2018年01月05日

今年も「社会主義企業責任管理制」の旗の下に前進する社会主義朝鮮

새해를 축하합니다!
チュチェ107(2018)年が幕を開けました。今年は共和国創建70周年の節目の年であります。
今年も、第1号記事はキムジョンウン同志の「新年の辞」を取り上げたいと思います。

今年も、「小林よしおの研究室」様に掲載されている邦訳を活用させていただきたいと思います。以下。
http://kcyosaku.web.fc2.com/kju2018010100.html

■経済改革の目玉;社会主義企業責任管理制は変わりなく継続の見込み
日本メディアは、「核ボタン」発言やオリンピック参加表明に反応したものですが、経済改革の動向に最大の関心を寄せている私としては、次の、さりげないくだりに注目しました。
>>  内閣をはじめ経済指導機関は、今年の人民経済計画を遂行するための現実性のある作戦を立て、その実行のための活動を責任を持って頑強に推し進めなければなりません。

 国家的に社会主義企業責任管理制が工場、企業、協同団体で実効をもたらすように積極的な対策を講じるべきです。
<<
今年もまた、経済改革の基幹である「社会主義企業責任管理制」について言及がありました。ほんの一言しか触れられていないものの、余計な誇張なく取り上げられているということは、これからも変わることなく継続する方針であることを示していると言えます。大成功を喧伝するかのような表現ではない点、いわゆる「西側の制裁」は、ある程度は効いているのかもしれません。しかし、音を上げるほどではないということなのでしょう。

キムジョンウン同志による経済改革は、今年も継続される見込みというわけです。

共和国の経済改革について取り上げた当ブログ掲載の過去ログ
○チュチェ102(2013)年4月11日づけ「経済改革
○チュチェ102(2013)年10月1日づけ「ウリ式市場経済
○チュチェ102(2013)年10月7日づけ「チュチェの市場経済・ウリ式市場経済――共和国の経済改革措置に関する報道簡易まとめ
○チュチェ105(2016)年6月6日づけ「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会
○チュチェ105(2016)年7月2日づけ「分権改革・経済改革の旗印を更に鮮明にした画期的な最高人民会議
○チュチェ106(2017)年1月2日づけ「キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!
○チュチェ106(2017)年7月27日づけ「政策としての朝鮮民主主義人民共和国における市場経済化は着実に前進している――韓銀推計という第三者的立場の分析からも明らか
○チュチェ106(2017)年9月9日づけ「共和国における経済改革の進展――建国69年目のチャレンジの行方


■「チュチェ農法」は何処へ?
科学的農法」や「多収穫農法」という単語は出てくるものの、「チュチェ農法」という単語が出てこなかったことも気になったところです。

もっとも、ほぼ1年前のチュチェ105(2016)12月6日に発表された「チュチェの社会主義偉業遂行において農業勤労者同盟の役割を強めるために」においては、「チュチェ農法にも精通するようにしなければなりません」とか「すべての農作業をチュチェ農法の要求どおりに科学的かつ丹念におこない、農業生産計画を間違いなく遂行するようにしなければなりません」などと指導されている点、今回の「新年の辞」では、単に話の流れで「チュチェ農法」という単語が出てこなかっただけなのかもしれません。

これが3回くらい続けば、何か「地殻変動」が起きていると言えるかもしれませんが、今の段階では確たることは言えないところです。今後の農業関連演説・談話で、「チュチェ農法」という単語が出てくるか否かは、チェックポイントとすべきでしょう。

■チュチェ思想における「血」の意味について(再論)
チュチェ思想の訓詁学っぽくなってしまいますが、次のくだりに私は注目しました。
>>  政治的・思想的威力は、わが国家の第一の国力であり、社会主義強国建設の進路を切り開く偉大な推進力です。

 我々に課された闘争課題を成果裏に遂行するためには、全党を組織的、思想的にさらにかたく団結させ、革命的党風を確立して、革命と建設全般において党の戦闘力と指導的役割を絶えず高めなければなりません。

 すべての党組織は、党の思想に反するあらゆる不純な思想と二重規律を絶対に許容せず、党中央委員会を中心とする全党の一心団結を全面的に強化すべきです。

 全党的に党の権威乱用と官僚主義をはじめ、古い活動方法と作風を一掃することに力点をおき、革命的党風を確立するためのたたかいを強力に展開して、党と人民大衆の血縁的つながりを磐石のごとく打ちかためるべきです。
<<
党と人民大衆の血縁的」――党は組織であり自然人ではないのだから、「血縁」も何もないという点で、西側的感覚では意味不明な語句でしょう。まして、思想の文脈で唐突に「血統的つながり」というのは、理解に苦しむことでしょう。

しかし、チュチェ106(2017)年2月24日づけ「「白頭の血統(ペクドゥの血統)」における「血」は生物学的な親子関係のことではない」でも論じたように、チュチェ思想における「血」とは、生物学的な意味での意味ではないのです。

上掲記事でも引用した、韓東成(ハンドンソン)先生の著書『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』の99ページより引用します。
>> 血縁の共通性は、民族形成の基礎です。
 ここでの血縁の共通性とは、人種のような生物学的なものではなく、社会歴史的に形成された血縁的関係を意味します。
 血縁的関係は、人々に身体的および心理的な共通感を抱かせ、民族という堅固な集団とに結合させるうえで重要な作用をします
<<

日本メディアはしばしば、「白頭(ペクドゥ)血統」という表現を「三代世襲の正当化」と評していますが、チュチェ思想における「血」というのは、決してそういう意味ではないというのが、このことからも改めて分かるのではないでしょうか。

もし、生物学的な意味での「親子関係の血統」が権力の正当化の源泉であるとすれば、前掲記事でも述べましたが、そのことをもっと直接的であからさまで大袈裟でわざとらしい、傍から見れば逆効果なんじゃないかというくらいの「マンセー!」な表現で宣伝しているはずです。しかし、実態はそうではない。やはり、共和国における「血・血統」は、生物学的な意味でのそれではないと見るべきなのです。

■전진하는 사회주의
演説外の要素になりますが、西側の共和国ウォッチャーたちは、キムジョンウン同志の服装について注目しています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180102-00000030-jij_afp-int
>> 人民服ではなくスマートなスーツ…金正恩氏の服装一新に識者ら注目
1/2(火) 22:17配信
AFP=時事

【AFP=時事】北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン、Kim Jong-Un)朝鮮労働党委員長が1日の新年の辞の発表に際し、スマートなグレーのスーツで臨んだことについて、北朝鮮問題の専門家らは、2018年における外交の一新と関連しているのではないかと分析している。


(中略)

 態度の軟化に加え、おなじみの人民服とは明らかに異なる、驚くほど粋な西洋風のスーツとそれに合わせたグレーのネクタイという装いを目にしたアナリストらは、この予想外のスタイル変更が示唆する内容の読み解きを試みている。

 韓国のソウルにある北韓大学院大学(University of North Korean Studies)の梁茂進(ヤン・ムジン、Yang Moo-Jin)教授はAFPの取材に対し、「金正恩氏のシルバーの西洋式スーツとべっ甲製の眼鏡姿、さらに祖父と父のバッジを着用していないという事実は、自信と安定を表している。金氏が状況を制御していることを示唆する」と述べた。

 米紙ニューヨーク・タイムズ(New York Times)は、金委員長がイタリア高級ブランドの「『アルマーニ(Armani)』を着た銀行員」のように見えたとする釜山大学(Pusan National University)のロバート・ケリー(Robert Kelly)教授の話として、「金氏は北朝鮮を、よりモダンで世間通な国に見せようとしているという臆測が多々出ている」という意見を引用した。

 また韓国政府が資金提供している韓国統一研究院(KINU)は、北朝鮮は「イメージづくりのためなら何でもする」という姿勢の表れではないかと指摘。「以前の黒っぽい人民服から、よりソフトな色合いのグレーの西洋式スーツへの変化は、演説でも強調されていた平和のイメージを打ち出し、核保有国という地位の確立を受けて落ち着いた精神状態を反映させることを狙ったものと考えられる」という見方を示した
。【翻訳編集】 AFPBB News

最終更新:1/3(水) 14:58
<<
共和国のことだから、服装一つにもメッセージを込めているであろうことは想像に難くありません。しかし、残念ながら私には、その意図が図りかねるところです・・・

引用記事中、「金正恩氏のシルバーの西洋式スーツとべっ甲製の眼鏡姿、さらに祖父と父のバッジを着用していないという事実は、自信と安定を表している。金氏が状況を制御していることを示唆する」という表現がありますが、記憶と記録をたどる限り、晩年のキムイルソン同志も、銀色系のスートをお召しになっていました。そう考えると、まだまだ「キムイルソン同志の記憶に頼っている」と言えなくもないかもしれません。

とは言うものの、自信と安定」という見立ては私も同感です。服装のことは分かりませんが、音楽のことなら少しは分かります。

ソ連崩壊以降25年余り、共和国では折に触れて≪사회주의 지키세(社会主義を守ろう)≫が歌われてきました。


しかし、一昨年の≪전진하는 사회주의(前進する社会主義)≫が発表され、続く昨年には≪사회주의 전진가(社会主義前進歌)≫が発表されたのです。


共和国は「音楽政治」の国。音楽をプロパガンダとしてフル活用かる御国柄です。そんな国において、約25年間「守る対象」だった社会主義が、「前進する主体」に変化したわけです。このことは、キムジョンウン同志におかれては、執政に自信を持ち始めたことと捉えてよいのではないかと考えます。

■総括
共和国創建70周年を迎える今年、共和国は変わることなく並進路線すなわち、経済改革の継続が見込まれるところです
posted by s19171107 at 00:11| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年12月31日

チュチェ106(2017)年を振り返る(3)――朝鮮半島情勢をめぐる日本国内の情勢

「チュチェ106(2017)年を振り返る」の第3弾として、「朝鮮半島情勢をめぐる日本国内の情勢」について振り返りたいと思います。今年の漢字が「北」になった点からも明らかなとおり、共和国のミサイル開発・核開発を巡って日本国内が騒然とした一年でした。

■下半期以降、共和国の自衛論理が報じられるようになった
さて、共和国の1年は「新年の辞」に始まります。今年は「ICBM最終段階」発言があった関係上、核実験とミサイル実験が相次いだ一年でした。

このこと自体については、特に7月29日づけ「ICBM発射実験は安保理決議違反だが正当防衛」で述べ尽くしているところです。すなわち、@国連安保理決議は帝国主義勢力の邪なる魂胆を基盤としてできたシロモノではあるものの、それを「不当だから」というだけで破る行為は、帝国主義勢力にとって利益になるだけであり、極力避けるべきである。Aそもそも共和国のミサイル開発は米帝の急迫不正なる直接的脅威に対する正当防衛である。以上より、今回のICBM発射実験は、「安保理決議に違反するが、正当防衛的に違法性は阻却されるので、不法行為ではない」という認識です。正当防衛的な自衛措置の一環というわけです。

このことは、春の時点では「北朝鮮の挑発」という認識で一色だったマスメディアにおいても、下半期以降、少しずつ触れられるようになってきました。たとえば10月8日づけ「共和国の自衛論理が報じられるようになった」では、毎日新聞が共和国の自衛論理を割と正確に報じていることを取り上げました。日本の世論は、「悪者」認定された者の主張を伝えようものなら、その伝達者までをも激しく叩く傾向があります。「悪者」の言い分には一切耳を傾けてはならず、耳を傾けることは「悪者」の肩を持つことになるとされる御国柄で、敵国の主張がそのまま報じられることは異例なことでした。

下半期以降の急転回は、上半期に展開されていた言説があまりにも短絡的だったための「揺り戻し」かもしれません。それだけ上半期に展開された言説は酷かったものです。

■上半期の短絡的・好戦的世論は、平和ボケの証拠
上半期の短絡的・好戦的世論について振り返りましょう。まさに「戦前の朝日新聞」と言わざるを得ない短絡的で好戦的な言説が氾濫し、いまにも「斬首作戦」が発動されるかのような見通しが、まことしやかに流布していたものでした。

4月13日づけ「朝鮮半島情勢を巡る、戦前の朝日新聞のような短絡的論調の「世論」」では、米軍の攻撃が国際経済に与えうるリスクに関する考察も、米軍の兵站の進捗の関する考察も抜きにして「斬首作戦」の開始時期について云々する、途方のない平和ボケっぷりを取り上げました。軍事行動計画が目指す目標がハイレベルであればあるほど考慮すべきケースは爆発的に増加するものです。「危ないかもしれないから今のうちに・・・」といったレベルでは「斬首作戦」に至るはずもありません。

4月26日づけ「大規模砲撃演習を「極めて挑発的な威嚇」と認識できない単細胞な「世論」」では、共和国側は、そんなこと一言も宣言していないにも関わらず、勝手に「4月25日に核実験がある」という「単なる憶測」が、いつの間にか「既定のスケジュール」に摩り替り、それが現実のものにならなかったや否や「ビビった」などと扱き下ろす言説を取り上げました。なぜかは分からないが連合国・連合軍の戦術・戦略を決めてかかった日本軍の戦略的敗北の過程と瓜二つの現象が、戦後72年たって再現したのです。「戦前の朝日新聞」を越えて「ミリオタ気取りの中学生」レベルの認識で国際情勢を語っている、とんでもない実態が明らかになったのです。

また、「キムジョンウンの首さえ狩れば問題は解決する」といったコメントが割りと実しやかに語られたことについて私は、コトは個人の行動によるものではなく体制的に生まれたものであり、システムとして回っているというのが根本的に分かっていないと批判しました。お手本のような観念論的現状認識。やはり、中学生レベルの認識に留まっていると言わざるを得ないものでした。

4月28日づけ「ポプラ事件(板門店事件)が「北朝鮮の完敗」に見える産経新聞の表層的分析――戦略的目標を達成したのは誰だったのか」では、共和国側が「名を捨て実を取った」チュチェ65(1976)年の板門店事件(ポプラ事件)を「北朝鮮の完敗」と位置付けた産経新聞記者の不見識を笑いました。同記事末尾で私は、「中学生程度のメンタルだと「常勝・完勝」でなければ気がすまないものですが、大人の世界ではそんなことは二の次、泥臭かろうと目的を達成することこそが重要」と述べました。

春に展開されたこれら程度の低い諸言説は、まさに現代日本の一般的水準が、甚だしい平和ボケの状態にあることを示す事実です。戦争というものをあまりにも手軽に考えていると言わざるを得ない軽薄な言説が氾濫していました。9月22日づけの記事で述べましたが、ただ漠然と「備えあれば憂いなし」というのであれば、「宇宙人の地球侵略」や「ゴジラの東京上陸」にも対策を打たなければならなくなります。その程度の言説が氾濫していたのでした。

■「丸腰平和主義の面目躍如」と言わざるを得ない平和ボケっぷりを見せた日本共産党
平和ボケつながりで、共和国が置かれている客観的条件を捨象し、ワイドショーと一緒になって「挑発」だのと繰り返していた日本共産党についても是非とも述べておかなければなりません。10月22日づけ「朝米のどちらが真に挑発的なのか」で取り上げたとおり、社民党でさえ正しく理解している国際情勢を、世間の顔色を窺っているのか、歪曲的に認識していたのが日本共産党でした。

8月の弾道ミサイル発射をうけて日本共産党中央委員会は、「米国を含めて国際社会が対話による解決を模索しているもとで、それに逆行する性格をもつ行為であることを、強調しなければならない」などという表現を含めた談話を発表しました。しかし、それを言うのであれば、「元はと言えば、朝米間の緊張状態を作り出しているのは誰なのか、朝鮮戦争休戦協定にある『外国軍の撤退』の定めを無視しているのは誰か」という点について問わねばならないところです。また、祖国解放戦争(朝鮮戦争)停戦以来の歴史的経緯を振り返った時、共和国に「武器を置く」という選択肢はあり得たのでしょうか? 日本共産党は、「累次の国連安保理決議などに違反する暴挙」といいますが、共和国は以前から一貫して、アメリカの急迫不正なる侵略策動に対する正当防衛であると述べてきました。「丸腰平和主義の面目躍如」と言わざるを得ない平和ボケっぷりです。

日本共産党が、いくら「自衛隊を活用する」といった形での現実主義路線を提唱しても、こうも認識がズレているようでは、肝心なところで自衛隊を上手く活用できないのではないかと心配になるところです。

また、記事でも述べたように、ここまで軍事的緊張が高まったタイミングで「緊張緩和のための対話」が展開されるということは、すなわち「軍事力を背景にしてこそ対話は成立する」ことの実例になるにも関わらず、日本共産党は、日本国憲法第9条の活用例であるかの如く位置付けています。ボケ過ぎではないでしょうか?

■総括
右も左も真ん中も、みんな揃って平和ボケ。朝鮮半島情勢をめぐる日本国内の情勢から明らかになったのは、とんでもなくボケボケな平和国家・日本の姿でした
posted by s19171107 at 22:09| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

チュチェ106(2017)年を振り返る(2)――各種ルールと自主性・多様性の問題

「チュチェ106(2017)年を振り返る」の第2弾として、「各種ルールと自主性・多様性の問題」について振り返りたいと思います。

私が掲げている「自主」とは、「一人ひとりの生身の人間の多様な事情にあわせて、その人自身が自らの運命の主人になる」という視点で物事を思考・判断する立場です。「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」というチュチェ思想の根本原理に基づくものです。

ところで、人々が自主化を志向して行動し始めれば、既存の制度や仕組み、システム等との調整が必然的に発生します。自主化とはすなわち変革のプロセスであります。

■各種ルールと自主性・多様性をどう調整するのか――自主性・多様性と無政府状態は根本的に異なる
自主化は一人ひとりの人間の運命開拓の営みであると同時に、社会集団の内部で展開される営みです。個人は社会集団から隔絶された存在ではなく、社会集団の構成要素です。チュチェ思想は、個人と集団の関係を調整するにあたって「集団主義」という概念を導入します。集団主義原則を具体化するにあたって私は、「各種ルールと自主性・多様性の問題」について取り組まなければならないと考えているところです。その観点から今年、私は、5月6日づけ「「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために」を発表しました。

タイトルが問題意識を示しています。自主化を果たすことは止めることのできない正当なことでありながらも、それが「何でもあり」に転落することは避けるべきです。集団主義を具体化する必要があります。

記事中でも述べた通り、「こんなのは不当であり、合理性はない」と思えたからといって、皆がそれを行動計画の前提的枠組みとして活用しているルールを勝手に破ってはいけません。それは「多様性」という言葉では正当化されないのです。多様性は一定の枠組みがあって初めて成り立つものであり、枠組みのない「無政府状態」とは根本的に異なるものです。

■ルール破りを安易に認めることは悪人を利するだけ
もちろん、正当防衛や緊急避難が成立するようなケースでの自己判断は認められるべきものです。これは当然のことです。しかし、それはあくまでも例外的ケース。5月6日づけ記事では、正当防衛的なルール破りを根拠にそれ以外の一般的規制を議論を展開する言説を批判しました。このような言説が罷り通るならば、およそあらゆるルールは「自己判断」を理由に破ってもよいことになり、あっという間に「無政府状態」に陥ることでしょう。

すこし話のスケールが大きくなってしまいますが、7月29日づけ「ICBM発射実験は安保理決議違反だが正当防衛」において私は、朝鮮民主主義人民共和国の国連安保理決議に疑いの余地なく正面から違反する行為としてのICBM発射を擁護したいならば、「安保理決議は不当、ICBM発射は独立国家の自由だから従う必要はない」という論法を立ててはならないと述べました(ちなみに、共和国政府はこのような論法を採用してはいません)。というのも、資本とその代弁人たる帝国主義列強諸国が、「自由」の概念を最大限に悪用している現実に照らせば、各種のルールを「自己判断」で破る行為を前例として歴史に残したり、あるいは成文法的に認めることで一番喜ぶのは、ほかでもない帝国主義者たちだからです。

「こんなのは不当であり、合理性はない」というルール破りの理屈を正当防衛・緊急避難以外に認め始めることは、「本当の悪人」たちを利するだけであり、善良な市民のささやかなる自主化・多様化の実現とは全く異なる方向に話が進みかねないのです。

集団主義は文字通りの意味において、集団の秩序を重視すべき立場です。集団主義を基礎とする社会主義朝鮮ではよく「社会主義順法精神」が訴えられますが、ルールを尊重する立場を貫かなければなりません

■社会的議論こそが正攻法
「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないためには、不合理であってもルールはルールであるとしたうえで、「だからこそルールを変えるんだ!」という正攻法で立ち向かうべきであります。多様性は一定のルールがあってこそのものであり、ルールなき「多様性」は無政府状態に過ぎません。そして、「このルールはおかしい」という合理的思考は尊重すべきですが、「だから破っても良い」には必ずしも直結しません。繰り返しになりますが、「既存の価値観の打破」が「なんでもあり」に転落しないためには、「あくまでもルールを守る、正当防衛的緊急事態を除いて、非合理的なルールだとしても自己判断で勝手に破らない」という大原則をあくまで守るべきなのです。

その点、つい先日入ってきた次のニュースを、私は全面的に支持するものです。5月6日づけ記事でも「「漸進主義としての保守主義」の観点は、ルールの改変に当たって持つべき心構えです。社会的議論は漸進主義的なプロセスの踏み方です。」と述べたとおりです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171215-00000000-resemom-life
>> そのルールは必要ですか?「ブラック校則をなくそう!」プロジェクト発足
2017/12/15(金) 12:15配信
リセマム

そのルールは必要ですか?「ブラック校則をなくそう!」プロジェクト発足

 地毛を強制的に黒髪に染髪させるなどの学校現場のルールを、一般社会から見れば明らかにおかしい「ブラック校則」と定義し、その改善を目指すプロジェクトが立ち上がった。公式Webサイトでは賛同者の署名活動を行っている。
(以下略) <<
■社会的議論は決して万能ではない――漸進主義としての保守主義の導入
社会的議論は、漸進主義の立場に立てばこそ慎重に運用しなければならないものです。そうした観点から発表したのが、7月11日づけ「「新しい」ものの魔力」でした。「ポリアモリー」なる「新しい家族の形態」を取り上げた記事です。

この中で私は、「時代は変わる、常識も変わる」ということを認めたうえで、だからこそ、その変化の荒波のなかにあっても「変わってこなかった常識・観念・思考・言説」は、何世代にもわたる「長期的な実践的社会実験」に耐えてきたという点において、超時代的な強固な基盤があると言えるのではないかと述べました。そして、一世代の範囲での実証も中途半端な「短期的な社会実験」の中には、単なる「素人の思いつき」の枠を超えていないケースも含まれているのではないか、素人考えの結果、「予想していなかった分野・局面での不都合な事態」を招かないだろうかと問題提起しました。

その上で私は、「1対1のパートナー関係がデフォルトでありつづけている意味」について、珍しくマジメな内容のヤフコメを取り上げて考察しました。子どもたちに与える影響、本人たち以外の家族・親類の受け止め方――そうした諸問題に対してポリアモリー支持者・実践者たちは、キチンとカウンターを用意しているのかという疑問が上がりました。

個人的には、多角的な検討の上でポリアモリーを実践しているわけではなく、狭い視野と想定の範囲での実践に見えます。たしかに、パートナー間での合意が取れているので「信頼に対する裏切り行為としての不倫」には当てはまらず、その点に限っては問題は生じ得ないものの、「子どもたちに与える影響」という点においては、まさしく「予想していなかった分野・局面での不都合な事態」のリスクに直面しているように思えるところです。

「新しいモノ」の正しさを実証するという営みは元来、即断できない性質のものです。今後の展開を注視しなければならないと結んでいるとおりです。

彼・彼女らがそのリスクを最後まで背負うというのであれば、第三者がとやかく言うことではないのかもしれません。しかし、こういった中途半端なシロモノを「新しいスタイル」として報じることは、また別の問題です。内実や展開がはっきりしないものを肯定的に位置づけて他人に知らせるというのは、「無責任な煽り」になるからです。

内実がはっきりしないのに、「新しい」や、あるいは「多様性」といった語句をつけれてさえいれば何だか正しそうな「空気」を作ってはなりません。もともと、現代人は「新しいモノ」に惹かれる傾向がありますが、「新しいモノ」は即断的には評価できない性質があります。予想していなかった分野・局面での不都合な事態がいつ表面化するか誰にも分からないのです。「『新しいモノ』の魔力」には十分に注意しなければなりません

だからこそ私は以前から繰り返しているように、遠大な理想像を描きながら、実践においては一つ一つロールバックできる程度の小改善を繰り返す「漸進主義」を提唱しているのです。バカの浅慮が急進主義的に実践されることによって不可逆的・破滅的結果になることを防ぎつつも、「石橋を叩き壊して橋を架けなおす」ような臆病に陥ることをも防ぐわけです。

社会的議論についても、「ロールバックできる程度の小改善を繰り返す」という意味での漸進主義の立場から推進すべきなのです

■一見して「自己判断のルール破り」でも「ルールに従っている」というケース――ルールをnomosとthesisに分ける
ところで、私は以前からF.A.ハイエクの著作研究に注力してきました。ハイエクの言説は、当ブログ執筆にあたってのベースの一つです。

ハイエクは、ルールをnomos(ノモス)とthesis(テシス)に分類します。nomosは、社会の中で自生的に生成、発展してきたルール(自生的秩序)であり、thesisは権力的に制定された命令の形をとる組織規則としてのルールです。ルールは、自生的に生成、発展してきたものと、権力的に制定されたものに分けられるというわけです。

thesisは「成文法」といってしまってよいと思いますが、nomosについては実例を含めて解説を加えた方がよいでしょう。nomosの実例としてハイエクは、伝統や習慣などを挙げます。これらは誰かが意識的に創作・制定したものではなく、何世代にも渡って沢山の人々が形成してきたルールです。

たとえば、言語は、伝統や習慣などと同様の経緯で生成・発展してきたルールである点、nomosの性質を持っていると言えるでしょう。誰かが言語を発明したわけではないし、文法や語法、語句の意味は、人々の間で自然と形作られてきたルールです。たしかに、国民国家においては言語の整備を管轄する行政機関が存在しますが、まったく新しい文法や語法、語句の意味を創作・創造しているわけではなく、巷で出回っている文法や語法、語句の意味の「交通整理」をするに留まっています。

いま「交通整理」という言葉を使いましたが、交通ルールにもこうしたnomos的な側面が大いにあると考えられます。道路交通法はthesisですが、交通ルールには法律としては制定されていない慣習的なルールが多数存在しています。たとえば、パッシングやハザードランプでメッセージを伝えることは、法定の正式なルールではありませんが定着しています。また、法律に従えば、規制速度は表示通りに遵守すべきものですが、実際の交通の流れ次第では逆に規制を越えた速度を出すことが求められる場面もあるものです。さらに、地域によっては、交差点では「右折優先」というコンセンサスが成立しているケースがあります。どうやら、法律通りに左折・直進車を優先させていると右折車はいつまでたっても右折できないので、自然発生的に「右折優先」になったようです(「なったようです」ってところが、いかにも自然発生的ですね)。

「規制速度超過」や「右折優先」などというのは、法律の規定に照らせば、「自己判断のルール破り」以外の何物でもありません。しかし、ルールをnomosとthesisに分類する観点から考察すれば、「規制速度超過」や「右折優先」というコンセンサスが自生的秩序として成立し、皆がそれに従っている点において、既にこれ自体がnomos的な意味でルール化されているのです。「自己判断のルール破り」どころか、「ルールに従っている」ということになるのです。

■thesisはnomosから大きな影響を受けている
thesisがnomosから大きな影響を受けているという点を見逃してはなりません。

具体的な紛争に成文法を当てはめるにあたっては解釈が必要になりますが、解釈には常識や慣習、伝統からの影響が入り込むものです。前述の交通ルールについて述べれば、「右折優先」は警察の取り締まり対象になっているそうですが、「規制速度超過」は、敢えて超過した方が交通ルールの目的;「円滑で安全な交通の実現」に沿うケースがあります。そうしたケースにおいては、thesisを操る権力側からも黙認・容認されるのです。権力的な取り締まりを受けず、有効な社会秩序として作用するのです。

また、まったく何もないところから急に成文法が出てくるわけがなく、立法過程では常識や慣習、伝統からの影響があるものです。

■総括
このことは、ルールを考える上で極めて重要なことです。@thesisの観点からはルール違反だが、nomosの観点からはルールには違反していない行為の存在。Aまったくの自己判断と、成文法的ルールとの間に自生的秩序があること。そしてまた、Bどこまでが「まったくの自己判断」になり、どこからがnomos的な意味でのルールに従っていると言えるのか――私はハイエクの法哲学を学んでいる真っ最中ですが、伝統や慣習などの役割にスポットを当てる彼の法思想は、本当に興味深いフロンティアであると日々実感しているところです。

来年は、以下の観点から更に考察を掘り下げてゆく予定です。
@ルールを守ることを重視する立場、そして漸進主義の立場から、私は、不合理なルールを改めるためにこそ社会的議論を大いに展開すべきであるという立場に立ちます。
Aまた、ルールをnomosとthesisに分けた上で、thesisには反しているがnomosには合致している自生的秩序の存在を認める立場に立ちます。
Bどんな行為が「まったくの自己判断」に留まるものであり、どんな行為がnomos的な意味でのルールに従っていると言えるのか見極めつつ考察します。
Cそして、nomosが如何にしてthesisに影響を及ぼしているのかを考察します。
ラベル: 社会 法律
posted by s19171107 at 22:09| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

チュチェ106(2017)年を振り返る(1)――労働者階級の自主権の問題としての労働問題について

チュチェ106(2017)年も昨年同様に、過去ログの読み返しを通して一年間の出来事を振り返りたいと思います。

振り返れば今年は、昨年に引き続き「自主権の問題」について考察を継続してきた一年でした。その第1弾として、「労働者階級の自主権の問題としての労働問題」について最初に振り返りたいと思います。

■「働き方改革」を巡って――生産問題・経済問題としての観点がまだ不足している
今年は「働き方改革」が声高に叫ばれ、労働環境・労働問題に対する社会的注目が高い一年でしたが、そこで展開されていた言説は必ずしも労働者階級の自主化に資するものばかりではありませんでした

1月25日づけ「「働き方改革」「残業規制」は相対的剰余価値搾取の時代の入口」において私は、「残業規制」の効果は、マルクス経済学で言うところの「労働時間の際限の無い延長による『絶対的剰余価値』の搾取」の時代から「労働密度の強化によって単位時間当たりの労働生産性の向上を目指す『相対的剰余価値』の搾取」の時代を切り開くことに繋がりかねないと指摘しました。

その上で私は、「ブラック企業被害対策弁護団」代表である佐々木亮弁護士の指摘を批判的に取り上げました。佐々木弁護士も自民党政府主導の「残業規制」への警戒を訴えている点では私と同意見であるものの、この新たな法規制が機能するよう、行政がしっかり動けるように、労働基準監督官の純増が必要」という方法論を掲げた点を、私は批判しました。

労働基準監督官は、絶対的剰余価値の搾取については取り締まり易いものの、相対的剰余価値の搾取を取り締まることは困難であると見るべきです。相対的剰余価値の搾取というものは、マルクスが『資本論』で言及しているように、客観的指標に基づいた知覚がし難く、それゆえ権力的にも取り締まり難いと考えられるのです。相対的剰余価値の搾取が主体となる時代においては、労基的取り締まりは一層、困難になることでしょう

「働き方改革」や「残業規制」が、かくも大きな危険性を持っているにも関わらず、そこへの警戒があまりにも弱いのが、今年展開されてきた「働き方改革」の諸言説だったのです。労働運動界隈でさえも、このことについて、しっかりと理解できているようには見えない危機的状況だったのです。今後の「働き方改革」を巡る「労働者側」の対応の行方を心配させるものです。

また、上掲記事で私は、「産業への要素投入は、経営判断だけではなく生産方法・生産技術的に規定されているケースもあります」とし、長時間労働の代名詞的存在であるソフトウェア開発業における「ブルックスの法則」に言及しました。

ブルックスの法則とは、フレデリック・ブルックスという著名なソフトウェア工学者・開発技術者が自身のソフトウェア開発経験をもとに提唱しているものですが、知識集約的労働に共通する法則的現象であると考えられます。「常識」とは全く異なり、人員の追加投入は労働時間短縮には資さないどころか、逆効果になるというのです(詳細は、2月14日づけ「増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす――「働き方改革」の逆効果」でさらに掘り下げて検討しましたので、ご参照ください)。

長時間労働問題の解消を試みるのであれば、「生産に必要な労働量は、経営判断だけではなく生産方法・生産技術によっても規定され得る」「人員を増やせば解決するわけではないケースもある」という論点をも踏まえて考えなければなりません。決して避けては通れない論点であるにも関わらず、「労働者側」を自称する労働運動界隈の人々からこうした指摘を見ることは稀です。馬鹿の一つ覚えのように「人員増」を繰り返します(おそらく彼らは、「足りないなら増やせばいい」などという子供でも思いつくような素人的発想から脱しきれていないか、あるいは、『資本論』が前提としている労働集約的な産業資本主義的工場労働の枠組みから脱しきれていないかの何れかでしょう)。

むしろ、8月15日づけ「「人に仕事をつける」日本の働き方は「ブルックスの法則」が作用し易い」でも取り上げたとおり、「日本は、仕事に人を付けるのではなく、人に仕事をつける。だからワークシェアもやりにくい。1人が仕事を抱え込む傾向がある」とインタビューに答えた福井県経営者協会専務理事(企業側)の方が、この事実を正しく認識しているわけです。

労働問題は、生産の問題であり経済の問題であるのだから、単なる人権問題・法律問題としてのみ捉えるようでは誤り・失敗は免れ得ません。相対的剰余価値の搾取の問題、ブルックスの法則を筆頭とする生産方法・生産技術の問題にも注目する必要があります。このこともまた、今後の「働き方改革」を巡る「労働者側」の対応の行方を心配させるものです。

もちろん、次項のとおり、まったく欠落しているわけではありません。少しずつ広まりつつあります。

■ブラック企業問題を単なる労使問題としてではなく経済構造の問題として捉える見方が育ち始めた
さて、当ブログでは、労働者階級の自主化について、@自由化とA民主化に段階分けした「二段階革命論」を以前から提唱してきました。昨年も年始からSMAP解散問題と結びつけて論じてきましたが、今年もその路線を継承しました。

「二段階革命論」を簡単に言うと、取引先の多角化によって特定企業への依存を下げることによって相対的な自立度を高める「自由化」を第一段階とし、経営への関与を強める(自主管理・協同経営化)「民主化」を第二段階とする路線です。

この路線を下敷きとして私は、8月17日づけ「ブラック企業問題は社会経済総体の問題であり、自主管理化の道こそが解決策」を発表しました。厚生労働省が公開した「ブラック企業リスト」にリストアップされている企業の多くが中小企業だった事実、大手企業との「主従関係は絶対」 であるという事実から出発した論考記事を取り上げました。「大手企業と下請け中小企業の主従関係。「しわ寄せブラック」はある意味、大手企業が下請け企業を支配するという垂直統合を得意としてきた日本の産業構造が生み落とした陰の部分とも言えそうです」という極めて重要な構造的事実を正確に抉った記事が、ようやく出てくるようになってきたのです。

「主従関係」は「自主」とは対極をなす構造です。ブラック企業問題の根底に「下請け構造」=企業間における主従の関係性があるとするのであれば、その解決の道筋はまさしく自主化です。その点において、大企業と中小企業との間の垂直的構造、そしてそこで発生する「しわ寄せブラック」の問題は、そのまま自主の問題になるのです。

このことは、マルクス主義の世界では当然すぎることですが、中途半端な労働屋たちにはどうしても理解できないようで、連中は労組運動を単純な「労使階級闘争物語」の枠内に押しとどめてきました。そうした状況が漸く打開される見込みが出てきたのです。

もっとも、記事中でも論じたように、「しわ寄せブラック」の問題を解決するために「下請けGメン」を活用すべきだという方法論は、まさに下請け構造があるからこそ見込みが薄いと言わざるを得ないということ、そしてまた、大企業もまた資本主義的な「競争の強制法則」に直面している点において、これを悪役として槍玉に挙げるような方法論は誤りであるとも述べました。

大企業と中小企業の垂直的構造の中においては、中小企業側が大企業側の不当な要求を逐次通報するという展開は、現実味が薄いと言わざるを得ません。よって中小企業が自主化するためには、取引先の多角化によって、特定の大企業に依存せざるを得ない弱い立ち位置から脱する他ありません。また、大企業も「競争の強制法則」に直面している点において、大企業叩きではなく社会経済総体を自主管理志向で変革するしかないのです。

依然として是正策に不備があると言わざるを得ない状況であるものの、「大企業と中小企業との間に存在する主従関係」という経構造上の事実をブラック企業問題の背景として取り上げた視点は画期的でした。

「企業問題を深堀すればするほど、その根本的解決には、自主管理化の道しかない」――こう私は記事を結びましたが、改めて強調したいと思います。

■労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利――ゼンショー社で「勤務間インターバル規制」が実験的導入
労働運動の成果について、2つの事例を取り上げたいと思います。

3月14日づけ「労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利――ゼンショー社で「勤務間インターバル規制」が実験的導入」は、自主化を目指す労働者階級にとって吉報でした。労働市場における空前の人手不足を背景に、かつて「ワンオペ」で大きな社会的非難を浴びた「すき家」のゼンショー社が、実験的導入とは言うものの先進的な「勤務間インターバル規制」を導入する運びになったのです。

労働者が勤め先に対して自主的な立場を獲得・維持するためには、常に「辞める」という選択肢を留保しておくべきだと述べてきました。「辞める」という選択肢が無い状態においては、仮に労使交渉によって権利を獲得したとしても、それは同時に勤め先への結びつきを強めることでもあります。企業側は「巻き返し」を虎視眈々と狙い、いったん「好待遇」を提示することで囲い込み、後々になってから労働需要独占者としての立場を利用して買い叩いてくるかもしれません。他方、「辞める」という選択肢がある状態で企業側から譲歩を勝ち取ったケースにおいては、企業側が「巻き返し」を図ろうものなら、労働者はすぐに逃げ出すことでしょう。合理的な商売人であれば、「金のなる木」を逃がさない程度に搾取することでしょう。

労働市場における空前の人手不足;超売り手市場という社会経済的な状況は、すなわち、労働者階級には「辞める」という選択肢がある状況です。こうした状況下において要求活動を展開することは、企業側への依存度を上げずに要求を呑ませるという点において、労働組合が本来的に行うべき要求活動です。ゼンショー社の労働組合は上手くやったと思います。

他方、記事でも強調したとおり、今回の勝利は「ワンオペ」が中止に追い込まれたときと同様に、「粘り強い組合運動」に対して企業側が譲歩したというよりも、空前の人手不足に企業側が反応・対応した結果であるということを認識し誤ってはなりません。「ワンオペ」のときも、労働組合の改善要求に企業側が折れたのではなく、ワンオペの悪評が労働市場に広まりアルバイトの応募が激減したことが決定打でした。

このことを認識し誤り、労働市場が買い手市場になるような不況下でも同じ調子で要求活動を展開すると、今度は逆に企業側に足許を見られることになるでしょう。あるいは、人余りの不況下で幾ら大声を上げようとも、そもそも「不要な労働力」である以上は企業側には応対する利益が無いので、無視されるかもしれません。

とはいえ、勘違いしてはならないものの、空前の労働市場の活況を有効活用できたゼンショー社の労働組合は、一つのモデルをデザインしたと言ってもよい大慶事でした。

■「危険な油断」と「禁欲的闘争への妙な自信」に繋がりかねない「シュレッダー係事件」の電撃和解
他方、5月24日づけ「「危険な油断」と「禁欲的闘争への妙な自信」に繋がりかねない「シュレッダー係事件」の電撃和解」で取り上げた、「アリさん引越社」と「シュレッダー係」の電撃和解は、和解したことはよかったものの、このことが「危険な油断」と「禁欲的闘争への妙な自信」に繋がりかねない点において、諸手を挙げて歓迎できない結末を迎えました。ゼンショー社の一件は大勝利といってもよかった一方で、シュレッダー係氏が和解を勝ち取ったことは、「勝った」といってよいのか難しいところです。

紛争期間中の「アリさん引越社」側担当者のヤクザ顔負けの恫喝や、紛争を通じて白日の下にさらされた真っ黒な労務管理の実態は、ブラック企業が跋扈する昨今の中でも特に酷い・・・というよりも「雑」という感想を禁じ得ないシロモノでした。「ふつう」のブラック企業であれば、もう少しスマートな方法を採るものでしょう。

おそらくあの「電撃和解」に会社側が踏み出した動機は、昨今の労働市場における著しい人手不足の影響を受けてのことだと思われます。これ以上、ブラック企業の悪評が立てば、人員募集に対する応募者が減ってしまうので、それを避けるためにお抱えの弁護士か社労士、あるいはコンサルタント業者あたりに入れ知恵されて、象徴的な本件において「ソフト路線化のフリ」を打ち出しているに過ぎないと考えられます。

あのようなヤクザそのものと言っても過言ではないような恫喝を平気で展開してくるような手合いが、裁判官の和解勧告ごときで心を入れ替えるはずもなく、今も尚、巻き返しを虎視眈々と狙っていると見た方が自然です。ブラック経営者・資本家の改心に期待しているのであれば、労組としては余りにも甘い。その意味では「営業職への復帰」は罠であると見た方が無難。「雑なブラック企業」から、「少しスマートなブラック企業」になっただけと見るべきであり、「大勝利的な和解だ」などと、はしゃいでいる場合ではないのです。

さらに言えば、和解を「勝ち取った」とはいえ、今回の紛争のさなか、原告男性は「自分にとって、仕事は達成感や社会貢献が含まれるが、今はお金を稼ぐだけの労働だ。ほとんど無の境地でシュレッダーをやってい(た)」と正直な心境を吐露していました。ここまで大きな犠牲を払う闘争は、クライアントの利益を最優先する立場にとっては方法論的に最悪の部類というべきものです。

今回の原告男性は、これでもよかったのかもしれません。しかし、これを「ブラック企業との闘争の成功例」などと位置付けようものなら、「ブラック企業を相手にするということは、こんなにも苦労しなければならず、また、それでもまだ『巻き返される』リスクが完全には摘み取りきられていない」という点において、一般人にとって労働運動は魅力的なものとは映り得ないでしょう。もっとスマートな闘い方がなければ、「ちょっと闘ってみようかな」とは思えないでしょう。

禁欲的主義的労組活動家が、今回の電撃和解をうけて妙な自信を持たないか懸念せざるを得ない一幕でした。

■労組が個別労働者から取捨選択されるようになった時代
7月19日づけ「労組が個別労働者から取捨選択されるようになった時代、あるいは単なる労働界の内ゲバ」では、高度プロフェッショナル制度の条件付き容認を巡って日本労働組合総連合会(連合)が労働者からデモられる事態について取り上げました。ぶっちゃけこの件は、より少数派たる左派系運動家たちによる「内ゲバ」の様相を呈しているものの、労組が労働者からデモられているという事実には変わりありません

「労組が『労働貴族の荘園』と化さないためには、労組もまた個別労働者のチェックをうけなければならず、役に立たない労組は淘汰されなければならない」「『労組も所詮は欲のある人間の組織』という現実的な認識に立ち、労組に対して警戒を持って、自主的・取捨選択的に対応しなければならない」――これは私の従前からの基本的主張でしたが、本件がその嚆矢たればよいことです。

■総括
「空前の人手不足」と「働き方改革の掛け声」が、今年の労働問題の動向を規定した2つの主要因でした。ゼンショー社での「勤務間インターバル規制」の実験的導入は、この2要因を上手く階級的に活用できた偉大なモデルでした。その意味で、チュチェ106(2017)年の労働運動は前進の一年だったと言えます。

ブラック企業問題を単なる労使問題としてではなく経済構造の問題として捉える見方が育ち始めた点、労組が個別労働者から取捨選択されるようになった点なども、労働運動を展開する上での認識が前進したという意味で吉報でした。

他方、「働き方改革」を巡る著名な労働屋の見解や対応を見るに、相対的剰余価値を搾取する時代が目前まで迫っているにも関わらず、それに対する理論的備えがまったく見られなかったり、「アリさん引越社」の電撃和解を「大勝利」などと無邪気にはしゃいでいる等、心配にさせられる事案もありました。

私自身は、トータルで「若干の前進」になったのが本年の労働運動の展開であったと見ています。来年も「人手不足」は続くと見込まれています。この状況をいかに有利に活用できるか、そしてまた、景気動向に関わらず自主化を目指しうるプランを立てられるかという点について、来年も継続的に考察を展開したいと考えています。

具体的には、次の4つの記事で展開した認識をベースにする予定です。

第一が1月29日づけ「「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」――フリーランス協会の行く手について」で述べた認識。システムとしての市場経済で自主化を達成するために、需給双方は、「市場における契約交渉」の原則に忠実に、お互いに相手の事情を汲みながら主体的立場にも立って相互牽制的に交渉を展開し、時に袂を分かつべきです。

他方、従来型の要求運動型の労働組合活動において活動家たちは、階級二分法的発想で行動しています。「主体的立場」を鮮明にする点においてはよいものの「需給双方の協調」に欠けた言動・プランが目立ち、それどころか、システム的な大局観に立っていないために、逆に労働者としての利益をも損ねかねない「素人考え」が見え隠れしています。とても全面的な支持をすることはできないのです。

「システムとしての市場経済」という現実から出発しなければなりません。売り手と買い手は、時に利益が相反するケースはあるものの「呉越同舟」の関係。大きく捉えて「全体として渾然一体」な関係にある「システムの構成要素同士」であることには変わりないのです。

第二が、3月14日づけ「労働市場を活用した労働者階級の偉大な勝利――ゼンショー社で「勤務間インターバル規制」が実験的導入」で述べた認識。「辞める」という選択肢を留保した状態での要求活動を展開することは、企業側への依存度を上げずに要求を呑ませるという点において、労働組合が本来的に行うべき要求活動であるという認識です。

また、今回の勝利は「ワンオペ」が中止に追い込まれたときと同様に、「粘り強い組合運動」に対して企業側が譲歩したというよりも、空前の人手不足に企業側が反応・対応した結果であるということを認識し誤ってはならないということ

第三が、12月26日づけ「商行為の一環としてのストライキ――自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは展開すべきだが、その労働者の利益にとっての弊害についても認識すべき」において展開した認識です。

労働者は、自身の労働力を切り売りしている点において「労働市場における商売人」なのだから、ストライキは、労働者の人間としての権利(人権)である以前に市場取引における商売人としての合理的行為であり、その経済的作用は、市場メカニズムの働きを実現させるものであると言えるという認識です。ストライキの本質は、経済学的に解析すれば、「受け手と買い手の取引交渉失敗による取引停止・操業停止」に過ぎないわけです。

他方、ストライキ等による要求実現は、企業側・資本家側との利益共同体に参画することを意味します。本来、労働者階級が自らの立場を強化するためには、企業側・資本家側への依存から脱却して自立的になるべきなのに、要求を勝ち取って行けば行くほどに、むしろ企業側・資本家側との結びつきが強化されてしまう点において、逆効果があることも肝に銘じるべきです(これが戦闘的組合の御用組合化の実態です)。労働者階級の自立・自主管理の推進のためには、ストライキに留まっていてはならないわけです。資本家からの自立と生産を自主管理を目指すべきなのです。

さらに第四として、8月17日づけ「ブラック企業問題は社会経済総体の問題であり、自主管理化の道こそが解決策」で展開した自主管理化路線を、社会主義理論と結びつけて深化させてゆく方針です。
posted by s19171107 at 22:08| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年12月26日

商行為の一環としてのストライキ――自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは展開すべきだが、その労働者の利益にとっての弊害についても認識すべき

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171225-00000001-nagasaki-l42
>> 九州商船 全便ストライキに突入 長崎ー五島列島年末年始へ混乱必至 旅客船巡るストは全国でも異例
12/25(月) 7:56配信
長崎新聞

 九州商船(長崎市、美根晴幸社長)の船員112人が加盟する全日本海員組合長崎支部(松本順一支部長)は25日、長崎、佐世保と五島列島を結ぶ全便・無期限のストライキに突入した。旅客船を巡るストは全国的に珍しい。年末年始の繁忙期に及べば、帰省客や物流に影響し混乱は必至だ。

 長崎県によると、五島列島発着便の輸送人員で九商のシェアは約6割に上る。このうち長崎―福江は独占状態だ。全便止まれば一日約2千人の足に影響し、物流も滞る。五島産業汽船(新上五島町)はストの間、長崎―福江3往復6便などを臨時運航するが、どこまでカバーできるか見通せない。

 組合は、九商がジェットフォイル整備員の採用形態を船員から陸上従業員に変えた「陸上化」に反発。撤回しない限りストに入る方針を示していた。一方、九商の美根社長は、陸上化は経費削減や船員不足への対応に必要として「撤回する考えはない」としていた。


(以下略) <<
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171225-00000081-mai-bus_all
>> <九州商船>スト解除 26日は一部除き通常運航
12/25(月) 20:19配信
毎日新聞

 長崎県の本土から五島列島への離島便を運航する九州商船(長崎市)の船員112人が加盟する全日本海員組合は25日、会社側の合理化策に反発し、始発便から無期限ストライキに突入した。全32便が欠航となったが、会社側が同日、合理化策を白紙撤回したことから、組合側はストを解除し、26日は一部を除いて通常運航される。


(以下略) <<
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171226-00000003-nagasaki-l42
>> 九州商船スト2000人に影響 26日から平常運航
12/26(火) 9:45配信
長崎新聞

 九州商船(長崎市、美根晴幸社長)の船員112人が加盟する全日本海員組合長崎支部(松本順一支部長)は25日、長崎、佐世保と五島列島を結ぶ全32便でストライキを実施し、約2千人に影響した。組合は同日午後、九商が要求事項を受け入れたためスト解除を決定。26日から定期運航が再開する。年末年始に及べば帰省客や物流の混乱は必至だったが、最悪の事態は免れた。

 組合は、九商が経費削減などを理由にジェットフォイル整備員の採用形態を船員から陸上従業員に変え、加入組合も企業内組合に決めたため「海員組合の弱体化を進めている」と反発。組合は陸上従業員の海員組合加入を認めることや誠実な団体交渉を求めて対立してきたが、最後は九商が組合の要求をのんだという。


(中略)

代替手段が限られる離島航路がストで止まるのは九州運輸局が「聞いたことがない」という異例の事態だった。

 九商と組合はそれぞれ長崎市で記者会見。九商の大内田義一専務は「これ以上、ストを長引かせて利用者に迷惑は掛けられない。組合に譲歩せざるを得なかった」、組合の松本支部長も「利用者に迷惑を掛けた。ストは最終手段だったが、早く回避できてよかった」と語った。

最終更新:12/26(火) 9:45
長崎新聞
<<
長崎新聞記事に対するNPO法人POSSE代表の今野晴貴氏のコメントも引用します。
>> ストライキはなぜ許されるのだろうか? 法律では、労働組合の正当な行為(ストを含む)に関しては、刑事的、民事的に「免責」されることになっている。つまり、本来業務妨害などの刑事罰が与えられるところ、それは免責される。また、ストによって生じた損害が何億、何百億だろうと、すべて免責されるということだ。それだけ、労働組合は強い権利を持っている。
労働組合にそれだけ特別な力が与えられている理由は、そもそも労働側が市場で不利だからである。原則として、市民社会において私人間(会社と労働者を含む)は、対等・平等が原則だ。だが、その原則を労働市場にそのまま適用すると、組織規模が大きい会社側が、圧倒的に有利になる。そこで、対等・平等の「実質」を保障するために、労働法は労働側が有利になる権利を付与している。
したがって、法的には、これは「特権」ではなく、対等・平等を最低限保障するものに過ぎないのだ。
<<
■市場経済における商行為の一環としてのストライキの効用(1)――市場メカニズムは企業側の横暴への歯止めになる
このご時勢のストライキですから、組合側も相当な苦悩の末に下した決断だったものと推察します。後述のとおり私は、自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは大いに展開すべきであると考えています。

さて、「ストライキ」だの「労働者の権利」だのと言われると、なんだか「アカい」感じがし、それゆえに反感・反発を覚える人も決して少なくないものと思われます。しかし、「色」の問題はさて置き、economics(非マルクス主義的な経済学、特にミクロ経済学)の観点から考察すれば、今野氏が正しく指摘している「実質的な労使間の対等・平等を保障するための免責」に裏打ちされたストライキの経済的作用は、市場メカニズムの働きを実現させるものと言えます。その点においてストライキという行為は、当事者や自称「支援」者の狙い・魂胆はさておき、自由な市場経済システムに親和的な行動であるとさえ言えます。

最も初歩的なミクロ経済学の理論である、競争的市場経済に関する部分均衡分析――消費者にとっての支払い上限価格を示す「需要曲線」と生産者にとっての販売下限価格を示す「供給曲線」で構成されている、中学生でも知っているアレ――においては、対等な関係性にある消費者と生産者との間での交渉妥結点(均衡点)において商品の取引価格と取引数量が決まるとされますが、生産者にとっての供給曲線は、本質において限界費用(Marginal cost)曲線です(単純化のために短期−長期の問題は捨象します)。これはすなわち、資本主義的・市場経済的な商売人(民間営利企業)は、入ってくる収入と持ち出しになる費用を比較して生産計画を立案しているわけです。商売は慈善活動・ボランティア活動ではないのだから、至極当然のことでしょう。

労働者は、自身の労働力を切り売りしている点において、「労働市場における商売人」であると言えます。労働者もまた商売人である以上は、慈善活動・ボランティア活動で働いているわけではないのだから、いくら労働契約を結んでいるからといって、いつでもどんな場合でも自身の労働力を販売するわけには行かないものです。

今野氏が正しく指摘しているように、事実として労働者は企業に対して不利な立場にあるわけです。現実の労働市場を「生産手段の所有の有無」という観点から考察すれば、労働供給(労働者)側のプレイヤー数に対して労働需要(企業・資本家)側は相当に少数派である点、労働市場は需要寡占状態であると言うべきだからです。また、市民法的秩序の枠内においては、労働者は「契約上取り決められた一定時間内は『使い放題』の労働力」である以上は、労働者は、牛馬のように使役されても「違法」ではありません。もちろん、それを看過するわけには行きません。それゆえ、ストライキを筆頭とする労働争議行為は、通常の市場取引であれば「債務不履行」として訴えられても文句は言えない「契約違反」であるものの、例外的に免責が認められているのです。労働市場における商売人には、市民法的秩序では認められ得ないような例外が認められているわけです。そのおかげで、事実として企業に対して不利な立場に立っている労働者は、辛くも企業に対して対等な関係性を実現させ、交渉力を持つのです

なお、今野氏は、労働者が企業に対して不利な立場に立っている理由を「組織規模」としていますが、正しくは「生産手段の有無」と言うべきでしょう。企業は生産手段;稼ぐための設備を持っているが、労働者はそれを所有していないので、企業で「働かさせもらわなければならない」わけです。稼ぐための設備を所有している側がより強い立場に立つのは必然的なことです。

このことは、後述する自主管理を目指す立場にとっては極めて重要な事実だと考えているところです。「組織規模」の問題に焦点を合わせる今野氏の言説は、単に組織規模を大きくするだけの「労働運動・組合運動」に留まったり、労組運動の単一組織化を志向するものになりかねない点、危惧するものです。チュチェ106(2017)年7月19日づけ「労組が個別労働者から取捨選択されるようになった時代、あるいは単なる労働界の内ゲバ」等の記事で以前から述べているように、労働組合同士も競争的関係性にあるべきだと考えているところです。

労働争議行為に対する免責規定の存在こそが、労働市場において市場メカニズムを正常かつ円滑に作用させるのです(これは歴史的な試行錯誤の上に積み重ねられてきた「労働市場における伝統」であり、漸進主義としての保守主義の立場としては、何か「合理」的な思考でリセットすべきものではないと考えているところです)。その点において、ストライキは、労働者の人間としての権利(人権)である以前に市場取引における商売人としての合理的行為なのです

労働屋が妙な「色」を付けてくれているお陰でストライキという行為は、左翼運動の一環であるかのように見えるところですが、経済学的に解析すれば、その本質はあくまでも「売り手と買い手の取引交渉失敗による取引停止・操業停止」なのです。左翼はストライキを自らの専売特許であるかのように位置づけたり、革命運動に「利用」しようと試みたりしているものの、経済的効果の面においては本質的には民間営利企業のそれと同様、商行為の一環なのです。そして、免責規定がそれを支えているのです。

労働者のストライキについてアレコレ御託を並べて非難する手合いは、民間営利企業の経営選択についても非難してくれるのでしょうか? 労働運動に対する非難度合と民間営利企業の経営選択に対する非難度合には大きな差があるように思えてなりません。今野氏が正しく指摘しているように、労働者が労働市場において不利な立場に置かれているにも関わらず、その不利な立場に立っている方が取引の一時停止を宣言すれば叩かれる一方で、労働者と比べれば強い立場にある企業が営利的理由で取引の停止を宣言したときには、それほど反発を受けていないのが現実です。しかし、両者とも慈善活動・ボランティア活動ではなく、商売でやっている点では共通なのです。

当ブログでは以前から「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げた上で、ミクロ経済学に立脚しつつ市場活用型の労働運動の展開を提唱してきました。後述のとおり、自主管理社会主義を信奉している関係上、ストライキを主たる武器とする従来型の要求実現型の労組運動は「お代官様への陳情」に留まっているという点において批判的だし、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」」で述べたとおり、要求実現型労組運動は、むしろ労働者階級の立場を弱める効果さえあると考えています。

しかし上述のとおり、ストライキの経済的効果の本質は「売り手と買い手の取引交渉失敗による操業停止」であり、これは市場メカニズムを利用している点において市場的な行動であると言えるので、一概には否定してこなかったところです。1月29日づけ「「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」――フリーランス協会の行く手について」においても、既に次のように述べています。
>> ■システムとしての市場経済で自主化を達成するためには
以前から繰り返し述べているように、市場経済はシステムです。売り手と買い手は、時に利益が相反するケースもありますが、そうした場合であっても「呉越同舟」の関係。大きく捉えて「全体として渾然一体」な関係にある「システムの構成要素同士」であることには変わりはありません。

システムとして市場経済を見たとき、自らの自主化を目指すのであれば、需給双方は協調すべきであると同時に、利益が相反するケースにおいてはシステム的としての大局観を意識しつつ、主体的立場に立って条件交渉を行うべきであります。お互いに相手の事情を汲みながら主体的立場にも立ち、相互牽制的に交渉を展開し、時に袂を分かつ――そもそも「市場における契約交渉」自体が原則的にそうしたものです。

■「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」
そうした原則の下、当ブログでは「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げて論考してきました。一連のシリーズ記事において私は、従来型の要求運動型の労働組合活動については、活動家たちの階級二分法的発想・行動について批判を展開してまいりました。「主体的立場」を鮮明にする点においてはよいのですが、「需給双方の協調」に欠けた言動・プランが目立つのです。それどころか、システム的な大局観に立っていないために、逆に労働者としての利益をも損ねかねない「素人考え」が見え隠れしています。とても全面的な支持をすることはできません。
<<

また、上掲のチュチェ104(2015)年10月8日づけ記事でも述べたように、現実問題としてそう簡単に勤め先を辞められるものではありません。その点において、短期スパンの補助的役割として団体交渉の意義は十分にあると私も認めているところです。

ストライキ路線の弊害については論考を重ねてきていたので、私のことをストライキ否定論者だと思っている読者様がいるとするならば、上述のとおり、そうではないと述べておきたいと思います。「退職」という選択肢を取り得、市場メカニズム(需給法則)が円滑に実現する長期においても、それができない短期においても、「労働市場の商売人」としての労働者が打って出るストライキには経済学的に意味があるのです。

■市場経済における商行為の一環としてのストライキの効用(2)――市場メカニズムは過剰なスト・権利運動に対する歯止めにもなる
ストライキに伴う「社会的影響」、平たく言えば「世間様への迷惑」という論点は、労働運動・労組運動において、しばしば取り沙汰されるものです。

「世間様へのご迷惑」――このことは、とりわけ運輸業を筆頭とするインフラ産業においては十分に検討しなければならないことです。私は以前から、福祉国家の祖国;スウェーデンにおける労働政策・労働運動の研究をライフワークの一つとしてきましたが、スウェーデンにおいては「労組の社会的責任」という観点が定着しています。「労働運動は権利運動ではあるものの、それを展開するにあたっては社会的な影響を考慮して実行しなければならない」「労働組合・労働運動にも社会的な責任を果たすことが期待されている」という考え方が定着しているのが福祉国家の祖国;スウェーデンです。

これに対して日本では、「企業の社会的責任」は声高に提唱される一方で、労組に対して社会的責任を要求する声は、まだまだ低調であると言わざるを得ません。国労の前例を振り返れば、社会的悪影響など顧みていないが如き運動が大々的に展開されて来、なおかつその総括が中途半端に留まっている経緯もあって「ストライキ=他人の迷惑を顧みない自分勝手な行動」というイメージが根強く残っているところです。

「労働組合の社会的責任」という文化が根付いていない日本において、国労の記憶がまだ消え去っていない日本において、労働運動の盛り上がりに懸念はないのでしょうか?

労働運動のやり過ぎが自分自身の首を絞めることに繋がるのは、それこそ国鉄の例を見れば明々白々です。国鉄は利用者不在の労使対決に明け暮れた挙句、利用客の私鉄へのシフトの流れ等に対処しきれず、労使諸共に没落してゆきました。自由主義経済では買い手側の需要が存在する限り、誰かが市場に参入してサービスを供給するものです。「お前の代わりは居る」というわけです。短期間のストライキであれば顧客が逃げるということはないでしょうが、競合他社の体制が整うくらいにまで労使紛争が長引けば、会社ごとマーケットから競争淘汰されてしまいます。利用客にとっては労使関係なく「会社」。その意味において、一企業の労使は、消費者との関係においては「呉越同舟」の関係にあるのです。

※ちなみに、公務員のスト権が制限されているのは、公務労働においては「競合他社」が存在しないという点が一つの理由になっています。

前掲引用記事によると、五島産業汽船等、九州商船以外の船会社による増便が実施されていたそうですが、このストライキが長期化しようものなら九州商船の利用客は五島産業汽船にシフトすることでしょう。そうなれば、九州商船は労使諸共に没落してゆくことでしょう(幸い、ストは1日で原則解除される見通しですが)。

そう、ここでも市場原理が作用するのです。労働者がストライキという形で労働供給を拒否することによって企業側の身勝手な労務管理に牽制球を投げつけるのと同様に、顧客は消費者としての選択の自由の行使を行使することによって顧客不在の労使紛争に牽制球を投げるのです。「労組の社会的責任」が定着していなくとも、市場メカニズムが健全に作用しており、そして労使双方が市場メカニズムの原理と自分自身の言行の経済学的意味について正しく理解していれば、「世間様への迷惑」には一定の歯止めが自動的にかかるのです。利用客や競合他社の反応を無視するがごとき労使対決は、労使諸共に競争淘汰されることに繋がるので、なによりも当事者自身のためになりません。それゆえに、市場メカニズムの健全な作用は労使対決において一定の歯止めになり、結果的に「世間様へのご迷惑」が回避されるのです。

ちなみに、国鉄における労働運動の結末と比較したとき、私鉄における労働運動は注目に値すると私は考えています。すなわち、国鉄における労働運動は利用客を直撃するような運動を展開したのに対して、私鉄における労働運動は利用客にはそれほど影響が及ばない場面での運動が展開されていたのです。利用客を敵に回さない一方で、企業当局側には打撃を与える・・・一企業の労使は消費者との関係においては「呉越同舟」の関係にあるという事実を直視し、誰を敵に回してはならないかということを十分に承知した上で戦術を練らなければならないのです。労働運動にもスマートさが必要だと思うのです。

労働運動がスマートになれない要因として、私は以前から指摘しているとおり、労働運動の担い手たちは、社会をシステムとして捉えるのではなく、階級対決的な思考回路で考えている点があると考えています。階級対決的な思考回路は、消費者との関係における一企業の労使が「呉越同舟」の関係にあるという事実を見誤らせるものです。

■本来的な自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは大いに展開すべき
利用客や競合他社の反応を注視する限りにおいてのストライキ・労使対決については、私は、市場主義の立場に立つからこそ大いに展開すべきだと考えています。左翼的な階級闘争云々などとは全く無関係に、売り手と買い手が対等な関係性で経済的取引を展開する健全な市場経済、本来的な自由経済を維持・拡大するためにこそ、ストライキ・労使対決は大いに展開すべきです。

■ストライキの逆効果
ストライキの逆効果についても語っておきたいと思います。ストライキは、市場取引における商売人としての労働者の合理的行為であるとは言っても、万能ではありません

チュチェ105(2014)年8月3日づけ「「ブラックバイトユニオン」は逆効果――やればやるほど資本家への依存を高める」やチュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」」でも述べたことですが、要求実現型労組運動は本質において利益分配要求運動です。企業側・資本家側に対する利益分配要求が認められるということはすなわち、彼らとの利益共同体に参画することを意味します。本来、労働者階級が自らの立場を強化するためには、企業側・資本家側への依存から脱却して自立的になるべきなのに、要求実現型労組運動を深化して行けば行くほどに、むしろ企業側・資本家側との結びつきが強化されてしまうのです。この点において、要求実現型労組運動は労働者階級の立場を弱める効果さえあると考えています。

チュチェ105(2016)年6月19日づけ「マクドナルドの「殿様商売」「ブラック労務」に改善を強いたのは労働組合ではなく市場メカニズムのチカラ」でも述べたとおり、ミクロ経済学における価格弾力性の議論を思い出せば、仮に免責規定に裏打ちされたストライキによって「労使対等」を実現したところで、労働供給側の価格弾力性が労働需要側以上に硬直的であれば、依然として実質的な意味において「労使対等」は実現されていないと言わざるを得ないところです(経済学的分析については、Mankiw(2002)Principle of economicsあたりを参照)。価格弾力性の大小は「代わり」の存在に規定されるものですが、このことはすなわち、ストライキを主たる武器とする要求突きつけ型の労働運動は、労働供給側の価格弾力性を下げ得ないどころか、逆に上げかねない点において逆効果であるとさえ言えるものです。ストライキは商行為の一環ではあるものの、依然として「途中の過程」なのです。ストライキは、手段の一つではあるものの、手段の一つでしかないのです

■労働者階級の自立・自主管理の推進のためには、ストライキに留まっていてはならない!
私は、市場経済を活用する形での自主管理社会主義を目指す立場なので、市場主義者であると同時に自主管理社会主義者でもあります。その点において前述のとおり、健全な市場経済・本来的な自由経済を維持・拡大するためにこそストライキ・労使対決は大いに展開すべきであると考える一方で、そこに留まってはならず、資本家からの自立と生産を自主管理を目指すべきであるとも考えています

ストライキや要求実現型労働運動は左翼運動の推進にはなり得ません。左翼運動とは、労働者階級が社会の主人になるための運動です。資本家からの自立と生産を自主管理を目指すのが左翼運動です。その点において、以前から繰り返しているように、ストライキを主たる武器とする従来型の要求実現型の労組運動は「お代官様・地主様への陳情」に留まっているといわざるを得ません資本家から自立していないし、生産を自らの管理下に置いているわけでもないのです。

ストライキは運動の第一弾であるとはいえ、これで「要求が達成された」などと言って満足してはならないと考えているところです。

■やっぱり労働弁護士は・・・
ちなみに、当ブログでも何度か批判的に取り上げてきた「ブラック企業被害対策弁護団」代表である佐々木亮弁護士が、本件について経緯を説明しています。佐々木弁護士は本件代理人として参画しているそうで、その立場から主張を展開しています。

クライアントの立場に「一方的に偏った」主張を展開することは、弁護人として当然のことだと私は考えている(旧ブログ時代に光市事件裁判を筆頭とする凶悪刑事事件の裁判について考察を展開してきたころから一貫した立場です)ので、そのことについて私はどうこう言うつもりはないのですが、それにしても佐々木弁護士の主張からは、「なんで会社側は、ここまで強硬だったんだろう?」ということが丸で見えてきません

私がストライキを肯定的に評価するのは、上述のとおり「商行為の一環」故ですが、ストライキが商行為の一環であるということはすなわち、相手側の思いを汲みつつ落としどころを用意しながらストライキを決行しなければならないということです。

労組批判はお門違い」のパラグラフにおける権利講釈、「ストライキを止める方法」のパラグラフにおける「会社が組合の要求を飲めばいいだけ」――間違いではないんですけどね。。。まあ、佐々木弁護士はあくまで労組側代理人であって調整役ではなく、本人も調整役であるとは一言も言ってませんからね。。。しかし、労働問題がかつてないほどに社会的注目を浴びている今日においては、法律のプロである佐々木弁護士におかれては、代理人としての視点とともに、調整役としての視点からも論じて欲しかったなぁと思うところです。
posted by s19171107 at 23:31| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年12月24日

フランシスコ法王の懸念に答える「集団主義・社会主義的競争」という新しい競争の在り方

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171219-00000002-jij_afp-int
>> ローマ法王、日本の「過度の競争」を戒め 学生とテレビ会議
12/19(火) 5:19配信
AFP=時事

【AFP=時事】ローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王は18日、テレビ会議システムを利用して東京の大学生らと対話し、日本の学校や職場での「過度」の競争文化や消費主義への傾倒を戒めた。

 アルゼンチン出身のフランシスコ法王は、上智大学(Sophia University)の学生らに対し、「人は成功するために、他者を踏み台にするなどの悪事を働いてしまうこともある」と説明。

 日本社会には「過度の競争、競争主義、消費、消費、消費に次いでまた消費」といった「幾つかの問題」が見受けられると指摘。「これはあなたを害し、あなたの力を奪いかねない」と諭すとともに、問題は「過度の能力主義」にもあると述べた。


(以下略) <<
■「集団主義・社会主義的競争」という新しい競争の在り方
フランシスコ法王が今日の日本における「過度の競争」の実情をご存じとは到底、思えないものの、一般論として「人は成功するために、他者を踏み台にするなどの悪事を働いてしまうこともある」というご指摘には同感です。では、そうした問題点を克服した競争の形とはどういったものを想定できるでしょうか? 一つのモデルケースとして私は、朝鮮労働党が提示する「集団主義・社会主義的競争」を挙げることができると考えています。

朝鮮労働党中央委員会は、第7回党大会を目前に控えたチュチェ105(2016)年3月19日づけ『労働新聞』にて社説「集団主義的競争の熱風を激しく巻き起こし、より高く、より早く飛躍しよう」を発表し、次のように指摘しています。チュチェ105(2016)年6月6日づけ当ブログ記事「朝鮮労働党第7回党大会は経済改革・競争改革を漸進的に継続すると暗に宣言した画期的大会」に掲載した拙訳を再掲します。
>> 競争は、単に生産能率を高め、生産量を増やす実務的な事業ではなく、党の政策を決死貫徹し革命を強く推し進めてゆくための政治的事業である。

社会主義的競争は、本質において、共同の目的と理想を持って闘争する勤労者たちがお互いに助け合って導いて集団的に革新を起こすための競争である。機関や企業所ではお互いに緊密に連携して積極的に協力しながら、自分たちが成し遂げた成果と経験を不断に交換すべきだ。そうしてこそ、国が発展することができる。われわれの全事業は、国家経済力をはじめとする全般的な国力を強化するための事業であり、そうであるからこそ、社会主義的競争を国家的利益、党と革命の利益の見地から進めてゆかなければならないのだ。セクト主義や利己主義をはじめとする集団主義と対立する古い思想の残滓は、社会主義競争運動の主たる障害物である。他部署との間に壁をつくり、機関本位主義・部署本位主義で情報交流しない現象を徹底的に根絶しなければならない。

互いに助け合って導く集団主義的な美風を高く発揮してゆくべきだ。

社会主義的競争の威力は、革命的同志愛に基づいて互いに助け導いてくれる集団主義の威力である。人々を思想意志的に更に固く団結させ、集団の結束した力で更に高く飛躍し、更に早く発展してゆくところに社会主義的競争の優越性と牽引力がある。

集団主義の威力によって前進するわが社会の姿・風貌を積極的に生かしてゆくべきだ。同志的な協調と助け合いを強化する点に弱肉強食の法則が作用する資本主義社会の生存競争と根本的に異なる社会主義的競争の本質的な特徴がある。千里馬大高潮時代の集団主義精神と大衆的英雄主義の伝統を脈々と継承し、人々が暮らし働くすべての場所で時代を激動させる高尚なる美風が花開いており、革命的熱意と戦闘的雰囲気が溢れるようにすべきだ。隘路や難関にぶつかるたびに革命的同志愛を高く発揮し、互いに助け合い、学びあい、力を合わせて集団的革新・連帯的革新を起こしてゆくことで、遅れた単位・遅れた人なく共に発展し、共に前進し、いたるところで新しい英雄神話が絶えることなく創造されるようにすべきだ。
<<
互いに成功を学びあい、助け合い、切磋琢磨してゆくタイプの競争を社会主義的競争と位置づけ、弱肉強食の生存競争としての資本主義的競争との違いを定義している「集団主義的競争の熱風を激しく巻き起こし、より高く、より早く飛躍しよう」。「競争」という概念に関する定義が曖昧でありがちな昨今において、切磋琢磨的に競い合うことによってお互いに成長しあえるような関係性として「競争」を定義しなおした『労働新聞』社説は画期的であると言えます。

■集団主義を基礎とする競争の優越性
上掲の切磋琢磨型の競争モデルを、朝鮮労働党は「社会主義的競争」と銘打っています。朝鮮労働党が言うところの「社会主義」とは、キムジョンイル総書記が強調してきたように、本質において集団主義です。ここでいう集団主義とは、社会の全構成員を集団の一員として位置づけ、すべての社会集団構成員の権利を平等に取り扱い、公正に調整することを意味します(なお、ここでいう「平等」は結果平等ではなく、金銭万能の資本主義社会における権利・地位が、私有財産の多寡で測られていることに対をなす意味での「平等」です)。この意味で、「社会主義的競争」は、本質において「集団主義的競争」であると言えます。

集団主義的競争は、集団主義的な人間関係・社会的人間の本質を正しく捉えた人間観を基礎として競争を取り扱っていること、換言すれば、「同じ社会集団に属する者同士で競争を展開している」という点が重要です。

少し青臭く聞こえるかもしれませんが、他者を踏み台にするなどの悪事」は、簡単に言ってしまえば、赤の他人同士の関係であるからこそ展開されるものであります。「家族のように思って接しなさい」と言うつもりはありませんが、たとえ他人同士の関係だとしても、日常的にお互いに世話になり合っている「お互い様」の関係であれば、「他者を踏み台にするなどの悪事」は展開されにくいものがあるでしょう。

これはすなわち、自分と相手の関係性を「赤の他人同士の関係」だと思うような人物、人間の地位を「社会との関連性が曖昧な『個人』」として位置づけている、社会的人間の本質を捉え損ねた軽薄な人間観を持つ人物が「他者を踏み台にするなどの悪事」を発生させ、自分と相手の関係性を「お互い様の関係」「チームメイトの関係」だと捉える人物、人間の地位を「社会的集団の一員」として位置づける人物は、そのような暴挙には出ないと言えるのであります。

■フランシスコ法王の指摘は一側面に留まっている
他者を踏み台にするなどの悪事」が展開されてしまう背景についてフランシスコ法王は、「過度の能力主義」の存在を指摘しています。この指摘は「間違い」であるとは思いませんが、あくまで一側面に留まっており、本質に迫りきれていないのではないかと思えてなりません。能力主義」が行き過ぎたことによって「競争の在り方が変質してしまった」と言うのも間違いではないものの、そもそもの「人間観の問題」という要素について言及されていません

資本主義社会における「競争」の問題;「人は成功するために、他者を踏み台にするなどの悪事を働いてしまうこともある」という問題を、フランシスコ法王のように「過度の能力主義」として位置付ける言説においては、こうした問題の発生を避けようとするあまり、競争が中途半端になったり、酷い場合は「お手々つないで・・・」の要領で競争自体が廃絶されかねない危険性があります。その結果は、悪平等です。

朝鮮労働党の「社会主義的競争」が提唱している集団主義の原則を守る限りにおいての競争は、集団主義的な人間関係・社会的人間の本質を正しく捉えた人間観を基盤としているからこそ、「他者を踏み台にするなどの悪事」とは無縁でありながらも、不完全な競争による悪平等への転落からも無縁の「中庸の競争」です。

■競争の概念を正しく定義しなおすことは死活的な課題
競争の概念を正しく定義しなおすことは、持続的で調和的な社会の維持・発展において死活的な課題です。その課題を探究するにあたって、朝鮮労働党の「社会主義的競争」は重要な役割を果たすことでしょう。

なお、本日12月24日は、キムジョンスク同志生誕100周年です。경축!
posted by s19171107 at 14:17| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年12月17日

人間の活動と人間の需要に注目する「人間中心の主体的な経済観」に立とう――キムジョンイル総書記追悼

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171208-00155946-hbolz-int
>> 財政危機のベネズエラ、仮想通貨「ペトロ」導入を発表も、夢物語で終わる可能性
12/8(金) 16:00配信
HARBOR BUSINESS Online

 ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領が12月3日、テレビを通して仮想通貨「ペトロ(Petro)」を導入する意向であることを発表した。曰く、「ペトロ」とは、金、石油、天然ガス、ダイヤモンドなどに保証された暗号通貨だそうだ。

 自国の資金が尽きてしまう寸前に、いま流行りの仮想通貨を発行しようとしているようだが、正直「ビットコイン」には程遠い。それは計画倒れになることは必至であろう。根本的にベネズエラという国家そのものへの国際的な信頼が存在しないからである。


(中略)

 ベネズエラは、米国が主導する金融制裁によって、厳しい財政事情を迫られている。ペトロを導入することで、「国の通貨の尊厳を取り戻すことが出来て、金融取引を容易にし、制裁を克服できるようになる」とマドゥロは主張している。(参照:「La Patilla」)

 しかし、マドゥロは自国がまさに困窮した経済状況にあることを忘れている。仮想通貨であっても、ペトロは国家が運営するとしている以上、現在のベネズエラが置かれている財政事情に目をつぶってベネズエラとペトロで取引しようとする国は皆無であろう。

 しかも、べネズエラ国内でペトロを普及させようとしても物品も何もかもが不足している中で何を取引しようというのだろう。そのうえ、仮想通貨の普及に必要なインターネットを利用している国民は人口の3分の1だというのだ!

 この様な事情下にあるベネズエラで仮想通貨を導入することなど夢物語である。
(中略) <<
■貨幣・通貨の本質について経済学的に考えたとき・・・
ベネズエラのマドゥロ政権が、仮想通貨を以って通貨主権を取り戻そうと目論んでいる件については、当ブログでは12月5日「F.A.ハイエクを超越する経済学の天才;ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領(んなわけない 呆)」で既に取り上げています。仮想通貨がしばしば、F.A.ハイエクが提唱した「貨幣発行自由化」の方法論として位置付けられているところ、マドゥロ政権はそれを「通貨主権の回復」の手段としてブチあげている点について焦点を合わせてツッコミを入れた記事でしたが、それに対して上掲引用記事は、マドゥロ政権の目論見を正面から論破する内容になっています。いわば「マジレス」している記事です。

貨幣・通貨の本質について経済学的に考えたとき、この指摘はまったく正しい内容です。異論はありません。「べネズエラ国内でペトロを普及させようとしても物品も何もかもが不足している中で何を取引しようというのだろう」というのは明快な表現です。一般的等価物としての貨幣とは交換の媒介物ですが、べネズエラのように、国内市場で交換できるものが全く欠乏しているとき、その貨幣に存在意義はないものです。国内市場でペトロが成功する見込みはないでしょう。

国際市場でもペトロが成功する見込みはないでしょう。マドゥロ政権が如何に「自国の豊富な天然資源の担保がある」と主張しても、それが任意のタイミングで利用可能になっていない現状では、財産の担保にはなりません。ましてベネズエラ政府は、とりわけ石油産業に対してしばしば恣意的な介入を試みてきたわけだから、「天然資源の担保」などと言われたところで、その言葉自体に「担保」がないと言わざるを得ないものです。記事中の表現を借りれば、「根本的にベネズエラという国家そのものへの国際的な信頼が存在しない」わけです。

経済学的センスが欠如しているド素人的発想で一国の経済を運営しようとするマドゥロ氏(前任者のチャベス氏も含む)の政権担当能力のなさには、たびたび驚かされてきましたが、今回はとりわけ特大級の驚きを提供するものです。

■人間の活動と人間の需要に注目する「人間中心の主体的な経済観」に立とう
チャベス政権以来、ベネズエラは「21世紀の社会主義」なるスローガンを掲げてきましたが、Wikipediaによると、このスローガンは、カール・マルクスの労働価値説に基礎を置いているようです。周知のとおり、マルクスの労働価値説は、マルクス経済学の根幹をなすものです。

マルクス経済学の分析ツールを用いるとき、現段階では「天然資源」の存在がペトロの価値担保になり得ないことが見えてくるものと思われます。

マルクス経済学は、貨幣的関係性・経済的関係を「人間と人間との関係」と見抜いた点において画期的です。В.И.レーニンは『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』で次のように述べています(新日本出版社 p13より引用)。
>> ブルジョア経済学者たちが、物と物との関係(商品と商品との交換)をみたところ、そこでマルクスは人間と人間との関係をあばきだした。商品交換は市場を媒介する個々の生産者たちの結びつきを表現している。貨幣は、この結びつきがますます緊密になっていき、個々の生産者たちのあらゆる経済活動を切りはなせないように結合して、一つの全体に結合していることを意味している。 <<

また、マルクスは有名な貨幣の物神性を指摘しています。これは大変難解な内容ですが、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典は、割と噛み砕いて説明しています。
>> 貨幣は多種商品のうちの一商品が一般的等価物として貨幣商品に転化し,商品価値の一般的な表示,尺度をなすものにほかならないにもかかわらず,あたかも貨幣自身が価値の独立的存在であるかのごとく受取られる <<
つまり、@貨幣のそのものには独立的に価値はしておらず、ただ貨幣は商品どうしの関係性を示す尺度にすぎない、Aそして、人間的労働の支出ゆえに商品たらしめられている「物」どうしの関係性は、本質的には、「人間」どうしの関係性なのです。

経済的現象を人間同士の関係として見なす観点は、チュチェ思想・チュチェ哲学においてますます鮮明になります

チュチェ思想・チュチェ哲学は「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」という哲学的原理を基に、世界観と社会歴史観を構築しています。ハンドンソン(韓東成)先生著の『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』白峰社、2007は、キムジョンイル総書記の労作「社会主義の思想的基礎に関する諸問題について」の一文を引用した上で、次のように指摘しています(同書p40)。
>> 物質技術的手段を創造し利用するのは人間です。人間の役割を抜きにして物質技術的手段は創造もされませんし、世界の改造のために利用もされません。物質技術的手段が世界の改造においてどのように作用し、その威力がどれほど発揮されるかは、人間によって決定されます。 <<
さて、私は「マドゥロ政権が如何に「自国の豊富な天然資源の担保がある」と主張しても、それが任意のタイミングで利用可能になっていない現状では、財産の担保にはなりません」と上述しましたが、これは、この観点に立ってのものです。ベネズエラに如何に豊富な天然資源が存在しているからといって、それが自然そのままの状態では利用可能ではありません。人間の役割=経済活動・生産活動を抜きにしては利用可能にはならないのです。

その点、ベネズエラの経済活動・生産活動、経済的人間関係はズタズタに引き裂かれており、破綻状態にあると言わざるを得ません。決定因子としての人間の活動と人間どうしの関係性が破綻状態にあっては、豊富な天然資源が潜在的にペトロの価値担保になり得るとしても、それらが利用可能な状態に加工され得ない以上は、実際的にはペトロの価値担保にはならないのです。

金、石油、天然ガス、ダイヤモンドといった天然資源=客観的な物質的条件は存在しさえすればよいものではなく、それらを利用可能な状態に加工できる人間の活動、そしてそれらに対する人間の需要があって初めて意味のあるものになります人間の活動と人間の需要に注目する「人間中心の主体的な経済観」にしっかりと立っていれば、あくまで流通のための手段にすぎない一般的等価物としての貨幣に惑わされることはないでしょう。

チュチェ思想の体系化によって人間中心の主体的な事物の見方を整備されたキムジョンイル総書記が亡くなって6年になります・・・在任中に国家経済を大きく好転させることは叶わなかったものの、国防や芸術、最先端技術追究(コンピュータ技術と宇宙開発関連技術)の基礎作りにおいて功績のある総書記ですが、とりわけ、思想・哲学分野で遺されたものは多大であります。追悼。
posted by s19171107 at 23:56| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年12月14日

官民二分法の発想から脱し「綱引き」を終わりにしよう。方法論を前進させよう。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171213-00010001-doshin-hok
>> JR北海道への財政支援、高橋知事が表明 車両や駅など設備投資や修繕に
12/13(水) 9:18配信
北海道新聞

「上下分離」は想定せず
 JR北海道の路線見直し問題を巡り、高橋はるみ知事は12日の道議会予算特別委員会の知事総括質疑で「鉄道運行の安全性の確保や設備投資、修繕に対して支援を行いたい」と述べ、鉄路維持に向け、JRへ財政支援する考えを初めて明確に示した。道とJR、沿線自治体が出資する第三セクター「北海道高速鉄道開発」(札幌)が特急車両を保有し、JRに貸し付けている例を参考に、これから具体的な支援策を詰める。


(中略)

 財政支援は車両の設備投資や駅舎の修復などを対象とし、JRが提案している、線路などの鉄道施設を自治体が保有する「上下分離方式」は想定していない。

(以下略)<<
■不毛極まる、使い古された単純二分法の焼き直し
コメ欄。
>> みわよしこ
フリーランスライター(科学・技術・社会保障・福祉・高等教育)

国鉄がJRに変わって30年。
公共事業は結局、公共が責任主体となって行わなければどうにもならないということを示す事実が、数多く蓄積されています。

しかし公共事業の民営化や民間委託は、現在も進行中。大阪市では生活保護運用まで数年のうちに民間委託されかねない勢い。この動きは、公共施設運営・水道と、あらゆる分野に拡大しつつあります。

民営化、行政コスト削減、社会保障削減といった個々の動きの大元は、日本の「公共」の縮小です。既に小さすぎる政府のもと、「困っている人を国は助けなくていい」と考える方々が増えるのは、国の「公共」が貧弱になるから各国民の「公共」も貧弱になる、ということではないでしょうか?

誰も取り残さず共生する社会を制度・インフラとも再構築するのは難事業ですが、日本と日本の人々の生存のためには、取り組まないわけには行きません。
北海道と鉄道の今後は、学ぶべき先行例です。
<<
社会保障分野で精力的に情報発信している、みわよしこ氏のコメントです(私も他人様のことを偉そうには言えないものの、専門外も甚だしいのではないでしょうか・・・)。以下、批判的に検討してゆきたいと思います。

結論から言ってしまえば、「公共の縮小」という問題設定まではよいものの、その是正として挙げられているプランが「官が民か」の単なる「綱引き」に留まるものであり、発展性に欠けています。「公共が責任主体となって行わなければどうにもならない」という、みわ氏の言説は、「公的な財政支援の必要性」と換言することができるでしょうが、この方法論は、使い古され、問題点が山積した方法論です。

もともと、「公共が責任主体」という建前の下に長年行われてきた事業が行き詰まってしまったからこそ始まったのが民間委託等の方法論。それもまた別の行き詰まりを見せつつあるからといって、「綱引き」の要領で元に戻すなど愚の骨頂、何も学習していません不毛極まる単純二分法的な言説と言う他ありません。

■何故北海道庁が鉄道支援に消極的なのか考えたことはないのだろうか?
みわ氏は、何故北海道庁が鉄道に対する公的な財政支援に消極的であるのかという動機について考えたことはないのでしょうか? この点について藻谷浩介氏は、「「JR北海道」赤字批判の裏で、高規格道路に巨額投資の「不条理」」にて、鉄道復権の立場に立ちつつも冷徹なる現状把握の観点から正しくも事情を見抜いています。引用します。
>> 藻谷 2006年に廃止された「北海道ちほく高原鉄道」は、帯広の東の池田駅から北見に伸びていた第三セクターで、一日の客が百何十人の超閑散線でした。年間約4億5000万円の赤字を出していました。

 しかし、存続運動をしている人の話を聞いてみると、実はリーズナブルな活かし方があったのです。というのも、北見、網走から札幌に行く最短距離の鉄道路線なので、軌道強化工事をして高速化すれば、石北本線回りで行くよりも圧倒的に便利。そもそも冬の北海道での車の運転は危険ですから、鉄道の意義は大きいのです。実際に冬のJR北海道の特急の指定席は満席になることが多い。だから、軌道を高速仕様に改良して再利用しましょうよ、その方が地域活性化にもなりますよ、という運動だったのです。

 ところが、行政も経済界も耳を貸しませんでした。代わりに、廃止した線路に並行して、数百億円かかる高規格道路建設が本格化したのです。料金収入が見込めず無料開放される区間なので、地元自治体の負担はその分重く、しかもすでに通っている国道に比べ所要時間が短くならないので、完成しても使われない。まさに工事のための工事です。おまけに高規格道路は鉄道に比べて、路面補修や除雪、照明などにずっと多額のランニングコストがかかります。それだけでも年間4億5000万円は軽く超えるでしょう。

 金勘定の常識から言えばちほく高原鉄道の高速化が当然ですが、それでは地元に工事費が落ちないというわけですね。
<<
地元の土建屋の利益を考えたとき、道路建設が地元土建屋にもたらす経済的利益は鉄道事業がもたらすそれを上回るから、地方自治体は鉄道事業よりも道路建設を優先させるのです

このことは、かならずしも単なる「ゆがんだ癒着構造」と断ずることはできません。地方経済における地元土建屋の立場は、単なる「地元政治家の票田」「事なかれ主義的な行政が気兼ねする郷土の有力者」に留まらず、「疲弊する地方経済における数少ない雇用主」なのです。土建屋は地方経済の大黒柱なのです。

そう考えたとき、地方における鉄道復権のためには、地方経済の大黒柱たる地元土建屋たちが鉄道事業よりも道路建設を望む構造について真剣に考える必要があります。その点、不毛なる二分法の論点を設定している、みわ氏の言説は、都市住民のおしゃべりの水準を脱していないと言わざるを得ないものです。

■「上下分離」のような発展的な方法論を編み出すべき
地方における鉄道復権は切迫した課題であります。この重大案件について、「官が民か」の単なる綱引き的な言説に留まっている場合ではありません。今まで散々、二分法的な観点に基づく「綱引き」が展開されてきました。その結果として、「綱引き」に興じているようでは永久に問題は解決しないのではないかと言うことが見えてきました

今こそ、「綱引き」から卒業し、今までの知見を基にした発展的な方法論を編み出すべきです。完璧な処方箋であるとは言えないものの、たとえば昨今、鉄道を筆頭とするインフラ産業の運営形態として何かと取り沙汰されている「上下分離」のような発展的な方法論を編み出すべきです。

みわ氏が想定している、漠然とした「公的な財政支援」は、負担や分担、責任の所在が曖昧になりがちで、それゆえに既に数多くの失敗例が積み重なっています。他方、「上下分離」は負担や分担、責任の所在がより明確である点、望ましいものであると言えます。5月22日づけ「日本共産党議員の質問に見られるソ連・東欧型放漫経営の保険・損失補填理論」でも言及したとおり、組織運営においては、リスク・決定・責任のバランスが重要であり、リスクがかかる責任に応じた意思決定参加が必要です。

もちろん、チュチェ102(2013)年2月9日づけ「発送電分離問題と「官か民か」の不毛な二分法」でも言及したとおり、鉄道を筆頭とするインフラ産業というものはシステムであり、素人考え的にブツ切りにしようものなら破滅的結果をもたらしかねないものです。システム的観点に欠ける、拙速なる素人考え的なプランに基づく上下分離によって大変な鉄道事故を起こしてしまったBritish Railwayの教訓を忘れてはなりません。

しかし他方で、日本では何かとお手本として取り挙げられているドイツにおいても、鉄道は上下分離されています。イギリスでは特大級の失敗例を挙げつつも、ドイツではそれほどの大失敗をしていない点、鉄道業の上下分離は、「ドイツ的な慎重さ」で事を進めれば、必ずしも失敗に終わるものではないと言えるのではないでしょうか

■市場経済と金融システムの活用を通しての「公益・公共空間の復活」も発展的なアイディア
JR北海道の再建(まだ破綻してないけどw)について最近、JR東日本の株式をJR北海道が購入することによって資本関係を構築し、「株主の意向」以ってJR北海道への事実上の「支援」を引き出そうとする方法論が、以下の通り提唱されています。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171209-00199920-toyo-bus_all
>> JR北海道は「JR東日本株」取得で安定化できる
12/9(土) 5:00配信
東洋経済オンライン


(中略)

 確かに、JR東日本から見れば、赤字企業のJR北海道との合併はJR東日本の利益を減らして株主価値の低下につながるため、株主への説明は困難である。JR東日本がJR北海道を吸収合併する案は不可能と見てよい。

 しかし、JR北海道にとっては、JR東日本との合併または経営統合はJR北海道の企業価値向上につながる。

 発想を転換すれば、JR北海道がJR東日本の株式を取得することは可能である。本記事では、営業、技術面での協力関係をさらに強固にし、採算鉄道事業者であるJR東日本の利益を不採算鉄道事業者であるJR北海道の路線ネットワークの運営に活用する道筋を開くために、JR北海道とJR東日本が業務・資本提携を締結したうえで、JR北海道がJR東日本の株式を取得する方策を提案したい。

 そして、業務・資本提携を通して、JR東日本の東北新幹線とJR北海道の北海道新幹線の相互誘客策の強化を促して両社の利益を増やすことができれば、両社の利益増に向けたベクトルの一致につながるはずである。JR北海道は株主として、JR東日本に対して北海道新幹線への送客促進策を要望することが容易となる。
<<
このプランの実効性は、私も「正直疑わしい」と言わざるを得ず、くわしい検討が必要です。そう簡単な話であれば苦労しないでしょう。しかし、それでもなおみわ氏が提唱するような旧態依然でかわりばえのしない方法論と比較するに、新しいチャレンジングなアイディアに敬服するものです。

また、このプランにおける「JR東日本の株式をJR北海道が購入して関係を結ぶ」という方法論、そしてそれを通じた「JR北海道管内らおける不採算路線の公益観点からの維持」のプランは、サン=シモン主義的社会主義の実践としてPéreire brothers(ペレール兄弟)が取り組んだ「Crédit Mobilier(クレディ・モビリエ)による普遍的協働の実現」という発想にも通ずるところがあります。その点において、このプランは、市場経済と金融システムの活用を通しての「公益・公共空間の復活」、そして究極的には「社会主義の実現」を目指す立場としても、二重に興味深いものであると考えているところです。

■「綱引き」の時代は終わり、みわ氏は時代に取り残されている
その点において私は、「綱引き」的な発想で旧態依然でかわりばえのしない方法論に留まり発展的な方法論の探求の影すらもない、みわ氏提唱のプランに大変な不満を感じるものです。今や「何も言っていない」に等しい、曖昧な「支援」を主張しているほど客観的事実に余裕はありませんこんな論点設定など、時代錯誤的に古臭く、なんの進歩性・発展性も存在しないと言わざるを得ないのです
posted by s19171107 at 22:05| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

共和国の宇宙開発事業は健在、民生分野への応用の方向性も確固――クァンミョンソン3号−2号機発射成功から5周年

本日12月12日は、クァンミョンソン(光明星)3号−2号機発射成功から5周年の日です。そんななか、朝鮮宇宙協会は、去る11月18日から12月1日の期間において、「宇宙科学技術討論会2017」を開催したという報道が出てきています。
http://dprkanalysis.info/news/news_detail_376.html
>> 朝鮮の衛星技術はどの程度か
ニュースリリース|北朝鮮 Live!| 2017年12月10日(日)

 北朝鮮の核やミサイル開発により緊張状態が続く中、北朝鮮は実用衛星の発射も計画しているようだ。ロシア紙によると、先月訪朝したロシアの軍事専門家は「北朝鮮はすでに2基の民需用実用衛星の発射を予定している」と言う。1基は地球観測用、もう1基は通信衛星だという。

 ちょうど平壌では、朝鮮宇宙協会が11月18日から12月1日まで、「宇宙科学技術討論会2017」を開催した。討論会のテーマは「自力自彊と朝鮮の宇宙開発」。同協会委員長で金策工業総合大学副総長のリ・ウォンチョル氏(58)に話を聞いた。


(中略)

―注目すべき論文はあったか。

リ:人工地球衛星分科会に提出されたある論文では、人工地球衛星の軌道・姿勢操縦のための電気抵抗加熱式発動機の構造と設計計算方法について記述されていた。この技術を衛星制作に拡大導入すれば、衛星を小型化するためにかかる制作原価を最小限に抑えられると同時に、動作性能は最大限に高めることができる。また、「ハニカム多層版の等価特性量決定」というテーマで宇宙材料と要素分科討論会に提出された論文もり、注目されていた。ほかにも、衛星材料を活用できる応用技術に関する論文も多く提出された。

さらに、衛星から得られる資料を基にした大気・地面基礎パラメーター推定システムは、わが国の実状に合わせ総合的で新たな衛星資料解析システムとして確立できる。これが動けば、経済分野において衛星によって得られた情報を元に現代化・情報化を高レベルで実現できる。農業は山林、気象、海洋、水門、災害防止など各分野で要求される情報をより正確なものにできるだろう。


(以下略) <<
宇宙開発は最先端技術の粋を集めたもの。目先のことにしか関心のない人々は、しばしば共和国の宇宙開発事業に否定的なコメントを寄せているものですが、リ・ウォンチョル委員長が述べているように、宇宙開発の分野で開拓される最新技術は、そのままもっと卑近なる民生分野にも応用できるものです。その意味で、宇宙開発分野は国の科学技術の最先端の突破口です。

最近、共和国の宇宙開発分野に関するニュースが乏しかったところですが、クァンミョンソン3号−2号機発射成功から5周年を迎えるにあたって、まだまだ共和国の宇宙開発事業が健在であること、そしてそれを民生分野に応用する方向性が依然として確固としていることが判明しました。朗報です。

경축의 노래<<조선의 그 이름 하늘에 새겼네>>

장군님 높이 모신 그 영광 떨치며
우리의 광명성이 우주에 올랐네
강성대국 첫포성 높이 울리며
내 나라 위성이 하늘에 올랐네
라라 우리 광명성
조선의 그 이름 하늘에 새겼네

장군님 안겨주신 그 위용 떨치며
우리의 광명성이 유난히 빛나네
끝없이 넓고넓은 우리의 별나라에
민족의 슬기와 용맹이 나래치네
라라 우리 광명성
조선의 그 이름 하늘에 새겼네

장군님 길이 모셔 끝없이 번영할
내 조국 노래하며 광명성 날으네
내 나라는 지구를 내려다보고
세계는 조선을 우러러 본다네
라라 우리 광명성
조선의 그 이름 하늘에 새겼네
posted by s19171107 at 23:58| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする

2017年12月11日

「無限の単線的進歩」ゆえに予想を外したマルクスの焼き直し――AIと未来社会

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171129-00199055-toyo-bus_all
>> AIの発達をこのまま市場に任せてよいのか
11/29(水) 6:00配信
東洋経済オンライン


(中略)

 しかしもっと先を考えると、AI(人工知能)の進歩で機械が人間の行ってきた仕事を担うようになるという動きが加速し、人間の仕事はなくなっていき、世界的に労働力過剰という事態が出現する可能性がある。

 『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか〜労働力余剰と人類の富』(東洋経済新報社、2017)で、著者のライアン・エイヴェントは、コンピュータは蒸気機関や電気と同様の汎用技術でとてつもない力を持ったものであることや、デジタル革命は人類に多大な恩恵をもたらすので後戻りできない流れであることを指摘し、社会が直面する課題を論じている。


(中略)

まだ何十年かの間は、生活を支えるすべてのものは、価格が低下していくものの有料である。必要なものを手に入れるためには、人々は何とかして所得を得る必要があるという状態が続くとの前提で将来を考えるのが無難だ。ところが、AIが発達していくことで機械に仕事を奪われ、所得が得られなくなる人が多数生まれてしまうおそれがある。

(中略)

 AIが進化して行けば、現在はAIで代替することは難しいとされている仕事に就いている人たちも安泰ではなくなる。少し昔にはコンピューターが囲碁で人間に勝つようになるのはまだ先のことだと考えられていたが、今や世界最強といわれる棋士でもコンピュータにはまったく歯が立たない。人間が必要な分野はどんどん縮小していくだろう。

 AIによる自動化が図られるのは、それが容易な分野だけでなく経済的な利益が大きい分野も、である。企業にとっては、高賃金の仕事ほど機械で置き換えるメリットが大きい。低賃金で機械化の利益が小さいところや、雑多な作業で対応が難しいものが人間が行う仕事として残され、生活を支えるために多くの人がこうした仕事を得ようとして争うことになる恐れが大きい。


(中略)

 ノースウエスタン大のゴードン教授など技術進歩の速度低下を指摘する声は多いが、むしろ社会変化の速度は速くなっているように見える。親の経験は子供たちが将来を考えるにはまったく役に立たず、制度や人々の生活スタイルや考え方、行動が社会変化について行けないほどだ。

 テグマークの言うように、AIの発展を未来の社会にとって良いものにするためには、これをどう受け止めるのかという議論が必要だ。デジタルエコノミーの発展は人類に想像できないような豊かさをもたらすことができるはずだが、それは神の見えざる手に任せておけば自然に実現するというものではないだろう。

櫨 浩一 :ニッセイ基礎研究所 専務理事
<<
■マルクスの焼き直し
150年前にマルクスが提唱した「機械制大工業の進展によって労働者の働き口がなくなり、労働者階級は窮乏化してゆき、最終的にプロレタリア革命が必然的に起こる」――もちろん外れました――の焼き直しに留まる内容であると言わざるを得ません。

マルクスが機械制大工業の進展をエポック・メイキングな出来事かつプロレタリア革命を必然化させる物質的条件と位置付けた理由は、原始時代以来の「道具」が、あくまでも人間の身体的能力を補佐する程度にとどまる、換言すれば、「人間=主、道具=従」の関係性にあるのに対して、工作機械は、人間の身体的能力を超越するので、「機械=主、人間=従」になってしまうという見解によるものです。資本家が利潤追求を続ける限り、生産は無制限に拡大してゆくので、機械制大工業はますます不可逆的に進展するというのがマルクスの歴史の見通しであり、それゆえに、もともと人間に奉仕するために開発された工作機械が、人間の身体的能力を超越する生産能力を以って逆に人間を「機械の付属物」と化してゆくだろうとマルクスは述べました

そのうえでマルクスは、「機械の付属物」と化した生身の労働者たちは、雇い主である資本家に対して立場が弱くなり窮乏化してゆくが、それが労働者階級の反抗心を強化するだろうとし、また、機械制大工業の発展に伴って労働現場での協業が拡大することで、それまで職人肌的だった労働者たちが「協力し合うこと、団結すること」を学ぶようになるだろうとしました。それゆえに、プロレタリア革命が必然的に起こるだろうとマルクスは予測したのです。

もっとも現実の経済史は、機械制大工業は進展しつつも、人間は、マルクスが想定したほどには「機械の付属物」にはなりませんでした。幾つか理由がありますが、マルクスが想定したほどには一方的な自動化が進まなかったことは大きな要因として挙げることができるでしょう(このほかにも、後掲するノーベル物理学賞受賞者である益川教授のご指摘に関連させれば、「機械制大工業の進展によって、まったく新しいフロンティアが開拓された」といった理由が考えられます)。

■「無限の単線的進歩」観が予想を外した原因だった
マルクスが予想し誤ったのは、彼が生きた時代の制約でした。彼が生きた時代は、科学技術の進歩が著しく、この進歩が永遠かつ不可逆的に続くものと多くの人々が信じて疑わなかった時代でした。工作機械は永遠に飛躍的に進歩し続け、人間の能力を超越するだろうと皆が見通しを持っていた時代でした。しかし、実際にはそんなバラ色かつ単線的な進歩は実現しなかったのです。

無限の単線的進歩を前提としたからこそ成り立ったのが、相対的過剰人口・産業予備軍の不可逆的増加による労働者階級窮乏化論。労働者階級の窮乏化が共産主義革命を必然とする一要素(このほかにも、資本の有機的構成が不可逆的に高度化することによって、利潤の源泉としての労働者が産出する剰余価値の搾取が不可能になるといった理屈もあります)になるとしたマルクスの「予言」が破綻したのは、当然のことです(もっとも、最近のマルクス経済学もようやく、「相対的過剰人口・産業予備軍は、必ずしも不可逆的増加し続けるとは言えない」という境地に立ち始めたようです)。

■「AIの発達による失業」論の前提にある「無限の単線的進歩」観
マルクスの予想が外れた原因を「無限の単線的進歩」に据えるとすれば、昨今の「AIの発達による失業」論が、まさにマルクスの外れ予想の焼き直しに過ぎないことが明々白々になるのではないでしょうか

本件記事の内容は「AIが進化して行けば、」だの「AIが人間の能力を超えていけば、」だのと、あくまで仮定の域を脱していない話を大前提・主張の骨格としています。もっと言ってしまえば、記事全体が曖昧な推測で成り立っています。

11月17日づけ「20世紀的社会主義の崩壊から一歩も進歩していない「デジタル・レーニン主義」」でも言及したとおり、AIの能力が人間の能力を不可逆的かつ圧倒的に凌駕し続けるかは、依然として不透明です。当該記事にて私は、次のように述べました。
>> 昨今のAI信仰には、「人工知能の技術が発展すれば」という「近未来小説」に成り下がっていることが往々にしてあります。全知全能に近いAIが実現すれば、何だって簡単にできるでしょうが、そんなものが「技術の進歩」によって本当に出来得るのかということを問わねばならないでしょう。この手のAI信仰は、「ドラえもんが居れば・・・」レベルの話であると言わざるを得ないものが少なくないものです。 <<
現時点、AIがどの程度まで進歩し得るのかは未知数です。マルクスが著作活動を展開していた19世紀後半の、工作機械のポテンシャルが未知数だった時代と類似しています。そうであるがゆえに、マルクスがそうだったように、AIについての「永遠の進歩」を基に未来社会を想定する言説が続出するのは、無理もないのかもしれません。しかし、「永遠の進歩」などあり得るのでしょうか? AIはそんなに全知全能的に、不可逆的に、永遠に進歩し続けるのでしょうか? 疑問を感じざるを得ないところです。

■語り得ぬことには沈黙せねばならぬ
まだ現実的な条件が明らかでないことについて論じることはできないものです。マルクスは、楽観的過ぎる「無限の単線的進歩」の展望を持っていたとはいえ、たとえば未来社会論としての共産主義社会の細部については多くを語っていません。これは、まだマルクスの時代にあっては、大雑把な進歩の展望としての、未来社会論としての共産主義社会は予言できても、その細部を語り得るほどの材料が足りなかったためです。

この心構えは、AIの発達に伴う人間社会の変容を展望する上でも欠かせない考え方でしょう。あくまで現在の技術水準と、確実に実現するであろう技術革新の範囲内でしか未来社会は語り得ないものです。漠然とした「AIが進化して行けば・・・」や、果たしてそんなことが実現するのか未だ不透明な「AIが人間の能力を超えていけば・・・」といった「予測」は、「近未来小説」の域を脱するものではなく、「ドラえもんが居れば・・・」レベルの話に過ぎないのです。

■人間とは何かを考える好機
とはいっても、AIの発達という論点はとても刺激的なものです。このことは、結局、「人間とは何か」という哲学的な探究テーマにもつながってゆくものです。次に引用する2つの記事は、その観点において興味深い内容です。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171208-00010000-eipub-life
>> ノーベル物理学賞受賞 益川教授が証言! AIが絶対に人間にかなわないもの
12/8(金) 19:02配信
エイ出版社


(中略)

しかしだ。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は、「仮にAIがどんなに優秀になっても、人間の仕事は決して無くならない」と話す。

(中略)

AIが絶対に上回ることができない人間の強み
◎AIが人間に肩を並べる知能を身につけた場合、科学研究のあり方はどう変わるのでしょうか?

益川:仮にAIがどんなに優秀になっても、人間の仕事は決して無くならないと僕は考えています。AIのビッグデータが発展し、コンピューターの処理速度が上がったとしたら、むしろそれらの進化を味方につけて、人間はどんどん複雑な事象を取り扱えるようになると思うのです。

何より、AIが絶対に上回ることができない人間の強みは、圧倒的な知的好奇心です。AIが家事や仕事まであらゆる作業ができるようになったとしても、人間が何もしなくなるとは到底考えられない。そのぶん、生まれた時間を有益に使って、新しいことを考えようとするのではないでしょうか。
(以下略) <<

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171206-00199655-toyo-bus_all
>> 2030年コンピュータはどこまで人間に迫るか
12/6(水) 8:00配信
東洋経済オンライン


(中略)

■人間が負けない「CMH」の領域
 井上:私は人間が汎用人工知能やロボットに負けない「CMH」という3つの領域を挙げています。Cはクリエイティヴィティ(Creativity:創造性)、Mはマネジメント(Management:経営・管理)、Hはホスピタリティ(Hospitality:もてなし)で、この3分野の仕事はなくならないだろうと考えています。

 ただ、こうした分野にも当然、AIやロボットは入り込んできて、人間と協業することはもちろん、ともすれば人間の競争相手になってしまう可能性もあるわけです。


(以下略) <<
以前から述べている通り、私はチュチェ思想・チュチェ哲学を信奉しています。チュチェ哲学において人間は「あらゆるものの主人であり、すべてを決定する」存在であると位置づけられていますが、これは、人間のみが、「自主性・創造性・意識性をもった社会的存在である」ということによるものです。

そうしたチュチェ哲学の観点に立って人間に特徴・特長的な要素を考えるとき、世界の益川教授が挙げる「知的好奇心」や、井上准教授の"Creativity"という指摘に注目するところです。

私はかつて、いわゆる「コンピュータの5大機能」(演算装置、制御装置、記憶装置、入力装置、出力装置)を、それぞれ「自主性、創造性、意識性」のフィルターで(強引に)分類したとき、どうコジツケようとしても、「自主性・自主的要求」だけは該当する機能がコンピューターには存在しないのではないかという結論にいたったものですが、その観点で行くと、益川教授が挙げる「知的好奇心」については理解可能であるものの、井上准教授の"Creativity"は少し理解が追い付かないところです。

まだまだ私自身も研究を始めたばかりなので、井上准教授の指摘については「判断保留」として、噛みつきもしなければ持論の撤回もせずに措いておきたいと思います。チュチェ哲学への認識を深めるためにも、AIの発達については今後も折に触れて取り上げてゆきたいと考えてます。
posted by s19171107 at 00:37| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする