2017年09月11日

人民の利益を侵害する者に寛容などありえない

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170910-00000060-dal-ent
>> ハイヒール・リンゴ、不倫に社会的制裁いりますか?「一線を越える」は愚問愚答
9/10(日) 14:00配信

 芸能人から政治家まで、毎週のように不倫の話題が世間を騒がせている。多くの論調が「けしからん」という中で、ハイヒール・リンゴは、不倫はダメなのはもちろんだが、それでも昨今の不倫たたきは度を過ぎていると警鐘。世間からの色々な声が挙がるのを承知の上で、あえて「不倫の社会的制裁が必要なのか」と問うた。


(以下略) <<
チュチェ106(2017)年3月17日づけ「軽薄な人間観に基づく経済還元論、彼我断絶的な人間関係論による無理筋の不倫批判への「批判」」でも述べたように、ヨソの家庭の不倫問題は、決して「対岸の火事」ではありません。

我々の社会が人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている以上は、パートナーとの関係という最も基本的な関係における信頼すらも平気で破るような人間は、社会的関係においても到底信頼に値しません(家族愛が深いからといって社会的に信用できるわけではない――身内主義者の可能性――が、家族さえも裏切る輩が社会的に信頼できるはずがない)。いかなる理屈を並べようとも、社会的存在である人間の本質に照らしたとき、信頼に対する裏切り行為を正当化することは不可能であり、そうした家族さえも裏切るような超自己中心的・反社会的性格の人物が私たちの共同社会で生活していることは、脅威以外の何者でもないのです。

また、社会学における「犯罪行動の分化的接触理論(Theory of differential association)」に基づけば、自分自身とは直ちに関係のない出来事であったとしても、「対岸の火事」として傍観してはならず、「犯罪文化(分化ではなく文化)」に旗幟鮮明に反対し、その侵入を防がなければならないと言えます。

その点、ヨソの家庭の不倫問題を「対岸の火事」だの「自分とは無関係」だのと嘯く輩について私は前掲過去ログで次のように述べました。
>> その意味で、人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている我々の市民社会のうちにおいて、不倫という裏切り行為の最たるものが敢行された事実は、決して「ヨソの家庭内問題」「対岸の火事」では済まされません。この重大な事態を「本来ならば当事者以外には何の関係もないようなこと」などとするのは、結局、人間を「社会的集団の一員」ではなく「社会との関連性が曖昧な『個人』」として見る軽薄な人間観の発露、すなわち、他人同士のトラブルが永遠に他人同士のトラブルであり続ける、自分は他人と関連していない関係してない、要するに彼我の断絶という思い込みの発露と言わざるを得ないのです。 <<
芸能界という特殊世界は、人間同士の信頼関係で成り立っているような世界なのだから、ハイヒール・リンゴさんくらいの芸歴があれば分かりそうなものですが、それでもこういう発言が飛び出してしまうというのは、現代社会において「信頼こそが社会の基本的紐帯」という事実が形骸化していることを如実に表すものでしょう。

他のどっちでもよいような不正と違って、信頼というのは社会的人間の本質であり、我々の社会の基本的紐帯なのです。ここは妥協してはならないのです。引用はしませんでしたが、信号無視だの歩きスマホだのと同列に扱うとは、バカという他ありません。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170911-00000179-sph-ent
>> マツコ、不倫について世間は「叩きすぎ。人生を終わらせてしまうくらいやってる」
9/11(月) 18:21配信

 11日放送のTOKYO MX「5時に夢中!」(月〜金曜・後5時)で、コラムニストのマツコ・デラックス(44)が、昨今の不倫騒動に対する風潮に苦言を呈した。

 「基本的に人間は悪口が楽しい。ちょっと叩きすぎだよと思う」とマツコ。「悪口を陰で言い合って楽しませてもらってるから『ありがとう』で終わりにしておけばいいのに、その人の人生を終わらせてしまうくらい根こそぎやっちゃうじゃない? だから悪口を楽しんでいるんじゃなくて人殺しを楽しんでいるようになっちゃってる」と私見を語った。


(以下略) <<
偉大な領導者、キムジョンイル同志は次のように仰っています。
「人民の利益を侵害する者に寛容などありえない」

人間――とりわけ家族――同士の愛と信頼を基礎・基盤をみなすチュチェ思想型の社会主義革命を通して、名曲《동지애의 노래》や《세상에 부럼없어라》で歌われる世界を築かんとする共和国では、不倫には刑事罰が科される(刑法270条)のですが、このことも関係しているのかもしれません。

家族愛が社会主義祖国の基盤であることについて、キムジョンイル同志は、チュチェ84(1995)年1月1日発表の談話『党のまわりにかたく団結し、新たな勝利をめざして力強くたたかおう  朝鮮労働党中央委員会の責任幹部への談話』において、次のように指摘されています。
http://kcyosaku.web.fc2.com/kj1995010100.html
>> わたしは、『同志愛の歌』が好きです。この歌には、党の意志がよく反映されています。わたしは1970年代に文学・芸術部門の指導にあたった際、活動家たちに志をともにしようと言いましたが、その思想を盛り込んで『同志愛の歌』がつくられました。かつて、金日成同志は、同志愛によって切り開かれた朝鮮革命を同志愛によって勝利に導くべきであると述べましたが、この教えは実に名言です。

 戦時歌謡『塹壕で歌う』の「愛する父母妻子を両のかいなに抱きしめたい」という一句はすばらしい歌詞です。この歌詞は、表現が非常に生き生きとしています。人は家庭への愛着がなければなりません。家庭への愛着があってこそ、社会主義祖国を愛する愛国主義も生まれるのです。我々は、人民に社会主義的愛国主義の精神と朝鮮民族第一主義の精神を植えつけるごとに深い関心を払わなければなりません。我々の社会主義祖国、わが民族は、金日成朝鮮、金日成民族です。
<<

それはさておき、ゲス不倫騒動の発端となったバンドマンのKは丸で平気な顔をしているし、タレントのBは騒動を逆手に取るかの如くLineのCMに出てきています。そのほかにも、元国民的アイドルで情事の真っ最中を押さえられて猛バッシングを受けたYは死んでいない(ときどきテレビで見かけるようになってきた)し、夫を自殺に追い込んだかもしれない歌手のUは、どうやら嵐が過ぎるのを待つ構えの模様ですが、「人殺しを楽しんでいるようになっちゃってる」とは、いつも訳の分からないことを深夜枠で駄弁っているマツコ・デラックスさん(翌朝には忘れているレベルのエンターテイメントとしては面白いけどね)ですが、いつにも増して論理が飛躍していますね(こんなこと言うと例によって大声あげて早口でまくし立てるのかな?)。

表舞台からはしばらく身を引いて禊を済ませるべし。
以上。
posted by s19171107 at 22:42| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年09月09日

共和国における経済改革の進展――建国69年目のチャレンジの行方

共和国建国69周年です。世間の関心はもっぱら「核開発」と「ミサイル実験」ですが、共和国を考える上で今一番重要な論点は、なんといっても経済改革の進展です。

■積極的な政策としての市場経済導入改革
現在、キムジョンウン同志が積極的に推進している経済改革は「分権化」をキーワードとして説明することができますその内容は、各企業所(ミクロ)については、すなわち裁量権限の拡大と独立採算制の導入、経済全体(マクロ)については市場メカニズムの導入と整理できるでしょう。当ブログでも以下の通り、継続的に取り上げてきました。
○チュチェ102(2013)年4月11日づけ「経済改革
○チュチェ102(2013)年10月1日づけ「ウリ式市場経済
○チュチェ102(2013)年10月7日づけ「チュチェの市場経済・ウリ式市場経済――共和国の経済改革措置に関する報道簡易まとめ
○チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会
○チュチェ105(2016)年7月2日づけ「分権改革・経済改革の旗印を更に鮮明にした画期的な最高人民会議
○チュチェ106(2017)年1月2日づけ「キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!
○チュチェ106(2017)年7月27日づけ「政策としての朝鮮民主主義人民共和国における市場経済化は着実に前進している――韓銀推計という第三者的立場の分析からも明らか

この経済改革の方向性は、チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」でも強調したように、伝統的に難題だった「企業間・個人間の競争」を定式化し、「社会主義的・集団主義的競争」という名でイデオロギー的な位置づけがなされている点、政策として積極的に取り組んでいるものと言うことができます。

また、チュチェ106(2017)年1月2日づけ「キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!」でも触れたように、キムジョンウン委員長自ら、このイデオロギー的定式化を「新しい時代精神」と指摘している点からも分かるように、相当に高次の位置づけがなされているので、そう簡単に後退するとは考えにくいものです。

つまり、現在共和国で進展している市場化の波は、決して「闇市の制御不能な拡大」ではなく、「闇市をしぶしぶ認めている」わけでもなく、政策として積極的に推進されているものであり、今後も推進されつづけるのであると考えられるのです。

「分権化」という観点から共和国の経済システムの変化を論じたものとして、以下の東洋経済ONLINEの記事が参考になるので、重要部分を抜粋します。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170830-00186095-toyo-bus_all
>> ミサイル発射の北朝鮮に圧力だけではダメだ
8/30(水) 6:00配信
東洋経済ONLINE


(中略)

 そんな国際社会の圧力に北朝鮮が持ちこたえられるのか。それを判断するには、北朝鮮の経済状況を見る必要がある。1990年代に社会主義圏諸国の崩壊と相次いだ自然災害で、北朝鮮経済は事実上瓦解した。北朝鮮はこの時期(1994〜1997年)を「苦難の行軍」時期と自称する。

■中央集中から地方分散型の経済へ
 当時の北朝鮮経済は、中央に集中させる計画経済システムだった。北朝鮮全域で生産された物資を、中央に集中させた後、地方に分散させる構造だ。しかし、突然の自然災害によって、東部地域(江原道、咸鏡道)と西部地域(平安道、黄海道)を結ぶ連結網が大きく毀損した。食糧自給がなされていなかった東部地域は孤立した。一方、工業製品を東部地域に依存していた西部地域は、工業製品不足に苦しめられた。このような状況が3年以上続き、平壌の経済状況に多大な悪影響を与えたのである。

 ところが、1998年になって北朝鮮は突然、「強盛大国」論を主張し始めた。東部と西部を結ぶ連結網が3年ぶりに復旧できたためだ。時を同じくして、韓国や米国、日本は、北朝鮮に対する支援を開始。そんな支援を、北朝鮮は単純に無償支援だと受け入れたのではなく、支援を利用して内部システムの整備を始めた。農地整理事業と物流網の整備、鉱山の生産活動の正常化、道路・通信網の再整備などを絶えず推進していった。

 ただ、日米韓の支援があったとはいえ、財源が絶対的に不足していたため、時間が長くかかり、目に見えるほどの復旧作業を行えなかった。10年余りという、長い時間をかけて進められた復旧作業の過程において、北朝鮮住民は自ら市場化を進めることになった。ここでいう市場化とは、中央集中式の計画経済システムから、地方分権的な市場経済システムへと転換したことを意味する。

 もちろん、北朝鮮当局はこのような市場化を最大限抑制しようとしたが、事実上、黙認することで一貫していた。金正恩政権が始まってからは、北朝鮮住民によって形成された、地方分権型市場システムが全面的に受け入れた。中央で管理する経済特区とは別途に、地方政府が活用できる二十数カ所の経済開発区を指定したのもこのためだ。労働者や各機関のインセンティブを刺激する、圃田担当制(農業)と社会主義企業責任管理制を導入し、市場を事実上許容する措置さえとった。


(中略)

 実際に食糧を自主的に解決でき、生活必需品を供給できる程度の軽工業の工場稼働も可能になった。電力でも中央が供給するシステムから地方分権式に変わっている。家庭には太陽光発電や小型発電機などを利用し、最小限の電力供給ができるようになった。さらには、石炭など鉱山の運営が正常化し火力発電所の稼働率が高まっただけでなく、水力を利用した中小型発電所も地域単位で稼働している。総合してみると、最低水準から、自主生存が可能になったということだ。

(以下略) <<
中央集中式の計画経済システムから、地方分権的な市場経済システムへと転換」――的確な指摘です。キムジョンウン経済改革の方向性を端的に言い表しています。

※蛇足ですが、「そんな支援を、北朝鮮は単純に無償支援だと受け入れたのではなく、支援を利用して内部システムの整備を始めた」というくだりには、改めて感心させられました。無償の支援を食いつぶしてしまうような手合い、せっかくの支援にブラ下がる手合いは、国家レベルでも個人レベルでも珍しくないものですが、主体が確立されており、自力更生の精神が骨の髄まで染みている共和国にあっては、無償支援を正しく利活用したわけです。


キムイルソン時代から柔軟に考えられてきた「社会主義における市場の活用」
ところで、キムジョンウン同志の経済改革は、いままで市場を廃絶しようと努力してきた共和国が、ある日突然に諦めて方向転換した結果なのでしょうか?

私は、決してそんなことはなく、「社会主義における市場の活用」は共和国の歴史的な思想的・政策的課題であり、それに対して最近ようやく一定の解答が出てきたのだと考えています。その点において、前掲;東洋経済ONLINE記事の「北朝鮮当局はこのような市場化を最大限抑制しようとしたが、事実上、黙認することで一貫していた」という一文だけは、正しくないと指摘しておかなければなりません。

初代指導者のキムイルソン同志は、チュチェ58(1969)年3月1日発表の労作『社会主義経済のいくつかの理論的問題について 科学・教育部門の活動家の質問にたいする回答』において、農民市場について論じていらっしゃいます。

この労作においてキムイルソン同志は、農民市場を「立ち後れた商業形態」と仰います。農民市場が合理的な一元的国家計画に組み込まれ得ないためです。チュチェ58年の段階では、まだ自由経済と計画経済のどちらが優れているのかという論点に決着がついておらず、また、計画経済を採用する共和国の方が南朝鮮よりも経済的に豊かだった時代なので、キムイルソン同志が、農民市場を「立ち後れた商業形態」と批判されたのは、時代の制約上、仕方なかったと思います。しかし、さすがはキムイルソン同志。「頭で立っている」どこぞの極左連中とは違います。一方で農民市場を「立ち後れた商業形態」としつつも、他方で積極的に自然発生的な農民市場を評価されているのです。重要部分を抜粋しましょう。
>>  農民市場とは、協同農場の共同経営と協同農民の個人副業で生産される農産物や畜産物の一部を、農民が一定の場所をつうじて、直接住民に売る商業の一形態であります。農民市場は、社会主義社会における商業の一形態ではありますが、これには資本主義の残りかすが多分にあります。それでは、農民市場の資本主義的な残りかすとはなんでしょうか!

 それは、農民市場では、価格が需要と供給によって自然成長的に定められ、したがって、価値法則がある程度、盲目的に作用することです。国家は、農民市場の需要と供給および価格を計画化しません。もちろん国営商業が発展し、農民市場にたいする国家の調節的作用が強まるにつれて、農民市場の自然成長性はある程度制限されるが、社会主義の段階では農民市場を完全になくすことはできません。


(中略)

 しかし、社会主義のもとで協同経営が存在し、個人副業生産がおこなわれている以上、農民市場の存在は避けられないことであり、また、それが残っているのは決して悪いことではありません。一部の人は、副業生産物まで国家が買い付けて、計画的に供給すべきだと考えているようですが、それは間違いであり、また実際にそうすることもできません。個人副業生産物はそれを生産した人自身が消費し、残ったものは市場にだして自由に売ったり、ほかの品物と交換できるようにすべきです。協同農場の共同経営で生産した畜産物や工芸作物も、その大部分は国家が買い付けるべきですが、一部は農民に分け与えるべきです。農民は、これを自家消費することもできれば、買付け係に売ることも、農民市場にだして売ることもできるでしょう。必ず買付け係に売れと言うべきではなく、農民が誰にでも自由に売れるようにすべきです。こうすれば、人民の生活上の便宜もはかることができます。

(中略)

 社会主義社会に副業生産や農民市場が残っているのは悪いことではなく、むしろよいことです。我々が、まだ人民生活に必要なすべての品物、特にほうきとかパガジ(ふくべ)のようなこまごました日用品や、食肉、卵、ゴマ、エゴマのような副食物などをすべて国家で十分に供給できない条件のもとで、そういったものを個人が副業で生産し、市場にだして売るのがどうして悪いのでしょうか。それが立ち後れた方法ではあっても、すべてを先進的な方法でできないときには、後れた方法も利用しなければなりません。

(中略)

 それにもかかわらず、副業生産や農民市場が共同経営に悪影響を与え、利己主義を助長するからと、法令をもって農民市場を廃止するならば、どういう結果になるでしょうか。もちろん、市場はなくなるけれども、闇取引は依然として残るようになるでしょう。農民たちは、副業で生産した鶏や卵をもってよその家の勝手口を訪ね、裏通りを売り歩くことでしょう。そうしているうちに取り締まりを受けて罰金を払わされるか、法の追及をうけることになるでしょう。だから、農民市場を強制的になくして、解決されることはなに一つなく、かえって人民の生活に不便を与え、不必要に多くの人を罪人にしてしまうおそれがあります。

 したがって、国家的に人民生活に必要なすべてのものを十分に生産、供給できない条件のもとでは、性急に農民市場を廃止しようとする極左的偏向を厳しく警戒しなければなりません。

 それでは、いつになったら個人副業生産と農民市場がなくなるでしょうか。

 第1に、国の工業化が実現し、技術が高度に発展して、人民の要求するあらゆる消費物資が豊富になったとき、はじめてそれがなくなるのです。どんな品物でも国営商店で買えるようになれば、誰も、しいてそれを農民市場へ行って買おうとはしないはずであり、また、そのような品物が農民市場で売買されることもないでしょう。例えば、工場で安くて品質のよい化学繊維が多く生産されるならば、人々はわざわざ市場に行って高い綿花を買おうとはしないだろうし、また、一部の農民がそれを高く売ろうとしても、売ることができないでしょう。現在の条件のもとでも、人民の需要をみたしている商品は、農民市場では売買されないし、咸興市のような大都市でも、白頭山のふもとにある胞胎(ポテ)里のような山間の僻地でも、我が国のすべての地域で、同じ価格で実現されます。このように品物が豊富で、同じ価格で実現されるとき、それは供給制と変わりありません。

 しかし、人民の需要をみたせない商品は、たとえ国家が唯一的に価格を制定したとしても、闇取引されたり、農民市場で又売りされるということを忘れてはなりません。商店の品物を買いだめしておいて、他人が急に必要になって求めるときに高値で売りつけるような現象があらわれるようになるのです。卵の販売の問題を例にとってみましょう。現在、平壌をはじめ、各地に養鶏工場を建設して卵を生産していますが、まだ人民に十分供給できるほどではありません。そういうわけで、卵も国定価格と農民市場価格とのあいだに差が生ずることになるのですが、これを悪用して又売りする現象があらわれています。

 もちろん、だからといって、卵をいくつか又売りした人を罪人扱いにして教化所に送るわけにもいかず、ほかの方法で統制するとしても、販売量を調節するといったようないくつかの実務的対策を立てること以外に方法はありません。もちろん、こうした対策もとらなければなりませんが、そんな対策では商品が一部の人たちに集中する現象をある程度調整できるだけで、それが農民市場で又売りされたり、闇取引される現象を根本的になくすことは決してできません。

 この問題を解決するためには、品物を多く生産しなければなりません。産卵養鶏工場をより多く建設し、人民の需要をみたすほど大量に生産するならば、卵の闇取引はなくなるであろうし、農民市場で売買されることもおのずとなくなるようになるでしょう。こうした方法で国家的に人民の需要をみたし、農民市場で売買される商品を一つ一つなくしていくならば、最後には農民市場が不必要になるでしょう。


(以下略) <<
意識的・合理的計画化という未来社会論に照らして農民市場を「立ち後れた商業形態」としつつも、現実主義的な観点から「それが残っているのは決して悪いことではありません」と述べ、その理由として、「人民の生活上の便宜もはかることができるから」と指摘されています。

今日のキムジョンウン同志の経済改革の第一目標は、人民生活の向上です。建国の父が「人民の生活上の便宜」という観点から市場の活用について評価していた点を踏まえれば、キムジョンウン同志が人民生活の向上のために市場を活用するのには、何の障害もありませんキムジョンウン同志の方法は、キムイルソン同志の方法であるといえます

また、「国家的に人民生活に必要なすべてのものを十分に生産、供給できない条件のもとでは、性急に農民市場を廃止しようとする極左的偏向を厳しく警戒しなければなりません」という指摘は今日においてこそ大いに活きる重要なお言葉です。

キムイルソン同志が前掲労作を発表された約50年前ではまだハッキリはしていなかったものの、集権的・計画的供給の困難性は、副業生産物に留まらないことが今や事実として明白になっています。50年前ではまだ仮説の域を脱していなかったF.A.ハイエクの計画経済批判が、いまや定説になっています。

週刊東洋経済2013年10月12日号の特集「金正恩の経済学」においてインタビュー(p86-p87)にこたえた朝鮮社会科学院教授のリギソン同志は、キムジョンウン経済改革の目玉である企業所の裁量権拡大と独立採算制導入の背景について「国家がすべての企業所や工場を管理し、彼らに対する報酬などの保障が難しくなったことがある」と述べています。

このことは、キムイルソン同志の前掲労作の枠組みの応用であると位置づけることが可能でしょう。「国家的に人民生活に必要なすべてのものを十分に生産、供給できない」という条件を満たすのであれば、社会主義においても市場的方法の活用は已む無しなのです。

このように、今日、キムジョンウン同志が取り組んでいる「計画部分と市場部分とを混在させる試み」は、キムイルソン同志のチュチェ58年の労作に、その原型が既に見られると私は考えています。

キムジョンイル時代だって「反市場」ではなかった
チュチェ98(2009)年秋のデノミネーションが最も顕著だったように、市場経済化を好ましく思っていなかったと思われがちな前指導者のキムジョンイル同志についても、そう断定するのは早計です。

キムジョンイル同志は、2000年代前半においては経済管理の市場的方法論の導入を模索していたからです。チュチェ91(2002)年の「7.1経済管理改善措置」は漸進的な経済開放政策でした。また、イデオロギー面においては、チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」でも指摘したように、キムジョンイル時代に発表された音楽作品や文学作品においては、「個人の営利追求行為」や「個人間の競争」が肯定的に描写されていたのです。

また、地方分散的な経済構造へ大きく転換を遂げたキムジョンイル時代、「カンゲ(江界)精神」というものが大きくクローズアップされました。カンゲ精神については、『朝鮮新報』チュチェ97(2008)年2月15日づけが分かりやすく解説しているので、引用します。
http://korea-np.co.jp/j-2008/04/0804j0215-00001.htm
>> 慈江道に対する総書記の現地指導は何度も行われたが、その意義がとくにクローズアップされているのは1998年1月の現地指導だ。

 総書記は当時、「苦難の行軍」と呼ばれた経済的困難の時期に雪の吹きすさぶ慈江道を訪れ、道庁所在地である江界市を中心に経済部門に対する指導を行った。これを機に慈江道は中小規模水力発電所の建設を積極的に推し進め電力問題を解決するなど、難局打開へ向けた経済再建事業をリードした。慈江道の取り組みは「江界精神」と呼ばれ賞賛された。その後、「江界精神」が経済再建のモデルケースとして全国に広まり、「苦難の行軍」を克服する原動力となったことは周知の事実だ。

 国内メディアは総書記の慈江道現地指導10周年に大きな意義を付与し、「江界精神」を再び強調している。

 今回、10周年という節目の年に、総書記が江界市をはじめとする慈江道各地を訪れたことは、単なる経済視察を超えた重要な意味合いを持つものとして受け止められた。

 今年の3紙共同社説は、経済と人民生活を高い水準に押し上げることで、金日成主席生誕100周年を迎える2012年に「強盛大国の大門を開く」という構想を打ち出した。

 「2012年構想」との関連でいえば、今回の慈江道現地指導は「強盛大国」の建設に向けて世界のすう勢を見すえながら、自力更生の原則を堅持するという経済復興の方法論を示したものとして理解することができるだろう。同時に、これらの目標達成のために人びとを奮い立たせるうえでも、重要な意義を持つものだ。
<<
前掲;東洋経済ONLINE記事でも触れられている地方分権式の電力供給システムが「カンゲ精神のモデルケース」と位置付けられ、なおかつ、それは「自力更生の原則」に接続されています。

前掲;東洋経済ONLINE記事では、共和国経済の地方分権的構造への変化が統制不能な形で展開されているかのように読めますが、もっとも統制が厳しかったキムジョンイル時代においてさえ、決してそんなことはなく、「自力更生」という概念を媒介として、依然としてイデオロギー的に管理されていたのです。

※ちなみに、共和国が、そこらへんの凡庸な「社会主義国」と異なるのは、社会主義イデオロギーに付きまといがちな「中央集権」に一辺倒ではなく「自力更生」という概念が存在することだと私は考えています。

「中央集権」しかイデオロギー的なバックボーンがない「頭で立っている」極左的「社会主義」者たちではどうしても対応しきれない事態、小回りが要求される事態についても、「自力更生」の看板を掲げれば柔軟に許容できる点が、共和国政権が命脈を保ち続けることができた一つの要因であると考えています。

これに対して、共和国と同様にイデオロギーが国家存立の唯一のアイデンティティだった東ドイツ政権には「自力更生」という概念がなかったので、計画経済が瓦解に向かいつつあることが明らかでも結局、有効な手を打つことはできませんでした。


残念ながら、チュチェ92(2003)年に勃発したイラク戦争以降「先軍政治」に拍車がかかって以降は、何よりも国防が最優先となり、内部引き締めが強化され、市場化に歯止めが掛けられるようになったのは事実です。

しかし、これは外敵の脅威に対抗するための非常措置なので、このことを「本筋」として位置付けることは適当ではありません。また、「個人間の競争」は、昨年の第7回党大会を目前に控えて70日戦闘が展開されていたチュチェ105(2016)年3月19日づけ『労働新聞』社説「集団主義的競争の熱風を激しく巻き起こし、より高く、より早く飛躍しよう」においてイデオロギー的に完全に定式化されたように、先軍の時代にあっても生き永らえましたキムジョンイル同志の時代は、内外の情勢が厳しい非常事態だったので統制が優先されたものの、あくまで非常措置であり、経済改革の芽が完全に摘まれてしまっていたわけではなかったのです。

このように、今日の経済改革;「社会主義における市場の活用」は、決して急に湧いてきた話ではなく、共和国では長年にわたって取り組まれてきた重要課題であり、それにようやく一定の解答が出てきたものなのです。

■これからどうなる?
これからの展望について少しだけ触れておきたいと思います。イデオロギーこそが分断国家としての唯一のアイデンティティである以上は、「社会主義的・集団主義的競争」を新しい時代精神とまで位置づけた(今年の「新年の辞」参照)点を鑑みれば、前述のとおり、現在の改革路線は今後も継続するものと考えられます。

たとえ外部状況が大きく変化しようとも、たとえばアメリカ帝国主義がまたしても何処かの小国を侵略し、その危機に対抗するために共和国が内部を引き締める必要が発生したとしても、キムジョンイル同志の時代のような経済統制にはならないと考えられます。なぜなら、アメリカ帝国主義と渡り合うための核開発・ミサイル開発は、市場の活用によって活性化された経済活動からの税収が原資だからです。カネのなる木;市場を上手く囲い込んで利用しようとすることでしょう

これらの改革に伴う変化が社会主義の原則とどのような関連性を保ち続けるのかという点については、私も労作を紐解きながら考察している最中ですが、「社会主義」というイデオロギー自体が未だ変化と発展の途上にある以上は、「社会主義」の方が現実に対応して変化してゆく可能性もあると考えています。以前から述べているように、朝鮮式社会主義は、試行錯誤の結果から帰納的に形成されているものであり、常に進化し続けています。既に「完成」している「立派な」理屈を演繹的に実践する御国柄ではありません。

とりわけ、チュチェ思想における社会主義の本質が「大衆路線」と「集団主義」だと位置づけられている点は、分析の切り口になると考えています。「大衆路線・集団主義」は、わりと包括的な原則であり、政策的裁量幅が大きいものですが、この枠の範囲内で様々な試行錯誤が今後も展開されてゆくものと思われます。

かつてキムイルソン同志は、チュチェ54(1965)年9月23日に行った演説『人民経済計画の一元化、細部化の偉大な生命力を余すところなく発揮するために』のなかで次のように述べていらっしゃいます。キムイルソン同志もまた、かなり柔軟な試行錯誤を試みていらしたのです。
>>  計画部門の活動家は、労働力、設備、資材など、生産の諸要素について具体的に把握していなければなりません。

(中略)

 これらのことをすべて把握してこそ、現実に合った科学的な計画を立てることができます。ところが、これらすべての要素を具体的に検討し、客観性のある正しい計画を立てるためには、計画委員会委員長や相、企業所支配人など、一人の力では不可能です。いくら聡明な人でも、一人で労働力、設備能力、資材、資金など、生産のすべての要素をことごとく知りつくすことはできないものです。設備が何台だから労働者は何人必要で、機械が何台で従業員は何人いるからどれほど生産できる、といったように机上で立てた計画は、事実上、計画だとはいえません。机上で、一人で生産の予備を探しだすということは不可能なことです。一企業所の生産能力や一地域の商品需要だけでも極めて多様であるのに、まして、国全体の経済生活と関連のある膨大で複雑な生産の諸要素を、幾人かの活動家がどうして正確に反映できるでしょうか。

 計画化で官僚主義、主観主義の誤りをおかさないためには、大衆路線を貫徹しなければなりません。大安(テアン)電機工場にたいする指導で最も重要な問題としてかかげたのは、まさに計画化で官僚主義、主観主義をなくし、大衆路線を貫く問題でした。

 計画部門の活動家が、計画化で大衆路線を貫くためには、生産現場に出向かなければなりません。現在、各計画局の管下にある企業所は多くないので、企業所の実態を把握するのはさほど難しいことではないはずです。1年のうち、およそ20日か1か月ぐらい現場に行って、労働者とともに働きながら実態を調べてみれば、すべて把握することができます。このように、一度よく調べてカードをつくっておき、変更事項をそのつど書き込んでいけば、いつでも自分の受け持った工場、企業所の状態をはっきりと知ることができるでしょう。

(中略)

 しかし、計画を大衆的に討議して作成するというのは、国家計画機関が計画化を積極的に指導せずに、生産者が立案して提出した計画をそのまままとめてもよいということを意味するのではありません。生産者が立てた計画だからといって、すべてが正しく客観性をもつものだとはいえません。(中略)したがって、消極的なものではなく、全国家的な立場に立った動員力のある計画を立てるためには、計画化にたいする国家計画部門の活動家の指導と統制を強化することが必要です。

 結論的に言って、人民経済計画化を正しくおこなうためには、計画化で大衆路線を貫き、国家計画機関の主観主義と官僚主義をなくすばかりでなく、計画事業にたいする国家の指導と統制を強化して、生産者の機関本位主義、地方本位主義をも徹底的になくさなければなりません。

 この問題を解決する唯一の道は、計画の一元化を実現することであります。


(中略)

 このシステムは、計画化において事大主義と教条主義に反対し、我が国の具体的な実情に即してマルクス・レーニン主義の原理を創造的に発展させた独創的なシステムであります。

 私は以前、我が国の計画化システムにあった不合理な点をなくすために、すでに数年前からいろいろと考えてきました。

 マルクス、エンゲルス、レーニンの著作も読んでみたし、社会主義経済建設を直接指導した経験のあるスターリンの著作も読んでみました。また、外国の計画化システムについてもいろいろと研究してみました。しかし、我が国の実情にかなった合理的な計画化システムは、どのマルクス・レーニン主義の古典にも書かれていなかったし、外国人の書いた本にもありませんでした。我々にはただ、計画化にかんするマルクス・レーニン主義の一般的理論を我が国の現実に即して発展させ、自分の頭で自国の計画化システムを完成していくほか他の道はありませんでした。それで我々は、工場にも出かけて研究し、農村にも出向いていろいろと研究してみました。このような過程で我々は、党の意図と国の全般的な経済状態をよく知っている国家計画部門の活動家が直接現地に出向いて、具体的な生産の潜在力を誰よりもよく知っている広範な生産者大衆と協議して計画を立てるシステムをつくるのが最も合理的であると認め、計画の一元化システムを設けるという結論に達しました。

 このシステムは、計画化に偉大なチョンサンリ(青山里)精神とテアン(大安)の事業体系を具現したものであり、中央集権的指導と地方の創意性、プロレタリアート独裁と大衆路線を正しく組み合わせた、最も威力あるシステムであります。計画部門の活動家がこのシステムを立派に運営するならば、工業計画、農業計画、基本建設計画、運輸計画、商業計画、買付け計画をはじめ、人民経済のすべての部門の計画を、党の意図と国家の要求に即して、また地方と企業所の具体的な実情を正しく反映して立てることができるはずです。


(以下略) <<
中央集権的指導と地方の創意性、プロレタリアート独裁と大衆路線を正しく組み合わせた、最も威力あるシステム」――チュチェ54(1965)年といえば、ソ連や東欧諸国では、新古典派一般均衡理論や線形計画法といった数理的技法を用いてまで、経済の計画化に躍起になっていた時代です。「科学的な客観法則」とやらに則った「科学的に正しい道筋」を上段から人民大衆に押し付けることが「社会主義経済」だと考えられていた時代です。

そんな時代にあって、キムイルソン同志は、「大衆路線」という朝鮮式社会主義においては譲ることのできない一線に依拠しながらも、柔軟な発想で生産現場との協議に基づく経済システムを提唱されていたのでした。

キムイルソン同志の「大衆路線」に則った協議型の経済の計画化は、当時にあっては、きわめて「異端」な方法論です。しかし、こうした「異端」な方法論を敢えて執行すること、そして、物事の原点に立ち返って考察を深めることによって一見して「異端」なものを正統に位置づけなおしてしまうのが、共和国の伝統なのです。

きっと、キムジョンウン同志も「それって社会主義?」というような大胆な新しい方法論を執行しつつ、それを「大衆路線」や「集団主義」の大枠に収めるイデオロギー的定式化を成功させることでしょう。

ちなみに、前掲のキムイルソン同志の「これらすべての要素を具体的に検討し、客観性のある正しい計画を立てるためには、計画委員会委員長や相、企業所支配人など、一人の力では不可能です」は、ハイエクの計画経済批判とも通底する部分があります。ハイエクは、このことを根拠に「自由市場の唯一性」を論じました。他方、キムイルソン同志は、このことを根拠に「大衆路線」を提唱されました。二人の方法論は全く異なるベクトルですが、二人の方法論を相互補完的に定式化することはできないものでしょうか?

もしかすると、先にも触れた、週刊東洋経済2013年10月12日号の特集「金正恩の経済学」におけるリギソン同志(朝鮮社会科学院教授)のコメントは――意識的にそうなったわけではなく、結論的に偶然そうなっただけだと思いますが――事実上、ハイエクとキムイルソン同志の主張の折衷になっているのかもしれません。

ますます興味深い共和国における経済改革の進展。今後とも注目してゆく所存です。
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2017年09月07日

전진하는 우리식 사회주의

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170902-00010000-asiap-kr
>> <北朝鮮内部>「最強の経済制裁」の影響は? 最新物価報告(写真2枚)
9/2(土) 5:10配信


(中略)

北朝鮮の最大の貿易相手国である中国は、8月15日からの制裁実施を公表したが、二週間が経った先月29日、アジアプレスでは、北朝鮮内部の取材パートナーに依頼して、北部両江道の二か所の公設市場で物価調査を行ったが、市場には経済制裁の影響は現れていないことが分かった。

6月の物価調査と比べて、食糧価格はほぼ同水準。軽油価格は一割安くなっていた。


(以下略) <<
■羊頭狗肉
最新物価報告(写真2枚)」などとブチ挙げておきながら、なんと肝心の写真が「2013年9月・10月撮影」羊頭狗肉状態。記事として崩壊している。このことにアジアプレス・石丸次郎氏は気がついていないのでしょうか? 共和国国内における撮影を伴う取材の困難性を差し引いても、「最新物価報告」に4年前の写真を持ち出すのはナシでしょう。

アジアプレス・石丸次郎氏の「北朝鮮最新報告」シリーズは、最近は少しばかりマシになってきたとは思いますが、つい最近まで、平気で10年以上も前の写真を持ち出して「最新報告」などとタイトルづけしていたものです。いったいどこが「最新報告」なのでしょうか? そもそも、この「最新報告」は、どのように追試的に裏を取ればよいのでしょうか?

8月21日づけで公開されている「<北朝鮮最新報告>今年も兵士は痩せていた ミサイル発射の一方で栄養失調に苦しむ若い軍人たち(写真4枚)」も、ほぼ同じ構成でした。この記事は、最初の一枚は本年7月撮影という点において「最新」と言うことは可能(もっとも、鮮明さに欠けるので説得力は乏しい)で、2枚目も同様(とはいっても、読者によって見解が異なるであろうキャプションで、これも説得力に乏しい)でしたが、3枚目・4枚目はまたしても数年前の写真。

「2011年7月撮影」の3枚目は、まだ「先軍政治」を掲げていた先代の統治時代の写真。そして「2012年8月撮影」の4枚目について言えば、まだキムジョンウン経済改革が始動する前のタイミングで撮影された写真。共和国の歴史と社会構造を踏まえれば、2011年〜2012年と2017年はその様相が大きく異なっています。社会構造的に差異が大きい過去の一場面と今日現在の一幕とを、何の解説もなく、それも「最新」などというタイトルの記事に掲載する石丸氏のジャーナリストにあるまじき不誠実な姿が浮き彫りになります。

ちなみに、4枚目の写真について「まるで子供のように小さな兵士たちと金正恩氏の記念写真」と書き立てる石丸氏ですが、集合写真に写っている私服姿の女性たちがごく普通の発育状況であるところを見るに、この「兵士」たちは、軍事教練を受けている子供たちなんじゃないかと思うところです。2012年8月は、『労働新聞』がやたら青年について取り上げていた時期でもありましたからね・・・

私は、いわゆる「内部情報」が真偽の追試的確認が困難だからと言って、ただちにインチキ・デタラメと決めつけ、門前払いするつもりはありません。しかし、追試的確認が困難である以上は、その主張を信用することは困難です。まして、羊頭狗肉な記事を量産している人物の発信では信頼には値しません。

■昨今の経済改革の成果は、石丸氏でさえ否定できない成果を挙げているということ?
もはや崩壊状態にある記事を平然と投稿し続けている石丸氏は、印象操作の確信犯か、あるいは、メシのタネを稼ぐために書き立てているかの何れかだと思われます。

しかしながら、この記事は、見方を変えると、「キムジョンウン経済改革の成果は、石丸氏でさえ否定できない成果を挙げている」と言い得る指標なのかもしれません。何の裏付けもなく、追試的確認もほぼ不可能な「最新物価データ」など、デタラメを書いたところでバレるはずもないのに、「市場には経済制裁の影響は現れていないことが分かった」と書いているからです。

当ブログでも以前から記録しているように、共和国の市場経済化は、起源こそ非合法の闇市でしたが、いまや単なる「闇市の統制不能な拡大」ではなく、政策的育成の段階に入っており、そして朝鮮労働党はすでにこの傾向のイデオロギー的整理に正しく成功しています。朝鮮労働党は、社会主義の枠内における市場機能の位置づけと、伝統的に超難題であった「個人間の競争」を社会主義・集団主義の枠内に正しく定義することに成功しています(全面的に支持!)。
チュチェ102(2013)年4月11日づけ「経済改革
チュチェ102(2013)年10月1日づけ「ウリ式市場経済
チュチェ102(2013)年10月7日づけ「チュチェの市場経済・ウリ式市場経済――共和国の経済改革措置に関する報道簡易まとめ
チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会
チュチェ106(2017)年1月2日づけ「キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!

ジャーナリストとして最低限の良心があれば、解釈の裁量内のデータ曲解による印象操作はできても、まるっきりの捏造・でっち上げは躊躇することでしょう。飛び込んできたデータをどうにか曲解しようとしたが、事実として物価は安定しているのだから、「経済制裁の効果てきめん」とは書けなかったのでしょう。

■「内部情報筋」からのレポートの頻度が落ちている怪
ここからは私の「直観」的な感想ですが、キムジョンイル総書記時代以来、「北朝鮮の事実上の市場経済化」は、石丸氏のような「内部情報筋」を持つジャーナリストが盛んに報じてきました。しかし、キムジョンウン経済改革が名実ともに軌道に乗りつつある昨今、いまこそ近況を積極的に発信してほしい昨今、「北朝鮮の事実上の市場経済化」を巡る「内部情報筋」からのレポートの頻度が落ちているように思います。

もし、キムジョンイル総書記の統治時代における「北朝鮮の事実上の市場経済化」なるレポートが、「北朝鮮崩壊」のストーリーを演出する一環だったとすれば、この不可解な「頻度の低下」は理解しやすいでしょう。いまや市場経済化は、労働党体制に組み込まれつつあり、「北朝鮮崩壊」のストーリーには、むしろ不都合な事実となりつつあるからです。

このことは、近年論調のゴシップ化が顕著で資料的価値がほとんどなくなっているDailyNK Japanの報道において更に明白です。昨年ごろまでは、DailyNK Japanでは「トンジュ」なる新興富裕階層について精力的に報じていました。追試的情報源の欠如から丸々信じることはできないものの、興味深い報道が頻繁に発信されていたものです。

しかし、朝鮮労働党第7回党大会以降、市場経済化が政策的にもイデオロギー的にも正式に位置づけられるようになってから、目に見えて頻度が減っています。DailyNK Japanは、平生からその立場と論調を自ら明確にしている点、その「トンジュ」特集は、明らかに「北朝鮮崩壊」のストーリーの一環として報じられていたものと言えるでしょう。

ちなみに、以前から指摘しているように、共和国における市場原理・競争原理の方向性は、遡れば西暦2000年代前半には既に試み始められていました。チュチェ91(2002)年の「7.1経済管理改善措置」は漸進的な経済開放政策であったし、イデオロギー面においては、チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」でも指摘したように、音楽や文学の表現空間において肯定的に描写されていたものです。

おそらく、アメリカのイラク侵攻(イラク戦争)を原因とする「先軍」への舵切りによって、キムジョンイル総書記時代においては開放化がそれ以上は進展しなかったのが、いまようやく開花しているというのが本当のところだと思われます。

(DailyNK Japanの論調は、いわゆる「クレムノロジー」的な分析方法に関する知識や、社会主義の政治に関する知識があれば、絶対にそんな結論には至らないような素人染みた「分析」が氾濫しています。「プロパガンダの行間を読む」ことをしていないんでしょうね・・・)

かつてレーニンは「誰が君をほめるか言ってみたまえ、君の欠点がどこにあるか教えてあげよう」と言いました。私はレーニンほどのラジカルな二元論者にはなれませんが、レーニンの視点で「『北朝鮮の事実上の市場経済化』を巡る『内部情報筋』からのレポートの頻度」を考察することは、ひとつ面白い事実が見えてくることでしょう。
posted by s19171107 at 23:53| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

小手先の科学用語言い換え運動

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170906-00000087-asahi-soci
> 遺伝の「優性」「劣性」使うのやめます 学会が用語改訂
9/6(水) 19:11配信

 遺伝の法則の「優性」「劣性」は使いません――。誤解や偏見につながりかねなかったり、分かりにくかったりする用語を、日本遺伝学会が改訂した。用語集としてまとめ、今月中旬、一般向けに発売する。

 メンデルの遺伝学の訳語として使われてきた「優性」「劣性」は、遺伝子の特徴の現れやすさを示すにすぎないが、優れている、劣っているという語感があり、誤解されやすい。「劣性遺伝病」と診断された人はマイナスイメージを抱き、不安になりがちだ。日本人類遺伝学会とも協議して見直しを進め、「優性」は「顕性」、「劣性」は「潜性」と言い換える。

 他にも、「バリエーション」の訳語の一つだった「変異」は「多様性」に。遺伝情報の多様性が一人一人違う特徴となるという基本的な考え方が伝わるようにする。色の見え方は人によって多様だという認識から「色覚異常」や「色盲」は「色覚多様性」とした。


(以下略) <<
■バカの知的水準への安易な妥協
言葉というものは「受け手次第」のもの。話し手の動機にかかわらず、その意図が伝わらなければ、それは話し手の「話し方・語句選択」の問題です。その点において、誤解や偏見につながりかねない代表例としての「優性遺伝子・劣性遺伝子」という単語を言い換えるのは理解できないこともありません。

しかし、そもそも「優性遺伝子・劣性遺伝子」というものは、記事にもあるとおり、遺伝子の特徴の現れやすさを示すにすぎない意味合いです。その点、いくら「言葉は受け手次第」といっても、受け手の側も一定程度の知的水準を持っていているべきであり、バカの知的水準に合わせ続けるのは如何なものかという別の論点が浮上してきます。

そもそも「優れている遺伝子」というのは、バカ丸出しの意味不明な言い草ではないでしょうか? 何において「優れている」というのでしょうか? 繁殖力? 個体としての身体能力? 知的能力? 人格人望? 人間には様々な側面があるのだから、漠然と「優れている遺伝子」といったところで「何において?」となるのがマトモな知的水準を持つ人物の反応でしょう。

「顕性遺伝子」という言い換えは、語句定義の「揺れ」が狭まり、より概念が明瞭化するとはいえ、「バカの知的水準に安易に妥協している」懸念が拭えません。

■「異常」だから何?
他方、「色覚多様性」は、「猫も杓子も多様性」「とりあえず『多様性』と言っておけば正しく見える」時代にあって珍しく、正しい文脈で「多様性」を使っているなと思った次第です。

色の見え方は人によって多様」というのは、19世紀に流行った素朴な唯物論(マルクス・レーニン主義哲学がその最たる例)を卒業した現代科学の立場としては正しい見解だからです。

しかしながら同時に、「色覚異常」すなわち「異常」という言葉に対する不必要な反発が、この言い換え運動の背後には見え隠れします。「異常」というのは、決して「悪い」意味ではありません。「大数の法則」的意味における標準を「正常・通常」とすれば、それから外れたケースは「『常』と異なる」という意味で「異常」とするほかありません。この意味における「異常」とは、「善悪の評価」などは基準ではなく、ただ「多数派に属しているか否か」でしかありません。

多数派に属していることがそんなに大切なことなのでしょうか? 多数派に属しておらず、それゆえに「『常』と異なる」という意味で「異常」とされることが、そんなに耐え難いことなのでしょうか? 妙ちくりんな言い換え運動で「ガラスのハート」のキズをナメてやるよりも、他人の評価にいちいち一喜一憂する主体の無さを変革し、主体を確立する方が、より建設的であると私は考えます。

他者からの評価ではなく、自らの心の底から湧き出す自己肯定感に依って立つ心境。他者に何と言われようとも、自分はあくまで自分であり、自分の人生はあくまで自分自身のものであるという確信。それこそが主体を確立した人間の生き方です。

もちろん、他者からの評価に一喜一憂する人たちが一朝一夕で「思想改造」されるとは私も現実的には考えていません。まさにカウンセリング的アプローチ、青山里方法的アプローチで長い目で取り組むべき事業です。しかし、あくまで「志遠」の精神で。小手先の言い換え運動などに精を出してお茶を濁すのではなく、より核心に迫るべきです。

科学とは別次元での「正しさ」による今回の言い換え運動。それも、諸手を挙げて賛成はできない特殊な前提に根差す「正しさ」と言わざるを得ないものです(「正しい」って何?)。中途半端で小手先の科学用語言い換え運動だなー
posted by s19171107 at 22:49| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年09月05日

事大で国が亡びるのは、次で何度目?

http://www.kcna.co.jp/calendar/2017/09/09-04/2017-0904-013.html
>> 조선중앙통신사 론평 남조선당국의 리성 잃은 지랄발광
朝鮮中央通信社論評 南朝鮮当局の理性を失った発狂

(中略)

그러나 리성적인 사고가 완전히 결여되고 초보적인 판별력조차 상실한 남조선괴뢰패당은 전례없는 대결소동을 피우며 정신병자처럼 놀아대고있다.
しかし、理性的な思考が完全に欠如し、初歩的な判別力さえ喪失した南朝鮮傀儡一味は、前例のない対決騒動を起こし、精神病者のように振舞っている。

(中略)

이미 천명한바와 같이 이번에 진행된 조선인민군 전략군의 중장거리전략탄도로케트발사훈련은 우리의 중대한 경고에 호전적인 침략전쟁연습으로 도전해나선 침략자, 도발자들에 대한 단호한 대응조치의 서막이다.
すでに明らかなように、今回実施された朝鮮人民軍戦略軍の中長距離戦略弾道ロケット発射訓練は、我々の重大な警告に好戦的な侵略戦争演習で挑発してきた侵略者、挑発者に対する断固たる対応措置の序幕である。

더우기 이번 훈련은 태평양상에서 침략의 전초기지인 괌도를 견제하기 위한 의미심장한 전주곡으로서 나라의 존엄과 조선반도평화를 수호하기 위한 정정당당한 자주적권리행사로 된다.
また、今回の訓練は太平洋上の侵略の前哨基地であるグアム島を牽制するための意味深長な前奏曲として、国の尊厳と朝鮮半島の平和を守護するための正々堂々とした自主的権利の行使になる。

민족자체의 힘으로 민족의 안녕을 지키는것이 《엄중한 도발》이고 《평화에 대한 위협》이라는것이야말로 괴뢰패당의 고질적인 대결병페의 발로이다.
民族自らの力で民族の安寧を守ることが「厳重な挑発」であり「平和に対する脅威」であるなどと言うのは、傀儡一味の慢性的な「対決病」の症状のあらわれである。

우리의 강세앞에 상전인 미국마저도 방책이 없어 《북미지역에 위협이 되지 않는다.》고 조심스러운 반응을 보이는 때에 한갖 괴뢰들이 《평화에 대한 위협》이니 뭐니 하며 란동을 부리는것은 정말로 꼴불견이다.
我々の強気の前に、ご主人様である米国ですら方策がなく、「北米地域の脅威にはならない」と控えめな反応を見せている時に、単なる傀儡共が「平和に対する脅威」を云々しながら大騒ぎしているのは、本当にみっともないことだ。

(中略)

괴뢰들은 이번 기회에 우리의 중장거리전략탄도로케트발사훈련이 무엇을 의미하는지 여러모로 심중히 되새겨보는것도 나쁘지 않을것이다.
傀儡共は、この機会に我々の中長距離戦略弾道ロケット発射訓練が何を意味するのか多角的に思慮深く反芻するのも悪くないだろう。

미국에 기대여 얻을것이란 자멸뿐이다.(끝)
米国に依存して獲得できるのは自滅だけだ。(終わり) <<
米国の軍事力が世界最強であることをいいことに、まさに「虎の威を借る狐」状態で、自分たち自身が何かする意志も能力もサラサラないのに、「レッドライン」がどうのこうのと饒舌に語っていた韓「国」(自称)ですが、当の米国――その軍事力は、韓「国」(自称)にとって国家存立の大黒柱――はそれほど乗り気ではありません。そして、どこまで現実的な話かは不明確ですが、「アメリカが北朝鮮を核保有国として承認する」や、果ては「在韓米軍撤退」という話まで出てくる始末です。

「承認説」「撤退説」は眉唾的に別格としても、韓「国」(自称)と米国の「温度差」は否定しがたい事実です。미국에 기대여 얻을것이란 자멸뿐이다――事大で国が亡びるのは、次で何度目になるんでしょうか?
posted by s19171107 at 23:38| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年09月03日

조선은 결심하면 한다.한다면 한다.

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170903-00000028-yonh-kr
>> 北朝鮮のM5.6地震 「過去の核実験地域」=韓国気象庁
9/3(日) 13:35配信

【ソウル聯合ニュース】韓国気象庁の国家地震火山総合状況室は3日、同日午後0時36分に北朝鮮北東部の咸鏡北道・吉州郡付近でマグニチュード(M)5.6の地震が発生したと発表した。震源地は吉州郡から北北西44キロで、震源の深さは0キロ。

 気象庁関係者は「人工地震は波形がS波よりP波がはるかに大きいが、今回の地震はそのような特徴を見せている」として、「過去に核実験を実施した地域とも一致する」と説明した。


(以下略)<<
조선은 결심하면 한다.한다면 한다.

朝鮮側の現状認識と理屈に則れば、「アメリカ帝国主義の急迫不正の侵略策動に対して、正当防衛的に再三の警告をし、その上で様子見したにもかかわらず、結局、米韓合同軍事演習が強行された。このことは、弾道ミサイル程度の抑止力では不十分であるということであり、よって更なる確実な抑止力の構築のために核実験を敢行する」といったところになると思われます。正式なところは朝鮮中央通信発表を待つべきですが。
posted by s19171107 at 14:41| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

まだ10월じゃないけど

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170827-00000005-jij_afp-int
>> 食べて飲んで踊って、北朝鮮のビーチでの過ごし方
8/27(日) 9:37配信

【AFP=時事】北朝鮮・南浦(Nampho)の西海閘門(West Sea Barrage)ビーチでは、子どもたちは浮き輪を着けて浅瀬で遊び、大人たちはテントの下で日差しを避けながら、朝鮮半島の焼酎「ソジュ」を飲み、焼いたアサリや豚肉を食べて楽しむ。


(中略)

 北朝鮮では職場内での親睦を深めることが期待されており、南浦を訪れる多くの人たちも同僚同士だ。中にはカラオケセットを持ち込む人もおり、カラオケセットからは北朝鮮で絶大的な人気を誇る歌「お母さんの誕生日」が流れる──ここでの母親は朝鮮労働党を指す。「私のお母さん、我らのお母さんは、世界で一番やさしい」。歌詞はこう続く。「朝鮮労働党──お母さんの誕生日」 【翻訳編集】 AFPBB News

最終更新:8/27(日) 18:20
<<
まだ8月ですが"어머니생일"を歌っているわけですねw

党創建70周年記念コンサートで大々的に披露され、また、"10월"を繰り返している歌詞なので、党創建70周年を記念する曲あるいは10月10日前後限定の歌だと思っていましたが、「絶大的な人気を誇る歌」という地位を獲得していたようです。認識を改めなければ・・・
ラベル:共和国
posted by s19171107 at 00:06| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

急がば回れのカウンセリング的方法論でバカウヨの再生産阻止へ

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170822-00529203-shincho-soci
>> 「LGBT」はもう古い? 「LGBTQQIAAPPO2S」って何だ
8/22(火) 8:01配信
デイリー新潮

 トランプ大統領を間に挟み、深くて暗い溝がアメリカ国内には存在している――そんなことを改めて知らしめたのが、バージニア州で起きた白人至上主義団体とそれに対抗する反対派との衝突だろう。

 死者まで出すに至ったこの事件を受けて、大統領は「憎悪と分断はただちに終わらせなくてはならない」等のコメントを出してはいるものの、こうした対立の構図はそう簡単には変わらないだろう。

 白人至上主義なんて時代遅れでとんでもない差別的な思想だ――これは現代のアメリカのみならず世界にとっての常識でもある。が、一方でこうした「政治的に正しい」言説の行き過ぎによって息苦しさを感じた人たちが、トランプ支持に回った、というのは従来からよく指摘されるところである。

 アメリカの「リベラル」は日本のそれよりも「先進的」とも言えるし、日本人には過激にも見えるだろう。元財務官僚で昨年アメリカのハーバード・ロースクールを卒業した山口真由氏は、新著『リベラルという病』の中で、その驚くべき実情をレポートしている(以下、同書より抜粋、引用)。

 人種間を含むさまざまな人たちの「平等」を求めるリベラルは、「ポリティカル・コレクトネス(PC)=政治的正しさ」を追求し続けてきた。これは人種的、性的、性指向的、いかなる意味でも少数者を差別しないことをいう。

 日本でも「看護婦」ではなく「看護師」、あるいは「ビジネスマン」ではなく「ビジネスパーソン」という表現が用いられるようになった背景にはPCの思想がある。

 このPCの最たるものとして挙げられるのが「LGBT」表現だ。


(中略)

 なかなか日本人には理解しがたいのだが、このPCを進めていくことは、アメリカのリベラルにとっての正義である。それこそが人々の平等を推し進めることにつながるからだ。

 ごく大雑把にいえば、こうした「正しさ」に対して、「そんなのヘンだろ!」とツッコミを入れることでトランプ大統領は支持者を得てきたとも言える。そして、そうしたトランプの言動に一貫して嫌悪感を示しているのが、アメリカのリベラルということになる。彼らにとっては、前世紀の遺物のような白人至上主義や、「本音満載」のトランプ大統領の言動は許されるはずがない。かくして、対立は終わらないのである。

デイリー新潮編集部

最終更新:8/22(火) 15:23
<<
コトがここまで来ると、少なくない人々は「下手なことを言って吊るしあげられると面倒くさいから、とりあえず触れないでおけばいいか」と考えることでしょう

その結果として、表面的にはポリティカル・コレクトネスが実現したように見えるでしょうが、実際には差別意識が完全に根絶されたわけではなく、単に地下に潜行しただけ。心の奥底では依然として差別意識は生き残っていることでしょう。

「プロレタリア文化大革命」が、まさしく「政治的に正しくない考え方」とされる連中が、厄介を避けるために表面的に恭順を示しつつも、真意においては地下化に潜伏した歴史的実例でした。修正主義・走資派的な傾向が少しでも見えれば直ちに吊るしあげをくらったのが文革であり、多くの人々は表面的に毛沢東主義を遵守する振る舞いを見せて、激動の世の中を生き延びました。そして、ケ小平が権力を掌握し改革開放に転ずるや否や、文革時代とは打って変わって、まったく毛沢東主義的でない動きが全国的に隆盛しました。こんな連中、いったいどこに潜んでいたんだというくらいの情勢になったものでした。また、今、文革時代を振り返れば、実はあの時代においても「反毛沢東主義」的な動機に基づく行動は実は広く見られるものでした。

このままいくと、ポリティカル・コレクトネスを目指すためと称して、人々の差別意識に対して一種のカウンセリング的方法論をとるのではなく吊るしあげを方法論として採用する運動は、人々に面倒くさがられてゆくことでしょう。その結果は、差別意識の地下化であり、「無言の疎外」の横行でしょう。交際の深度は最低限に留まることでしょう。「友人的に仲良くしない理由」なんて幾らでも作り上げることができるものです。

果たしてそれは、ポリティカル・コレクトネスを目指す人々が望むところなのでしょうか? そうではないでしょう。そうであるならば、「こいつらと関わると面倒くさいなあ・・・」と思われかねない吊るしあげ・罵倒の方法論ではなく、人々の差別意識に対する一種のカウンセリング的方法論こそとるべきでしょう

その点において、以下の毎日新聞記事が取り上げている取り組みは、マイルドでよいと私は考えます。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170816-00000037-mai-soci
>> <ブックカフェ>「在日」学び合おう「ヘイト」やまぬ今こそ
8/16(水) 14:30配信
毎日新聞

 ◇若者グループ、大阪で開設へ
 関西を拠点に活動する在日コリアンらの若者グループが近く、在日コリアンの歴史や朝鮮半島をテーマにした本を集めたブックカフェを大阪市内でオープンさせる。ヘイトスピーチ(憎悪表現)は今もなくならず、インターネット上でも偏見や誤解が根強い。メンバーは「まずは私たちを知ることから始めてほしい」と開設準備を急いでいる。【金志尚】


(中略)

 ただ、在日コリアンを取り巻く社会情勢は依然として厳しい。特定の人種や民族に向けたヘイトスピーチの解消を目指した法律が昨年6月に施行され、鶴橋駅周辺では見られなくなったが、在日コリアンが多く住む川崎市では今もヘイトデモが続く。ネットでも乱暴で攻撃的な表現が絶えない。メンバーの金和子(キム・ファジャ)さん(36)は「こういう時代だからこそ、学びの場が必要だと感じた」と訴える。

 開設の狙いは在日コリアンの歴史や実像、朝鮮半島と日本との関わりについて、読書や交流を通じて理解を深めてもらうことだ。金さんは「日本の若者とも一緒に歴史を学び、その認識を共有していける場になれば」と期待を込める。


(以下略)<<
すでにバカウヨ化してしまった人を矯正するには、こうした取り組みは非力かもしれません。しかし、可能性はゼロではないし、何よりも、バカウヨの再生産を阻止するという取り組みという点においては有力です。

再生産を阻止し、バカウヨ陣営を縮小させてゆき、あわよくばバカウヨの矯正を狙いながら、最終的には時間が事態を解決することに期待を寄せる(バカウヨだっていつかは老いて死ぬでしょう)・・・急がば回れの方法論です。
ラベル:社会 バカウヨ
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2017年08月19日

ナチスだと想像力の欠如、ソビエトだとお咎めなし

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170818-00000009-mai-soci
>> <人種差別>「ナチス」旗でJ1応援 痛み想像する力の欠如
8/18(金) 8:30配信

 ドアを開けると熱気がこもっていた。7月29日、大阪市内のスポーツバー。J1大阪ダービーでガンバ大阪がセレッソ大阪に逆転勝ちすると、約30人が歓喜して抱き合った。


(中略)

 先の大戦でナチス・ドイツがユダヤ人を大量虐殺した「ホロコースト」。忌まわしい記憶を呼び起こす旗がなぜ振られたのか。私は関係者を捜し歩いた。

 デザインを7年前に作った男性メンバー(52)が取材に応じた。インターネットで見たSSマークを「シンプルで格好良く、力強い」と気に入って、ほんの少し手を加えた。「自分たちのオリジナルデザインだ」

 ガンバ側は数年前に旗を使わないよう注意したが「ルール徹底が甘かった」と認める。

 4月に旗を持ち込んだのは自営業の男性だった。「SSマークの意味は知っていたが、全く同じではない。人種差別の意図はなく、使っても大丈夫だと思った」と繰り返し、こう言った。「被害者がいるなら謝りたいが、それが誰なのか分からない」


(中略)

 国際社会は、決して忘れてはならない歴史があると私たちに警鐘を鳴らす。知識だけではなく、当事者の痛みを想像する力が試されているように思う。

 問題の旗を持ち込んだ男性は処分を納得できずにいるが、家にホロコーストの本があったことを思い出し、読み返してみた。「ガス室に送られた人たちの立場なら、旗のデザインに耐えられないかもしれない」。そう感じ始めている。【石川将来・28歳】


(以下略) <<
被害者感情というものは「理屈」ではなく「感情」の問題であり、また、「受け手次第」なものです。世の中には”Nazis”の”N”の文字に対しても拒絶反応を示すくらいに強烈な被害者感情の持ち主が存在しており、その理由は無理もないものであり、そしてそれは常識的知識なのだから、慎重には慎重を期するべきでした。その意味で「痛み想像する力の欠如」というタイトルは間違っていません

ただ、ここからは毎日新聞記事の主題とは外れるのですが、「上坂すみれさんは大丈夫なのか?」という読了の感想が出てきました。ナチス・ナチズムは、ガチは勿論のこと、おふざけ・お遊びでも徹底的に叩かれるのに、ソビエト・共産主義は、いまだにネタとしてもマジとしてもデカい顔をしています

被害者たちの視点に立てば、ソビエト政権の凶悪さはナチスの凶悪さに比肩します。

バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)やハンガリー、ポーランド、ウクライナといったソビエト政権の被害諸国民たちは、ドイツにおけるハーケンクロイツ掲揚禁止と同様の要領で「鎌とハンマー」の掲揚を禁じています彼らはナチスとソビエトを同列に位置付けています彼らの歴史的感情を踏まえれば当然のことでしょう。

また、ソビエト政権の暴力装置としての赤軍は、第二次世界大戦中、各地で凄惨な殺戮と略奪、暴行を大規模に展開してきました。このせいで心に深い傷を負っている人は数知れず、まだまだご存命の人も少なくないことでしょう。赤軍兵士を悪魔の如く見なす被害者感情は、驚くには値しません

ソビエト政権の被害者、ソビエト赤軍の被害者たちの苦しみに想像力を働かせれば、面白半分で赤軍兵士のコスプレをしている上坂さんの想像力の欠如が際立ちます。ロシアが好きなのは結構なことですが、大学でロシアを専門的に学修したというのであれば、赤軍兵士のコスプレはあまりにも配慮に欠けていると言わざるを得ません(それとも、加害国であるロシアが専門だと被害国である東欧諸国の視点は持てないってこと?)。

ナチス親衛隊の標章をデザインに取り込んだ無名かつ無能なサッカーファンが吊るしあげられて、面白半分で赤軍兵士のコスプレをしている上坂さんはお咎めなし――それどころか、朝日新聞が、上坂さんのお気楽なインタビューを垂れ流している。さすがの上坂さんも大手紙を相手に、アングラな調子で答えてはいないようです(はたまた記者が自主規制したのか?)が、もしこれが「ソ連の国歌から、全ては始まった」ではなく「ナチス党歌から、全ては始まった」だったら、さすがに日本国内向けであっても、インタビュー記事にはできなかったでしょうね。

上坂さんのお気楽なインタビューを垂れ流したのは朝日新聞でしたが、問題のサッカーファンを吊るしあげている毎日新聞も同じ穴の狢です。たとえば4月24日づけ「障害者就労施設が「ソ連の遺産」?笑――資本主義スウェーデンとの比較で完全に敗北」で取り上げた記事は、モスクワ発毎日新聞でした。

「ナチス時代も悪いことばかりではなかった」「ヒトラーも幾らかは良いことをした」などと言おうものなら、ただちに吊るしあげられる昨今ですが、「ソビエト時代も障害者就労施設つくったりと、悪いことばかりではなかった」などと言うのは許されるのでしょうか? まさか「ソレとコレとは分けて考える」とか「いやソ連はスターリンによって大きく歪められたムニャムニャ・・・」とか言うんじゃないでしょうね? この問題の本質は「理屈ではなく感情」なんですよ! 

※ちなみに、「スターリンによって大きく歪められた」論については、以前から指摘しているように、「スターリン一味ごときに歪められるのは制度として欠陥」と言わざるを得ません。政治制度というものは、邪悪な魂胆をもった人間が暗躍しても尚、多重の保安機構によって暴走しないように設計するものです。たとえば三権分立によって今、トランプ米政権の暴走は抑止されていますが、それに対してソ連は「すべての権力をソビエトに」集中させていました。これでは、誰がリーダーかという以前の「そもそも論」としてだめですよ。

ナチスだと想像力の欠如、ソビエトだとお咎めなし――本当に想像力働かせているんですか?

はっきり言って、ナチズムなんかよりもソビエト共産主義の方が被害規模としては甚大であり、そして今もその危険性は根絶されるに至っていません。ナチスよりもソビエトの亡霊の方が差し迫った危機です。

この毎日新聞記事の主題は、ナチズム被害者の苦しみに対する想像力の欠如なので、ソビエトの被害者に関して、この記事で言及がないこと自体は直ちに問題であるとは言えません。しかし、言論空間を広く見回したとき、「ソビエト被害者の苦しみに寄り添う言説が少なすぎないか」「ナチズムと比較して取り上げ方に差がありすぎないか」と思うのです。

是非とも、別の機会での徹底的なソビエトかぶれ批判を展開していただきたいものです。
ラベル:メディア
posted by s19171107 at 16:18| Comment(6) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年08月17日

ブラック企業問題は社会経済総体の問題であり、自主管理化の道こそが解決策

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170817-00005629-nallabout-life
>> ブラック企業リストの公表で浮かび上がってくる「中小企業へのしわ寄せ」
8/17(木) 19:25配信

◆344社が実名公表…その多くは中小企業だった
厚生労働省が5月10日に、いわゆる「ブラック企業」の実名公表を行いました。公開基準は、長時間労働や賃金不払いなど労働関係法令に違反した疑いで送検された企業で、全国合計で344社でした。その後も月に1回ほどのペースでリストは更新されており、8月15日には401社になっています。
 
実名公開そのものの是非はともかくとして、少し気になったのは、リスト掲載企業に大手関連企業の名前がごくわずかで、大半が中小企業である点です。もっとも、中小企業は日本企業の大半を占めているので、リスト掲載企業の多くが中小企業であっても不思議ではないのですが、その企業が大手企業の下請けではないのか、という点が気になるのです。

◆大手企業との「主従関係は絶対」 よって現場は…
理由はこうです。大手企業の下請けというのは基本的に、仕様、品質、価格等々、すべてにおいて発注元である大手企業の支配下にあります。つまり、仕様変更を言い渡されればそれに従い、品質の向上を求められればそれを順守する。さらに、納品価格を下げろと言われれば、それすらも飲まざるを得ない、そんな関係にあるのです。


(中略)

彼によれば、広告代理店の下請けデザイン会社、ゼネコン下請け企業、IT大手の下請けプログラミング会社等々、日本ではあらゆる業界に「しわ寄せブラック」は存在する、と言います。大手企業と下請け中小企業の主従関係。「しわ寄せブラック」はある意味、大手企業が下請け企業を支配するという垂直統合を得意としてきた日本の産業構造が生み落とした陰の部分とも言えそうです。ならば今また、働き方改革が叫ばれ大手企業がここに取り組むことで、更なるしわ寄せが下請けを襲うのではないかという懸念が感じられもするのです。


◆経産省は「下請けGメン」を本格始動するが…
「しわ寄せ中小企業」たたきで終わらない対応が望まれる経済産業省は大企業が中小企業への買いたたきなどをしていないかを調べる「下請けGメン」を4月から本格始動するなど、これまで手がけてきている「下請けいじめ」防止にさらに本腰を入れて動き出しました。しかしこれはあくまで、経産省所轄の発注価格部分に限った話に過ぎません。

厚労省は今後ブラック企業リストを毎月更新すると公言していますが、ならば納期に関する「下請けいじめ」の実態はどうなのか、リストに上がった中小企業が実は「しわ寄せブラック」の被害者ではないのか、経産省同様に自らの足で調査することが必要でしょう。そして、もししわ寄せの存在が判明するなら、その大手企業こそ実名公表されるべきなのです。

ブラック企業リストの公表をしわ寄せ中小企業たたきで終わらせず、ブラック職場を根源から絶つ。厚労省にはそんな気概を持った対応が望まれるところです。

大関 暁夫

最終更新:8/17(木) 19:25
<<
■ブラック企業問題は、労働屋が描く単純な「労使階級闘争物語」ではない――自由化と民主化による自主化のための「二段階革命論」
重要な指摘です。この点を考えるためには、手前味噌になりますが、ブラック企業問題は、労働屋が描く単純な「労使階級闘争物語」として捉えるのではなく、「自主権の問題」として捉えるべきだと改めて申し上げたいところです。

ブラック企業問題は、第一義的には労働問題であり、労使の力関係の問題です。しかし、視野を広げ論点を深堀りして考察すれば、使用者(企業・資本)もまた経済構造の被造物であると言えます。中小企業について言えば、大企業との関係における「下請け構造」に行動を規定・束縛される部分は大きいとみるべきです。

記事中、筆者の大関氏は、下請け構造を「大手企業と下請け中小企業の主従関係」と正しく表現しました。「主従の関係性」は、「自主」とは対極をなす構造です。ブラック企業問題の根底に「下請け構造」=「企業間における主従の関係性」があるとするのであれば、その解決の道筋は、まさしく「自主化」であると言うことができます。

自主化の道筋について私は、チュチェ105(2016)年1月20日づけ「「オーナーの私有財産としての芸能事務所」という事実に切り込まずして「ジャニーズの民主化」を語る認識の混乱」において、「棲み分けによって自由市場原理が働き、人々が相互牽制的な関係性になることで、相対的な自立度があがります。自主管理によって相互牽制としてではなく、真に自らの足で立てるようになり、他人に依存することなくなります」と述べました。すなわち、「まずは移籍・転籍の活性化による自由化、次に自主管理・協同経営による民主化」という自主化のための「二段階革命論」を唱えました。

■下請けGメンが果たしうる役割は限定的であろう
ブラック企業問題の根底に「下請け構造」があり、この問題を解決するには「下請け構造」を変革する必要があり、そのためには、第一段階として相互牽制的関係性の構築を狙った自由化、第二段階として自主管理化という「二段階革命」の路線をとる必要があるというプランに立てば、大関氏が期待をかける「下請けGメン」は、あくまで第一段階の、それもあくまで初歩的な部分を「補完」する程度の役回りしか果たし得ないことが容易に推察できます。

下請けGメンが果たしうる役割など、所詮は「パトロール」と「通報に基づく検挙」にとどまります。警察が地域住民の防犯協力や110番通報を必要としているように、下請けGメンも結局は、不当な要求に対する現場からの通報に頼らざるを得ません。しかし、大企業と中小企業の垂直的構造の中においては、中小企業側が大企業側の不当な要求を逐次通報するという展開は、現実味が薄いと言わざるを得ません。勇気をもって雪印乳業の不正を告発した下請け業者が、結局仕事を干されてしまった前例が現に存在しています。となれば、「地域住民の防犯協力」や「110番通報」に相当するアクションが下請けGメンに寄せられる可能性は低いと言わざるを得ません。やはり、下請けGメンなどに頼るのではなく、中小企業が自力として、大企業の不当な圧力にそれなりに対抗できるようにならなければいけないのです。

■「二段階革命論」の優位性
この点において、市場メカニズムを活用した相互牽制的関係性の構築が有力なプランとして浮上してきます。取引先の多角化により、特定企業に依存せざるを得ない弱い立ち位置から脱するべきなのです。これこそが私が提唱する「二段階革命論」の第一段階;自由化です。そして、多角化によって自分自身の立ち位置を固めて交渉力を高めた上で、第二段階の自主管理化に取り掛かるべきです。

※この点は、日本共産党が提唱する「中小企業の統一戦線」的な発想とは一線を画すものです。私は基本的に、「鉄の団結による意識的・計画的な変革」ではなく「ベクトル合成の如き要領で自生的・結果的に達成される変革」を重視する立場です。

大関氏がブラック企業問題の考察の視野を広げ、下請け構造に切り込んだことは正しい視点でした。しかし、下請け構造を是正するにあたって「下請けGメン」に期待を掛けてしまったのはマズかった下請け構造があるからこそ、下請けGメンには期待が掛けられないのです。だからこそ、中小企業が自力として交渉力を持たなければならず、そのためには、市場メカニズムを活用し、企業同士の関係性において相互牽制的な構造を構築すべきなのです。そしてまた、「相互牽制的構造」に留まるのではなく、自らの運命を自らで管理し切り開く「自主化」に、ゆくゆくは踏み出すべきなのです。大関氏は残念ながら、中途半端だったのです。

■大企業もまた経済構造の被造物であることを忘れてはならない――大企業叩きではなく社会経済総体を自主管理志向で変革するしかない
大関氏の中途半端さについてもう1点指摘しておきましょう。中小企業がブラック化する要因について、下請けの「構造」を指摘したことは、繰り返しになりますが、正しい指摘です。個別資本もまた、経済構造の被造物であるというのは、かのK.マルクスも『資本論』の序言で述べている通りです。しかし、下請けヒエラルキーの上層に位置する大企業だって、いわゆる「競争の強制法則」が貫徹する以上は、決して安泰ではありません。大企業もまた、おかれている客観的構造を鳥瞰的に見れば、依然として経済構造の被造物です。

その点、ブラック企業問題は、その勤め先に責を帰結できる問題ではないことは勿論、発注側大企業にもその責を負わせることはできないというべきです。労働問題を巡ってしばしば、「本質的には大企業と言えども特定企業でどうにかなる問題ではなく、社会経済の総体のレベルにおいて大きく変革しなければならない」と私が述べているのは、そのためです。

社会経済の総体を自主管理的に改造する――ブラック企業問題を深堀すればするほど、その根本的解決には、自主管理化の道しかないと言えるでしょう。
posted by s19171107 at 21:39| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする