2017年04月17日

虎の威を借る何とやら

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170330-00000061-yonh-kr
>> 北のミサイル発射に…トランプ大統領、韓国に向かうエアフォース2のペンス副大統領と電話

中央日報日本語版 4/17(月) 17:24配信

トランプ米大統領の強力な軍事的圧力に対し、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長が「ジャブ」を放った。米国は空母艦隊の韓半島(朝鮮半島)近海追加配備に続き、16日にペンス副大統領を韓国に派遣したが、金正恩大統領は屈することなくペンス副大統領の訪韓の9時間前に弾道ミサイルを発射した。多数の外交安保専門家らは前例からみて、朝米間の駆け引きによる現在の緊張局面はしばらく続くしかないと分析している。

外交部の趙俊赫(チョ・ジュンヒョク)報道官はこの日の論評で「北が15日(金日成主席生誕105周年)の閲兵式で各種攻撃用ミサイルを誇示し、きょう弾道ミサイル発射を敢行したのは、世界を相手にした武力示威」とし「核実験、大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射など高強度の戦略挑発につながれば、北の政権が耐えがたい強力な懲罰的措置が必ずあるだろう」と警告した。政府当局者は「米最高位級の訪韓を控えて北が意図的に挑発を敢行したようだ」とし「北の誤った行動には相応の懲罰をするべきだというトランプ政権の意志が強まるだけ」と述べた。


(以下略) <<
チョ・ジュンヒョクが言う「強力な懲罰的措置」の実施者は誰か――「北の誤った行動には相応の懲罰をするべきだというトランプ政権の意志が強まるだけ」という「政府当局者」なる人物の言葉を総合すれば、結局のところ、自分自身では何も出来ない韓「国」当局の情けない実情が浮き彫りになります虎の威を借る何とやらとは、まさに連中のことを指すための言葉のようなものですね。まあ、今に始まったことではありませんが。

集団安全保障というのは元来そういう性質が大いにあるものですが、とはいっても、自分自身が主導的に実施するわけでもないのに、「親分」の威を借りる姿は、主権国家とは言いがたいものがあります・・・あ、戦時統帥権は結局、アメリカに預けっぱなしでしたっけ? それも頼み込んでの。
ラベル:国際「秩序」
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2017年04月13日

朝鮮半島情勢を巡る、戦前の朝日新聞のような短絡的論調の「世論」

■戦前の朝日新聞のような論調
朝米対立の激化による朝鮮半島情勢の「緊張」が高まるとされているここ数日、戦前の朝日新聞のような短絡的で好戦的な論調の世論が展開されています。いわゆる「斬首作戦」が、もう今にも始まるかのような認識がわりと本気で語られています。

軍事行動は、あらゆるケースを想定し、どう転んでも対応できるように備えてから開始するものであり、きわめて戦略的なものです。軍事行動計画が目指す目標がハイレベルであればあるほど考慮すべきケースは爆発的に増加するものです。「危ないかもしれないから今のうちに・・・」といったレベルでは「斬首作戦」に至るはずもありません。

先日、あのトランプ米政権はシリアにミサイル数十発による攻撃を実施しましたが、逆に言えばその程度の攻撃に留まりました。かつて、イスラエルがイラクの核開発を阻止するために奇襲的空爆作戦を展開しましたが、逆に言えば建設中の原子炉の破壊に留まりました。政権担当者の排除というのは、アメリカやイスラエルのような国であっても、そう易々と選択するものではないのです。

この程度の「緊張」で、もう今にも「斬首作戦」が始まるかのような調子は戦争を軽く見すぎており、戦前の朝日新聞のような単細胞と言わざるをえません。

■甚だしい平和ボケ
また、軍事行動の要諦は兵站です。強力な武器があっても補給路が貧弱では打撃力にはなりません。アメリカといえども補給の展開には一定の時間がかかります。たしかに今、朝鮮近海には空母が向かっているようですが、本気で朝鮮の政権転覆を目指すとすれば、この程度では不可能です。兵站の無視――70年たっても相変わらずという他ありません。

さらに、日本の目と鼻の先で軍事行動が展開されるかもしれないというのに、自分たちの日常生活にはまるで関係の無いことであるかのような甚だしい平和ボケっぷりにも驚かされます。朝鮮人民軍の反撃の可能性、難民問題、日本国内に潜伏している工作員の破壊活動など懸念すべきケースはあまたあるはずですが、それらを考慮に入れている言説は乏しい。甚だしい平和ボケっぷりです。

■軍事行動がもたらす経済的影響を考慮していない軽薄なる世論動向
そんな中、意外なことに『新潮』が、経済の側面から朝鮮半島有事の展開を指摘しています。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170413-00519749-shincho-kr&p=2
>> 金正恩「斬首作戦」 実行ならば日本経済も打ち首に

デイリー新潮 4/13(木) 8:00配信


(中略)

■難民と死者の数は…

 朝鮮半島有事と言えば、参照したいのは、70年近く前の朝鮮戦争である。この戦争で起きた特需が日本の復興の足掛かりとなった。

「有事のドル買い」という言葉もある。これまでもミサイル発射など、半島が不安定になると、必ず円安、株高に振れてきたものだが、

「このタイミングで朝鮮半島有事が起きれば、余程のことがない限り、円高が起こるでしょう」

 と言うのは、第一生命経済研究所首席エコノミストの永濱利廣氏。

「昨年のブレグジットの時がそうだったように、最近は世界的なリスクが起こると、その回避のために円が買われる傾向にあるのです。日本が大被害を受けた東日本大震災の時ですら円高になりました。今回の場合は、最悪100円を割ることも考えられます」

 シグマ・キャピタル株式会社のチーフエコノミスト・田代秀敏氏も同様で、

「円高になるのはほぼ確実で、そうなれば、株価も自動的に下がることになる。暴落と言ってよいレベルかもしれません。国債も外国人投資家から売り浴びせられ、金利が急騰し……」

 経済的に苦境に立たされるのだという。

 それ以上に、作戦が成功し、金王朝が崩壊しても、政情不安は否めず「少なく見積もって5万人、最大で20万人」(前出・志方氏)と言われる難民が日本海を渡って押し寄せ、その財政リスク、治安リスクは未曾有のものとなる。


(以下略) <<
外国為替レートの変動という経済面から日本への影響を分析するのは重要な試みです。軍事行動の展開を想定するということは、こういうケースも考えるということです。その点、こうした分析は世論から自生的には出てきていません。重要な論点を検討することもなく現段階で「斬首作戦」を取り上げ、はしゃいでいる手合いの認識の軽薄さが際立ちます戦前の朝日新聞のような短絡的で好戦的な自分たちの考え方と同じ原理原則で、現代軍事戦略が立てられているわけがありません

■「労働党体制の維持」が至上命題――意外と素直に「遺憾の意」を表明した過去も
今以上に緊迫の度合いが高まって「戦争秒読み」と言われる段階になったとしても、本当に「斬首」に至ることはないと思われます。アメリカ側が踏みとどまることもあるでしょうし、逆に朝鮮側が事態を回避することもあるでしょう。実は過去にもありました。たとえば、ポプラ事件では、情勢が意外な方向に展開し、分が悪くなったと見るや、キムイルソン主席は「遺憾の意」を表明しました。

「ポプラ事件はキムイルソンの老熟した戦略的対応であり、若くて予想不可能な行動をとるキムジョンウンにはできない」という指摘もあるかもしれませんが、キムイルソン主席もキムジョンウン委員長も「労働党体制の維持」もっといえば「自分の生存」を最重要事項として位置づけ、その目標を達成するためには何でもするという点においては、まったく同じです。キムジョンウン体制においても、国家記念日等のミサイル発射実験・核実験を行い国威を発揚するには絶好の節目であっても、対米関係を考慮して見送ったことがありました。キムジョンウン委員長は、「労働党体制の維持」を至上命題とする点においてブレはまったくなく、すでにそれを実践しています

この点は、よく言えば「名をこそ惜しむ」国、悪く言えば「インパール作戦」の国である日本とは根本的に異なります。キムジョンウン委員長も名誉・メンツは大切にしていますが、労働党体制の維持・自分の生存のほうが重要であるという点には少しもブレがありません。戦前の朝日新聞のような短絡的で好戦的な自分たちの考え方と同じ原理原則を、キムジョンウン委員長がとっているはずがありません。それほどまでに愚かであれば、来年で建国70年になる朝鮮民主主義人民共和国は、とっくの昔に滅亡しているはずだし、キムジョンウン体制が5年も続くはずがありません。

「あなたとは違うんです」。
posted by s19171107 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

功利主義に対するレッテル貼り・エゴイズムへの堕落の危険を孕んだ主張――法学者の旧態依然な「教育指導」では人権教育にならない

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170409-00000024-asahi-soci
>> 自白強要は仕方ない? 高校生7割が肯定的 1千人調査

朝日新聞デジタル 4/9(日) 15:14配信

 憲法で権力を制限するという「立憲主義」への理解が8割の高校生に浸透する一方、差し迫った重大犯罪を防ぐためには自白を強要してもよいと考える高校生が7割近くに上ることが、高校生1千人を対象にした研究者の調査でわかった。

 法教育に取り組む研究者のグループ(代表・橋本康弘・福井大教育学部教授)が昨年9〜12月、関東と関西の8高校、1370人に法に関する知識や考え方を聞いた。橋本教授は「自分の頭で考え、判断する知識が身についているかを見るのが調査の目的」と話す。

 法教育に取り組む研究者のグループ(代表・橋本康弘・福井大教育学部教授)が昨年9〜12月、関東と関西の8高校、1370人に法に関する知識や考え方を聞いた。橋本教授は「自分の頭で考え、判断する知識が身についているかを見るのが調査の目的」と話す。

 「日本国憲法は、国民の権利や自由を守るために、権力を制限する仕組みを定めている」との説明が正しいか尋ねたところ、正解の「○」が81・1%に上った。

 その一方で「法の支配とは、法によって人間のわがままな行為を規律し、それに反すれば厳しい罰を与えるべきであるという考え方をいう」の正誤を尋ねると、正解の「×」と答えたのは35・0%。国家権力が法に縛られるという「法の支配」の考えが浸透していないことがわかった。質問を作った土井真一・京大院教授(憲法)は「法の支配の理解が浸透していないのは、法は人々の行為を規制し、違反すれば罰せられるという、古来中国の法治主義のイメージが日本社会に強く残っているためだろう」とみる。


(中略)

 土井教授は「自白強要が悪だと知りつつも、多くの人命を奪う、より大きな悪を避けるためには仕方ないとする最大多数の最大幸福の考えがうかがえる。悪いやつには厳しくという素朴な勧善懲悪の意見の表れでもある。問題は、悪いやつだとだれが、どのように決めるのか。自分が悪いやつだと決めつけられたらどうするか。その気づきをどう深めるかが授業のポイントになる」と話している。(編集委員・豊秀一)

朝日新聞社

最終更新:4/9(日) 17:16
<<
■惜しいなあ・・・
旧ブログ時代から司法、とりわけ刑事事件に関する「世論」「庶民感覚」といったものを継続的に分析してきた身からすると、直感的に感じていたことが実証された思いです。引用部分にある土井教授の「悪いやつには厳しくという素朴な勧善懲悪の意見の表れ」や「問題は、悪いやつだとだれが、どのように決めるのか」といった指摘は、私もまったく同感であります。

他方、極めて残念な総括も見られます。「多くの人命を奪う、より大きな悪を避けるためには仕方ないとする最大多数の最大幸福の考えがうかがえる」や「自分が悪いやつだと決めつけられたらどうするか」といった切り口です。

■功利主義に対するレッテル貼り的な誤った認識
最大多数の最大幸福」は、功利主義を代表するキーワードですが、憲法学者のわりに土井教授は、功利主義について正しい認識をもっていないようです。功利主義は、決して「全体主義的な多数派主義」ではありません。私もアカデミックな世界には少しばかりの実体験がありますが、(土井教授にレッテルを貼るつもりはありませんが)特に左翼学者を中心に、「最大多数の最大幸福」という功利主義の思想を、キーワードからのフィーリングで語るきらいがあります。我々の民主主義は功利主義を理論的基盤としているのに・・・

功利主義は決して多数派主義ではなく、全体主義に通ずるものではありません。それは、ウイキペディアでさえ言明されています。引用しましょう。
>> ベンサムの理論には、ミルの理論とは異なり、公正さの原理が欠落している、としばしば言われる。例えば、拷問される個人の不幸よりも、その拷問によって産出される他の人々の幸福の総計の方が大きいならば、道徳的ということになる、という批判がある。しかしながら、P. J. ケリーが著作『功利主義と配分的正義―ジェレミ・ベンサムと市民法』(Utilitarianism and Distributive Justice: Jeremy Bentham and the Civil Law)の中で論じているように、ベンサムはそのような望ましくない帰結を防ぐような正義論をもっていた。ケリーによれば、ベンサムにとって法とは、「個々人が幸福と考えるものを形成し追求できるような私的不可侵領域を定めることによって、社会的な相互作用の基本的枠組みを提供する」(op. cit.、p. 81)ものなのである。私的不可侵領域は安全を提供するが、この安全は期待を形成するための前提条件である。幸福計算によれば、「期待効用」(expectation utilities)は「自然効用」よりもはるかに高くなるので、ベンサムは多数者の利益のために少数者を犠牲にすることを支持しないのである。

功利主義が肯定的に語られる例として、当時のイギリスでは禁止されていた同性愛の擁護が挙げられる。ベンサムは、同性愛は誰に対しても実害を与えず、むしろ当事者の間には快楽さえもたらすとして、合法化を提唱した。この他、功利主義によれば被害者なき犯罪はいずれも犯罪とならない。
<<
大学教授といえば、一般的には博識の人物であり、法学者であれば古今東西のあらゆる法理論に通暁していると思い勝ちです。しかし、実態としては、意外とウィキペディアにも載っているようなレベルの知識であっても、直接的な専門でなければ素人ほどの知識もなかったりすることが多々あります。大学教授は、意外と「専門バカ」であることが少なくないのです。この、さりげない一言は、そのことを典型的に示しているのかもしれません。

■エゴイズムへの堕落の危険
自分が悪いやつだと決めつけられたらどうするか」という主張についても述べておきましょう。なんとなく正しい言説に見えますが、国家・社会を集団主義的に語るにあたっては、下手するとエゴイズムに堕落しかねない結論に至りうる言説であります。

自分が」という判断基準を突き詰めるならば、究極的には「税金を払いたくないでござる」に至ります。しかし、国家・社会を集団主義的に語ろうとすれば、皆がみんな税金を払わないわけにはいかないでしょう。個人の人権に配慮しつつも、どこかで「自分が」という判断基準とは一線を画する必要があります。

土井教授個人が直ちにそうだというわけではないのですが、「自分が」という判断基準を取り上げる人たちのなかには、結局単なるエゴイズムでしかない結論を平気で述べる人がいるものです。「その気づきをどう深めるかが授業のポイントになる」と教育指導的な指摘を展開するのであれば、同時に、単なるエゴイズムに終わらないようなコメントを展開すべきでした。

■ある意味で典型的
功利主義に対するレッテル貼り的な誤った認識にもとづく主張と、エゴイズムへの堕落の危険を孕んだ主張――典型的な法学者の言説です。「その気づきをどう深めるかが授業のポイントになる」などと教育指導的な指摘を展開する土井教授ですが、ある意味で「使い古されている上に間違った認識に基づく言い分」です。正しい認識に基づく新しい切り口を提示できない限り、若い世代を対象とした人権教育にはなり得ないでしょう。

推定無罪の大原則に立つならば、「問題は、悪いやつだとだれが、どのように決めるのか」で十分です。よく知りもしないのに功利主義批判を展開したり、「自分が」などという必要は、そもそもないのです。
posted by s19171107 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

「雁字搦めの事前規制による不正防止」から「事後処罰をチラつかせた不正抑止」への「常識のシフト」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170308-00010006-norimono-bus_all
>> コインパーキングから「ロック板」消える? 不正防止よりも重要視することとは

乗りものニュース 3/8(水) 16:10配信

不正の言い逃れはできない「ロック板なし」

 近年、ロック板(フラップ)を廃したコインパーキングが少しずつ増えています。もちろん、出入口のゲートもありません。

 無防備すぎるように思えますが、不正に利用されるおそれはないのでしょうか。駐車場のシステムを手掛けるアイテック(東京都文京区)に、誕生の背景を聞きました。


(中略)


――ロック板をなくして、不正に利用されるおそれはないのでしょうか。

 確かに、料金を払わずに出庫することは容易です。しかし、駐車マスに埋設されたセンサーで車両を認識し、マスの奥に立つポールに取り付けられたカメラで車両のナンバーを記録することで、出入りを管理しています。また、場内全体を見渡す監視カメラで、全体の出入り状況も随時記録していますので、不正の証拠を把握して、あとから料金を請求します。言い逃れはできません。
.

導入の背景に「ロック板式」の問題点

――仮に不正するとどうなるのでしょうか。

 不正に出庫したクルマを、すぐ捕まえて料金を請求するわけではありません。ナンバーや不正の証拠は把握しているので、そのクルマが全国にある同方式の駐車場に再び入庫した際に、警備員が未払いぶんの支払いを促す紙をクルマに貼ります。紙を貼られた人は、その場の精算機で支払うこともできますが、請求書の発行を申し出て後日、支払い手続きを行うことも可能で、実際には後者のケースが多いです。

――なぜこうしたシステムを開発したのでしょうか。

 最大の目的は、ロック板による事故やトラブルを避けることです。ロック板は、精算から一定の時間内に出庫しないと再び跳ね上がりますが、たとえば、料金の精算後に車内で電話していて、それに気づかず発車し、クルマが破損してトラブルになるケースがあります。また、乗降の際にロック板でケガをしたという人も多く、当社が実施したロック板式駐車場に関するアンケート調査では、20パーセント以上の人がなんらかのトラブルを経験していました。


(中略)

最終更新:3/9(木) 11:00 <<
■「雁字搦めの事前規制による不正防止」から「事後処罰をチラつかせた不正抑止」へのシフト
いささか旧聞かつ大したことのないようなニュースに見えますが、「雁字搦めの事前規制による不正防止」から「事後処罰をチラつかせた不正抑止」へのシフトという点において、重要な取り組みです。

■「雁字搦めの事前規制による不正防止」は高コストかつ副作用的犠牲が大きい
日本人は、「清さ」に対する意識が強く、不正を撲滅しようとする国民性があります。このこと自体は私は貴重なものであり、末永く守ってゆかねばならない美徳であると考えています。しかし、そうした意識が強すぎるがゆえに、「雁字搦めの事前規制による不正防止」という方法論を取ってしまい、そのせいで効率性を著しく損ね、甚だしくは他の要素を犠牲にしてしまうこともあります。

コインパーキングの例に則れば、ほとんどの人が監視が無くとも正しく料金を払うが、ごくごく一部の不届き者の所業を防止するために、すべての駐車車両に板ロックしてきました。また、ごくごく一部の不届き者の所業を防止するための仕掛けが、善良なる市民のクルマを損傷させるケースが相次いでいました。「正直者が馬鹿を見るのはオカシイ」というのは私も強く頷けますが、かといって全員のクルマに板ロックを施す経費は如何ほどなのでしょうか? 善良なる市民のクルマを損傷させてまで防止しなければならなかったのでしょうか?

「雁字搦めの事前規制による不正防止」は、それが完全を期そうとすればするほどに手の込んだものになり、それゆえに莫大なコスト・多大な副作用的犠牲を伴うものです。そして、これは一見して「完全」に見えますが、不届き者は悪知恵が働きイタチゴッコになりがちだし、あまりにも強硬な抑止策は民主的市民社会の基本原理と対立しかねない領域に達するものです(「社会的に正しくない」所業を完全に封じ込めるには、NKVDやシュタージなみの秘密警察監視網が必要になるでしょう)。実際には完全なる抑止などはできない以上は、どうしても不十分です。

■「事後処罰をチラつかせた不正抑止」も強力な選択肢
完全を期するための手法は、「雁字搦めの事前規制による不正防止」だけではありません。結局不正が起こらなければよいのだから、雁字搦めの仕掛けを用意するだけが能ではなく、不届き者に不正行為を断念させる仕掛け、インセンティブの付与もまた選択肢です。その意味で、「事後処罰をチラつかせた不正抑止」はもう一つの強力なツールであり、多くの場合、雁字搦めの仕掛けを用意するよりも低コストかつ副作用的犠牲が抑えられるものです。

反社会的な不届き者は、単に「不正利得」を期待値的に追求しているのではなく、不正行為に手を染めるにあたっての「不利益の期待値」と比較し、その結果、不正利得がプラスであれば、不正行為を実行するものと考えられます。「雁字搦めの事前規制による不正防止」は、不正利得の期待値をゼロに近づける試みであると定式化できますが、他方、「事後処罰をチラつかせた不正抑止」は不利益の期待値を極大化させる試みであると定式化できます。結局不正が起こらなければよいのであれば、不利益の期待値を極大化させるアプローチもまた有力な選択肢です。

コインパーキングの例に則りましょう。既に述べたように、板ロックによる雁字搦めの事前規制のコスト・副作用的犠牲は多大です。他方、監視カメラを活用した事後処罰的な請求は、同程度の効果が期待でき、かつ、板ロックのようなコスト・副作用的犠牲の恐れは小さいものと考えられます。そうであるならば、より低コストかつ副作用的犠牲の小さい方法論を取るべきです。

■飲酒運転への厳罰化も「事後処罰をチラつかせた不正抑止」の一種
こうした「事後処罰をチラつかせた不正抑止」は、特殊な言説では決してなく、ある分野においてはむしろ一般的な言説でさえあります。たとえば、凶悪犯罪・重大犯罪、とりわけ飲酒運転に対する厳罰化を以ってしての抑止効果を求める世論は、まさしく「事後処罰をチラつかせた不正抑止」であります。

飲酒運転に対する厳罰化を以ってしての抑止効果を求める世論に対して、「『事後処罰』って・・・飲酒運転で人が死んでからじゃ遅いんだよ!」などと口走る人は、そうそう居ないでしょう。厳罰化論者のなかに「事故が起こっても仕方ない」と思っている人はまずいません。飲酒運転事故を絶対に起こさせないがために厳罰を要求しているのです。

飲酒運転を雁字搦めの事前規制で完全に封じ込めようとすれば、これはもう全てのクルマに監視員を同乗させるくらいしか方法はありません。「呼気アルコール濃度が一定以上であればエンジンが掛からない」といった仕組みだって、身代わりや細工などで結局は突破されてイタチゴッコになるでしょう。また、その泥沼に足を踏み入れれば、自動車一台あたりの製造コストは跳ね上がってしまうことでしょう。他方、厳罰を確実に科すことを事前に宣言しておくことは、雁字搦めの事前規制よりも低コストで目的を達成できることでしょう。

現実的には、事前規制と事後規制は併用すべきです。コインパーキングの場合は、そこまで躍起になることはないのかも知れませんが、飲酒運転については、こまめな検問による検挙(事故発生前の規制)と併せて、厳罰による抑止力の整備にも注力すべきです。

■「事後処罰をチラつかせた不正抑止」はあちこちで有用
昨今問題になっている保育園・こども園での不正保育も同様です。行政の抜き打ち検査(事前規制)に加えて、「不正発覚の暁には必ず認定を取り消し、責任者には刑事告発を行う」という事後処罰による抑止力の整備にも注力すべきです。

経済分野にも通ずる考え方です。そもそも経済学は「インセンティブの学問」とまでいわれるくらいなのだから、「ど真ん中の論題」であるとさえ言えます。粗悪な商品・サービスの流通は抑止しなければなりません(命にも関わる場合がありますからね)が、それは事前の行政的規制だけではありません。「評判」が極めて重要なファクターとして作用する自由な競争的市場経済においては、粗悪品を世に送り出せば、自社の評判がガタ落ちになり、市場メカニズムの作用によって自らが淘汰されるのは時間の問題です。

市場淘汰は作用としては事後処罰として位置づけることが出来ます。営利を追求する合理的な企業家であればあるほど、継続的に商売を続けるために、一定の品質を維持しようと自ら努力するものです(他方、競争のない独占市場や計画経済体制では、粗悪品や有害物質を用いた商品が延々と生産されていました)。経済分野においても事後処罰は強力な作用をし得ます。

■「国民の常識」が問い直され始めている兆候
凶悪犯罪・重大犯罪には「事後処罰による抑止力」を声高に主張しつつも、コインパキーングについては「雁字搦めの事前規制による不正防止」を主軸にすえる・・・チグハグな言説です。これは結局のところ、一貫した軸足が定まっていないことに起因するのでしょうが、決して悪いことではありません。過渡期とも捉えられるからです。

先に述べたように、日本人は国民性として事前規制に傾きがちです(凶悪犯罪・重大犯罪への厳罰要求は例外的といってよいでしょう)。そんな中で始まった「事後処罰の方法論に則り、コインパーキングからロック板方式が消えはじめた」という情勢は、少し大袈裟かもしれませんが、「雁字搦めの事前規制」が問い直され、「事後処罰による抑止力」という新しい考え方が実践に移され得るほどに広まりつつある、「国民の常識」が問い直され始めている兆候であるとも捉えることが出来るでしょう。

何世代にもわたって連綿と受け継がれてきた常識は、歴史的試練を乗り越えてきたという点で、かならずしも間違いではないと思います。その点、私はナイーブな合理主義的な左翼に組するつもりはなく、伝統主義・保守主義にも理解があります。しかし、常識は常に問い直し続けなければならないとも考えています。伝統に立脚しつつ、常識を常に問い直す。そして漸進主義の原則にたって、少しずつ段階的・実験的に新しい試みを実践してゆくべきです。コインパーキングのロック板方式を巡る実践は、事前規制と事後処罰の適切な配合の水準を検討する実験的試みと位置づけることも可能でしょう。いつの日か、個別具体的な実践経験を総合するときがくるはずです。
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2017年03月27日

自主権の問題としての労働環境vs自主権の問題としての多様な消費行動――一方的な「あるべき」論では判断できない

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170326-00010003-nikkeisty-bus_all
>> 外食産業やスーパー、営業時間なぜ短縮? 「意地でも24時間続ける」業界は?
NIKKEI STYLE 3/26(日) 16:10配信


(中略)

なぜ営業時間を短縮したり休業日を増やしたりするのですか。

 「一つは、消費者の行動の変化があります。これまで小売業や外食産業、サービス業は20世紀型のビジネスモデルの延長で、営業時間を長くすることによって売り上げを増やそうとしてきましたが、そうしたビジネスモデルが通用しなくなっているのです」

 「少子高齢化の進展やインターネットの普及に伴って、夜中に店舗で買い物をしたり、ファミレスやファストフード店でたむろしたりする若者が減り、朝型の生活を送る高齢者が増えました。一方で24時間営業のコンビニエンスストアがコーヒーの販売に力を入れ、店内で飲食できるスペースを設ける店を増やしているほか、総菜の品ぞろえも充実させています。そのため、外食産業や食品スーパーが担ってきた需要の一部を取り込んでいる面もあります」

 「もう一つ見逃せないのが、働く人たちの労働環境を改善しようという働き方改革です。人手不足で従業員を十分に確保するのが難しくなっている一方で、長時間労働に対する風当たりは強くなっています。人材を確保するためにも労働環境の改善が欠かせません。そこで営業時間を短くしたり休業日を増やしたりして、従業員満足度を高めようとしています」

 こうした動きは今後も広がりますか。

 「検討する企業が増えることは間違いありません。ただし、コンビニ業界だけは石にかじりついてでも24時間営業を続けようとするでしょう」

 「十数年前、一部の大手コンビニチェーンが実験的に一部店舗で24時間営業をやめたところ、売り上げが激減してすぐに24時間営業に戻したことがあります。四十数年前のコンビニ創業の頃は24時間営業は多くなかったのですが、地方で24時間営業をしたところ、昼間の売上高も大幅に伸びました。いつでもあいている安心感が顧客をひき付けているのです。また来店客が少ない深夜の時間帯に品ぞろえの補充や清掃などをすることで効率経営しています。コンビニが社会的なインフラになったことも大きいでしょう」

 「企業側の動きとともに、私たち生活者も、本当に年中無休で24時間営業が必要なのか、便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すときに来ているかもしれません」


(以下略) <<
本当に年中無休で24時間営業が必要なのか、便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」――漠然と正しいように聞こえるものの、具体的な落とし所を考えれば直ちにその困難性に直面する「言うは易し」の典型であるに留まらず、下手するとライフスタイルの押し付けにも転落しかねない言説です。

■具体的な線引きを考えるとき「それを必要とする人」の存在に直面する――「あるべき」論では判断できない
このような問題提起をうけたとき、人々はどのように思考を展開するのでしょうか? 「自分自身のライフスタイル」を基にその要否を判断するか、あるいは、「人間は夜寝て昼間に活動すべきものだ」といった「あるべき」論を持ち出すのが大抵のケースだと思われます。

しかし、自分自身のライフスタイルや、自分自身の「あるべき」論を根拠に「不要」だと思われるからと言って、社会全体で不要と言い切れるとは限りません。少数かもしれませんが、それを必要とする人・せざるを得ない人も社会には存在するのです。システム等の運用監視、時差のある国との貿易、医療、警備のように、どうしても深夜時間帯を正規の勤務時間として働かなければならず、午前2時くらいに休憩時間が設けられている人、突発的な事態で急に必要性が生じた人、社会にはいろいろな人がいるのです(経験談含む)。

便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」という言説は、漠然と正しそうな気にさせられますが、何を以って「必要」と見なすべきなのか、そして具体的に「何時開店・何時閉店」にすべきか、という具体的な線引きを考えようとすれば、その難しさに直ちに直面する課題です。

「多数派の横暴に反対!」などとして「少数派の守護者」を自認する市民運動界隈が、「便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」という甘言の下に、少数派のライフスタイルが圧殺されてもおかしくない状況であるにもかかわらず、問題提起の声や抗議の声をあげないのはどうしたことでしょうか? ああいう手合いの中には、都市型ライフスタイルに敵対意識を持ち、「早さよりも心の豊かさ」などと言って、田舎暮らしを無邪気にプッシュしているケースが少なくありませんが、そのせいでしょうか? もうそうなら、結局ただの「あるべき論」でしかないのだから、運動のスローガンに「多様性」という単語を使わないようにしてほしいものです。

■自主権の問題としての労働環境vs自主権の問題としての多様な消費行動――一方的な「あるべき」論では判断できない
続いて「働く人たちの労働環境を改善しようという働き方改革」→「そのための営業時間短縮」という文脈に即して考えみたいと思います。問題の核心は「自主権の問題」なのです。

いわゆる働き方改革は、従業員(労働者)の自主化に必要不可欠な取り組みです。私は以前から立場を鮮明にしているように、労働環境・労働問題は、労働者階級の自主権の問題であると考えています。そして、自主権の追求は最大限に支持・擁護しなければならないと考えています。他方、消費者の多様な消費行動もまた自主権の問題であり、これも最大限に擁護する必要があります。

そもそも、従業員にとっての「働き方改革」も、消費者の「多様な消費行動」も、突き詰めれば「多様なライフスタイルの追求」の一環という点において、従業員という立場と消費者という立場の違いはあれども、根底にあるものは同一です。また、消費者は同時に従業員であり、従業員は同時に消費者です。

立場の違いによって対立関係に立ってしまっているとはいえ、根底における「自主権の追求」が双方がともにもつ正当な権利追求である以上は、慎重に、具体的数値として調整するほかありません(いわゆる「集団主義原則」)。この線引きを誤れば、それは「一方が他方にライフスタイルを押し付けている」という結果に成り下がるでしょう。

私個人の考えとしては、「欲しいときにいつでも欲しいものが手に入る」というのは、消費者の立場としては、まことに豊かで自主的な社会の証左であると考えています。私自身もかつて深夜営業には助けられたものです。人間はモノを消費・活用することで、大小あらゆる自己の目的を達成します。流通は自己目的の物質的スタートラインである以上は、待ち時間が短ければそれに越したことはありません。

「私は深夜にコンビニには行かないから」といった個人的事情や「人間は夜寝て昼間に活動すべきものだ」といった「あるべき論」など持ち出してこないでいただきたいと強く思います。「あなたが使わないのは分かったし、べつに使わなくていいから、黙っていて」「あなたの『あるべき』論なんてどうでもいい」「『あるべき』論の展開を認めるとすれば、『サザエさんのように、午前は掃除洗濯をすべきで、買い物なんて昼過ぎから夕方4時までにやるもんだ』といった、より厳格(説教臭い)な言説が出てくる可能性もあるが、あんたどう反論するつもりなのよ」といったところです。

他方で、「消費者の消費文化生活」が「従業員の無理」の上に立っているのであれば、その部分に限って是正すべきです。私自身もかつて夜勤労働を行ってきた経験からも強く申し上げたいものです。たとえば、いわゆる「深夜割り増し」を、深夜増員の目的を特定した原資に当てるといった方法で、一人の労働者が一ヶ月間に行う夜勤回数を減らすなどといったプランで、消費者の利便性の核心を守りつつ、生身の労働者の負担を軽減させるという展開ができればベストでしょう(←いまニワカに思いついたプランなので、熟慮はしておらず、穴があるかもしれません)。

24時間営業問題に限りません。日本は物資の多くを輸入に頼っていますが、一部生産国においては、奴隷労働のような働かせ方で安価な製品(運動靴は以前、世界的に問題になりましたね)を輸出に回しているケースもあります。これは絶対に是正が必要なことですが、だからといって、「我々日本人は、そうした商品を我々の生活文化から一掃すべきだ」「運動靴なんていらない」という話にはならないでしょう。「奴隷労働をさせている工場の製品は買わない」「フェア・トレード運動に参加する」という方法論をとるのが常識的発想でしょう。同じことです。

■危惧すべき昨今の議論動向
本当に年中無休で24時間営業が必要なのか、便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」という言説は、ターゲットも具体的水準も曖昧に過ぎます。そして、問題の所在はどこで、どこをどういう観点で是正すべきで、その具体的数値は何とすべきかという方向に議論が展開することなく、それぞれが自分自身の都合や「あるべき」論だけでアレコレと主張を展開しているのが昨今の状況です。

ライフスタイルの見直しを掲げる昨今の風潮は、私は決して悪いものではないとは思っています。しかし、ライフスタイルの多様性を殺し、説教臭い世の中に突き進みかねない「落とし穴」が随所に掘られているとも見ています。
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2017年03月25日

タリウム毒殺事件被告人を取り巻く人々の軽薄な人間観・人格形成論

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170324-00000022-khks-soci
>> <タリウム事件>元名大生に無期懲役判決
河北新報 3/24(金) 15:46配信

 名古屋市で知人の高齢女性を殺害し、仙台市で同級生2人に劇物の硫酸タリウムを飲ませたとして、殺人や殺人未遂などの罪に問われた元名古屋大女子学生(21)=仙台市出身、事件当時未成年=の裁判員裁判で、名古屋地裁(山田耕司裁判長)は24日午後、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。


(以下略) <<
判決自体にはさして驚く部分はありません。法廷で認定された事実に基づけば、至極当然の結論に至ったものと思われます。事件自体は特異・異常な案件でしたが、裁判は「普通」に展開されたものと思います。

ただ、裁判中、一点だけ注目に値する場面がありました。下記の一幕です。
http://mainichi.jp/articles/20170217/k00/00m/040/127000c
>>
元名大生公判
母、涙で謝罪…異変に対処できず
毎日新聞2017年2月16日 23時54分(最終更新 2月17日 02時07分)

 名古屋市で高齢女性を殺害し、仙台市で高校の同級生ら2人に硫酸タリウムを飲ませたなどとされる元名古屋大学生の女(21)=事件当時16〜19歳=の裁判員裁判で、元学生の母親が16日、名古屋地裁(山田耕司裁判長)の公判に証人として出廷して謝罪した。元学生の言動を振り返り、異変がありながらも「事件を起こす少年とは違うと勝手に決めつけていた」と語った。【金寿英、山本佳孝】


(中略)

 2014年12月、女性殺害後に仙台市の実家に帰省した元学生から「人を殺したかもしれないけれど、夢か現実か分からない」と打ち明けられたと証言した。以前から同様の発言をしていたため「またかと思った」という。

 事件を起こす少年少女は学力低下が著しかったり、過酷な家庭環境で育ったりしている印象があり「経済的にバックアップしているし、現役で大学にも合格するぐらいだから、うちは違うと思っていた」と話した。

 母親は元学生が高校生だった時、劇薬物を所持していたとして警察に厳重注意されたことを把握した学校から呼び出された。「犯罪にも興味があり、通常の規範から外れている」「急に視力の悪くなった生徒がいるが、何か心当たりはあるか」と言われた。硫酸タリウムの所持は知らず「当時は娘のせいにされるのは心外だと思った」と振り返った。

 元学生が大学1年の夏に帰省した際、犯罪者や犯罪を称賛する発言をしたため、たしなめたところ「あんたはもっと早く自分を精神科に連れて行くべきだった」と言われたと述べた。その後、元学生を仙台市の発達障害の専門機関に伴い、面談を受けさせていた。

 母親は専門機関の職員から、元学生が「人を殺したいという願望は誰にでもある」と話していたと聞かされ、「(殺人を犯せば)処罰されるなどと理論で教えるしかない」と指摘されたという。


(以下略) <<
ご家庭全体にある程度の、中途半端な教養水準があったのでしょう。「事件を起こす少年少女は学力低下が著しかったり、過酷な家庭環境で育ったりしている印象があり「経済的にバックアップしているし、現役で大学にも合格するぐらいだから、うちは違うと思っていた」」――ふた昔くらい前の「教育」書にありそうな、経済還元論的な人格形成論です(俗流マルクス主義くずれの死に損ない「評論」家は、今でも同じようなことを言っていますかね?)。

人間が周囲の環境から影響を受けつつ人格を形成してゆくこと自体に私は異論を唱えるつもりはありません(それは観念論です)。しかし、人間は周囲の環境に一方的に規定されるわけではなく、その刺激の影響を受けつつも、他方で、ある程度は自生的に人格――脳細胞の回路――形成を進めるものです。まして、「経済的にバックアップ」だの「現役で大学にも合格する」だのというのは、あくまで「一要素」に過ぎません。このことは、たとえば、オウム真理教幹部たちが、おしなべて「優秀だが倫理観が決定的に欠如した学者」であった厳然たる事実からも容易に推察できることです。人間は、周囲環境(特に経済的環境)を説明変数とする単変数関数ではないのです。

仮に「経済的にバックアップ」や「現役で大学にも合格する」が重大な決定的要素だったとしても、それはあくまで統計的な事実であり、すべてのケースで当てはまるものではありません。本件被告人は「ハズレ値」の可能性もありました。

また、「専門機関の職員」の「(殺人を犯せば)処罰されるなどと理論で教えるしかない」。理論――「正常」であれば「理論」も通用するかも知れませんが、「異常」を疑われている相手に「理論」を説いたところで効果があるのでしょうか。いったいどういう「専門家」なのでしょうか? 

前述したように、被告人の母の証言は、ふた昔くらい前の「教育」書の受け売りのような言い分です。また、「理論で教えるしかない」などと凡そホンモノの専門家とは思えないようなイイカゲンな「助言」を与えられました。その意味では、あくまで素人であろう被告人の母は、イイカゲンな経済還元論者連中が「専門家」を僭称したがために生まれてしまった被害者とも位置づけることができるかもしれません。

本件事件は、被告人の周辺の人々がおしなべて、軽薄な人間観をもち、かつ、「統計」的事実を機械的に当てはめるがために、生身の人間そのものを直視しようとしない「観念」論者だったことが大きな一因だったのでしょう。

娘がサイコパスな犯罪を犯したからには、ご家族は生きた心地はしないでしょうから、私のようなお気楽な立場の人間が、こういうブログ記事を書いて追い討ちを掛けるのも本来は避けるべきなのかもしれません。しかし、教訓としてこのことは記憶しなければならないとも考えます。人間はそんなに単純な理屈で類型化できるものではなく、やはり個別に検討すべきものなのです。
ラベル:社会
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2017年03月17日

軽薄な人間観に基づく経済還元論、彼我断絶的な人間関係論

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170316-00162569-toyo-soci&p=1
>> 売れっ子芸能人が相次ぎ引退している理由

東洋経済オンライン 3/16(木) 5:00配信


(中略)

■漠然とした不安が広がっている社会で

 スキャンダルに対する人々の目もだんだん厳しくなっています。高度経済成長がとっくの昔に終わり、未来に希望を持ちづらい時代になってきました。将来への漠然とした不安が広がっている社会では、人々は自分の未来を追いかけるよりも、先を行っている人の足を引っ張ることにとらわれがちになります。

 芸能人にまつわるスキャンダラスな報道は、富と名声を得ている(と思われる)スターを地の底に引きずり下ろすためのゲームと化しています。だからこそ、芸能人同士の不倫など、本来ならば当事者以外には何の関係もないようなことでも世の人々は大げさに騒ぎ立て、バッシングの嵐を引き起こします。その結果、ターゲットになった芸能人は必要以上に精神的に追い詰められていくのです。


(中略)

ラリー遠田

最終更新:3/16(木) 12:09
<<
■程度の低い経済還元論まで持ち出してきた
ゲス不倫問題について、当ブログでは昨年12月29日づけ記事で基本的な見解を述べており、今回改めて付け加えることは特にありません。便宜のため、上掲過去ログの主旨を以下に抽出・再掲します。
・不倫は信頼に対する裏切りであり、信頼は社会的人間の本質である。
・家族からの信頼も気分次第で守ったり裏切ったりするような人物は信頼するに値しない。
・そうした反社会的性格の人物が我々の市民社会で生活していることは、脅威以外の何者でもない。
・社会的人間の本質である信頼の裏切りを許容する社会規範は存在しない。弁護の余地はない。
・サザーランドの犯罪行動の分化的接触理論に基づけば、仮に自分自身とは無関係な場所での出来事であったとしても、「対岸の火事」として傍観してはならず、旗幟鮮明に反対すべき。
・我々の市民社会の基本原理を揺るがしかねない「文化」については反対し、その侵入に警戒すべき。
・我々の市民社会が人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている以上は、その根本を揺るがすような性格の人物の所業は、たとえ「ヨソの家庭内問題」であったとしても、「対岸の火事」として看過してはならない。

筆者であるラリー遠田氏の言説は、程度の低い「擁護」論の域を脱していないと言わざるを得ませんが、上記引用記事を見るに、彼の主張は、いまどき化石のような教条主義的マルクス主義の経済還元論者でも言わないようなコジツケを展開している点、輪をかけて程度が低いと言わざるを得ません。

高度経済成長が終わったのはもう40年以上も前の話です(ラリー遠田氏が生まれる前)。バブル崩壊以降の「失われた時代」も、まもなく30年になろうとしています。日本経済は長く停滞を続けています。もし、日本経済事情が昨今のゲス不倫問題への批判の主たる要因であるのならば、この40年間おなじ社会構造が続いていたのだから、同じようなことがずっと繰り返されてきたはずです。しかし事実に即して述べれば、芸能界の不倫ニュースは昔から定番中の定番ですが、今のような取り上げ方をされるようになったのは、つい去年・今年の話です(ついでに言えば、芸能界の薬物汚染も昔から変わりませんし、はっきり言って芸能人がヤク中でも一般人の生活にはあまり関係ありませんが、最近のほうが世論が厳しいという点では、よく似ています)。

ここ最近俄かに注目を浴びるようになったゲス不倫問題への批判の主たる動機を、日本社会の長年の構造的状況である「高度経済成長がとっくの昔に終わった」ことに対して人々が「未来に希望を持ちづらく、将来への漠然とした不安が広がっている」からだとする理屈は、時間的に因果関係の論証に無理があり、あまりにも説得力がありません(まさか、高度経済成長が何年に終わったのか知らない?)。特に「高度経済成長」を持ち出すのは、無茶苦茶過ぎるのです。教条主義的マルクス主義の経済還元論者だって、もう少しマシな理屈をつけるでしょう。

■総体としての生活を経済活動・生産活動に還元する軽薄な人間観
ある社会現象を時代の風潮に結び付けて説明すること自体は間違ってはいません。それを否定することは「観念論」という他ないと思います。しかし、なぜそこで経済状況に還元してしまうのでしょうか?スターリン主義者の生産力主義、教条主義的マルクス主義者の訓詁学、ナンチャッテ左翼のインチキ理論の負の遺産が未だに根強く残る日本の悪しき状況です。

経済活動・生産活動が人間と自然の物質代謝であることは私も認めます。また、経済活動・生産活動が自己疎外を引き起こし得ることも認めます。しかし、あくまで経済活動・生産活動は生活の一局面に過ぎず、生活総体は決して経済活動・生産活動だけに規定されるものではありません。自己疎外はあくまで人類史における一時的事象であり、人民大衆の意識的運動がそれを打破してゆくわけです。経済還元論者が理論の前提とする、いわゆる「下部構造−上部構造の関係」は、相互作用的と見るべきです。

経済活動・生産活動に限定することなく社会一般の標準的な生活をトータルに見渡せば、たとえば「東日本大震災以降の絆重視の風潮においては、不倫=裏切りは最も唾棄すべきものだから、強く批判されるようになった」という理屈付けのほうが、まだ幾許かの説得力があるといえるでしょう(もっとも、東日本大震災は発生から3・4年目で既に「風化」が指摘されていたのですから、この理屈付けでさえ少しコジツケ気味ですが・・・)。

■「経済成長の終焉」は「閉塞感蔓延の始まり」ではない
ラリー遠田氏の土俵に敢えて上って、仮に「高度経済成長がとっくの昔に終わった」という社会的状況が、昨今のゲス不倫問題への批判の要因だとしましょう(万に一つもないと思いますがね)。それでもなお、「未来に希望を持ちづらい時代」という分析は飛躍している(皆が皆そのように捉えるとは限りません)し、まして「将来への漠然とした不安が広がっている社会では、人々は自分の未来を追いかけるよりも、先を行っている人の足を引っ張ることにとらわれがち」という結論には直結しません。ラリー遠田氏は時代の流れを読み違えているだけでなく、論理を飛躍させてもいるのです。

高度経済成長がとっくの昔に終わった時代」イコール「閉塞感が蔓延する時代の始まり」とは言えません。低成長時代は見方を変えれば、「右肩上がりの時代が終わり、経済的自己利益の追求に限界が見えてきたからこそ、いままで見落としていた経済以外の分野にも視野が広まるようになった時代」とも言い得るからです。

たとえば、朝鮮大学校政治経済学部教授であり、いまや朝鮮総連幹部に出世なさったハン・ドンソン氏の著作『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』では、次のような、ラリー遠田氏のようなナンチャッテ左翼的な分析ではなく、ガチ左翼の資本主義分析が展開されています(同書113〜114ページ)。
>> (中略)歴史発展過程においては、経済生活、政治生活、思想文化生活が、つねに均衡的に発展してきたわけではありません。階級社会の搾取と抑圧のもとでは、社会生活の三大分野においてアンバランスが生じてきました。それは主に、経済生活の発展にくらべ政治生活と思想文化生活の発展が立ち後れることで表現されました。
 今日、資本主義社会では社会生活の三大分野で大きなアンバランスが生まれています。
 資本主義社会では、発展した経済が、人々のために正しく奉仕していません。非人間的な需要が人為的に操作され、人々を堕落させる各種の手段がつくられることによって、腐敗した生活が助長されています。物質的富の増大につれて、かえって人々の健全な精神が麻痺し、不道徳と社会悪が広まる一方、政治は保守化し、人々が自主的な政治活動を行ううえでの障害が大きくなっています。一言でいって、経済が成長するほど、物質生活が腐敗し、思想文化生活が貧困化し、政治生活が反動化しています。
(以下略) <<
資本主義的な経済は、生活の経済的側面を奇形的に刺激することによって、人々の健全な精神を麻痺させるといいます。

飽くなき経済成長が止まったからこそ、物欲・金銭欲の過剰な刺激が弱まり、それによって視野が広まり、隣人の不幸に共感を寄せられるようになり、自分とは直接関係のない不義不正に対して義憤を感じられるようになり、共に悲しみ共に怒ることができるようになったとすれば・・・これは決して悪いことではありません。もともと人間がもっていた社会的人間の本質的属性が資本主義経済によって奇形化されていたものの経済成長の鈍化に伴って元の姿を取り戻した、経済成長の鈍化を契機に経済的利益・利己的利益の追求に偏った異常状態が是正されて生活総体のバランスが取れるようになった、というのであれば、それは「社会における人間性の回復」という点において、むしろ進歩であると言ってもよいものです。

消費生活社会論的な見地に拠れば、昨今は、仲間内での時間・空間・感情の共有を志向する消費が好調であるそうです。「過剰な優しさ」も指摘される時代です。飽くなき経済成長が止まったからこそ、いままでになかった視野が広まりつつあることは、諸々の調査から推察できます。「経済成長の終焉=閉塞感蔓延の始まり」と図式化して断じるラリー遠田氏の言説は、あまりに一面的に過ぎると言わざるを得ません。

■社会との関連性が曖昧で彼我が断絶している軽薄なる人間観
こうした視野の広まりを「人々は自分の未来を追いかけるよりも、先を行っている人の足を引っ張る」というのは、あまりに決め付けすぎています。

仮に世論が奇怪極まる理屈を展開しているのであればまだしも、不倫問題はそうではありません。以前からの繰り返しになりますが、不倫というのは信頼への裏切り行為であり、家族からの信頼も気分次第で守ったり裏切ったりするような人物は信頼するに値しません。我々の市民社会が人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている以上は、その根本を揺るがすような性格の人物の所業は、たとえ「ヨソの家庭内問題」であったとしても、「対岸の火事」として看過することはできません。不倫は表面的には「ヨソの家庭内問題」ですが、本質においてはもっと重大な事象なのです。決して「先を行っている人の足を引っ張る」行為(そもそも根本的疑問として、芸能人は「先を行っている人」なのでしょうか?笑)ではありません。

こうした決め付け的言説の前提には、「満ち足りた人は隣人愛と正義感に基づいて連帯して抗議を行い、貧乏人は不満と嫉妬ゆえに寄って集ってイチャモンを口にする」といった想定が横たわっているものです。しかし、人間同士が連帯して主張する状況は、満ち足りた世界だけで生まれるものではありません。貧乏人にだって人間としての正義感はあります重要なのは、発言者の属性ではなく、その主張の正当性です。

過酷な時代であるからこそ連帯意識が生まれるケースもあるものです(ユダヤ民族のケースなど)。貧乏ゆえに不正に直面する頻度が高く、だからこそ覚醒しやすいとさえ言えます(公害運動・社会運動の同志的連帯のケースなど)。満ち足りた安穏な生活は、むしろ、多少の不義不正にも鈍感になってしまいかねないと私は考えています。「人間は自分の生活に余裕がなくなるにつれて、他人のことが気になって仕方なくなり、ささいな不正に目くじらを立てるようになる」という図式をよく目に・耳にしますが、私は逆に、「生活に余裕が出来ると鈍感になるってこと? それって自分のことにしか興味のないタイプの人間、自分の利益が守られていれば他人への不当な仕打ち、他人同士のトラブルなど眼中に無いタイプの自己中心的人間を、自己弁護的に言っているだけじゃないの?」と受け止めています。自分だけで生きているつもりになっている、他人に対して共感できない哀れで軽薄な人物像が滲み出ているなと思っています(まあ私もエラそうなこと言えるほど立派な人間ではありませんけどね笑)。

こういう理屈を展開する方々は、「社会的集団の一員」という位置づけとしてではなく、人間を「社会との関連性が曖昧な『個人』」として位置づけていることが推察できます。たとえ他人同士のトラブルであっても、人間がみな社会に参加している以上は、どこかで必ず繋がっています。特に、信頼関係の問題は社会の基本的紐帯であり、それを脅かすような性格をもった人物の行動は、最初は他人同士のトラブルであったとしても、その問題人物が社会生活を送ってゆくことによって、ゆくゆくは各地で問題を引き起こし、全体のシステムにも悪影響を及ぼしかねません。

その意味で、人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている我々の市民社会のうちにおいて、不倫という裏切り行為の最たるものが敢行された事実は、決して「ヨソの家庭内問題」「対岸の火事」では済まされません。この重大な事態を「本来ならば当事者以外には何の関係もないようなこと」などとするのは、結局、人間を「社会的集団の一員」ではなく「社会との関連性が曖昧な『個人』」として見る軽薄な人間観の発露、すなわち、他人同士のトラブルが永遠に他人同士のトラブルであり続ける、自分は他人と関連していない関係してない、要するに彼我の断絶という思い込みの発露と言わざるを得ないのです。

■社会的人間の本質を捉え損ねた軽薄な人間観の憂慮すべき拡散状況
化石のような教条主義的マルクス主義の経済還元論に加えて、社会との関連性が曖昧で彼我が断絶している、軽薄な人間観に裏打ちされた無茶苦茶な不倫「擁護」論。社会的人間の本質を捉え損ねた軽薄な人間観が、意外と広範に拡散していることに憂慮します。
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2017年03月15日

「ブラック研究室」の根本に存在する前近代的師弟関係・人間関係

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170315-00010001-newswitch-soci
>> 学生を追い詰める「ブラック研究室」の実態

ニュースイッチ 3/15(水) 8:30配信

不正を暴いて波風を立てることにメリットがない…

 学生や研究員を追い詰めるような「ブラック研究室」は研究不正の温床になる。学生にとってはブラック研究室の実態を暴くことにメリットはなく、目標にはなり得ない。研究室から円滑に卒業し、就職やステップアップなど次の活躍の場を得ることがゴールだ。そのためには不正を暴いて波風を立てることは合理的でない。果たして倫理教育で学んだモラルはどこまで有効なのだろうか。


(以下略) <<
■「ブラックxx」の本質を抉る「ブラック研究室」という問題提起
「ブラックxx」――ブラック企業を筆頭に、いまやあらゆる分野において見られています。それだけ自主性のの侵害が横行しているということなのでしょう。今回は「ブラック研究室」です。

ブラック研究室という問題提起は、いわゆるブラック企業以上に問題の核心を抉っている、上手い問題提起です。ブラック企業という言葉は、「労働者を酷使することによって利益を得るモデル」という意味合いで使われることが多い言葉です。たしかそういう側面は否定できませんが、必ずしも、他人を踏み台にすることを厭わない極端な利己主義・利益至上主義的なケースのみがブラック企業というわけではありません。チュチェ105(2016)年10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度――言いたいことは分かるが洗練されていない」で取り上げた「秋山木工」という時代錯誤的な「徒弟制度」を維持している企業のように、利益至上主義とは異なる動機でブラックな振る舞いをしているケースもあります。通念とは異なり、「ブラックxx」は、権力者の利己主義の発露とは限らないのです。

学問の世界というのは、前近代的な師弟関係が未だに根強い世界です。たとえば一部経済学分野や歴史学分野では、諸外国ではまず相手にされないレベルの笑ってしまうくらい化石的・図式的なマルクス主義唯物史観による歴史的事実のコジツケ解釈が未だに連綿と受け継がれています。アカデミックでない「読み物」的な経済学・歴史学の本のほうが、実は国際標準だったりするくらいです。たとえば最近、山川出版社の高校世界史用語集が改訂されましたが、「産業革命は『革命』には当てはまらないという指摘もある」といった記述がようやく掲載されるようになりました。欧州の経済史学では遥か昔からの国際的常識で、日本国内でも「変わり者」的な歴史学者が以前より提唱してきた見方ですが、唯物史観が根強い日本の学界ではなかなか浸透しませんでした。ようやく日本にも世界標準が波及してきたわけですが、いかに日本のアカデミック界隈が時代錯誤なのかがこの一例からも分かります。

■「ブラックxx」の2類型
こんな時代錯誤な研究がいまも生き残っているのは、学者たちの目が節穴である可能性を除けば、何らかの「強制力」が働いていると見るほかありません。その点において、本記事が告発する学問世界における師弟関係の強さ、そしてそれに起因する「研究室のブラック化」という問題提起は、「ブラックxx」の構成原理には前近代的な師弟関係が横たわっているケースもあり、それゆえに「弟子」たちは、明らかにムチャクチャな指導であっても遵守しなければならない強制的圧力に晒されている現実を告発する問題提起になっています。「ブラックxx」は、権力者の自己利益至上主義型と、前近代的な師弟関係型の2つがあるわけなのです。

■何をなすべきか
こうした、前近代的な師弟関係型の「ブラック」な事例を打破するにはどうすればよいでしょうか? チュチェ105(2016)年1月19日づけ「テンプレの域に達しつつある「労働組合結成の勧め」――中世的芸能界の近代革命のために必要な組織とは?」において私は、学問世界以上に前近代的人間関係が横行している芸能界におる「SMAP解散問題」を具体例として取り上げながら論じました。その中で私は、前近代的人間関係の打破は、まさに中世から近代への歴史の変化と同様に、古い社会的人間関係の枠内で「運動」を展開するのではなく、新しいフィールドで新しい人間関係を築きなおすことによってのみ実現されると述べました。詳しくは当該記事をご参照いただきたいのですが、要するに、古い人間関係から脱出し自由を得た後に、その新しい人間関係を自主的に管理するという経路を辿るしかないのです。

「ブラック研究室」の打破もまったく同様です。前近代的な師弟関係を要求する指導教官ではなく、現代的・自主的な人間関係を前提とする指導教官に教えを乞うのです。仮に前近代的な師弟関係を要求する指導教官が学会の大権威あるいは自分の研究テーマの第一人者であるがゆえにその人に当面は師事するほかないとしても、自主化の魂だけは失ってはならず、いつか必ず来る自分の時代においては、弟子たちに対して自主的に接するべきなのです。指導教官はいつかは引退します。負の人間関係を再生産しないことを固く決意し、自分自身は茨の道を歩むことも必要であるといえます。

利益至上主義という文脈で捉えがちな「ブラック企業」という問題提起からでは、なかなか到達することができないこの結論は、前近代的師弟関係・人間関係という文脈が鮮明に浮かび上がる「ブラック研究室」という問題定期からは容易に到達できました。「ブラック研究室」、上手い論点設定です。

今日は3月15日。ロシア帝国(ロマノフ王朝)崩壊からちょうど100年になるそうです。ロシア2月革命が成就した日でした。革命100年を記念します。
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2017年03月14日

労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利――ゼンショー社で「勤務間インターバル規制」が実験的導入

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170313-00000097-asahi-bus_all
>> 「すき家」のゼンショー、社員休息の新制度 負担減狙う
朝日新聞デジタル 3/13(月) 20:36配信

 牛丼チェーン「すき家」を運営するゼンショーホールディングスは、終業と始業の間に一定の休息時間を確保する「勤務間インターバル規制」を実験的に始める。13日、今春闘の労使交渉で合意した。慢性的なアルバイト不足のなか、社員の負担軽減を狙って終業と始業の間を11時間以上あけるようにする。2017年度中に数店舗で始め、全店への展開を検討する。今春闘では、月1400円のベースアップでも合意。パート・アルバイトについても時給を引き上げる。


(以下略) <<
■労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利
あの「ワンオペ」で悪名高い「すき家」のゼンショー社が、慢性的な人手不足を背景に、実験的導入とは言うものの先進的な「勤務間インターバル規制」を導入する運びになりました。

当ブログでは以前から述べてきているように、労働者が勤め先に対して自主的な立場を獲得・維持するためには、常に「辞める」という選択肢を留保しておくべきだと述べてきました。経済学的に考察したとき、特定の企業に対して依存することは、自らの自主的な立場を弱めます

「辞める」という選択肢が無い状態においては、仮に労使交渉によって利益を獲得したとしても、それは同時に勤め先への結びつきを強めることでもあります。おそらく企業側は、「巻き返し」を虎視眈々と狙ってくることでしょう。むしろ、いったん「好待遇」を提示することで囲い込み、後々になってから労働需要独占者としての立場を利用して買い叩いてくるかもしれません。

他方、「辞める」という選択肢がある状態で企業側から譲歩を勝ち取ったケースにおいては、企業側が「巻き返し」を図ろうものなら、労働者はすぐに逃げ出すことでしょう。合理的な商売人であれば、「金のなる木」を逃がさない程度に搾取することでしょう。

今回のゼンショー社の譲歩は、慢性的な人手不足=労働市場における売り手市場という社会的な状況下で出てきたものです。つまり現在、労働者階級は、「辞める」という選択肢がある状態です。こうした状況下で、市場メカニズムを活用する形での要求活動を展開することこそが労働組合が本来的に行うべき要求活動です。ゼンショー社の労働組合は上手くやったと思います。

■偉大な勝利とは言っても勘違いしてはならない
ただし、勘違いしてはいけないのは、今回の要求の実現は、あくまで「慢性的な人手不足」という社会的状況が決定打だった、つまり、「粘り強い組合運動」に対して企業側が譲歩したというよりも、市場メカニズムの作用に企業側が反応・対応した結果に過ぎないということです。「ワンオペ」が中止に追い込まれたときと同様の構図です。「ワンオペ」のときも労働組合の改善要求に企業側が折れたのではなく、ワンオペの悪評が労働市場に広まり、アルバイトの応募が激減したことが決定打でした。時代の流れに上手く乗ってチャンスを生かすのも十分に才能だと言えますが、自分自身の力を過信してはなりません

労働組合が労働市場を常に意のままに操作すること自体は困難ですが、しかしながら、世論を醸成・喚起するキッカケづくりは可能です。世論への訴えを通じて、間接的に労働市場に影響力を行使し、労働供給側のパワーを強める手順・方法論を整備すべきでしょう。労働環境に対する社会的関心がかつてなく高まっていますが、この世論を維持する努力は今後も続けるべきでしょう。

■好況のうちから実力を
景気は循環するものであり、いつかまた不況は必ず来ます。不況下でも同じ調子で要求活動を展開すると、今度は「辞める」という選択肢が実質的にとれない状況下なので、逆に企業側に足許を見られることになるでしょう。不況下であっても買い叩かれないように、好況のうちから技能や知識を熟練化させておくべきでしょう。

■好況のうちからソーシャル・ブリッジの構築も
なお、社会人デビュー・労働者デビューが不況時代に重なってしまった運の悪い世代については、ソーシャル・ブリッジの構築が必要だということは申し述べておきます。以前から繰り返し取り上げている、スウェーデンの「人は守るが、雇用は守らない」(=労働者の生活は守るが、特定企業への財政支援・産業保護はしない)を原則とする労働政策に則ったものです。
posted by s19171107 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

ご近所トラブルからの草の根レイシズム――「我々が彼らに寛容になろう」ではなく「ご近所同士お互いに配慮し合おう」

ちょっと古い記事になりますが、重要な記事です。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170225-00010002-dime-soci
>> 7割の人が住むのをためらう○○が多いマンショ

@DIME 2/25(土) 9:12配信

 ここ数年、訪日外国人の数は増加傾向にあり、観光地だけでなく、スーパーや飲食店でも見かけるようになった。また都心の飲食店やコンビニでは、外国人の店員も多い。身近なところで外国人と接する機会が増えた分、「言葉の違い」や「文化の違い」などからトラブルへと発展してしまうこともあるのではないだろうか。オウチーノが2015年に、首都圏在住の20歳〜59歳男女498名を対象に、「『外国人トラブル』に関するアンケート調査」を行なったところ、「外国人が多いマンション」は7割の人がためらうと答えていることがわかった。


(中略)

■約7割が、外国人が多くいるマンションに住むのはためらう

 最後に、「仮にこれからあなたがマンションを購入するとして、購入したいと思ったマンションに外国人が多く住んでいると分かった時、あなたはどうしますか?」という質問をした。

 結果、「購入をとりやめる」と答えた人が21.9%、「購入を迷う」と答えた人が23.7%、「どこの国の人かによる」と答えた人が24.9%、「特に気にしない」と答えた人が29.5%だった。なお、「外国人とトラブルになったことがある」と答えた人の場合、48.8%が「購入をとりやめる」と答えた。やはり一度トラブルを経験してしまうと、近隣に住むことをためらう人が多いようだ。

「購入をとりやめる」と答えた人にその理由を聞くと、
「価値観や生活習慣が違うとトラブルになるから」(45歳/男性)
「治安やコミュニケーションに不安があるから」(36歳/男性)
「ゴミ出しや生活習慣の差による騒音など、トラブルが多そうだから」(58歳/女性)などが挙がった。

「購入を迷う」と答えた人にその理由を聞くと、
「言葉が通じなかったり、日本の文化を知らない人がいるとちょっと不安だから」(28歳/女性)
「トラブルが発生しそうだから」(34歳/男性)
「住んでいる人が日本的な生活をできているのか、確かめる必要があるから」(27歳/女性)などが挙がった。

「どこの国の人かによる」と答えた理由を聞くと、
「反日思想の国の人なら購入をやめるから」(46歳/男性)
「モラルのない国は困るから」(33歳/女性)などが挙がった。

「特に気にしない」と答えた理由を聞くと、
「日本の文化に溶け込もうとしているなら問題ないから」(58歳/男性)
「外国人と交流するいい機会だから」(29歳/男性)
「日本人だって問題のある人はいる。外国人と言うだけで躊躇することはないから」(50歳/男性)などが挙がった。

 約7割が、購入予定のマンションに外国人が多く住んでいたら、購入をためらうことがわかった。一方で、交流するいい機会になる、といった前向きな声も挙がった。マンションの管理側も、居住者同士がうまく共同生活を送るために、現行のルールをただ守れというだけではなく、管理規約などを多言語化すること、文化・生活習慣の違う外国人がいる前提でルールを作ることなどが必要になるのではないだろうか。

 日本に来る外国人が増えることで、日本人が享受するメリットがある一方、トラブルの増加も避けられない。どう外国人と上手に付き合っていくのか、他人事と思わず考えていく必要があるのかもしれない。

【調査概要】
有効回答:首都圏在住の20歳〜59歳男女498名
調査方法:インターネットによるアンケート調査
調査期間:2015年11月11日(水)〜11月13日(金)

文/編集部
@DIME編集部

最終更新:2/25(土) 9:12
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価値観や生活習慣が違うとトラブルになるから」「治安やコミュニケーションに不安があるから」「ゴミ出しや生活習慣の差による騒音など、トラブルが多そうだから」――外国人に対して溝を作る発想に基づく言説です。ヘイトスピーチ問題が注目を浴びるようにきた昨今、日本第一党vsのりこえネット、ネトウヨvsパヨクの「イデオロギー空中戦」が激化する一方ですが、そうした連中がほとんど関与していない「近所づきあいの現場」という生活に密着した土俵で、外国人に対する溝が深まっています

価値観や生活習慣が違うとトラブルになる」といった生活上の摩擦は、「やはり一度トラブルを経験してしまうと、近隣に住むことをためらう人が多いようだ」という一文からも分かるように、ゆくゆくは深刻な外国人に対する嫌悪感に発展します。差別意識というのは、特定個人との間での不満・トラブルの蓄積が、その個人が所属している集団の問題に増幅されることで生じるものです(サンプル数過少のインチキな統計的推論のようなものです)。また、実際に自分自身が外国人とトラブルになったことがない人物であっても、こうした情報に接すると、「外国人は生活習慣が違うから・・・」というイメージが定着し、外国人敬遠に繋がってしまいます

こうした発想を「思い込みに過ぎない」などと批判することは、理屈の上では正しいものの、被害経験者の被害者感情や、とにかくトラブルを徹底的に避けたい人物の切なる生活上の願いの前では、ほとんど意味がありません。たとえ「レイシスト」と言われようとも、自分自身の生活を守ることを選択する人は少なくないでしょう。

快適な日常生活をお互いに送るためにも、特定個人によるトラブルを差別問題に発展させないためにも、生活の現場;近所づきあいの過程で生じるトラブルを最優先で、一つ一つ解決してゆく必要があります。

ここで重要なのは、問題は近所づきあいの過程で生じている以上は、お互いに配慮する必要があるということです。外国人・異人種に対する寛容を要求する人たちや、あるいは、「反レイシズム」の人々は、「異なる文化の人たちを仲間として受け入れよう!」といった具合に受け入れ側への「変化」を要求します(日本国内に限らず、欧米の移民受入国でも見られます)。しかし、「近所づきあい」のような生活に密着した視点に立って考えるとき、日本人住民同士のケースであっても日本人vs外国人のケースであっても外国人住民同士のケースであっても等しく、既に住んでいる人と新しく引っ越してくる人とが、お互いに配慮し合う必要があるといえます。イデオロギー空中戦でお忙しいネトウヨやパヨクの皆さんはご存じないかも知れませんが、一般生活者同士の近所づきあいは、お互いに配慮しあってやるものなんですよ。

レイシズムに関するネトウヨvsパヨクのイデオロギー空中戦は一進一退の攻防が展開されていると言えます。しかし、それとはまったく隔絶された「戦線」では、レイシズムを推進させかねない大きな勢力が育ちつつあることがこの記事から分かります。そして、「反レイシズム」を自称する勢力が、その状況にまったく気がついていないのが現状です。気がついたころには、「草の根レイシズム」が相当の規模になっていかねない状況にあるのです。

日本第一党など相手にしている場合ではないし、のりこえネットのイデオロギー空中戦志向に期待は掛けられません。繰り返しになりますが、近所づきあいの過程で生じるトラブルを「我々が彼らに寛容になろう」ではなく「ご近所同士お互いに配慮し合おう」で対処してゆくべきなのです。
ラベル:社会
posted by s19171107 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする