにものにも従属・束縛されることなく生き発展しようとする自主的志向(自主性)と、客観的世界を改造し得る創造的能力(創造性)、客観的世界を認識・理解し、自分自身の行動を目的意識的に統御し得る意識性を持つこと
 A人民大衆の自主性は社会主義・共産主義によってのみ実現すること
 B社会主義は人民の志向であり意志であるがゆえに、必ず勝利する
という三段論法的理論のように、何らかの根拠に基づいた展望を提示して目下の客観的事実を「あくまで一時的・例外的現象」と位置付けるというのであれば、これは「科学的な展望」ということもできるでしょう。もちろん、キムジョンイル総書記の展望は、説得力がある内容とはいえ、人類史の方向性をかなり大雑把に示しているだけで具体的な期日や期間の指定に欠けている点、残念ながら厳密さに欠けると言わざるを得ないところです。しかし、的場氏の理屈の場合、大雑把な方向性の提示すらなく本当にただ漠然と「可能性」に縋っているに留まります。こんなもの、およそ科学的とは言えません

■空想から科学へ、科学から信仰へ
人々が社会主義の未来について根拠のある展望を語っていた時代は過去のものであり、いまや具体的な期日や期間の指定もなく、ただ漠然と未来の「可能性」に縋る水準にまで落ち込んでいる・・・社会主義は19世紀から20世紀にかけて空想から科学へ変化し、20世紀から21世紀にかけて科学から信仰に変化したようです。

■「科学から信仰へ」は決して悪いことばかりではない
もっとも、これは私は決して悪いことばかりではないと思います。先に述べたように、誰も未来のことを確定的に語ることはできない以上は、およそあらゆる未来予測は、程度の差こそあれ、「信仰的」なものです。我が研究の恩師も、「科学ってのは、宗教みたいなところがある。まだ証明されていなくても、その仮説が正しいと『信じている』からこそ、実証的に研究をするもんだ。」と教えてくださったものです。

もともと、未来に理想社会を見出す思想には、人間の「信仰心」をくすぐるというか、信仰的発想に似た要素があるものです。共産主義思想の「未来に理想社会を見出す」という特徴的要素と、キリスト教の「千年王国論」との類似性を指摘したのは、まさしく的場氏の著作『ネオ共産主義論』でした。その点、社会主義に信仰的な要素が加わることは、私は悪いことではないと思っています。その最先端を進んでいるのが朝鮮革命です。

キムジョンイル総書記は次のように指摘されています。
人間は難関に屈すれば再起できないが、天が崩れても抜け出す穴はあるとの腹で立ち向かうならば、いかなる難関も乗り越えることができる
決心さえすればなにごともなせる、という信念は天から降ってくるのではなく、自らの力と知恵と才能を信じることから生じる
信念と意志の強い人間は、つねに未来を愛するものである

キムジョンイル総書記が上掲のようなお言葉を述べられていることと関連して、共和国では、1990年代の「苦難の行軍」の時期以来、「信心」という単語がキーワードとして頻出します。共和国は「音楽政治の大国」ですが、たとえば、「신심드높이 가리라」(信心高くゆかん)という曲を筆頭として、「승리의 길」(勝利の道)の「我らは己を信じるが如く、勝利を固く信じ生きる」という歌詞など、盛んに「信心」に訴える政治思想宣伝が展開されたものでした。

また、「苦難の行軍」を乗り越えて久しい今年に新たに発表された「사회주의 전진가」(社会主義前進歌)においても、楽観的な曲にのせて「信心」という単語が歌詞にあらわれます。「信心」という単語は、朝鮮革命の重要キーワードとして定着していると言ってよい思われます。

■信仰的社会主義だからこその「生命力」
展望なんてまるでなくとも、ある意味「信仰的」な境地で、あくまでも社会主義の理想を追い続ける――前述のとおり、社会主義は19世紀から20世紀にかけて空想から科学へ変化し、20世紀から21世紀にかけて科学から信仰に変化しました。そして、そうであるがために、「科学」を騙る無味乾燥で詰まらない「生産力主義」から脱し、未来社会論として人心を掴み・扇動する理想論に回帰し得るキッカケを掴んだとも言えるかもしれません。

社会主義が信仰的である限りは、社会主義の立場をとらない人たちを説得することなど不可能だし、具体的な展望を描けないようでは、近いうちに社会主義を実現させる条件は存在しないと言わざるを得ないでしょう。しかし、社会主義が信仰的であればこそ、日陰で細々としているかもしれないが、命脈は保ち続けることでしょう。科学は論破できても、信仰は論破できないものであり、人間は、「思い」や「志」を現実のモノとするために創意工夫の努力を重ねるものです。その努力の過程で、何かしらの好機を見出した時、社会主義は「水を得た魚」の如く復活する「かも」知れません。「科学ではなくなった」からこそ、社会主義は逆に「生命力」を得てしぶとくなったのです。

チュチェ思想によれば、前述したとおり、人間には客観的世界を改造し得る創造的能力(創造性)と客観的世界を認識・理解し、自分自身の行動を目的意識的に統御し得る意識性を持つとされています。チュチェ思想の社会歴史観を応用すれば、これら創造性と意識性が、平たく言えば「科学技術力」が、信仰的社会主義によって基礎づけられている自主性と合わさることによって、人々の自主的要求が実現され得るような世の中、つまり社会主義社会が出来上がってゆくと言えるでしょう。

社会主義が信仰的になったからこそ、信奉者たちは、ちょっとやそっとのことでは社会主義の理想を捨てなくなってゆくことでしょう。その「信仰的頑なさ」が「科学技術力の発展」と融合するとき、社会主義が実現することでしょう。
posted by s19171107 at 23:31| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年11月07日

ロシア10月大革命100年から次の100年へ――社会主義建設の歴史的教訓【加筆済】

【11月29日に、論旨が変わらない範囲で内容を掘り下げ、補足する形で加筆し、加筆箇所を明示しました】
ロシア10月大革命から100年。あの革命を支持するか否かは別として、世界史の画期的出来事だった割には、盛り上がりに欠けるものです。Yahooニュースを見ても大して記事は上がっていません。

そんななか、国際政治学者の六辻彰二氏が次のような記事を公開しています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171107-00000001-wordleaf-eurp&p=4
>> 「ロシア革命」から100年 世界に今も問いかけるものは?
11/7(火) 6:00配信
THE PAGE


(中略)

■レーニン時代:緩やかな混合体制
 権力を握ったボリシェビキ政府は、人々の不満の種だった第一次世界大戦から離脱。その後、モスクワが新たな首都とされ、社会民主労働党が「共産党」に改称されるなど、新たな体制が形になっていった一方、共産主義の波及を恐れた米国や日本など各国が反革命派を支援したこともあり、内戦は1920年初頭まで続きました。この間、干ばつも手伝って経済は壊滅寸前でした。

 これに対して、ボリシェビキ政府は「戦時共産主義」と呼ばれる方策のもと、工場の国有化など経済の中央集権化を推進。特に重視されたのは食糧供給の安定化で、そのためにコルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)が設立され、農業の組織化・近代化が図られました。

 ただし、地主の土地が没収され、富裕な農民が備蓄食糧の供出を強いられた一方で、「自分で土地を耕す者」の土地所有や、自宅で消費する以外の「残余」を市場に出すことは認められました。部分的とはいえ市場経済を採用することは共産主義からの「逸脱」でしたが、共産主義者への貧農の根深い不信感を前にした「妥協」でもありました。

 革命の指導者レーニンは理論家で、「純粋な共産主義」を目指す傾向がありました。レーニンはマルクスが予見したように各国で革命が発生し、「国境を越えた労働者の連帯」によって国家という枠組みが順次「死滅」することを期待していたといわれます。

 その一方で、レーニンは理想とソ連経済の実態や農民の生活との妥協を図るほどには現実的だったといえます。その結果、工業の中央集権化と農業における部分的な自由化は、1921年からの新経済政策(NEP=ネップ)でも基本的に引き継がれました。

 また、共産党への権力集中や反革命的な人物の検挙も進められましたが、機関紙『プラウダ』で経済政策をめぐる議論が行われるなど、言論の自由が一定のレベルで守られたのも、レーニン時代の特徴でした。


(中略)

 しかし、スターリン時代に構築された、ギガント・マニア(巨大狂)と呼ばれる、需要に必ずしも適応しない重厚長大型の経済システムは、冷戦下での米国との核軍拡競争とも相まって国家財政を疲弊させ、1989年の「冷戦」終結、1991年の「ソ連」崩壊へとつながりました。つまり、国家主義的になり過ぎたことはソ連経済の破たんを加速させたといえます。

 ただし、ソ連という「実験」は失敗したものの、それは資本主義が万能であることを意味しません。社会主義、共産主義が台頭した19世紀と現代は、資本主義のもとで貧困や格差が広がる点で共通します。ブラック企業や過労死が広くみられる日本でも、「労働者の搾取が資本家の蓄財と技術発展を生む一方、労働者の窮乏化を生む」というロシア革命の問題意識そのものは、いまだに生命力を失っていないといえるでしょう。
<<
■一見して「レーニン主義者のくたばり損ないが負け惜しみを言っている」ようだが・・・
まさしく「一時的妥協」であり、「経済的テロル(戦時共産主義)に必ず戻る」とレーニン自身が書き残しているネップを持ち上げるが、そこに「至る経緯」が完全に欠落している――レーニンの大量殺人について一切触れていません。レーニンが「純粋な共産主義」を目指すにあたって行使した「どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力で自ら保持する無制限の権力」について言及せずにロシア革命を語るのは、歴史的事実に照らしても、レーニン主義のイデオロギーに照らしても、あまりにも不十分であるというほかありません。

また、「ソ連という「実験」は失敗したものの、それは資本主義が万能であることを意味しません。社会主義、共産主義が台頭した19世紀と現代は、資本主義のもとで貧困や格差が広がる点で共通します。」とも述べています。こんなもの、レーニン主義者がソ連崩壊から間もない頃から繰り返していた「負け惜しみ」と同じレベルの言説です。

一見すると、レーニン主義者のくたばり損ないが、都合の悪い部分の責任をスターリンに押し付け、往生際悪く足掻いている典型的ケースであるかのようですが、記事最末尾の「ロシア革命の問題意識そのものは、いまだに生命力を失っていないといえる」というくだりは注目すべきです。六辻氏はあくまで「問題意識そのもの」を評価しているに過ぎず、方法論等については「ソ連という「実験」は失敗した」と言明しているわけです。レーニン主義者のくたばり損ないにありがちなことですが、@ソ連が失敗したという事実認識がそもそも怪しかったり、あるいは、A「失敗」だと認めているにも関わらず、その教訓を汲み取れていないので次に生かせていない、というケースがあるものですが、六辻氏の言説をよく読むと、そうではないようです。

■「次の100年」を見据えるにあたっての必須観点――急進主義・設計主義的合理主義を放棄し、漸進主義を採用する
方法論に関わる考え方の問題について、六辻氏は今年2月に「ガーナは「チョコレートの国」か? チョコレートにみる「矛盾との向き合い方」」という素晴らしい記事を公開なさっています。取り上げているテーマはロシア革命とは全く異なるものの、世界史の画期的出来事であったロシア革命によって成立したソ連政権が瓦解した今日において、その教訓に学び改めて社会的矛盾に立ち向かうための重要な心掛けを指摘しています。該当部分を引用します。
>> そのなかで重要なのは、言い古されたことではありますが、まず知ることしかありません。逆に、問題の複雑さにしびれを切らして、一気呵成に問題を解決しようとすれば、副作用だけが大きくなりがちです。フランス革命で「反革命的」とみなされた人々が「貧者に対する哀れみのために」相次いで断頭台の露と消えたことも、世界のあらゆる問題を一刀両断に解決する方法として「イスラーム国家の樹立」という処方箋を示した「イスラーム国」も、そして「安全のためなら何をしても許される」と豪語するトランプ氏も、この点では同じです。

「一刀両断」を目指す人々に欠けているのは、「万能でない人間が考えることに100パーセントの正解がない」ことを認める謙虚さと言えるでしょう。人間社会につきものの矛盾と向き合うためには、無理やり「断つ」のではなく、「ほぐす」努力が必要なことを、甘くてほろ苦いチョコレートは語っているのかもしれません。
<<
「一刀両断」を目指す人々に欠けているのは、「万能でない人間が考えることに100パーセントの正解がない」ことを認める謙虚さ」――まさに、反急進主義・反設計主義的合理主義の立場。近代社会主義運動・共産主義運動が哲学のレベルで欠けていた考え方です。

このことをロシア革命・ソ連政権に引き付けて考えると、政治における共産党独裁;無制限の権力・暴力も、経済における組織化・計画化の強行も、結局は「科学」を妄信する行き過ぎた「合理」主義的思考方法に原因があったといえるでしょう。このことを教訓とするならば、人間の理性;合理的思考の限界を前提とした上で、急進主義を放棄して漸進主義を採用することになるでしょう。「思考方法としての保守主義を一部取り入れる」と換言しても良いかもしれません。

わずか100年前に起こったロシア革命によって樹立された「革命政権」はとっくの昔に瓦解しています。ソ連政権はあまりにも短命でした。以前から述べているように、私自身も社会主義を信奉する立場ですので、この歴史的経緯から学ぶべき教訓はあまりにも多いものですが、ロシア革命の問題意識そのものは、いまだに生命力を失っていないといえる」という今回の指摘と「「一刀両断」を目指す人々に欠けているのは、「万能でない人間が考えることに100パーセントの正解がない」ことを認める謙虚さ」という2月の指摘を踏まえ、「次の100年」を見据えるべきと考えています。私自身は、21世紀の社会主義的諸運動は、合理的思考の限界を前提とし、漸進主義を採用するほかないと考えています。

【補足的加筆1/3 開始】
■漸進主義とは何か
ここでいう「漸進主義」とは何か――4月21日づけ「「一代限りの生前退位特例法」から見える漸進主義としての保守主義」で次のように述べました。
>> ■懐疑主義的保守主義を乗り越える漸進主義的保守主義の核心
漸進主義的保守主義は、懐疑主義的保守主義が持つ問題点を乗り越えます。「少しずつ前進し、問題があったら直ちにロールバックする」という方法論は、論理的推論や科学技術に対する過度な慎重姿勢を排して新しい挑戦に取り組みつつも、万が一に予想外の事態が発生したとしても、直ちにロールバックが可能な範囲内での実施に敢えて留めることによって取り返しのつかない事態にも至らないようにもすることができる「よいとこ取り」なのであります。

直ちにロールバックが可能な範囲内での実施を積み重ねてゆく方法論は、理性主義にもとづく方法論――いわゆる「急進主義」もその一種です――に比べて所要時間は少しばかり長くはなりますが、「急がば回れ」というように、安全性・確実性はより高まるものと思われます。「こまめなPDCAサイクルの実施を主軸とする方法論」などと平たく言い換えてもよいかも知れません。
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万が一に予想外の事態が発生したとしても、直ちにロールバックが可能な範囲内での実施に敢えて留める。そしてそれを繰り返し、積み重ねることで、社会を少しずつ改善してゆくという方法論です。

この方法論は、何も私が思い付き的に提唱したものではなく、コンピュータ・システムやソフトウェアの開発・構築においては、かなり広範に採用されている考え方です。3月6日づけ「コストカットと稼働率は両立しうる――システム科学的な冗長化思想を物流業界に」においても言及したように、「稼動テスト」をシステム開発の中心に据え、こまめにプロトタイプを実際に動かしてみることによって、コーディングの正しさを「机上の検証」ではなく「実証」によって確認する「反復型開発」や「テスト駆動開発」が広範に広まっています。

従来型のウォーターフォール・モデルが依然として開発技法として採用されているケースもあります。しかし、システム開発の世界においては、文字通り血を吐くような壮絶な修羅場を乗り越える(あるいは、力尽きてプロジェクトが崩壊する)経験を通して、「最初にしっかり計画し、それに忠実に作業してゆく。最後には『きっと』ちゃんとしたものが出来ているはず」といった設計主義的方法論ではなく、「反復型開発」や「テスト駆動開発」といった漸進主義的方法論を編み出すに至ったのであります。
【補足的加筆1/3 終了】

問題意識においては「革命的」に、方法論においては漸進主義的に――キムイルソン主席が、父;キムヒョンジク先生から受け継いだ「志遠」とも通底する心構え――アンジュングンの「一発屋的個人テロ」と比較すれば際立つ考え方です――こそが21世紀の社会主義的諸運動の原則になることでしょう。

カオス理論を筆頭とする現代科学の諸成果は、唯物論的思考・科学的思考を突き詰めた結果として、マルクス・レーニン主義を基礎づけている19世紀後半〜20世紀前半の「素朴な科学信仰」を卒業するに至っています。「合理的思考の限界」というのは、決していわゆる「反知性」などではなく、むしろ現代科学的といってもよいでしょう。

【補足的加筆2/3 開始】
■漸進主義の採用は、究極的には「世界観の転回」に行き着く――カオス的システムの世界観
このことは、究極的には「世界観の転回」に行き着くでしょう。すなわち、我々が生きるこの物質世界を「カオス的システム」(カオス系)と見なす世界観への転回です。

ここでいう「カオス」とは、カオス理論におけるそれであり、決定論的でありながらも長期予測不能性(long-term unpredictability)が発生している初期値鋭敏性を持った有界な非周期軌道のことです。観察対象にカオスが発生している場合、その長期的な挙動の予測は原理的に不可能です。

また、ここでいう「システム」は、@複数の要素から構成されており、Aそれらが物理的機構によって相互作用的に関連しており、B全体として一体的に、1つ以上の役割を担って働いているもののことです。「@相互作用性とA全体としての一体性、を重要な特徴とする一塊」と言ってもよいでしょう。

■マルクス・レーニン主義的世界観の誤り
マルクス・レーニン主義的な設計主義的合理主義の世界観は、カオス的システムの世界観と真っ向から対立するものです。すなわち、「事物には単一・究極的な原因があるはずだ」という仮説に立ち、物質世界における事物の関連性を「直線的なドミノ倒し」であるかのように想定します。そして、「科学的分析によって複雑な諸現象は各要素に分解され得る」とした上で、「長期的な見通しを立てつつ、究極の原因に対応する究極の真理を掴み、それを打倒・排除する実践を行えば、ドミノ倒し的に全体に好い波及が見られるはずだ」というプランを挙げるものです。

現実世界の実相はそうではありません。構成要素同士の関係性は円環的な相互作用の関係にあり、単一・究極のものはありません。「構成要素同士が全体として一体的な挙動を見せる一塊」になっている点において、システムといってよいものです。システムである以上は、個別要素に分解してもその全貌を解明することはできず、「究極の原因」などと称して、特定箇所にのみパッチ的な対応を行おうものならば、システム内部の絶妙な相互作用バランスが崩れ、システム全体に関わる予期せぬ致命的障害を引き起こしかねないものです。事前の予想とは大きく異なる結末を迎えることになるものです。

■カオス的システムの世界観は、どう思考するのか
我々が生きるこの物質世界を「カオス的システム」と認識する人物は、決して「一刀両断」の方法論を採用しないことでしょう。長期予測不能性を十分に理解していれば、「短期予測の積み重ねを以って漸進的に社会を改善してゆくほかない」と気が付くはず。社会を合理的設計にもとづいて計画化しよう(設計主義的合理主義)などど考えるはずもありません。

また、我々が生きるこの物質世界を「構成要素同士が複雑かつ円環状に絡み合ったシステム」と認識する人物は、断片的な事実や一部の構成要素のみを取り上げて「究極の原因」などとし、それを排除することによって「正常化」を目指すようなことはしないでしょう。労働問題については、「資本家階級と労働者階級は敵対的関係にあり、生きるか死ぬかの階級打倒闘争を展開するしかない」などと提唱するのではなく、「資本家階級と労働者階級は呉越同舟」の関係にあると認識したうえで、階級的立場を鮮明にしつつも敵対的ではない労使交渉に臨むことでしょう。

この観点・立場は、以下の記事からもお分かりいただけるとおり、以前からの私の持論です。
チュチェ105(2016)年4月26日づけ「「最低賃金大幅引き上げキャンペーン」の経済オンチと、根本的な世界観的誤りと危険性――円環的相互作用システムの立場から
チュチェ105(2016)年7月3日づけ「階級敵対的・ゼロサム的認識にたつ「介護・保育ユニオン」の経済学的・世界観的誤り

社会的宿痾に立ち向かう心構えについて私は、チュチェ102(2013)年2月21日づけ「「鶏が先か卵が先か」が経済である」において、「西洋医学みたいに『病巣を切除すれば病気は治る』みたいな発想ではなく、東洋医学のように『病気は結局のところ身体のバランスの崩れだから、トータルに体質改善してゆく』といった発想でやったほうがいいんじゃないか」と述べましたが、東洋医学的な治療の思想は、カオス的システムの世界観に立った社会改善の方法論的原則と通ずるものがあると自負しています
【補足的加筆2/3 終了】

■「次の100年」を見据えるにあたっての必須観点――主体を強化し、その役割を高める
なお、ソ連政権の教訓から「次の100年」を見据えるためには、朝鮮労働党のキムジョンイル総書記がチュチェ81(1992)年1月3日に発表された社会主義建設の歴史的教訓と我が党の総路線――朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話」も必読文献でありましょう。該当する部分を以下に引用します。
>> 従来の理論に対する教条主義的理解から脱却できなかった人たちは、社会主義社会の本質と優位性が社会主義思想をもった人民大衆によってではなく、社会主義政権と社会主義的所有関係によって決まるとみなし、社会主義建設の推進力も生産力と生産関係の適応という経済的要因に求めました。(中略)しかし、こうした政治的・経済的条件そのものが社会主義社会の発展を促す決定的要因になるわけではありません。生産力発展の問題にしても、生産力の発展において主動的で能動的な役割を果たすのは生産の直接的担当者である勤労人民大衆であり、かれらの自発的熱意と創造的能力を高めることなしには、例え、社会主義的生産関係者を樹立したとしても、生産力をたえまなく急テンポで発展させることはできないのです。

(中略)

ところが一部の国では国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人々の思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした。その結果、社会主義社会の主人である人民大衆が主人としての役割を果たせなくなり、結局は経済建設も順調にいかず、社会のすべての分野が停滞状態に陥るようになったのです。

 かれらはまた、社会主義社会本来の要求に適応した人民的な政治方式の確立に相応の注目を払うことができなかったため、 人民の統一団結を弱め、大衆の創意を高く発揮できなくしました。社会主義社会で人民大衆が政治の真の主人となり、国家と社会の管理に主人らしく参加するか否かは、社会主義制度の強化発展と社会主義建設の成果を左右する最も重要な問題です。しかし、一部の国では社会主義政権は樹立したものの、実際には旧社会の政治方式をそのまま踏襲したので、国家と社会の管理活動がその主人である人民大衆から離れて特定な人たちの活動になりました。そのため、官僚主義が増長して人々の創意を抑制し、党と国家に対する大衆の信頼を失墜させ、人民大衆の統一団結を破壊する重大な結果をもたらしたのです。

 結局、それらの国では社会主義が自己発展の強力な推進力を失い、強固な社会的・政治的基盤をもつことができなくなりました。強固な主体が存在しない社会主義は、その優位性と威力を発揮することができず、前進途上における挑戦と試練に打ち勝つことができません。歴史的事実は、強力な軍事力と膨大な経済的潜在力をもつ大国であっても、社会主義建設において主体を強化し、その役割を高めなければ、帝国主義者と反動派の反社会主義攻勢に耐えられず崩壊するしかないことを示しています。それらの国が帝国主義者と反動派の反社会主義攻勢に屈し、社会主義の挫折を招いたのは、まさに社会主義建設において主体を強化し、その役割を高めなかったためにもたらされた必然的結果と見るべきです。
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あえて私が要約する必要もないくらいに端的で説得力のある指摘です。

■「次の100年」のために
@「急進主義・設計主義的合理主義を放棄して、合理的思考の限界を前提とした上で漸進主義を採用すること」に加え、A「主体を強化し、その役割を高める」ということも、まさに「社会主義建設の歴史的教訓」として汲み取ることができるでしょう。

【補足的加筆3/3 開始】
また、目下探究中であり、今回の記事には間に合わなかった論点として、B「自論を支持しない相手を無知蒙昧と決めつけ、扱き下ろす」のではなく、相手が自論を支持しないのであればこそ、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」を分析し、理解し、包摂してゆく取り組みが必要であろうという点を挙げたいと思います。これは、人民大衆が統一団結し、国家を自主管理してゆく社会主義社会では、階級的連帯に基づく同志的な意見交換で、考え方をすり合わせていく必要があるからです。このことは、いわゆる「前衛意識」を捨てることにも繋がる論点です。

さらに、C「既存の価値観の打破」が「なんでもあり」に転落しないために、「あくまでもルールを守る、非合理的なルールだとしても自己判断で勝手に破らない」という大原則をあくまで守るべきでしょう。「どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力で自ら保持する無制限の権力」など、到底容認できません。

BとCは、私にとっては本年の重要な論考テーマだったので、既に何本か記事を公開しているところです。今後、年末総括にむけて別稿にて整理してゆく予定です。別稿上梓次第、この記事からリンクを貼る予定です。
【補足的加筆3/3 終了】
posted by s19171107 at 22:04| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする