2018年04月02日

完全に「去勢」させられた日本「保守」の醜い姿

【4月5日 最終段落を追加】
共和国情勢が急激に遷移しています。北南会談に続く朝中首脳会談。日本の「取り残され」感は日に日に増大しているところです。焦りの現れなのか、もともと馬鹿なのかは知りません(興味もありません)が、面白言説が多数飛び出しているところです。たとえば、以下。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180329-00000068-san-kr
>> 習近平氏訪朝へ 「千年の宿敵」に屈服した正恩氏
3/29(木) 7:55配信
産経新聞

 中国中央テレビと朝鮮中央通信が28日に報じた習近平との会談のやり取りからは、金正恩が訪中に踏み切った微妙な心境が浮かぶ。


(中略)

 ◆真剣にメモ取る姿も

 その言葉とは裏腹に中国のテレビは、習と握手する際のぎこちない笑顔を映し出した。習が発言する間、金が真剣にメモを取る姿もクローズアップした。北朝鮮メディアが、訪朝した韓国特使団が金の言葉を必死にメモする様子を強調して報じたのとは対照的に屈辱的場面ともいえた。

 「中国は千年の宿敵だ」。米政府系メディアによると、昨年12月、北朝鮮国内の講習会で幹部がこう中国への警戒を訴えた。中朝関係者によると、中国と密な関係にあった叔父の張成沢(チャン・ソンテク)を処刑したのも、異母兄の金正男(キム・ジョンナム)を暗殺したとされるのも親中派への見せしめの側面があったという。こうした“脱中国”路線から急旋回したことになる。


(中略)

 金の動静報道は6日以降、途絶えた。「核は宝剣だ」と強調する労働新聞の記事も7日を最後に途切れる。8日には、金の非核化意思の表明と会談要請に対し、米大統領のトランプが5月までの会談を承諾。一連の動きは軌を一にしていることが分かる。

 南北対話とは異なり、習との会談は、予想外に早いトランプとの会談に備え、急遽(きゅうきょ)、準備した可能性がある。北朝鮮メディアは、金が非核化意思を示したことに一切、触れていない。国民生活を犠牲に推し進めてきた核開発の看板を引き下ろす国内向けの論拠が整っていないことを物語る。


(中略)

生き残りを懸け、中国を最大の擁護者とするため、「宿敵」に膝を屈して取り入った覚悟がにじむ。=敬称略(ソウル 桜井紀雄) <<
■完全に「去勢」さられた日本「保守」の醜い姿を象徴する産経記事
産経新聞が拠って立つユートピア追求的な観念論が、これでもかと言うくらいに迫ってくる一品です。いやはや、甚だしい平和ボケっぷり。「民族の自主」という観念をマヒさせられ、完全に「去勢」さられた日本「保守」の醜い姿を象徴するものです。

習が発言する間、金が真剣にメモを取る姿もクローズアップした」ことを「北朝鮮メディアが、訪朝した韓国特使団が金の言葉を必死にメモする様子を強調して報じたのとは対照的に屈辱的場面ともいえた」と書き立てる産経。そんなこと計算ずくでメモを取っているに決まっているじゃないですか。

「ここはとにかく中国をヨイショするのが得策だ」――キムジョンウン同志がそう判断なさったことは極めて自然なことです。このことが「屈辱」かと言えば、「自分たち以外のすべての存在は、自分の目的を達成させるための手段にすぎず、工夫に工夫を重ねて自分たちの目的達成のために周囲環境を利用すべし」というチュチェ思想の根本的要求に照らせば、「朝鮮式社会主義体制を守り抜く」という大目標を達成させるためであれば、あくまでもそのための「道具」に過ぎない習近平をヨイショすることくらいキムジョンウン同志にとっては朝飯前のことでしょう。

アメリカの挑発にまんまと乗っかり「自存自衛」などと口走りながら後先考えずにパールハーバー攻撃を仕掛け、案の定、国土を焼け野原にさせられた日帝の、国際関係論的には完全なる失敗例について「あれは闘わなければならなかったのだ・・・」などと陶酔気味で語る産経・正論路線(正気とは思えませんね)と好対照です。

「民族の自主」という至高の目標を達成するためであれば手段を選ばない。そもそも自分たち以外はすべて「手段・道具」に過ぎず、そんな連中が何を思おうと知ったこっちゃない・・・チュチェを突き詰めれば、「道具」ごときが何をどう思おうと、どうでもいいことです。具体的な言動・行動のレベルではなく、自分たちの目標達成に貪欲であることこそが「筋を通すこと」と見なすチュチェ思想の立場に立てば、身のこなしの急激な変化は「変節」には当たらないことです。

具体的な言動・行動のレベルに拘ることは、チュチェ思想的には枝葉末節に過ぎません。産経・正論路線は、まさにチュチェ思想的には枝葉末節のレベルです。こんな枝葉末節のレベルのことに拘っていられるということは、すなわち、産経・正論路線の甚だしい平和ボケっぷりを示すものであり、「民族の自主」という概念をマヒさせられ、完全に「去勢」させられた日本「保守」の醜い姿を象徴するものです。

■都合の良い時だけ「国内向け説明」を真に受ける産経記事――「虚偽宣伝で国民を騙す独裁政権」ではなかったの?
中国は千年の宿敵だ」などという「米政府系メディア」の報道をここで持ち出してくるのも噴飯ものです。このことは、かの高英起「同志」が詳細に書き立てているところです。どうやら、おなじみの「北朝鮮国内情報筋」なる真偽(存否)不明の情報です。

仮にその「北朝鮮国内情報筋」が実在し、その証言が事実だったとしましょう。しかし、「中国は千年の宿敵だ」なる言説が党中央の真意であるという保証は、どこにもありません

このことは、まさしくこれらの手合いの基本的認識・立場であるはずです。いつから共和国は、国民に対して党中央の真意を伝える国になったのですか。高英起「同志」たちによれば、共和国政府は「独裁」政権を維持するために国民に対して日常的に虚偽の情報を流布させてきたといいます。「『労働新聞』に書かれていることのうち真実と言い得るのは日付だけ」と言わんばかりの論陣を張ってきたものです。どうして、「中国は千年の宿敵だ」などという言説だけがファクト扱いされるのでしょうか?

■そもそも「核武装は必要悪」というのが国内向け宣伝
北朝鮮メディアは、金が非核化意思を示したことに一切、触れていない。国民生活を犠牲に推し進めてきた核開発の看板を引き下ろす国内向けの論拠が整っていないことを物語る」とも書き立てています。チュチェ106(2017)年10月8日づけ「共和国の自衛論理が報じられるようになった」でも触れましたが、共和国は以前から核廃絶は人類の念願であると言明してきました。しかし、アメリカと直接的に対峙せざるを得ない状況下では自衛目的の抑止力は不可欠であるために、已む無く核爆弾やICBMといった核武力の整備に邁進してきたというストーリーを持っています。いわゆる「並進路線」は、その認識の上に据えられているものです。

その点を踏まえれば、「北朝鮮メディアは、金が非核化意思を示したことに一切、触れていない」というのは結局、国内向けの論拠」の有無の問題ではなく、アメリカの真意を解析中である証拠とみるべきです。

「核武装は必要悪」というのが、共和国の国内向け宣伝です。中国は千年の宿敵だ」などという国内向け宣伝は真に受ける一方で、「核廃絶は人類の念願」はスルーする・・・都合の良い事実に飛びつく、典型的な観念論者の姿にほかなりません。

だいたい、共和国のしたたかな外交の背景に「北朝鮮には配慮すべき『世論』が存在しないこと」があるのは、国際関係論の初歩的認識であるはず。いわゆる「独裁国家」であるからこそ、「筋」を通せるのだといわれているところです。あれだけ共和国への誹謗中傷を展開してきた産経が、急に「国内向けの論拠」がどうのこうのとは、いったいどうしちゃったんでしょう? そういうことを「踏みつぶす」のが「北朝鮮のキム王朝」だと書き立ててきたのが産経だったはずです。

支離滅裂と言うほかありません。

■チュチェ思想の立場に立つ人間が屈服するとき
生き残りを懸け、中国を最大の擁護者とするため、「宿敵」に膝を屈して取り入った覚悟がにじむ」という結び。目標達成を第一に掲げるチュチェ思想の立場に立つ人間が屈服するときは、唯一、目標を達成できなかったときだけです。一見して「中国に膝を屈した」ように見えても、その中国を「道具」として使い倒した結果、目標を達成したのであれば、それは勝利です。

産経・正論路線のこのトンデモ言説は、以前にも指摘した「ゲリラが建国した国の文化とインパール作戦を生んだ文化的土壌の国との決定的差異」を底流としつつも、何を最優先にすべきかという点において日帝レベル以下に落ち込んでいる現代日本「保守」の甚だしい平和ボケっぷりを示すものです。本質的な意味での「民族の自主」という概念をマヒさせられ、混乱の挙句に取るに足らないことを重要視するレベルにまで幼稚化させられた姿、完全に「去勢」させられた日本「保守」の醜い姿を象徴するものです。
posted by s19171107 at 22:56| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年03月19日

ソ連が恋しくない者には心がない。ソ連に戻りたい者には脳がない。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180319-00000090-asahi-int
>> 「ソ連時代がよかった…」プーチン氏再選、冷めた空気も
3/19(月) 20:56配信
朝日新聞デジタル

 ロシアのプーチン大統領が18日の大統領選で再選を果たした。だが、ライバル不在の選挙に、国民の中には冷めた空気も漂う。経済格差や生活への不満は支持者の中にも根強く、政権の課題は山積している。


(中略)

 プーチン氏支持者からも不満の声を聞いた。会計士の女性は(61)は「ソ連時代が一番よかった。両親のように、年金生活者でも外国旅行ができる社会にしてほしい」と注文する。

最終更新:3/19(月) 21:05
<<
「ソ連が恋しくない者には心がない。ソ連に戻りたい者には脳がない。」――今回の選挙で完勝を果たしたプーチン氏が2000年に述べたとされる言葉です。

ロシアの一般庶民が置かれている厳しい現状を見れば、「ソ連時代が一番よかった」などと思わず口走ってしまうのも理解できないことはありませんが、まさにプーチン氏が言うように「ソ連に戻りたい者には脳がない」といったところでしょう。

両親のように、年金生活者でも外国旅行ができる社会」――たしかにソ連時代は、一般庶民であっても年1回以下の頻度での海外旅行は可能だったと聞きます。共産圏諸国への監視付き団体旅行に限られていたようですが。

「共産圏限定の監視付き団体旅行でもいい! 不自由でもできないよりはマシ!」という声もあるのかも知れませんが、そういう不自由を嫌がった人々がソビエト政権を引っ繰り返して「民主化」を果たしたのが歴史だったはず。人間は、ある程度の範囲で物質的に満たされてくると、次は精神的な自由を求めるものです。もし仮にここでプーチン氏が大転向を果たして、社会政策的な意味でソ連復活を実行したとしても、数十年後にまたも「民主化」が志向されるのは目に見えていることです。

そもそも、「ソ連時代が一番よかった」などと本気で思っている人は、全ロシア国民のうちどの程度いるのか。会計士の女性(61)がそう思っているのは事実でしょうが、それはメディアが取り上げるべき「代表値」なのでしょうか?

いろいろ疑問に思わざるを得ない記事です。
ラベル:メディア
posted by s19171107 at 23:36| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

競争の切磋琢磨としての側面を正しく評価した日本共産党のオリンピック報道

ピョンチャンオリンピックが閉幕してから2週間以上たちました(たってしまいました)。スポーツというものは、単に肉体を鍛えるだけではなく、思想的な効用もあるものです。いわゆる「スポーツマンシップ」は、単なる競技場内での約束事ではなく、広く社会的にも実践されるべきものだと私は考えています(ちなみに私は、「スポーツマンシップ」は好きですが、いわゆる「スポ根」は大嫌いです)。

その角度からピョンチャンオリンピックや、それに関連する報道を振り返ったとき、私は日本共産党機関紙『しんぶん赤旗 日曜版』の報道に注目します。私は左翼ではあるものの日本共産党をまったく支持しない立場ですが、今回に限っては『しんぶん赤旗 日曜版』の論調に全面的に賛同するとともに、ちょっと日本共産党を見直しました

『しんぶん赤旗 日曜版』編集部は、ピョンチャンオリンピックで展開されたアスリートたちの競い合いながらお互いを高め合っている姿から、競争の切磋琢磨という側面を正しく評価しています。

2月25日づけ『しんぶん赤旗 日曜版』は、「競い合える友がいてこそ」という見出しと「高みを極める選手の競い合いが「雪と氷の祭典」平昌五輪を熱くしています。競技のレベルを飛躍させて高め合う競技者たちの共演と、欧米の列強にくさびを打ち込むアジアの躍動を紹介します。」というリード文に続き、日本の小平奈緒選手と韓国のイサンファ選手の一幕について次のように書いています。
>>  過去も高め合ってきた日韓の両エースは優勝候補として大会にのぞみ、小平選手は空気抵抗が高く、記録の出にくい低地リンクで世界初の36秒台をマーク。(中略)
 李選手は小平選手が転倒事故を続けて不振に陥った5年前、誰よりもなぐさめ、励ましました。
 (中略)
 レース後に2人で交わした言葉は、心からの思いでした。「今もあなたを尊敬している」と小平選手。李選手は「あなたを誇りに思う」と伝えました。
<<
それに続く次段落では、フィギュアスケートの羽生結弦選手について、
>> 4回転ジャンプの質と量が飛躍的に増大したこの4年の競技力向上について、「僕が引き上げたとは思っていない」と断言。「(競い合う仲間がいて)時代に恵まれた」とのべ、(中略)新たなジャンプの挑戦を競いながら、競技の魅力を高めた仲間たちへの感謝の念が込められていました。 <<
とも書いています。

また、3月4日づけ『しんぶん赤旗 日曜版』では、「発揮したカーリング精神 対戦相手も"仲間" そこが魅力」という見出しの記事において、次のように書いています。
>> カーリングの素晴らしさとは何か――スキップの藤沢五月選手(26)は2年前、日曜版のインタビューに「相手チームは敵ではなく仲間。それがカーリング精神であり、大きな魅力」と答えています。
 どの大会でも試合相手に「ナイスショット」と声をかけ合うのが"カーリング流"です。
 (中略)
 敬意をもって、認め合い、切磋琢磨する――選手たちの真摯でさわやかな関係が、競技の発展を支えています。 <<
運動会での「お手々つないで・・・」は、さすがに最近は廃れる方向性にありますが、依然として日本では「競争」を否定的に見るむきが根強くあります。たしかに順位至上主義に陥ったり、ルール違反を犯したり他人を蹴落としたりしてまでのし上がるといった競争の「マイナスの側面」には厳重に注意し、アノミー的状況にならないようにしなければならないところですが、競争には切磋琢磨という「プラスの側面」が間違いなく存在しています。「お手々つないで・・・」は、切磋琢磨までをも殺してしまうものです。

歴史的・世界的に見て、リベラル勢力や左翼勢力は、長く「競争」を位置づけるのに苦心してきました。チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」やチュチェ106(2017)年12月24日づけ「フランシスコ法王の懸念に答える「集団主義・社会主義的競争」という新しい競争の在り方」でも触れたとおり、近年になって、ようやく朝鮮労働党が第7回党大会を目前に控えた70日戦闘において「社会主義的競争」を定式化しましたが、逆に言えばこれくらいしかイデオロギー的に特筆できる「競争の定式化」に乏しいのが、リベラル・左翼界隈でした(全世界のすべてのケースを見てきたわけではないし、あくまで社会主義的立場をとる人物・集団についての話であり、中国共産党のような転落者は除外しています)。

そんなご時世に出てきた『しんぶん赤旗 日曜版』のオリンピック報道。特に3月4日づけ記事の「敬意をもって、認め合い、切磋琢磨する――選手たちの真摯でさわやかな関係が、競技の発展を支えています」というくだりには、よい意味で衝撃をうけました。スポーツの世界で発揮されるような意味での競争、そしてその結果としての切磋琢磨的な意味での成長――こうした「競争のプラス面」を、日本左翼業界の老舗たる日本共産党の中央機関紙が正面から肯定的に評価したことは、私は大変よかったと思います(我が懐かしの党員諸君、今もあの頃から変わっていないのであれば、党中央の見解を学習せよ!)。また、朝鮮労働党が掲げている「社会主義的競争」とも一脈通じる発想である点、「反日共・チュチェ思想派」として日本共産党を少し見直しました

ところで、ここからは日本共産党からは離れますが、競争を経済政策として考えるとき、競争の最大の効用である「切磋琢磨」を生かし得る制度設計こそが求められるものであると言えるでしょう。その点、カーリング精神やスポーツマンシップから学べることは多いと考えられます。正々堂々とした競争でお互いを高め合い、その結果としてマクロ経済全体をも発展させる――三方よし的な発想です。

「社会主義的競争」を掲げて社会主義の枠内での切磋琢磨を展望する朝鮮労働党ですが、党委員長であるキムジョンウン同志は、スイス留学時代にバスケットボールに打ち込んでいらっしゃったと聞きます。このころのスポーツ経験が切磋琢磨の効用を感覚として学び取る契機となり、それが今日の「社会主義的競争」に至ったかどうかは分かりません。しかし、可能性としてはあり得ると思います。スポーツマンシップを単なる競技場内での約束事にとどめるのは勿体ないことです。
posted by s19171107 at 00:45| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年03月11日

各国のメンツが立つストーリーが出揃い、いよいよ朝米首脳会談へ

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20180310-00000867-fnn-int
>> トランプ大統領「決断」の裏に日本あり
3/10(土) 18:17配信
Fuji News Network

9日、電撃的に発表された米朝首脳会談。トランプ大統領がこの決断に至る過程で、日本政府が主導的役割を果たしてきたことがわかってきた。


(中略)

今回の米朝首脳会談に至る過程で、日本が蚊帳の外に置かれていると懸念する声も出ているが、首相官邸を取材している、フジテレビ政治部の千田淳一記者はこれを否定する。

政治部 官邸担当・千田記者は「今回の米朝会談へという流れは、実は、日本政府のシナリオ通りでもある。日本が主導して、アメリカと韓国を動かして、圧力を強めてきたという経緯がある。日本政府は、1カ月以上前から、北朝鮮が折れてくると読んでいて、平昌(ピョンチャン)オリンピック後に、トランプ大統領と安倍首相が、事前に直接会談するということは、すでに決まっていた。トランプ大統領の方から、安倍首相に『グッドニュースがある』と伝えてきたのをみると、2人がこうしたシナリオを共有していたとみることもできる。日本としては、今後もアメリカに積極的に働きかけて、拉致問題の進展にも結びつけることを狙っている」と話した。

実際、安倍首相は、これまで「圧力を最大限まで高め、北朝鮮の側から『政策を変えるから対話をしてほしい』と言ってくるような状況を作っていかなくてはならない」と話していて、まさにその通りになったとも言える。


(以下略) <<
なんとなく後出しの無理矢理な理屈である感は否めないものです。いわゆる「対北朝鮮制裁」が効いているかといえば、共和国国内で自力更生キャンペーンが張られている点において「まったく効果なし」ではないものの、それで共和国側が音を上げているわけではないので、これを「効いている」といってよいか私は疑問に思っているところです。

しかし、そういった事実認識は別にして、なかなか思い通りの展開にならず行き詰まり感のあった日本にとって、ようやく自己正当化し得るストーリーを設定できたことはよかったと思います。圧力一辺倒の余り、もはや「頑迷」なる域に達していた日本ですが、ようやく持っていく先に困っていた「振り上げた拳」を下ろすことができ、国家としてのメンツがある程度保たれた状態で対話局面に入り得るストーリーが得られたわけです。

ここまでの経緯を振り返ってみましょう。共和国は、昨年11月のミサイル実験の成功を受けて核武力完成を宣言し、今年1月の「新年の辞」で対話を呼びかけたところです。共和国側は既に「やりたいことはやりきった」というストーリーを持っており、その流れの上に次なる「対話」を位置づけているわけです。

他方、圧力に偏っていた日本を含む西側諸国としては、共和国の「やりたいことはやりきった」というストーリーの上に位置付けられる「対話」の呼びかけにそのまま乗っかるわけには行かないところです。これでは完全に共和国側のペース。この流れで対話に応じることは、それはすなわち自分たちが掲げてきた外交戦略の敗北を自ら認めるようなものです。メンツ丸つぶれ。外交交渉ではなく「降伏の調印」に出向くようなものです。

西側諸国の対共和国政策が、対話する以外に選択肢がないことは明白であるにも関わらず、長期間にわたって行き詰まり状態のままだったのは、結局のところ、自分たちのメンツをある程度保った状態で対話に入る目途が立たなかったことに起因するものと思われます。自らのストーリーを持っていた共和国が早々から自信満々に対話を呼びかけていたこととは対照的です。

前述のとおり、いわゆる「対北朝鮮制裁」は、共和国側があの手この手の対策を講じている点において、「白旗を上げるほどには効いていない」ものです。しかし、制裁がなければわざわざ講じるはずのない「あの手この手の対策」が実践されている点において、「まったく効いていないわけではない」ところです。私は、前者の事実を重視するので、「共和国側が代替策を講じることによって自国の目標を達成しているのであれば、制裁は効果を上げているとは言えない」と現状を認識する立場ですが、後者の事実に重点を置くならば、「北朝鮮の側から『政策を変えるから対話をしてほしい』と言ってくるような状況」と現状を認識する立場もアリかもしれません。日本政府は、後者の事実に重点を置いているのでしょう。

とにもかくにも、これでようやく共和国、米国、日本、韓「国」の各国それぞれが国家としてのメンツがある程度保たれた状態で対話局面に入り得るストーリーを得ることができたわけです。共和国にあっては「経済制裁をものともせずに核武力を完成させたから西側諸国が対話に応じてきた」と言い張ることでき、西側諸国にあっては「核・ミサイル開発に対する経済制裁が効いてきたから北朝鮮が対話に応じてきた」と言い張ることできるわけです。核・ミサイル開発と経済制裁がセット的であったがゆえに、「ニワトリが先か卵が先か」的な構図だったのが幸いでした。

中露、とくに中国に割と「蚊帳の外」感が漂っているのが気になる(朝米接近でヘソを曲げなきゃいいけど・・・)ところですが、関係各国においては対話を突っぱねる動機はこれで一旦はなくなったわけです。真っ赤な大嘘ならば話は別ですが、対話が実現するのであれば、この程度のコジツケなど取るに足らない問題です。ここらへんで手を打っておきましょう。

ようやく、朝米首脳会談という3代にわたる大事業が実現しようとしています。遺訓が貫徹されるときです・・・!
posted by s19171107 at 00:34| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

キムジョンウン同志のターン

경애하는 최고령도자 김정은동지께서 남조선대통령의 특사대표단 성원들을 접견하시였다.
https://www.youtube.com/watch?v=g6xrD1l_Mcw
<<높이 날려라 우리의 당기>>(高くたなびけ我々の党旗)と<<사회주의 조국찬가>>(社会主義祖国賛歌)が会談シーンのBGMとして採用され、動画ラストのBGMは<<빛나는 조국>>(輝く祖国)。

徹頭徹尾、「キムジョンウン同志のターン」でした。少なくとも、朝鮮中央テレビのBGMの選択を見るに、共和国側は「自分たちのペースで物事を運んだ」という理解のようです。
posted by s19171107 at 22:49| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年02月21日

国労・動労の方法を克服した東労組のスト戦略

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180221-00000065-it_nlab-bus_all
>> “電車を止めないストライキ”をJR東労組が予告 「それって効果あるの?」「これが現代のストか……」の声も
2/21(水) 16:08配信
ねとらぼ

 厚生労働省は2月20日、東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)から「ストライキ等の争議行為を行う予告」を受けたと公表しました。


(中略)

 予告された内容は、2018年3月2日以降に「全組合員(助役を除く)による本来業務以外に対する非協力(自己啓発活動など)の形式による争議行為の実施」。今回のストライキでは、「列車運行に支障をきたすことはない」としています。要求内容は、組合員一律での定額賃金ベースアップ(定期昇給分を除く)です。

 この報道を受け、ネット上では「そもそも電車が止まったら困る」という声があった一方で、予告内容を確認したユーザーからは「電車が止まらないストライキなんて意味あるの?」「自己啓発活動をしないことがストになるの?」という声も寄せられました。

 ストライキ決行の可能性についてJR東日本に取材しましたが、現時点、同社広報では分からないとのこと。JR東労組に対して「自己啓発活動とは、具体的に何か」などの取材申し入れをしていますが、2月21日15時時点で、回答は得られていません。


(以下略) <<
■ストは「労働市場における商売人」である労働者の商行為の一環
昨年12月26日づけ「商行為の一環としてのストライキ――自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは展開すべきだが、その労働者の利益にとっての弊害についても認識すべき」でも言及したとおり、「労働市場における商売人」である労働者は、慈善活動・ボランティア活動で働いているわけではないのだから、いくら労働契約を結んでいるからといって、いつでもどんな場合でも自身の労働力を販売するわけには行きません。

ストライキという行為は、労働者の人間としての権利(人権)である以前に、「売り手と買い手の取引交渉失敗による取引停止・操業停止」という点において、市場取引における商売人としての合理的行為;商行為の一環であるとも位置づけられるものです。そのため私は、今回のJR東日本労組(東労組)のストを辞さない構えを支持します。

■お客様を敵に回さない形でのストを!
また、前回記事で私は、労働運動のやり過ぎは労働者自身の首を絞めることに繋がる点において、「利用客を敵に回さない一方で、企業当局側には打撃を与える」という方法論がスマートでよいと述べました。一企業の労使はお客様(消費者)との関係においては「呉越同舟」の関係にあるという事実を直視し、「誰を敵に回してはならないか」ということを十分に承知した上で戦術を練らなければならないわけです。

今回の東労組のプランは、「ストライキが決行されたとしても、列車の運行に支障はない」ことを明言し、いわゆる非協力闘争の形式を宣言しました。戦術面においても私は、強く支持するものです。

■世論の後押しがないので「電車を止めるスト」が成功する条件は熟していない
ところで、ねとらぼ記事中では、「電車が止まらないストライキなんて意味あるの?」という声が掲載されていますが、むしろこの段階で「電車を止めるストライキ」を打っても、目指すところの成果は得られないであろうと見るべきです。ストライキに対する利用客・世論の支持を広く受けているわけではなく、他社労組との連携もない状態だからです。以下に述べるとおり、@何の効果も生まないか、A逆にクレーマーのような利用客にエサを与えることになるか、B労使諸共に没落してゆくキッカケになるかのいずれかになりかねないものと考えます。

このような状態でのスト突入は、まさに「独走」であり、かつて公労協(国労・動労)が飛び込んだ「スト権スト」(1975年)の失敗の轍を踏みかねないものです。

あのとき公労協は、総評との連携さえも十分とは言えないままに単独的にストに突入したところ、私鉄網の発達で国鉄の「地位」自体が低下しつつある中で私鉄が「スト破り」的に列車を運行(そもそも公労協側が私鉄労組に協力を要請していなかったのだから無理もないことだけど)したこともあり効果は上げられませんでした。もともと私鉄線を利用していた通勤通学客はいつも通り私鉄線を利用し、国鉄線の通勤通学客は「ま、私鉄動いているし・・・」といった具合に落ち着いて(とはいっても混雑はしているけど)経路を切り替えたわけです。

また、スト継続に対する世論の支持も取り付けきれていませんでした。世論は、「国鉄当局は何をやっているんだ、組合に譲歩して早く紛争を収めろ!」とはならなかったのです。

その結果、空前の大規模・全面的ストであったにも関わらず、当局側に打撃を与えることが出来ず、敗北を喫したのです(当人たちもスト権奪還闘争を後退させたとは認めているくらいの完敗)。

1975年当時よりも私鉄鉄道網の発展は著しく、「国鉄の地位低下」が指摘された当時よりもJRの「地位」は低下しています。仮にここで「電車が止めるストライキ」を打っても、そのことに戦術的な意味がどれほどあるのか甚だ疑問であると言わざるを得ないところでしょう。ただでさえ昨今は毎日のように事故や点検等で運転見合わせになるJR東日本管内。平然と経路を切り替える大多数の利用客たちの姿が容易に想像できます。社会的議論を喚起し、組合運動に有利な世論形成には至らないことでしょう

■「兵糧攻め」は無産階級としての労働者、消費者から見れば企業の一員である労働者の戦い方ではない
なお、「利用客による経路切り替え」という事態は、労使諸共に影響を受ける事態です。「一企業の労使は呉越同舟の関係」と述べた通りです。その点においてこの事態は、企業側にとって労働者側の要求を呑むインセンティブになりうるようにも見えます(もちろん、逆も――労働者側が企業側の労務を受け入れる――然りです)。単独ストにも一定の効果がありそうな気もしてきます。

しかし、一般的に考えたとき、企業側の「体力」と労働者側の「体力」には歴然とした差があります。そして、企業側も当然に反撃してくることでしょう。「利用客による経路切り替え」という事態によって、一種の「兵糧攻め」的な意味で企業側が困り始める頃には、無産階級としての労働者側は干からびているでしょう。そう考えると、「利用客による経路切り替え」の長期的効果は、「企業側が労働者側の要求を呑む」ことよりも「労働者側が折れる」ことの方が先に発生するものと思われます。

「利用客による経路切り替え」が一種の「兵糧攻め」的な効果を発揮し始めて企業側が実際に困り始めたり、そこまで行かなくとも、現実的な経営の脅威として本格的な危機を感じ始めた状態は、既にマーケットにおける企業全体の立場が相当に危うくなっている段階です。「呉越同舟」の船が呉越諸共に沈没し始めた段階です。まさに国鉄の末路。スト戦術としては危険すぎると思われます。

■クレーマーのような利用客にエサを与えることになる恐れ
上述の「効果なし」とは逆の事態も想定できます。国鉄があった時代はまだスト等の労働争議に対する社会的理解があった時代でしたが、そんな時代でも公労協(国労・動労)のストには批判的な声が巻き起こっていたものです。あの頃よりも階級連帯意識が乏しい昨今(ぶっちゃけて言うと、自分勝手な奴が多い時代)において「電車を止めるストライキ」を打つことは、パンドラの箱を開けることにならないでしょうか?

前述のとおり、お客様を敵に回してはならず、お客様を敵に回した側の敗北は確定的と言っても過言ではないものですが、今やそのお客様の「扱いづらさ」は空前のレベルに達しつつあります。そのご機嫌を損ねかねないプランを採用すべきではありません。労働者階級の利益を優先するからこそ私は、「電車を止めるストライキ」は敬遠して、他の方法で企業側を揺さぶる方がよいと考えています。

つまり、ストライキに対する利用客・世論の支持を広く受けているわけではなく、他社労組との連携もない状態における「電車を止めるストライキ」は、@何の効果も生まないか、A逆にクレーマーのような利用客にエサを与えることになるか、B労使諸共に没落してゆくキッカケになるかのいずれかになりかねない、というわけです。

■「本来業務以外」を労働者に押し付けたツケを払うとき
ちなみに、ねとらぼ記事中では、非協力闘争について「自己啓発活動をしないことがストになるの?」という声が掲載されていましたが、「自己啓発活動」はあくまで一例に過ぎません。日本の労働現場は残念ながら「本来業務以外」が不可欠的な重要な役割を果たしているものです。本来業務以外に対する非協力」は、打撃になることでしょう。それに、「自己啓発活動」なんて、実態においては「研修」に近いようなもの・・・「『本来業務以外』を労働者に押し付けたツケを払うとき」と見ておきましょう。
posted by s19171107 at 20:19| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年02月20日

言うは易く行うは難し

「言うは易く行うは難し」の典型。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180220-00000039-reut-bus_all
>> 政権奪還なら金融セクターは産業に奉仕へ=コービン英労働党党首
2/20(火) 12:53配信
ロイター


(中略)

コービン党首は「一世代の間、金融が産業に奉仕せず、政治家が金融に奉仕してきた。その結果、生産的経済、わが国の公共サービスと国民生活は少数の『大き過ぎてつぶせない』銀行とカジノ金融業者に人質として取られてしまった」と批判。

「もはやそれも終わりだ。次の労働党政権は40年ぶりに、実体経済のために立ち上がるだろう。わが党は金融を、全ての人の支配者ではなく、産業への奉仕者とするため断固たる行動を取る」と述べる予定だ。

さらに、自動車部品大手GKN<GKN.L>に対する投資会社メルローズ<MRON.L>の敵対的買収案に言及。「われわれはGKNのような企業の成長を適切に評価しているが、同社の崩壊の可能性に直面している時、対応するすべがない」とし、「次の労働党政権は『公益性テスト』の範囲を広げ、国内の産業基盤を破壊する敵対的買収を防ぐため政府が介入できるようにする」考えだ。

大手企業は労働党に対し警戒しており、米モルガン・スタンレーは投資家に対し、コービン党首の政権奪還はEU離脱以上の政治リスクになると警告した。


最終更新:2/20(火) 13:12
<<
産業への奉仕者とするため断固たる行動を取る」――本来的な意味での金融業の在り方に立ち返らせるという意味においては、お題目としては文句のつけようのない正論中の正論です。しかし、実際の政策に落とし込むとすれば、これは実に難しいものです。

どこまでが実体経済に奉仕していると言えて、どこからがそうでないと言えるのかのでしょうか。実際の政策は、「程度の差」の問題、換言すれば、「線引きの問題」と言い切ってしまっても過言ではありませんが、どうするつもりなのでしょうか?

ちなみに歴史上の類似した構造の事例を振り返るとき、スターリンの「階級としての富農(クラーク)絶滅」の計画の例が思い出されます。すなわち、ボリシェヴィキが掲げる意味における共産主義においては、富農の存在は相容れないものであり、その意味においては、「富農絶滅」は理論的には理解可能ではあるものの、実際に「誰を富農と見なすべきか」「どこまでが『団結対象とすべき中農』で、どこからが『打倒すべき富農』と言うべきなのか」という基準については曖昧模糊としていました。ボリシェヴィキは最後まで明確な線引きを提示できず、結局、雑なキャンペーンに終始したものでした。お題目が明確であったとしても、実際の政策への落とし込みが困難な好例です。

また、一見してただの投機行為に見えても、思いもよらぬ実体経済に対するプラス効果があり得ることは、現代よりも遥かにシンプルな経済構造かつ、「自由民主主義」などという概念が存在しなかった日本の江戸時代における幕府のコメ先物禁止令とその撤回の一例を見るだけでも明白です。

それよりも驚くべきは、「われわれはGKNのような企業の成長を適切に評価している」という認識。メルローズの魂胆が幾ら何でもハチャメチャすぎるのかも知れませんが、たぶんそんなにも「分かりやすい」のは、今回切りの極めて稀な幸運なるケースでしょう。たかだか政治家ごときが一企業の成長を「適切に評価」することはできないと言い切ってよいと思います。一周遅れの計画経済論者だって、もう少し「謙虚」でしょう。

こういうことを言いたくなる気持ちはすごくよく分かるのですが、実際の政策的課題として考えたとき、まさに「言うは易く行うは難し」の典型と言わざるを得ないところです。

モルガン・スタンレーの言い分を認めるのも何となく癪な気もしますが、マーケットにおける百戦錬磨のプロでさえ眉を顰めるような極めて一握りの「輩」を対象にしたパフォーマンスに留まってくれればよいものの、これを本気でやろうものなら、その影響たるや確かにBrexitどころではないかもしれません。
posted by s19171107 at 22:54| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年02月16日

【광명성절경축】チュチェ思想の神髄が「図らずも」実践された例は、その必然性・正当性を示すもの【2.16경축】

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180213-00000069-sasahi-soci
>> 北海道「突出して何もない町」が地方創生に成功 陰にアイデアマン公務員〈AERA〉
2/14(水) 11:30配信
AERA dot.

「地方創生」の名のもとに、各自治体が奮闘している。昨年12月、地方創生の司令塔、内閣府の「まち・ひと・しごと創生本部」は「移住・定住施策の好事例集(第1弾)」を発表した。3大都市圏以外から、行政・民間の取り組みによって転入者数から転出者数を差し引いた社会増減数を始点年の総人口で割った「社会増減率」がプラスに転じた、または社会減の減少幅が縮小した自治体を選定。全18自治体を紹介した。成功した地方自治体は一体どんな取り組みをしたのか。そのひとつを取材した。


(中略)

 北海道南部にある厚真町は人口約4700人。日本創成会議が「消滅可能性」を指摘した自治体の一つだ。

 大坪さんは1987年の入庁以来、都市計画を担当した。町は、60年代の高度経済成長期から人口減少がつづいていた。人口を増やすためには、外から人を呼んでくるしかない。

「成功した町の事例をそのまま真似してもうまくいくとは限りません。自治体の役割は、それぞれの地域にあった戦略をいかに見つけ出し、それを行政が一丸となって実現させるか。そのためには、役場内の自由な発想とそれを受け入れる雰囲気づくりが必要だと思っています」


(中略)

「失敗? あまり考えませんでした(笑)。それよりも、うまくいったらいいなあという、わくわく感のほうが圧倒的に大きかったですね」

 町は、若手職員を中心に地域資源を生かしたローカルベンチャー支援などにも乗り出した。

 厚真をもっと魅力的な町にしたい──。強い意志と希望を持った職員が増えているという。
 

(以下略) <<
こんなことを言うと当人たちは極めて心外だと思いますが(笑)、「成功した町の事例・・・」のくだりは、まさにチュチェ思想が教える所のど真ん中です。「チュチェ思想の神髄」を正確に言い当てていると言ってよいコメントです。

「成功した他国の経験をそのままコピペ的に模倣しても成功するとは限らない」「他国の経験や支援を無批判に受け入れるのではなく、一概に排斥するのでもなく、我が国の条件に合わせて自分の頭で考えて選択せよ」「党の周りに一心団結して我々の革命事業を推進しよう」――こうしたチュチェ思想が提唱する心構えが実践されたわけです。

また、「わくわく感のほうが圧倒的に大きかったですね」というコメントからは、主体的なチャレンジで充実した職業生活を送っているご様子が窺えます。主体性を堅持しつつ、実践活動を自主的で創造的に楽しんでいる姿は、まさしくチュチェ思想が目指す理想像です。

元来、チュチェ思想は実践を重視する思想です。仮に「チュチェ思想」という名称を看板として掲げていなくとも、その神髄を踏まえた実践行為は、チュチェ思想的であると言えます。その点、本件記事が伝える事実は、ほぼ間違いなく当人たちはチュチェ思想を意識して取り組んだわけではないものの、実態としては、チュチェ思想的実践が成功裏に推進された例といえるでしょう。

そして、「チュチェ思想」という看板が掲げられていない場面で実質的に「チュチェ思想的実践」と言い得る展開が成功裏に推進されているという事実は、チュチェ思想の神髄は、特に意識的に仕向けたり無理矢理にコジツケたりせずとも自然発生的な試行錯誤の結果として到達する点において、その必然性・正当性を示すものと言い得るものでしょう。

광명성절 축하합니다!
ラベル:チュチェ思想
posted by s19171107 at 21:30| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

「価値観の相対化」――危険な劇薬、取り扱い注意

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180210-00000046-asahi-soci
>> 選択的夫婦別姓「容認」4割超 「必要ない」は3割切る
2/10(土) 17:20配信
朝日新聞デジタル

 内閣府の家族と法制度をめぐる世論調査で、夫婦別姓を選べる「選択的夫婦別姓制度」を導入してもよいと考える人の割合が過去最高の42・5%だった。導入する必要はない、と答えた人は過去最低の29・3%。ただ、政府は「国民の意見が大きく分かれている」として制度の導入に慎重な姿勢だ。

 制度をめぐっては法制審議会(法相の諮問機関)が1996年に導入を答申したが、法改正のめどはたっていない。調査は全国の18歳以上から無作為抽出した5千人を対象に面接で実施した。回収率は59%。

 調査結果によると、質問は三択で、制度を導入してもよいと答えた人は過去最高の42・5%。
(中略)制度容認派のうち19・8%は自分も結婚前の姓を名乗りたいと回答した。(以下略) <<
制度として存在するのは構わないと考えているが、自分自身が夫婦別姓を選択する予定である人は、ごくごく少数にとどまる――制度利用予定者が思ったよりも少ない結果で少し驚きました。まあ私自身も、別姓を名乗りたい夫婦は名乗ればいい(どうでもいい)と思うが、自分たちの問題として考えたときは、この問題について特別なコダワリはないので、ウチは世間標準通りに夫婦同姓でいいんじゃないかと思っているクチですが。

それはさておき、この問題に関しては、右派界隈からしばしば「選択的夫婦別姓論は、家族の結束を弱める左翼勢力の陰謀的な制度改悪であり、その狙いは『家族の解体』にある」といった非難が浴びせられます。この世論調査と選択的夫婦別姓論者の論法を見る限り、それは「杞憂」「被害妄想」といってよいのではないかと考えているところです。

選択的夫婦別姓論者の論法が、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」である限り、選択的夫婦別姓論を「容認」することこそ可能ではあるものの、それをデフォルトに「仕向ける」ことは不可能です。そして、今回の世論調査結果を見る限り、ごく一部の夫婦は夫婦別姓を選択するものの、大多数の夫婦と「夫婦予備軍」は今のまま夫婦同姓を選択するであろうことが見込まれます

選択的夫婦別姓論者が言うように、「夫婦同姓という伝統」の根拠を問い詰め、あらゆる考え方を相対化した上で考え抜いたとき、夫婦が同姓を名乗らなければならない根拠など存在しないという結論に至らざるを得ません。その点において、夫婦別姓を妨げる根拠はありません。同様の論法に従えば、当たり前のことながら夫婦同姓を妨げる根拠も存在しないので、夫婦別姓でなければならない根拠もまた存在しません

それゆえ、仮に夫婦別姓が実現したとして、その社会において旧来的な夫婦同姓論――家族が一体感を持つためには、同姓であるべきだから、ウチは同姓にする――という夫婦がいたとしても、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」を制度成立の論拠にしている限りは、そうした考え方を批判できる根拠は存在しません

もし、ここで、「『家族が一体感を持つためには、同姓であるべきだから、ウチは同姓にする』なんて考え方に合理的な根拠はない」などと説教しようものなら、まさに「選択的」であるがゆえに、「余計なお世話」として門前払いされることでしょう。また、この制度が「価値観の相対化」を経て成立したのであれば、「合理的な根拠」という判断基準もまた相対化された上で棄却され得るものです。この世には「絶対的基準」が存在しない以上は、価値観を相対化する立場を突き詰めれば、「伝統」に縛られる謂れがないのと同様に、「合理性」に縛られる謂れもまた存在しなくなるのです。合理的に行動しなければならない理由など存在せず、ただ気の向くままに好きにしても非難される謂れはありません。

現在の選択的夫婦別姓論者の論法は、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」に留まっています。こうして考えると、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」を主軸とする現在の選択的夫婦別姓論は、「夫婦同姓制度を打破」することは可能であるものの、新しい価値観としての「夫婦別姓を推進」し得るものではないのです(そもそも、選択的夫婦別姓論は「夫婦別姓を推進」するものではありませんが)。

そして、今回の世論調査。制度として存在するのは構わないと考えているが、自分自身が夫婦別姓を選択する予定である人は、少数にとどまるわけです。人々は、都度都度に合理的に行動を選択することよりも、伝統や習慣に合わせて定型的な行動をとる方を好むと言われています。また、Hayekは、伝統や習慣の特徴について「権力によって強制されなくとも、内面化されているがゆえに、自発的に遵守するもの」と述べています。つまり、人間心理の観点から考察すれば、実際に制度化されたところで自発的に夫婦別姓を選択するケースは多くないと見込まれるし、また、価値観が相対化された状況下での自由選択制であるがゆえに個別の夫婦に対して別姓を推奨できないわけです。

こんな現状で「選択的夫婦別姓論は、家族の結束を弱める左翼勢力の陰謀的な制度改悪であり、その狙いは『家族の解体』にある」などと言うのは、杞憂というべきか被害妄想というべきか。右派界隈の頭の悪さは今に始まったことではありませんが、老婆心ながら、お止めになった方がよいのではないかとお勧めするところです。

ところで、私が特に昨年あたりから、「『不合理なルールを変えて多様性を実現する』を単なる『何でもあり』にしてはならない」という強調するようになったのは、昨今の「変革」論が「価値観の相対化」という劇薬をあまりにも安易に利用している嫌いがあるためです。

上述のとおり、この世には「絶対的基準」が存在しない以上は、価値観を相対化する立場を突き詰めれば、個人を縛る理屈は存在しなくなりますキムジョンイル総書記が指摘されているように、「自由」と「放蕩」は根本的に異なります。自由はあくまで集団的枠組みを破壊しない範囲内――集団主義の枠内での個人的自由と集団的生活の調整と接合・両立――でなければならないという点において、一定の程度において「個人を縛る」理屈は存在しなければなりません。安易なる「価値観の相対化」の濫用は、古臭い制度の破壊には絶大な威力をもたらすものの、その副作用として新しい制度の樹立を困難にしかねません。社会革命の立場に立つからこそ私は、「価値観の相対化」の利用には慎重でなければならないと考えています

夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという程度であれば、どっちに転んでもどうでもいい話ですが、この程度の「どうでもいい話」でさえ「価値観を相対化」という劇薬の効果は抜群に発揮され得るものです。そして私は、この程度の「どうでもいい話」とは言えども、それにしても「価値観を相対化」の劇的な効果に対する慎重さが足りないのではないかと思うのです。

もっと社会集団の根底を規定するような分野において、この調子で安易に「価値観を相対化」が導入されれば、いったいどんなことになるでしょうか? 不合理で人々の自主性を縛り付けるような旧来型の制度は粉砕されるでしょうが、それにとって代わる新しい制度を樹立し得るでしょうか? どういう理屈で人々を新制度に従わせるというのでしょうか? 破壊するだけ破壊してそのままにならないのでしょうか?

夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという問題については、上述のとおり、現行制度を壊したところで大多数の夫婦は自発的に同姓を選ぶ見込みである点、大きな影響はないでしょうし、繰り返しになりますが、この程度の問題であれば、どっちに転んでもどうでもいい話です。しかし、もっと社会集団の根底を規定するような分野における「破壊」の影響は不透明です。

まあ、あらゆる価値観を相対化し破壊したものの「プロレタリア文化」の創造には失敗したと言わざるを得ない、かの文化大革命でさえ、最終的には収まるところには収まりました。その点において「長期的(歴史的)視点」で見れば、「価値観を相対化」路線は、社会の成熟度に応じた時間を掛けて「それなりの地点」に落ち着くのかもしれません。しかし、「生活的視点」からみれば、「それなりの地点」の落ち着くまでの「数か月」「数年」の間にも日常生活は連綿と続くわけです。私は生活的視点を徹底させたいと考えています。

「価値観の相対化」――危険な劇薬です。取り扱い注意。夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという程度の「どうでもいい話」であるからこそ、これを機に「価値観の相対化」の劇的効果について、じっくりと考えを巡らせるべきでしょう。
ラベル:社会
posted by s19171107 at 22:05| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2018年02月11日

首領様は依然として、お面の題材にしてよい御方ではありません

https://jp.reuters.com/article/idJP2018021101001536
>> 「金日成仮面」と韓国報道で混乱

 【平昌共同】平昌冬季五輪アイスホッケー女子の南北合同チームが10日出場した試合の会場で、北朝鮮応援団が男性のお面をかぶって歌う場面があり、韓国の一部メディアが「故金日成主席の仮面」と伝えた。


(中略)

 お面の正体は、男性の片思いを描いた北朝鮮の歌謡曲「フィパラム(口笛)」を歌う際、男性役を演じるために使う「美男子仮面」との説が有力だ。 <<
写真見ましたが、首領様のお若い頃にはあまり似てなかったな・・・プロバガンダ・イラストによく出てくるような男性という印象でした。

というよりも、いくらキムジョンウン委員長の時代になり、堅苦しさが軽減されてきたとはいえ、首領様のお面が許容されるような日はまだまだ遠いと言わざるを得ない現状です。偉大な首領であり、チュチェ思想においては「肉体的生命とは区別される政治的生命の父」。平たく言えば「人民の神」という地位に依然として位置しているわけです。国威発揚のオリンピック応援のためとはいえ、お面の題材にしてよい御方ではありません

ちなみに個人的な話になってしまいますが、だいぶ以前にチャイナ・タウンに遊びに行った時の話ですが、怪しげなお土産物店で売られている「毛沢東トランプ」を見たとき、「モテクドン・ドンジ(毛沢東同志)がトランプの絵柄になるのか。共和国もいつか、首領様がトランプの絵柄になる日が来るのかな・・・?」と思ったものです(我ながら純粋だなーw)。毛沢東は中華人民共和国の建国者であり、今も昔も中国共産党政権の正統性の源泉であるとともに、トランプの題材になるくらいは大目に見てもらえる「キャラクター」です(在日チャイニーズ社会ではOKなだけで、本国ではどうだか知らないけど)。同じように首領様がトランプの絵柄になる・・・畏れ多いものの、そういう時代もいいかもな、と思ったものでした。ええ、なんてことのない、ただの個人的思い出話です。なんとなく、ずっと忘れていた記憶を思い出したので。
ラベル:メディア
posted by s19171107 at 18:35| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする