2017年01月23日

生活保護は「施し」でも「権利」でもなく「お互い様精神を基礎とする制度」――二元論から脱しよう

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170123-00000009-mai-bus_all
>> <生活保護>「施し」ではなく「権利」という常識
毎日新聞 1/23(月) 9:30配信

 1950年に施行された生活保護法は、自立できない怠け者の国民に施しを与える慈愛深い制度ではありません。健康で文化的な最低限度の生活を送るために、足りないお金を国家が補助する制度です。その仕組みを解説します。【NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典】


(以下略) <<
個人に粘着しているわけではないのですが、例の藤田孝典氏の記事です。「借りるならいいけれども、貰うのはどうしても嫌だ」と言い張る困窮者を半ば強引に「説得」したものの、困窮者自身の「生き方の哲学」に配慮することなく、ただ一方的な「啓蒙」をしたために、当人は「生活保護受給者」という自身の境遇をどうしても承服できず、それを苦に自殺してしまったケースについて、「最後まで自罰的態度を崩しませんでした」などと言ってのける、どうしても啓蒙主義志向を脱することが出来ない藤田氏(1月14日づけ「「支援」者の「説得」が要保護対象者の生き方の哲学を否定し、彼の心を折った――自主の問題としての福祉」参照)が、今度は「常識」という言葉を使い始めました。

この長い記事をよく読んでみると単なる制度の解説であることが分かります。いったい何処が「常識」なのかについて解説がありません。「制度にたいする社会的認知度」と「常識」には関連性がないことは、「意外と知らない法律」といった類のテレビ番組が良好な視聴率を叩き出す点からも分かるはずです。

常識」という意味では、生活保護は「権利」ではなく「施し」です。もちろん、私はこうした「施しとしての生活保護」という位置づけに組するつもりは毛頭ありませんが、冷徹に現実の世論を分析すれば、残念ながらそう結論付けざるを得ません

生活保護は「権利」なのか「施し」なのか――私はそもそもそうした二元論的構図化そのものに反対です。私は、生活保護は、法律・制度的には「権利」ではあるものの、その本質は「お互い様精神を基礎とする制度」と捉えるべきと考えています。社会的扶助の歴史的な成立経緯、チュチェの社会主義者としての正義、そしてチュチェ102(2013)年6月30日づけ「「自己責任論」は「助け方の拙さ」に由来する」を筆頭に継続的に分析・総合してきた昨今の世論傾向から、そのように認識しています。

「権利としての生活保護」という位置づけに対する世論の反発と比較して「困ったときはお互い様という意味での生活保護」は、まだ受け入れられる余地があるようです。社会的扶助の歴史的な成立経緯にも決して反していない位置づけであり、否定する論拠はありません。生活保護制度はあくまで制度;生活のための道具に過ぎないのだから、「権利」であろうと「お互い様」であろうと、生活者の役に立てば如何でもよいはず。使えるものは何でも使う、トータル使う。そうした柔軟さが大切です。

藤田氏のように、「正しい」認識をまくしたてる「啓蒙」主義的方法論、そしてそれを基盤とする制度設計は、論敵を折伏・・・じゃなくて「説得」し尽くすまで終わりがありません。相当の所要時間が見込まれます。しかし、論敵の側にも言い分があり、「啓蒙」的な物言いをヨシとはしないでしょう。前掲1月14日づけ記事において私は、敵にも味方にも啓蒙主義的に応対する方法論について以下のように述べました。
>> 「我々側」に対しては、当人の気持ちに寄り添っているわけではないので、どうしてもピンボケになるし、「論敵」に対しても、その疑問に正面から応答しているわけではないので、主張は平行線を辿り、まったく説得にならないのです。 <<
また、そもそも民主社会なのだから、「正しい」認識を注入し、相手の考えを改めさせるよりも、なるべく多くの意見・立場を取り込み、抱擁するような「広幅政治」を目指すべきでしょう。ますます「啓蒙」主義は時代に合致していないと言わざるを得ません。生活保護は「施し」でも「権利」でもなく「お互い様精神を基礎とする制度」と位置づけたほうがよいでしょう

その点において、チュチェ105(2016)年11月11日づけ「「反知性主義」批判という名の観念論――最近の観念論者の自己弁護」でご紹介した毛沢東大衆路線を、福祉分野においても実践すべきだといえます。当該記事は、アメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選したことに事実を「反知性主義」なる単語を用いてエリート主義・啓蒙主義的に分析しようとする言説を批判する主旨ですが、福祉問題・生活保護問題についても、まったく同様に当てはまります。
>>  大衆の生産、大衆の利益、大衆の経験、大衆の気分、これらすべては、指導的幹部がいつも注意をはらわなければならないことである。
中央直属機関と軍事委員会直属機関の生産展覧会のための題辞、1943年11月24日づけ延安『解放日報』
<<
>>  われわれの大会は、それぞれの部署で活動している一人ひとりの同志が、大衆から遊離しないように注意を喚起することを全党によびかけるべきである。人民大衆を熱愛し、注意ぶかくその声に耳を傾けること、どこにいってもその土地の大衆ととけあい、大衆の上にあぐらをかくのではなく、大衆のなかにふかくはいること、大衆の自覚の度合いに応じてその自覚を啓発、向上させ、大衆の心からの自発的意志の原則にしたがって大衆がしだいに組織化され、その時その場所の内外環境のゆるすすべての必要な闘争をしだいに展開するのを援助することについて、1人ひとりの同志を教育することである。
「連合政府について」(1945年4月24日)、『毛沢東選集』第3巻
<<
>>  わが党のすべての実際工作において,およそ正しい指導は、大衆のなかから大衆のなかへ、でなければならない。それは、つまり大衆の意見(分散的な、系統だっていない意見)を集中し(研究をつうじて、集中した、系統だった意見にかえる)、これをふたたび大衆のなかへもちこんで宣伝、説明し、これを大衆の意見にし、これを大衆に堅持させて、行動にうつさせ、また大衆の行動のなかで、それらの意見が正しいかどうかを検証する。そして、その後、ふたたび大衆のなかから意見を集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させる。このように無限にくりかえして、1回ごとに、より正しい、よりいきいきとした、より豊かなものにしていくのである。これがマルクス主義の認識論である。
「指導方法のいくつかの問題について」(1943年6月1日)、『毛沢東選集』第3巻
<<
>>  大衆がまだ自覚していない時に、われわれが進撃にでるなら、それは冒険主義である。大衆がやりたがらないことをわれわれが無理に指導してやらせようとすれば、その結果はかならず失敗する。大衆が前進をもとめている時に、われわれが前進しないなち、それは右翼日和見主義である。
「晋綏日報の編集部の人たちにたいする談話」(1948年4月2日)、『毛沢東選集』第4巻
<<
「正しい」認識をまくし立てるようでは、大衆の認識すなわち本来的な意味での常識に訴えることは出来ません。これは、藤田氏が立つ「啓蒙」主義路線の決定的誤りです。「失敗の保証書」であるとさえ言えるでしょう。
タグ:福祉国家論
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2017年01月18日

元上司にだけ「厳罰」は、むしろ「トカゲの尻尾きり」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170118-00000076-asahi-soci
>> 電通、自殺社員の元上司ら社員3人処分 役員も報酬減額

朝日新聞デジタル 1/18(水) 16:06配信

 広告大手の電通は18日、新入社員の過労自殺問題で、労務担当の中本祥一副社長ら役員5人を、3カ月間20%の報酬減額処分にすると発表した。電通の長時間労働問題を巡っては、石井直社長が昨年12月に引責辞任を表明している。


(中略)

 電通は18日、高橋さんの上司だった部長級以下3人の社員についても社内規則によって処分したと公表。ただ、「詳細は言えない」(広報)として内容は明らかにしなかった。

最終更新:1/18(水) 18:14
<<
「直属上司に対する処分が甘い、懲戒解雇せよ」という指摘があります。人一人を自殺に追い込んだ点においては、そうした指摘も理解できます。

他方、所詮は中間管理職。上と下との板ばさみという位置づけです。到底処理できないような仕事量であっても、他部署等からの「援軍」を自在に手配できるわけではありません。もちろん、修羅場であってもパワハラをせず、部下をしっかりと指揮できる管理職もいるのだから、元上司を全面的に免罪はできません。しかし、以前にも述べましたが、そもそも上司にしてはいけない人物を昇格させた「上層部の指揮命令権」を見逃してはいけません。元上司を積極的に弁護するつもりはありませんが、そうした構造的な部分にも着目する必要があります。

その意味では、このパワハラ・自殺事件は、一定程度において「会社の組織問題」に起因しているともいえます。その点において、社長が引責辞任なら中間管理職としての元上司に対しては、一段下くらいになるでしょう。元上司にだけ「厳罰」は、むしろ「トカゲの尻尾きり」です。

「自主権の問題としての労働問題」を労働者階級の立場から私は論じてきました。パワハラを擁護するつもりは毛頭ありません。他方、マルクスが正しく指摘するように、資本主義体制における現象は、社会構造の被造物です。その視点は忘れてはなりません。また、チュチェ思想が正しく指摘するように、それを打破してゆくのは、人間の自主的な運動です。パワハラは構造的なものだが、それを打ち破るのは人間自身の自主的な運動なのです。
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2017年01月16日

「36億人対8人」?――悪平等主義者との違いを鮮明に!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170116-00000015-jij_afp-bus_all
>> 世界人口の半分36億人分の総資産と同額の富、8人の富豪に集中

AFP=時事 1/16(月) 13:01配信

【AFP=時事】貧困撲滅に取り組む国際NGO「オックスファム(Oxfam)」は16日、世界人口のうち所得の低い半分に相当する36億人の資産額と、世界で最も裕福な富豪8人の資産額が同じだとする報告書を発表し、格差が「社会を分断する脅威」となるレベルにまで拡大していると警鐘を鳴らした。

 この報告書は、スイス・ダボス(Davos)で17日から世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)が開催されるのを前に発表されたもの。それによると、世界人口のうち所得の低い半数の人々の資産額の合計と同額の富が、米誌フォーブス(Forbes)の世界長者番付上位の米国人6人、スペイン人1人、メキシコ人1人の計8人に集中しているという。

 この8人の中には、米マイクロソフト(Microsoft)の共同創業者ビル・ゲイツ(Bill Gates)氏、交流サイト(SNS)最大手フェイスブック(Facebook)の共同創業者マーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)氏、インターネット通販最大手アマゾン・ドットコム(Amazon.com)創業者のジェフ・ベゾス(Jeff Bezos)氏が含まれている。


(以下略) <<
いわゆる「99%のための・・・」方面の人々によるレポートです。日本支部のページには、プレスとして概略が掲載されています。なかなか突っ込みどころがある内容です。
http://oxfam.jp/news/cat/press/201799.html
>> 格差に関する2017年版報告書を発表「99%のための経済」
2017/01/16

世界で最も豊かな8人が世界の貧しい半分の36億人に匹敵する資産を所有

オックスファムは、1月17日から20日までスイスで開催される世界経済フォーラム(通称ダボス会議)に先がけて、格差問題に関する最新の報告書「99%のための経済(An Economy for the 99%)」を発表しました。

最新報告書では、富める者と貧しい者の間の格差は、これまで考えられていたよりも大きく、世界で最も豊かな8人が世界の貧しい半分の36億人に匹敵する資産を所有していることが明らかになりました。


(中略)

世界では、10人にひとりが一日2ドル以下でしのぐことを余儀なくされている中、ごく一握りの人たちが莫大な富を有しています。2015年9月の国連総会で合意された持続可能な開発目標(SDGs)は、「誰一人取り残さない」を合言葉に、格差問題をはじめとした地球規模課題への取り組みのための枠組みですが、今日の世界経済は、何億もの人々を取り残しながら回り続けています。格差拡大は、何億もの人々を貧困の中に封じ込め、社会に亀裂をつくり、民主主義をも脅かしています。

納めるべき税金はなるべく回避する。支払うべき賃金はなるべく抑える。カネの力で政治を動かし、経済のルールを自分たちの都合のよいように書き換える。こうした方針を取る大企業や大富豪が、格差の拡大を加速させています。経済によってごく少数の幸運な人々だけではなく、すべての人々が恩恵を受けるためには、その仕組みとあり方に根本的な変革が必要です。

世界は今、99%のための経済を必要としています。経済を私たちの手に取り戻し、「ヒューマン・エコノミー(人間らしい経済)」を実現しなければなりません。

各国政府は、労働者に適正な賃金が支払われるよう保障し、租税回避を阻止するだけでなく、競って法人税減税を推し進めるようなことをやめるために協力、協調しなければなりません。そして、株主の利益だけでなく、従業員の利益と社会への貢献を考える企業への支援を惜しんではなりません。各国政府は、格差を広げてきた時代遅れの経済理論や欠陥が明らかとなった経済政策にしがみつくのをやめ、GDPへの執着を捨てるべきです。既得権と出自が将来を左右するのではなく、才能と勤勉によって未来を切り拓くことができる社会、保健医療や教育など基本的社会サービスが当たり前の社会、すべての人々に資する経済を実現しなくてはなりません。


(以下略) <<
■「36億人対8人」では社会に亀裂が走らないからこそ大問題
まず何よりも、「36億人対8人」では「社会を分断する脅威」とは言えないでしょう。あまりにも少人数過ぎ、また、差が大きすぎます。トップ8と36億人は、元々統合されていない人たちであり、その意味では、「社会に亀裂」など走りようがありません。

社会に亀裂が走るのは、届きそうで届かない格差に日常生活で高頻度で直面し、希望と実態との乖離が大きくなり、バランスが崩れた場合です。たとえば、毛沢東時代の中国のように、大多数が等しく貧しい状態では、共産党幹部のような一部特権階級が居たとしても、一般的に亀裂も分断は意識されません。手の届かない豊かさなど追求しようとも思わず、むしろ「安定」化してしまうものです。他方、豊かさが広まりつつある状況のほうが、隣人との差を意識するようになり、亀裂が生まれます。要求運動が活発化し、社会が不安定化するものです。日本でも、不況・低成長時代よりも好況・高度成長時代のほうが共産党・公明党の党勢が伸びたじゃありませんか。

極端な富の集中は、「社会の不安定化が増大させる」のではなく、「人民大衆の生活向上を求める思想意識を麻痺させる」という意味でこそ、現実的かつ死活的です。届きそうで届かない格差に日常生活で高頻度で直面する状況は、そうした現実を打破しようとする革命意識・革命精神の原動力になる意味で、これこそが「社会に亀裂」を走らせるものです。他方、「36億人対8人」のような極端な富の集中の状況下では、すなわち、人民大衆が「等しく貧しい」社会では、革命意識・革命精神を喚起するキッカケがないので、「安定」化してしまうでしょう。

現状認識・将来展望が決定的に誤っています

■トップ8の素顔を見ると・・・
「『10人にひとりが一日2ドル以下でしのぐことを余儀なくされてい』る中、『ごく一握りの人たちが莫大な富を有』しており、そうした連中は『カネの力で政治を動かし、経済のルールを自分たちの都合のよいように書き換え』」、『格差の拡大を加速させてい』る」という文脈の中でトップ8を挙げています。

しかし、この「トップ8」の名を見てみると、揃いもそろって著名な慈善活動家としての顔をも持っていることに気がつかされます。『資本論』に出てくるような悪徳資本家連中――もっとも、マルクスが正しく指摘しているように、「悪徳資本家」は、個人的人格の問題ではなく経済システムの被造物です――かと思いきや、実態はそうではないようです。

世の中には「世界で最も豊かな8人が世界の貧しい半分の36億人に匹敵する資産を所有している」という「状況」をケシカランとする「正義」の方もいらっしゃるようですが、実際に貧困状態にある一人ひとりの生身の人間の視点――これこそが自称「正義」よりも大切なことです――から見れば、「状況」よりも「使われ方」の方が重要でしょう。

その意味では、たとえば、トップ8にランクインしているマーク・ザッカーバーグ氏は、従来型の寄付に疑問を持ち、自分なりの慈善事業モデルを構築しようとする試みに挑戦しています。批判的意見もあるものの、興味深いアプローチであります。彼なりに貧困問題に挑戦する方法論を模索しています。であれば、彼を吊し上げるまえに、従来型の慈善事業活動家たちは、既存の「寄付」のあり方への疑問に答えるべきでしょう。

■「どう稼いで、どんな風に使っているのか」に重点を置く姿勢を鮮明に――悪平等主義と線引きせよ
トップ8が「幾ら持っているか」よりも、「どう稼いで、どんな風に使っているのか」に重点を置くべきです。「たくさん持っていること」自体が不正なのではなく、「収益源と使途」が焦点なのです。たとえ99パーセント側の中でも特に所得額が下位であっても、その僅かな収益源が苛烈な搾取であれば、トップ8よりも悪質です。せっせと働いた労賃であっても、それで児童買春をしているようでは、トップ8よりも悪質です。

「再分配制度の構築」を強く訴える全体の論旨からみて、「たくさん持っていること」自体を絶対的悪としている訳ではなく、「使い方」の問題を意識していない訳ではないと思います。しかし、分かりにくいこうした構成をした文章だと、「たくさん持っていること」自体を否定的に見る「頭数で割り算」主義者(「悪平等としての共産主義」と親和的です)や、「稼ぐこと」自体をも否定するような勢力を増長させることになります。「たくさん持っていること」は悪いことではありません。まして「稼ぐこと」は、貧困撲滅のために必要な大前提です。

「99%」運動は、「悪平等としての共産主義」者を筆頭とする悪平等主義者にも現に悪用されています。赤旗を立てながら「99%〜」とアジっている連中は日本にも存在します。悪平等主義は、貧困撲滅に資することはありません。私も反貧困であり、だからこそ、悪平等主義とはキチンと線引きすべきだと確信しています。

■「能力主義」の枠を脱し切れていない
既得権と出自が将来を左右するのではなく、才能と勤勉によって未来を切り拓くことができる社会」などと言いますが、トップ8たちには一代で立身出世した人物の人たちが複数含まれていることに気がつかされます。「99%」を云々するのであれば、トップ8たちも最初は「99%側」であり、「才能と勤勉によって未来を切り拓」いて来たわけです。

分配論的に見て、現代社会の歪みには、「能力主義」による部分があります(もちろん、それだけではありません)。「ヒューマン・エコノミー」を謳い、あたかも新世界を提言しているように見えて、実際は「能力主義」の焼き直しに過ぎない主張は、事態を見誤っているという他ありません。

■馬鹿馬鹿しいブルジョア「博愛」主義の政策「提言」
「再分配制度の構築」を強く訴えています。これは私も総論としては賛同するものですが、方法論が稚拙です。

すべての人々が恩恵を受けるためには、その仕組みとあり方に根本的な変革が必要」といいながら、「競って法人税減税を推し進めるようなことをやめるために協力、協調しなければなりません」だの「格差を広げてきた時代遅れの経済理論や欠陥が明らかとなった経済政策にしがみつくのをやめ、GDPへの執着を捨てるべきです」だのと、あくまで「政策的対応」の枠を脱していません。そして、ダボス会議=現社会のエスタブリッシュメントたちのクラブに向けて「陳情」しています。

誠に馬鹿馬鹿しい「提言」です。もはや事態はブルジョア「博愛」主義で救える段階ではありません。「たくさん持っていること」や「稼ぐこと」には肯定的な評価を与えて悪平等主義との決定的違いを鮮明にしつつ、他方で、分配論において、「能力主義」の枠から脱し、また、「お手盛り」を排する――以前から述べているように、自主管理化が必要だと私は考えています。そしてこれは、ブルジョア「博愛」主義的な「陳情」では達成困難な課題なのです。
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2017年01月15日

「規制のあり方」議論の1年――スキーバス転落事故から1年

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170114-00000536-san-soci
>> 軽井沢スキーバス転落 事故から1年 「事故はいまだに進行形」「悲劇で終わらせてはいけない」教育評論家の尾木直樹・法政大教授

産経新聞 1/14(土) 20:42配信

 15人が死亡した長野県軽井沢町のスキーバス転落事故から15日で1年。法政大教授で教育評論家の尾木直樹さん(70)のゼミでは、半数にあたる10人が事故を起こしたバスに乗車し、4人が命を落とした。心と体に傷を負った学生と向き合ってきた尾木さんが、学生たちの今の様子や事故の教訓を語った。


(中略)

 −−改めて今回の事故を受けて訴えたいことは

 「規制緩和は業界が活性化してすばらしいことだが、命の安全だけは徹底して考えなければいけない。国の監査態勢がこんなにずさんだったのが信じられない。15人の命を犠牲にして学ばなければいけないほどのことだったのか。『格安』は命を売っているんだと気づかされた。誰もそこまでは求めていない。適正な利潤をあげ、安全態勢を整えられる値段を出してほしい。“軽井沢の悲劇”で終わらせるのでなく、日本全体がしっかりと学び取らなければいけない」

(池田証志)

最終更新:1/14(土) 20:42
<<
■規制緩和議論の方向性が変わった
悲惨な大事故から1年。この事故は、「規制緩和のあり方」が改めて社会的に議論されるキッカケになりましたが、いま振り返ってみると、いままでの規制緩和議論とは異なる風潮だったことに気がつかされます。

近年の改革の一環で規制が緩和された分野において重大な事故が発生したとき、従前であれば、短絡的に「規制緩和が原因」と結論付けられることが多くありました。たとえば、日本共産党機関紙『赤旗』は、事故翌々日にいち早く、「参入規制強化」を訴える記事を掲載しました。当ブログでは、1月17日づけ「共産党の「参入規制強化論」の真意――スキーツアーバス転落事故の「原因」論から」にて取り上げ、「サービス品質基準に関する規制強化は必要でも、参入規制は関係ない」と批判しました。また、1月24日づけ「主張」(社説)でも同様の論法で、「規制緩和見直し」を主張しました。『SAPIO』2016年10月号は、評論家(←そうだっけ?)の古谷経衡氏が、そうした言説を否定しています

しかし、今回は違いました。上掲引用記事での尾木教授の「規制緩和は業界が活性化してすばらしいことだが、命の安全だけは徹底して考えなければいけない。(中略)『格安』は命を売っているんだと気づかされた。誰もそこまでは求めていない。」というコメントは、市場活用型の規制緩和路線には積極的な評価を下すと同時に、他方で「命の安全だけは徹底して考えなければいけない」としている点において、短絡的な「規制緩和、YESかNOか?!」ではない発展的な見解です。

世論も、共産党ほど短絡的ではない方向にあるようです。事故直後のテレビ朝日系列「報道ステーション」や、ちょうどこの記事を執筆しながら視聴していた日本テレビ系列「真相報道バンキシャ!」では、利用者自身が「安かろう悪かろう」を回避する必要「も」あるという視点で、優良業者の見分け方を報じ、市場淘汰という方法論を以ってバス業者のサービス品質・安全性を担保させる路線を提示しました。

「市場における自由競争」と「安全性の担保」という2つのテーマを両立させる方向に、確実に進みつつあります。二度と同じような事故を起こさず、そして、より自己選択の余地のある質の高い生活を実現させる方向に世の中は進みつつあると言えるでしょう。

■「事前点検」か「事後処罰」か
規制のあり方についての基本的な考え方は、1月15日づけ「a href="http://rsmp.seesaa.net/article/432604589.html" target="_blank">「生産過程における厳格な規制」と「流通過程における最小限の規制」――自由交換経済の真の優越性を踏まえた規制」において述べました。あの記事の論旨ではなかったので積極的には論じませんでしたが、事業者に品質維持のインセンティブを付与させるには「事前点検」と「事後処罰」があります。「事前点検」と「事後処罰」は、どちらが効果的なのでしょうか?

率直に言って、「事後処罰」のほうが低コストかつ効果的です。そもそも、最強の威力を持つ「市場淘汰」は、いうまでも無く「事後処罰」です。ロクでもない品質の商品を提供すれば、二度と消費者から選択されなくなる――そうなれば商売が成り立たなくなるので、事業者には強烈なインセンティブが生じます。

他方、「事前点検」は、優良企業も悪徳企業も等しく点検が必要です。その意味では、網羅的ではあるものの少し無駄が多い。限られた人員で効果的に監督するとなると、「事後処罰」のほうが現実的です。

とは言っても、実際の国民感情を考慮すると、「事前点検」に落ち着くのではないかとも思います。何と言っても、最後まで「BSE全頭検査」を堅持した国ですから(統計科学的には抽出検査で全く問題ないにもかかわらず!)。それはそれでよいと思います。以前から述べているように、経済も政治も全ては「どう生きたいのか」というテーマに服従するもの。国民が「多少無駄があっても確実に確実を期したい」と願うのならば、それはそれでよいのです。仮に「事前点検」に拘ることによって、現行の社会システムを破壊しかねないのであったのならば、「国民が望むから・・・」で済ませるわけには行きません(たとえば、いくら望んでいても計画経済は駄目でしょう)が、「事前点検か事後処罰か」程度であれば、そんなことはないでしょう。

■活発な市場経済+事前点検体制しかない
不要な規制をなるべく減らし、活発な市場経済に委ねる以外に選択肢はありません。これは事実として、国民感情の問題ではありません(計画経済愛好者には残念でしようが、無理なんですって)。他方、「事前点検か事後処罰か」は、国民感情の問題になりえます。活発な市場経済+事前点検体制こそが、現代日本において、現実的かつ国民感情にも合致した路線であるといえます。
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2017年01月14日

「支援」者の「説得」が要保護対象者の生き方の哲学を否定し、彼の心を折った――自主の問題としての福祉

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170114-00000008-mai-bus_all
>> <生活保護>「受給は恥」思いつめた高齢困窮者の悲劇

毎日新聞 1/14(土) 9:30配信

 少ない年金収入なのに、生活保護受給を「恥ずかしいこと」ととらえる高齢者が少なくありません。申請すれば受給できるはずなのに、なぜ頼ろうとしないのでしょうか。そこには制度を「施し」と捉える、悲しいほど真面目な国民性がありました。【NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典】

 ◇「生活保護をもらうなら死んだ方がマシ」

 以前ほどひどくないにせよ、申請窓口で生活状況を根掘り葉掘り聞かれる状況は変わりません。

 大学を卒業したばかりのケースワーカーや自治体職員に「家族を頼れないの?」「もうちょっと働けないの?」「なぜこんなに貯金が少ないの?」と聞かれます。理屈は通っていますが、若者の遠慮ない質問は、長く生きた人間の最後のプライドにグサグサと突き刺さります。


(中略)

 また、困窮当事者には、保護されることを「恥ずかしい」と感じる意識が強くあります。私たちが、「生活保護で当面の危機を回避しましょう」「恥ずかしい制度ではありませんから」と提案しても、「いや、恥ずかしい制度ですよ。生活保護受けるぐらいなら、死んだ方がマシです」とか、「生活保護受けるようになったら人間終わりです」と言う人が多いのです。


(中略)

 ◇働けなくなったらすべて自己責任?

 生活保護制度は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定する憲法25条の理念に基づいて運営されています。条件さえ満たせば、無差別平等に保護を受けることができます。困窮の原因は問われません。

 にもかかわらず、制度利用に対するバッシングや批判は止まることがありません。私たちの意識のなかに、生活保護とは自立していない人が受けるもの、あるいは怠けていた人が受けるもの、計画性がない人たちが受けるものという感情があるのでしょう。

 勤勉で真面目な国民性ゆえに、一生懸命計画的に生活してきた人ほど、保護を必要とする人たちを枠からの逸脱と見なす傾向が強いように思えます。私たちのような支援団体やソーシャルワーカーには、日本は過度に自立を求める社会、と映ります。その意識は保護を必要とする側も同じです。

 私たちが一緒に生活保護を申請した70代の男性は、無年金状態でした。困窮していた彼はそれでも「ほんとに嫌だ。生活保護だけは嫌だ」と言い続けました。

 「生活保護以外の制度は? お金を貸してくれる銀行はないの?」と何度も尋ねるので、「こんな所得で貸してくれる銀行なんてないですよ」と言うと、今度は「じゃあサラ金から借りたい」と言います。「貸してくれるはずがないでしょう」と説得し、ようやく申請に行きました。

 市役所のケースワーカーですら「こんなに困るまでがまんしなくていいですよ」と言うほどの困窮ぶり。男性は「ありがとう」と涙を流しながら申請書類を書きました。でも結局、自殺を図ってしまいました。

 アパートに残された遺書には、「この年になってお国の世話になるのは本当に申し訳ない。だから命を断ちます」と書いてありました。ケースワーカーに聞いたところ、保護費を受け取りにくるたびに「ほんとに申し訳ない、申し訳ない」と頭を下げ、謝っていたそうです。

 「早く仕事を見つけますから」と謝る男性に、「大丈夫ですから、もう見つけなくていいんです。年金だと思って暮らしてくださいよ」とケースワーカーが言葉をかけても、彼は「いやあ、私は年金を掛けてなくて、本当に自分の落ち度です」と、最後まで自罰的態度を崩しませんでした。


(以下略) <<
■統計データをつけておいた方がよい
思い込み・脳内補完で構図を描き、物事を論じる藤田孝典氏が、ご自身の活動上の経験をもとに主張しています。もっとも、後述するように、藤田氏はどうしても「啓蒙」というスタイルからは脱することが出来ない(思い込み・脳内補完と啓蒙は高い親和性があります)ようですが。私を含めた公的扶助論に関心のある者からすれば、目新しい情報は特にありませんが、社会一般への広報という意味では幾らかの価値がある記事であると言えるでしょう。

ただし、こういったルポ的な記事には、「この事例は全体のうちで、どの程度の頻度で発生しているのか」という統計データを付けておいたほうがよいでしょう。広報目的であれば尚更です。統計が欠落したルポは不正な印象操作の典型的手口ですし、逆に、統計の欠如ゆえに「そういう例もあるのかもしれないけど、ごく一部でしょ? ギャンブル狂いの生活保護受給者は全国的にも事例が多い」といったふうに、「逆印象操作」になってしまう可能性もあります。

■要保護対象者の生き方の哲学に「指導」「啓蒙」しようとしなかったか?
それはさておき、藤田氏の経験に基づく本記事、特に引用部分の70代無年金状態男性のケースを読むと、藤田氏らNPO活動家やケースワーカー等の「支援」者たちが要保護対象者たちに、一種の「啓蒙」を試みていると言わざるを得ないようです。それも、人々が、それまでの人生でを通して積み重ねてきた生き方の哲学に対して、「あなたの生き方は間違っている」「福祉国家の生き方こそが正しいから受け入れなさい」と言わんばかりの「啓蒙的指導」の姿勢。よりによって精神的にも追い詰められている要保護対象者の生き方の哲学を否定し、「啓蒙」を試みるとは・・・一番やってはいけないことをやってくれました。

生活保護以外の制度は? お金を貸してくれる銀行はないの?」とまで言う自立自活志向が強い70代無年金状態男性に対して、あくまで「権利としての生活保護制度」を説く「支援」者たち――この御方はきっと、「『貰う』のは嫌だけど『借りる』ならいい」という考えの御方だったのでしょう。これは、男性が70年かけて培ってきた生き方の哲学でした。男性は、この生き方の哲学を支えに、人生の苦楽を乗り越えてきたのでしょう。生き方の哲学というのは、ヨソ者にとっては理解できなくとも、当人にとっては至宝であり、ヨソ者があれこれ指導できるような軽い・浅いものではないのです。生き方の哲学とは、当人の人格・人生そのものであり、自分史そのものであり、「こういう生き方をしたい」という自主的な願いそのものなのです。

であれば、「早く仕事を見つけますから」という、男性の生き方の哲学に基づく痛切な言葉に対して、ケースワーカーは「大丈夫ですから、もう見つけなくていいんです。」などと言うべきではありませんでした。幸いにして「『借りる』ならいい」という、ある意味で「柔軟」な哲学の御方だったのだから、たとえば、「仕事が見つかるといいですね。でも無理しないでくださいね・・・生活を立て直し、働いて社会に恩返ししようとする、そのお考えは本当に尊敬します」といった具合に返すべきでした。基本的に相手の生き方を否定しない言葉をかけるべきなのです。何か助言するにしても、生き方の哲学のコアはそのままに、「技術的」な助言の体裁とすべきなのです。

■「支援」者の「説得」が男性の心を折った
自殺した男性について「最後まで自罰的態度を崩しませんでした」などと振り返る藤田氏は、いまだに男性の生き方の哲学に対して「啓蒙」的な認識を持っているのでしょう

おそらく藤田氏たちは、「説得」の末に男性が生活保護申請に同意したときは、「うまく考えを改めさせた」と鼻高らかだったことでしょう。しかし、そのとき、当の男性は、自らが人生をかけて形成してきた価値観が崩れたこと、たかだか30歳そこらの若造(藤田氏は結構お若い方です)の「権利としての生活保護」論にも反論できないほどの状況にあることに、内心では失望の渦の中にいたのではないでしょうか? 男性は、打ちのめされたような気持ちだったのだと推察します。

藤田氏らNPO活動家やケースワーカーたちが、本当に男性に寄り添った相談・説得をしていたのか、単なる「生き方の啓蒙」に過ぎなかったのではないか、甚だ疑問であります。

■生き方の哲学の問題に「意見交換」はあっても「指導」はない
藤田氏が「福祉国家の生き方」の立場に立つのは自由ですし、受け入れるかどうかを当人が選択できる決定権があるのならば、「他人に勧める」程度は問題ありません。しかし、「生きることの主人公」はあくまで要保護対象者自身であり、彼ら・彼女らひとりひとりの生身の人間には、人生を掛けて形成してきた、ヨソ者があれこれ指導できるほど軽い・浅いものではない、独自の生き方の哲学があるのです。これは、当人の人格・人生そのものなのだから、徹底的に尊重しなければなりません。

生き方の哲学について意見交換をもちかけ、あわよくば考えを変えてもらうにしても、長い時間をかけ、当人の生き方の哲学を十分に理解した上で、歩み寄るような形での妥協点を見つける方法論――上座から「指導」「啓蒙」とは決して相容れない方法論――を取るべきです。というよりも、当人が長い人生を掛けて形成してきた独自の生き方の哲学を変えるとなると、現実的な落とし所は「歩み寄るような形での妥協点」にならざるを得ません。相手にも考え方があり、特に生き方の哲学は、その人の「こういう生き方をしたい」という願いなのだから、それをヨソ者が一方的に「指導」「啓蒙」などできないのです。これは、生き方の哲学に限らず、世の中の多くの交渉ごとでよく見られる通常の「均衡点」です(普通に生きていれば分かりそうなものですが・・・よほど「指導」「啓蒙」ばかりの日々ってこと?)。

最後まで自罰的態度を崩しませんでした」などとする藤田氏――あくまで自分の考え方が正しいと言わんばかり、「男性は最後まで誤った考え方に固執し、指導を受け入れなかった」と言わんばかりの言い回しを敢えて使う藤田氏が、どういう「相談」「説得」をしていたのか、なんとなく見えてくるような気がします。根底には「指導」「啓蒙」という意識があったと疑わざるを得ません

■「言い方」の問題
藤田氏は記事冒頭で「若者の遠慮ない質問は、長く生きた人間の最後のプライドにグサグサと突き刺さります」などと、自治体担当者の「言い方」を取り上げています。これはこれで正しい指摘ですが、それを言うのであれば、ご自分たちが男性に対して相談・「説得」を行っていた時の「言い方」もまた、当人の生活感情・価値観を踏まえた言い方だったのかという自省が求められます

でも結局、自殺を図ってしまいました」などと、「現代福祉国家残酷物語」風に総括している場合ではないのです。

本当に根がマジメな方が、それゆえに自殺を選択してしまうのは本当に心が痛みます。同時に、「説得」を装った「啓蒙」に終始する自称「支援」者たちへの怒りを禁じえません。人間は単に衣食住の充足だけではなく、「自分の生き方の哲学に対して自主的に生きているのか」という要素もまた衣食住と同等に重要です。生活保護問題は、生き方の問題であり、自主の問題なのです。

藤田氏のように、「人権」や「権利」以外のボキャブラリーが乏しく、「論敵」に対しても「我々側」に対しても「啓蒙」というスタイルしか取れない人物は、結局、「ぼくが かんがえた りそうの せかい」を人々に教育・指導することにしか関心がない「前衛党」型メンタルなのでしょう。私にも実体験があります――批判や懸念を一顧だにせず、「学習不足」だのと指導してきたり、ときに根拠のない中傷まがいのストーリーを脳内でデッチあげる・・・もっとも、データを挙げて反論したり、福祉問題であれば「北欧福祉国家の実績」に言及すると、支離滅裂なことを口にしたり、沈黙するものです。

こういう連中こそが、自主の問題としての福祉にとっての最大の障害物です。「我々側」に対しては、当人の気持ちに寄り添っているわけではないので、どうしてもピンボケになるし、「論敵」に対しても、その疑問に正面から応答しているわけではないので、主張は平行線を辿り、まったく説得にならないのです。

私の個人的経験について述べます。かつて、福利厚生制度を企画・議論していたとき、制度の根底をひっくり返すような指摘を受けました。誤解の典型のような言い分だったものの、ありがちな指摘だったので、「これはキチンとお答えして、ご理解いただかなければならないね」とチームを挙げて準備していたところ、いわゆる「上から目線」で他人を教育・啓蒙するのが大好きな、有名な「困ったさん」が「権利に対する理解が足りていない! こんな言い分は相手にする必要はありません!」と吠え出しました・・・

幸いにして我がチームは総じて、意見のすり合わせを重視する人たちだったので、最終的にはキチンとしたお答えを準備できたのですが、「困ったさん」は別チームに移った後に「前衛党メンタル」丸出しで大暴走し、とんでもないトラブルを起こしていました・・・もし、あのとき「困ったさん」が我がチームの主導権を握っていたら、議論は平行線を延々と辿り、大混乱のうちに企画は頓挫していたことでしょう・・・

■制度設計の問題として
観点を変えて、制度の問題について考えましょう。藤田氏は「日本は過度に自立を求める社会、と映ります。その意識は保護を必要とする側も同じです」などとしますが、これは制度設計の問題です。

生活保護以外の制度は? お金を貸してくれる銀行はないの?」という言葉に代表される、マジメな日本人の自立自活に対する強い思いは、一方においては「悲劇の元凶」ですが、他方においては「優れた国民性」です。本当に支援が必要な人に対して扶助することは当然ですが、皆がみんな他力本願になってしまっては社会が成り立ちません。

以前から繰り返し言及しているように、「北欧福祉国家」と呼ばれる国々は、社会福祉サービスの提供と自立プログラムがセットになっています。「福祉にぶら下がる輩」を制度として防止しなければ、際限がなくなってしまうのでしょう。「上手な制度設計」とは、正にこのことを言います。

日本でも、「福祉にぶら下がる輩」はたびたび問題として取り上げられますが、総じてモラルは高く、国民の自立自活志向は強いと言ってよいでしょう。であれば、「貰う権利がある」ではなく、「生活を立て直し、後日、納税等、何らかの方法で社会に恩返しすればよい」という位置づけを前面に出し、優れた国民性に訴え、さらにそれを基本にした制度設計を行えば、一方において悲劇を防ぎながら、他方において「福祉にぶら下がる輩」をも防ぐことができるでしょう。

制度設計の問題は、また改めて論じます。
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2017年01月11日

日本人の主体性の欠如は、ここまで来ている

毎週水曜日のYahoo!JAPANトップページでは、恋愛に関する過去のYahoo!知恵袋での質問が幾つかピックアップされ、掲載されます。この手の話題は、私も人並みには興味があるし、話の種にもなるので、ブログ執筆とは別にチェックしているのですが、「日本人の主体性の欠如は、ここまで来ているのか・・・」という意味で今回は注目しました。

今日は、滅多に使わない「日記じゃない雑記」カテゴリで、思うところを書き留めておきます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10160574025
価値観を押し付けてくる彼氏に疲れました。
要するに、交際に関して彼氏(3か月目)との意見が合わないことについての相談事(相談者は女性とのこと)のようです。彼氏側が「常識」という単語をつかって来るそうで、相談者・回答者ともに、「常識」という土俵にたって論じています。

恋愛にまで「常識」を持ち込むとはたまげました。恋愛沙汰は、好みの問題の最たるものであり、「常識」なるものに合わせなければならないものではありません。世間が何と言おうとも「嫌だから嫌」で構わないし、「そんなことを気にする方が嫌」でも構いません。好みが合わないなら袂を分かち、合う人同士で寄り合えばよい類いのものの典型であります。

その意味で、「常識」を振りかざす質問者の彼氏は根本的にズレていますが、それに対して、同じ「常識」の土俵に乗って質疑応答しているYahoo!知恵袋の連中も、本質的に言って、皆揃って同じ穴の狢であると言わざるを得ません。

そんなに「常識」だの「普通」だのが気になるのでしょうか? 合わせないと、自分自身の考えに自信が持てないのでしょうか? 好みの問題にまで「常識」や「普通」に合わせようと、他人の顔色をキョロキョロと伺い、他人の言動にビクビクするとは、深刻なる主体性の欠如と言わざるを得ません。

更に指摘しなければならないのが、皆、「常識」を論じているようで、よくよく読むと個人の感想を述べているに過ぎない点です。個人の私的意見を「常識」などとする論法は、「虎の威を借る・・・」の一種であり、これもまた主体性の欠如であります。

元の質問のケースについて言えば、彼氏側は「常識」という単語を持ち出さず、「俺は・・・と思う」と言うべきでした。それに対して彼女側は「私は・・・と思う」と返すべきでした。そして、他人の意見を求めるのであれば、常識云々ではなく、「皆さんはどうおもいますか?」と問うべきであり、回答者たちも「私もあなたと同意見」とすべきでした。本質的に「常識」の問題ではないのだから、そうした単語は一切使うべきではないのです。

好みの問題にまで「常識」や「普通」を持ち込む思考、実態においては単なる私的意見を「常識」などと言ってのける思考――日本人の主体性の欠如は相当に深刻と言わざるを得ません。

なお、この質問のケースそのものについて述べれば、質問内容を読む限りは、彼氏・彼女双方の考え方の溝は相当あり、歩みよりは難しいのではないかなと私は思います。互いに袂を分かつことになりそうですが、他方、互いに感性を同じくする次のパートナーは見つかるのではないかとも思います。それでよいのです。恋愛も「棲み分け」なのです。

仮に次のパートナーができなくても、そもそも好みの問題なのだから、無理する必要はありません。「どうしても・・・!」という場合であっても、依然として「常識」の問題ではなく、「どうしても手に入れたいあの人」との、一対一の人間同士の問題です。

本当に「どうしても手に入れたいあの人」ならば、自分自身が考えを改めることに苦はないでしょう。また、それ主体性の欠如には当たりません。定見なく風見鶏のように考えを変えているのではなく、「どうしても!」と思うもののために、守るべき価値観に優先順位をつけ現実の状況に自ら調整を試みること、変化する客体に対して、自らの意思であの手この手を尽くし、一部は諦めをつけ、重要なのものを獲得・維持してゆくことは、むしろ主体的であると言えます。いままでの考え・方法に固執することは決して主体的であるとは言えないのです。

思想における主体性の確立は、自らの人生の主人として自主的に生きる上で必要な健全なる思想意識の基盤です。正しく主体を立てる必要があると、思いがけないタイミングで改めて感じさせられた話題でした。
posted by s19171107 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記じゃない雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

差別意識のない場面で騒ぎ立て「差」を創り上げるのも差別主義

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170105-00000007-jct-soci
>> 初詣「ベビーカー自粛」要請で大騒ぎ 「差別」批判へ寺側の意外な言い分

J-CASTニュース 1/5(木) 18:27配信

 2017年の年開け早々、ネット上で大論争に発展したのが、ベビーカーに赤ちゃんを乗せて大勢が集まる場所で初詣に参拝することの是非についてだ。それが障害者差別、少子化問題といったことにまで議論が広がっていった。

 発端となったのは東京板橋区の乗蓮寺が「ベビーカーご利用自粛のお願い」の看板を出した、とツイートされたこと。乗蓮寺は2年前まではベビーカー優先の寺だった。看板を出したことであらぬ方向まで話題が沸騰していることに住職は頭を抱えている。

■乙武氏「車椅子も同じように思われているのだろう」

 「ベビーカーご利用自粛のお願い」の看板の写真と共に、

  「何の落ち度もない単に小さい子供を連れたママさんが初詣に来て、これを見て嫌な気持ちになると想像できないだろうか。なら松葉杖の人も、車椅子の人も足の悪い高齢者も、視覚障害者も全部遠慮しろと?」

というツイートが出たのは2017年1月1日。それが瞬く間に拡散し、ネット上で大論争に発展した。意見は賛否両論あり、人ごみにベビーカーは邪魔で危険、赤ちゃんがかわいそうだから神社の対応は当然だ、との意見の方が多いのだが、赤ちゃんを持つ親に対し親切でない寺だ、とか、なんとなく気分が悪いから参拝に行かない、などといった反発も出た。そして、看板に「ほじょ犬は除く」とあることから、

  「ベビーカーだけを自粛にしたら 差別になりますよね」

などといった議論にも発展した。乙武洋匡さんはこうした騒ぎに関して1月4日にツイッターで、

  「『混雑時のベビーカーは自粛すべきだ』という意見を耳にするたび、車椅子も同じように思われているのだろうと肩身の狭さを感じる。不寛容な社会になればなるほど、『生きづらさ』を感じる人が多くなっていく」

などと感想を述べた。東京都議会の音喜多駿議員は、「初詣ベビーカー論争」だとし、ブログで、

  「少子化の最大の原因は、わが国が『子どもを産めば産むほど不自由になる社会』であることだと考えています」

と訴えた。


(中略)

ベビーカーに躓いた老人が倒れ怪我をしていた

 寺の住職によれば、2年前まではベビーカー、車椅子での参拝を優先させていて、専用通路を作り、係員を配置し安全に努めるという布陣を取っていた。ところが思わぬトラブルが起こる。ベビーカー1台にファミリーが5人、10人と付いてきて専用通路を通り参拝し始めたのだ。混んでいる時にはお参りするまで1時間待たなければならないため、それを見た参拝客が腹を立て「なんだあいつらは!! 」と寺の担当者と小競り合いになった。

 また、ベビーカーがあれば優遇される寺ということが知れ渡り、小学5年生くらいの子供をベビーカーに乗せて現れる親が相次ぐことになった。親は優先通路に入るとベビーカーをたたみ、降りた子供は敷地内を駆け回った。そこで寺は優先通路を通れるのは押している1人だけ、という制限を設けた。ところが、ファミリーは2手に分かれて参拝することになり、先に参拝を終えたベビーカー組の中には境内近くで合流のため待機する、ということが起こった。

 そしてとうとう一昨年(2015年)、お年寄りがベビーカーに躓き、ベビーカーに抱き着く形で倒れてしまった。幸い軽傷で済んだのだがけが人を出したことには変わりがなく、「警察からの要請」もあり、昨年から「ベビーカーご利用自粛」の看板を出すことになった、という。取材に対し住職は、自分も孫をベビーカーに乗せて散歩に行くのが楽しみなため、自粛の看板を出すのはとても残念だった、としたうえで、ネット上で今回の件が「差別」や「少子化」問題になるのは想像もつかなかったし、それが寺に対する批判にも繋がっているとし頭を抱えていた。

  「あくまでも事故を回避するために設けた看板です。『自粛のお願い』という表現だけでなく、もう少し説明を付けて、理解していただけるようにするべきだったのかもしれません」

と住職は話していた。

最終更新:1/5(木) 20:33
<<
■問題の本質は「人格」
何のことは無い、問題の本質は「ベビーカー利用者の『他人に対する配慮ができない人格』」だったわけです。「なら松葉杖の人も、車椅子の人も足の悪い高齢者も、視覚障害者も全部遠慮しろと?」だなんて、いったいいつ、誰が言ったのでしょうか? 「ベビーカーだけを自粛にしたら 差別になりますよね」などと、差別でない事柄を「差別だ!」というあなた。あなた自身がが差別主義者です(後述)。

ラッシュ時におけるベビーカー乗車の是非に関する問題もそうですが、問題の本質は、「『人ごみにベビーカーは邪魔で危険』であるから、『混雑時のベビーカーは自粛すべきだ』という論点の是非」ではありません。他者に対して十分に配慮を見せているのであれば、ベビーカー等は何の問題もありません。逆に言えば、他者に対する配慮が十分でない傍若無人な振る舞いを見せるのであれば、どんな事情があっても許容されません。問題の本質はあくまで「その人格」という意味では、以前にも論じた、タトゥー(刺青)問題電車内化粧是非論争と同じです。

単に占有面積が広く、それゆえ「人ごみにおいて邪魔で危険」という意味では、出張用のキャリーバッグや単なる大荷物を持った人物も十分に「邪魔」であり、そうした人物に遭遇するほうがベビーカー等(車椅子含む)と遭遇するよりも遥かに高確率です。毎日のように狭い歩道や駅通路、電車内などで遭遇する、比較的大きなカバンを肩にかけつつ、スマホ画面の世界に入り込んでいる会社員風の人物も、傍から見れば「邪魔」です。ご自分のスマホスペースを強硬に確保しようとする人物(エレベーター内や電車内では多いですよね)には腹立たしさを感じます。また、暴言承知で敢えて述べれば、肥満体の人物はベビーカー等よりも面積を占有するので「邪魔」です(特に電車内の場合、ベビーカー等は専用スペースに収まっているので一般に乗降の妨げにはならないものの、肥満体の乗客の中にはドア前で踏ん張る人がいて、乗降の著しい妨げになることがあるんですよね・・・超迷惑)。たとえ、痩せ型・手ぶらであったとしても、いまここにいる必要性があるとは思えないような時間帯に敢えて現れる人物(長期休み期間に、わざわざラッシュ時間帯に乗車してくる鉄オタ中学生とかね・・・)のであれば、「ラッシュ後にしてくれよ」と思うのであります。

■客観的に見てそ必要性と十分な配慮があればよい
しかし、他者に対して十分に配慮を見せているのであれば、明らかに海外旅行用のスーツケースを狭い歩道や駅通路、満員電車等で引いていたとしても、そこまで問題視されはしません。航空便は、電車ほど頻発しているわけではなく、予定便に間に合わなければならないので、「明らかに必要性のない時間帯」に敢えて外出しているとも思えません(さすがに前泊まで求めるのは行き過ぎでしょう)。その人物にとって客観的に見て必要な時と場所であり、かつ、十分な配慮を持っているのであれば、何の問題もないのです(ちなみに私は、有給・代休・振休等で平日に私用外出する際は、時差外出・迂回乗車・急行ではなく各停利用――どうせ10分くらいしか変わらないし、急いでいないし――するようにしています)。

その意味で、「ほじょ犬は除く」という断り書きは、「その人にとっての必要性」という意味で、当然の例外です。盲導犬や聴導犬といった補助犬は、一般的に利用者にとって「いつ・なんどきにおいてもの最低限に必須なツール」と認識されています。配慮云々・人格云々の問題ではありません。もちろん、たとえ盲導犬・聴導犬と言っても、世の中には犬アレルギー・犬恐怖症もいるのですから、「こちらに おわす方をどなたと心得る?!」(『水戸黄門』風に)という振る舞いを見せるのであれば、話はまったく別です。

ベビーカーも、利用者によっては「いつ・なんどきにおいてもの最低限に必須なツール」であるケースもあるでしょう。保護者の身体的制約のために、我が子を長時間抱き上げ続けることが難しいケースなどは十分にあり得ます。しかし、それは一般的なケースとは認識されていません。「実はベビーカーというのは、視覚障害者にとっての盲導犬、聴覚障害者にとっての聴導犬、身体障害者にとっての車椅子と同様に、多くの幼児の保護者にとって『いつ・なんどきにおいてもの最低限に必須なツール』なのだ!」というのであれば、「社会一般における認識の立ち遅れ」という指摘は成り立ち得ますが、それでもなお「差別」とまで言い張ることはできないでしょう。

■どうしてもというのなら寺務所に相談すれば?
他方、ベビーカーが引き起こしてきた諸々のトラブルは枚挙に暇がありません。記事でも、既にトラブルが起こっているのです。慎重かつ総合的に比較考量すれば、「ベビーカー自粛のお願い」が出るのは、自然な成り行きであるといえます。どうしてもベビーカーを使わなければならないのであれば、あくまで自粛に過ぎないのだから、寺務所に相談すればよい話です。仏道を修めようとしている僧侶たちなのですから、そうした最低限必須な必要性をキチンと伝えれば、仏の御心を以って必ず容認してくれることでしょう。介助を買って出てくれることもあるかもしれません。輩に言いがかりをつけられるのであれば、仏の御心で僧侶たちが必ず守ってくれるでしょう。

■差別意識のない場面で騒ぎ立て「差」を創り上げるのも差別主義
学生時代に私は社会福祉を学んでいたのですが、我が恩師の言葉を思い出します。「差別ではない事柄を『差別だ!』という人は、自分自身『差』を作り上げている。その意味で、その人自身が『差別主義者』なんだ」(要旨かつ私の理解)――本件も、上述したとおり、「差別」とは到底いえない案件です。にもかかわらず、問題を差別の問題と位置づける言説が一定勢力を保っています。問題の本質は、「ベビーカーを利用しているか否か」ではなく「他人に対して配慮できているか否か」という点、すなわち、人格の問題です。まして車椅子だの松葉杖だのとは一言も言っていません。その意味で「みんなを平等に取り扱っている」わけです。そこに敢えて「超理論」で差別を「設定」するのであれば、何も無いところに「差」を創り上げているという意味において、その人自身が一種の「差別主義者」であると言う他ありません。誰も見下してはいない場面なのに、勝手に「見下された!」などと騒ぎたてるのは、その人自身、無意識のうちに「自分は差別される側」という、一種の差別意識があるということです。差別意識は、「差別する側」だけのものではありません。誰も差別していないのに、無意識にも差別意識があったとはいえない状況なのに、相手に差別者のレッテルを貼ったり、あるいは、勝手に被差別意識を持つことは、差別意識を持つことと同等に、社会の融和にとっての障壁であります。

一般人が「隠れ差別主義者」であるのも十分に問題ですが、都民の代表である音喜多都議や、ある程度の社会的地位のある乙武氏が、お寺側の言い分も聞かずに思い込みで語り、「隠れ差別主義者」っぷりを露呈させているのは、看過できない大問題です。相互配慮精神、相手の言い分を聞く姿勢は仏道の基本。他人の話を聞かずにエラそうにお坊さん相手に説教を垂れるんじゃない!
タグ:社会
posted by s19171107 at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

キムジョンウン委員長の「新年の辞」で集団主義的・社会主義的競争が総括された!

새해를 축하합니다!
チュチェ106(2017)年が明けました。おめでたくするかは自分次第、自力更生であります。

本年第1回目の更新は、例によって、キムジョンウン委員長の「新年の辞」から。「小林よしおの研究室」様に早くも全文の和訳が公開されているので、引用・活用させていただきます。

「新年の辞」は全体として生産・経済分野への言及に大きなウェイトが割かれています。その中でも、次のくだりは注目に値します。
>>  「70日間戦闘」と「200日間戦闘」期間に、我々は社会主義強国建設のための新しい時代精神を創造し、人民の心の中には党にたいする信頼、社会主義にたいする信念がより深く植えつけられました。全国がるつぼと化した昨年の連続的な徹夜進軍において、すべての党員と勤労者、軍人と青年は、苦難と試練に勇敢に立ち向かう不屈の攻撃精神と、いかなる逆境にあっても党の呼びかけにただ献身と実践をもってこたえる決死貫徹の気概、互いに助け導き合いながら飛躍を遂げる集団主義の威力を余すところなく発揮しました。 <<
互いに助け導き合いながら飛躍を遂げる集団主義の威力」は「新しい時代精神」である――これは、チュチェ105(2016)年3月19日づけ『労働新聞』に掲載された集団主義的競争の熱風を激しく巻き起こし、より高く、より早く飛躍しよう」を指しているものと思われます(全文和訳は、当ブログ6月6日づけ記事に掲載)。この論説は、伝統的に難題だった「集団主義と競争原理の両立」について、「互いに成功を学びあい、助け合い、切磋琢磨してゆく」タイプの競争を社会主義的競争と位置づけ、「弱肉強食の生存競争」としての資本主義的競争との違いを定義した点において、イデオロギー的に重要な論説だったと私は見ています。

前掲6月6日づけ記事で「今後のキムジョンウン経済改革・経済活性化のイデオロギー的な「背骨」になってゆくことでしょう」と述べましたが、「新年の辞」で総括的に言及されたことは、当面は集団主義的・社会主義的競争の路線を継続してゆくということなのでしょう

対外・軍事関係については、南半分の連中が「ICBM最終段階発言」を非難したそうですが、「新年の辞」全体から見ると、そもそも、そうしたテーマへの言及の比重が大変小さいことがわかります。昨年は「祖国統一は、最も緊迫かつ死活的な民族最大の課題」とまで指摘していたのに、今年はパククネ「政権」がガタガタになっている好機であるにもかかわらず、そもそも南側の情勢への言及自体が小さい。「裏で操っている」と見られてはまずいので意図的にトーンを落としているのでしょうか?

いつも気持ちだけで、能力が追いつかないもどかしさと自責の念に駆られながら昨年を送りましたが、今年はいっそう奮発して全身全霊を打ち込み、人民のためにより多くの仕事をするつもりです。」という一文は、「偉大な指導者」としては異例中の異例発言です。共和国南半分・聯合ニュースも早速報じていますが、ナムソンウク教授とキムグンシク教授の分析、どちらが主たる狙いを言い当てているかは、今後の政治指導の動向を見極めてゆく必要があると思います。

集団主義的・社会主義的競争を「互いに助け導き合いながら飛躍を遂げる集団主義の威力」として明示的に総括したこと、そして、異例中の異例たる「自己批判」が、今年の「新年の辞」の注目ポイントでした。

(1月3日18時6分補足)
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2016年12月31日

チュチェ105(2016)年を振り返る(3)――自主権の問題としての労働問題と1年

総括第3弾は、当ブログのメインテーマとなりつつある「自主権の問題としての労働問題」についてです。本年も積極的に論じてきました。

■SMAP解散問題と自主管理・協同経営への道
年明けすぐに大きくクローズアップされたSMAP解散問題。この件を労働問題と捉える風潮(それ自体は正しい認識)に対して、私は「自主権の追求」を中心に据えて論じました。

1月19日づけ「テンプレの域に達しつつある「労働組合結成の勧め」――中世的芸能界の近代革命のために必要な組織とは?
1月20日づけ「「オーナーの私有財産としての芸能事務所」という事実に切り込まずして「ジャニーズの民主化」を語る認識の混乱

SMAP問題では、「労組結成」や「メリー氏解任署名運動」といった、単なる「陳情」に留まる方法論が人口に膾炙していました。こうした風潮に対して私は、「究極のムラ社会」「現代のギルド」といっても過言ではない特殊な人間関係・上下関係が支配している芸能界の事実から出発し、まずは自由化を達成した上で、続いて自主管理を達成しなければならないと論じました。

既存事務所という「ムラ社会」の枠内で反体制運動を展開しようものなら潰されてしまいます。それゆえ芸能界における自由化は、中世末期・近代初期におけるムラ社会・同職ギルドの崩壊といった歴史的事象と同様に、既存枠の外で、それを打ち破るような形で、離合的な人間関係観を基盤とした新しい関係性の中で自立・自活を進化・発展させてゆくほかありません。また、単に移籍するだけでは「干される」可能性があるので、自主的な思想意識を一致点としてタレントたちが自主管理・協同経営型に集結し、旧勢力との競争の中で勝ち残ってゆくべきです。真に必要とされるのは、陳情団体ではなく、移籍を支援する棲み分け型アソシエーションであり、自主管理・協同経営型のアソシエーションなのです。

このような自主管理・協同経営の道を通ることによってのみ、真の意味での「ジャニーズ・SMAPの民主化」が達成されると論じました。逆に、労組を結成したり署名を集めるだけではオーナーの私有財産としての芸能事務所に雇用される関係性にはまったく変化はなく、自主的であるとはいえないのです。

1月に論じた視点は、本年の記事を貫く基本的視点になりました。4月6日づけ「「やりがい」の搾取を取り戻すために――資本主義と他人労働を知りチュチェの自主化へ」は、この観点をさらに深化させた「未来社会論」であります。

「やりがい搾取」を如何に排し、真のやりがいを取り戻し、政治・経済・思想文化の生活の各側面のバランスを取ってゆくべきかという問題を設定した上で、私は、なぜ私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会においては、経済生活のみが突出して発展している・させられているのかを知るところから始まるとしました。そして、資本主義社会を読み解く鍵は、労働実施の主体と労働成果の帰属主体が異なるところにあると指摘し、労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させることを通して労働者の自主化=行為と結果の帰属主体となること、自らの主となることを目指すという方向性を提示しました。そしてそのために、労働市場活用と自主管理経営という方法論があるとしました。

昨今のブラック企業側が、おそらく意図せずに、実質的に自主管理経営を推奨するような発言をしているのは注目に値します。たとえば、12月23日づけ「エイベックス松浦社長が意図せずに提示している「強力な労働自主化運動への道」」では、労基署から是正指導をうけてしまったエイベックスの松浦勝人社長の「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない」という言説を取り上げました。

次項以降でも述べるように、働き方は一人ひとりの生身の人間の事情にあわせるべきです。法的規制は、保護不足になることもあれば、松浦社長が言うように過保護になることもあります。そうであれば、具体的な労働時間・労働環境は、やはり労使交渉によって当事者たちが自主的に設定することが最善です。

松浦社長の言説は、一人ひとりの社員が自分自身の労働環境を自主的に決定できるような環境整備を志向しています。具体的には、社内の風通しをよくし、上下関係を威圧を排し、勤務環境に関する労使間の率直な意見交換を可能とする土壌を創り上げること、社員たちの労働自主化運動の展開を容認する寛容な労務管理に必然的に至るものです。

労働自主化・自主管理化の方向性はまだまだ萌芽の段階ですが、さまざまな言説が自生的・自然発生的に進化し始めている兆しが見えつつあると思います。

■電通女性社員パワハラ・過労自殺事件と「一人ひとりの生身の人間にあわせる」視点
秋以降の「電通女性社員パワハラ・過労自殺事件」は、世論を大きく揺り動かしました。この事件は、電通の職場環境・企業体質といった「ブラック企業としての本流的議論」と同時に、程度の低い「電通擁護論」という「ブラック企業を支える社会的思想文化状況」の2つが論点として浮かび上がってきました。

ブラック企業としての本流的議論としては、私は10月20日づけ「人を生産手段として使うということは如何いうことであるか――何の管理もせず、ただ収益だけ持ち去る;環境破壊と同じ構図」において、「一人ひとりの生身の人間にあわせる」という私の従来からの基本的主張を軸にすえて主張を展開しました。すなわち、労働者側が「心身の自己管理」をすることが大前提であることは勿論ではあるものの、「生身の人間」としての労働者は「一つ一つ品質にバラツキがある生産手段」である以上は、使用者側が「一つ一つ」にあわせて労働環境を調整してゆく必要があると述べました。何の管理もせず、ただ労働の成果を持ち去るだけでは環境破壊と同じ構図なのです。さらに補足(ボヤキ)的に、「自己管理」を云々言うのであれば、「仕事量の自己管理」をしたい、都合の良いときだけ「自己管理」を持ち出されても・・・と思うとも述べました。

社会的思想文化状況については、10月11日づけ「長谷川秀夫教授はワタミと同じレベルの「急進左翼」――「時代」ではなく「その人自身」」で触れました。パワハラ・過労自殺問題は、本質的に「自殺した彼女に適合した働き方だったのか」であるのに、大炎上してもなお「今の時代に適合的な働き方か」などと、相変わらず問題の本質を捉えていない「反省の弁」を述べたのが、長谷川秀夫・武蔵野大学教授でした。

「時代」などという言葉で生身の人間を一括してサンプリングする長谷川教授は、結局は「一人ひとりの現実」に目を向けているわけではありません。「残業100時間くらいで自殺なんて情けない」などという当初の「あるべき論」と同じ穴の狢、珍妙なる哲学でブラック企業の代名詞になったワタミと、渡邉美樹氏と同類なのです。大切なのは、「時代」ではなく、「その人自身」です。

「一人ひとりの現実」に目を向けるための視点として、私は次のように述べました。再掲します。
>> こうした配慮――反急進の漸進主義のサポート――を組織生活において実践するためには、どういった視点が必要でしょうか? 最後に二つの過去ログの再掲します。

チュチェ102(2013)年6月3日「ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」」で私は次のように述べました。
>> 翻って渡邉美樹氏はどうか。「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです」というのは立派な哲学ですし、おそらく渡邉氏ご自身は、大抵のことは意志の力で乗り越えることのできる超人なんでしょう。しかし、残念ながら部下はそうではない。ワタミという企業のチュチェは誰なのか。渡邉氏が何から何まで一人で成し遂げる個人経営の居酒屋なら、「大将の哲学」ということでいいでしょう。しかし、ワタミのような巨大企業になれば、そのチュチェは、(朝鮮革命のチュチェが「首領・党・人民大衆の統一体」であるように)「渡邉氏・幹部社員・一般社員の統一体」です。決して「超人;渡邉美樹」の事情だけでは済まないのです。 <<
チュチェ102(2013)年2月14日づけ「受け手次第
>> その点では、「指導か暴力かの基準づくり」というのも、少し危ない考えかもしれません。おそらくそれは、何らかの「世間平均」の設定になることでしょう。しかし、繰り返すように、そもそもこの問題は画一的にどうこうすべき問題ではないのです。画一的な基準を設定している限り、「世間平均」からの「外れ値」が問題になる可能性はあり続けるでしょうね。 <<
「一人ひとり差異がある生身の人間」という現実をあるがままに捉え、それを基盤に「現実的なスピード」で「あるべき形」を目指すべきです。これが私の言う漸進主義であり、これこそが現実主義であると自負しています。これに外れる「急進主義」や「あるべき論」は、急進左翼に転落することでしょう。
<<


■ブルジョア博愛主義が蔓延った
従来からの要求型労働運動を私は「ブルジョアの譲歩に期待する『ブルジョア博愛主義』である」としてきました。こともあろうに、「電通女性社員パワハラ・過労自殺事件」のような重大案件に対しても、従来からの要求型労働運動で臨もうとする自称「労働者側」が少なくありませんでした。労働問題が深刻だった今年だったからこそ、ブルジョア博愛主義の甚だしさもまた際立つ1年でした。

私が特に呆れた気持ちでキーボードに向かったのが、10月15日づけ「だからブルジョア博愛主義者は甘い――「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」再論」と11月4日づけ「中途半端に「労働者の権利意識」に触れるだけでは観念論に転落する――「労働者の権利意識」を「現実の自主化」につなげるには」の執筆時でした。自殺の本質がパワハラだったのにも関わらず、自称「労働者側」が単なる長時間労働に問題を矮小化したのにも驚きましたが、若い女性を一人を自殺に追い込むような勤務を要求する企業・部署・上司が新しい法律を受けて改心したり、それを律儀に守ったりするかのような想定には心底おどきました。

ブラック企業というのは、「労働基準法なんて知らねえよ」と最初から開き直っている連中、他人を踏み台にしても厭わないような極端な利己主義者の集合体、そんな連中に中途半端な要求をしたところで一体どれほどの役に立つのかでしょうか。10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度――言いたいことは分かるが洗練されていない」でも述べたように、おそらく違法行為・新しく違法になった行為は、「地下化」するだけでしょう。

労基署は警察です。犯罪は「パトロール」だけでは摘発し切れません。「被害者の被害届提出」や「地域住民の協力」が不可欠です。しかし、密室化・地下化してしまえば、「被害届」は出ず「協力」もありません。これでは検挙は不可能です。

いのちを守るためには、まずはなによりも逃げるしかありません。そのためには、退路の確保こそが大切です。ブラック企業の改心に期待したブルジョア博愛主義者たちの途方のない「甘さ」ゆえに、「退路の確保」という方法論はあまり追究されていませんが、深刻なブラック労働が社会的注目を浴びた今年こそ、「退路の確保」について広範に論じられるべきでした。甘っちょろいブルジョア博愛主義者たちの害悪は筆舌に尽くしがたいと思います。

■「一人ひとりの生身の人間にあわせる」ことをしない労組・労働系弁護士
「電通女性社員パワハラ・過労自殺事件」を論じるうえでの軸であった「一人ひとりの生身の人間にあわせる」という観点は、昨年以前から述べてきた主張ですが、今年の記事に限って言えば、5月5日づけ「自主の立場から見た「勤務間インターバル制度」――内容は労使交渉で、形式は絶対的記載事項として!」において特に重点的に論じました。既に上述していますが、この観点は特に重要だと考えていますので、さらに掘り下げて以下で述べておきます。

5月5日づけ記事では、法的な一律規制に頼るのではなく、一人ひとりの生身の人間にあわせることの重要性を労働者の立場から述べました。もとの文が端的になので再掲します。
>> 真に当事者の都合に寄り添ったきめ細かい対応のためには、当事者自身が主導権を握り、当事者の生活フィールドでの対応を主軸としなければなりません。労働問題においては、労使対等の交渉が行われ、その合意事項が遵守されることを保障すべきです。労働法制が前面に出て中心的な立場で指導するのではなく、当事者へのアドバイスとサポートの立場に徹するべきです。

他方、階級闘争型が主張する「具体的数値に基づく強力な法規制」は、あくまで最低限の担保にしかなりません。チュチェ104(2015)年6月15日づけ「「自主権の問題としての労働問題」と「法的解決」の相性」をはじめとして以前から指摘しているように、労働者個人個人が抱えている事情は千差万別ですから、「ある種の社会的基準」にもとづく、法的解決・マクロ的対応には本質的に限界があります。その「社会的基準」によっては保護され得ない個別事情を持った個人は依って立つ所がありません。法は「12時間間隔をあければよい」と規定しても、個々の労働者によっては「14時間は必要」という場合もあるでしょう。そうした労働者が守られるためには、結局は労使交渉にならざるを得ません。また、あらゆるケースを事前に予測して法の網の目を巡らせることは現実的には不可能なので、法的規制には必ず「本件は法的保護の対象になるか」「当事者と言い得るか」という解釈の問題が発生します。労使が主張を異にし、交渉に入らざるを得なくなる場面は必ずあるのです。そうであれば、最初から労使交渉を睨んで備えるべきです。
<<
労組関係者・労働弁護士こそ、個別具体的なケースを重視してしかるべき立場の方々であるはずです。マクロ的一律規制は、具体的な数値義務を一律に課すのではなく、あくまでミクロ的なアクションをサポートするための「道具」であるべきだというのは、彼らこそよくご存知のことであるはずです。

マクロ的一律規制を殊更重視する人たちの中には、往々にして「ぼくの かんがえた りそうの しゃかい」を紋切り型に押し付けようとする人がいます。ミクロをサポートするタイプではなく、具体的な数値義務を一律に課すタイプのマクロ的一律規制を声高に主張する労組関係者・労働弁護士のビジョンには、疑念を感じざるを得ません。

■労組・労働系弁護士の脳内補完に満ちた「作文」が多かった
総括第2弾・社会政策(福祉)編でも述べましたが、社会政策界隈の論客は、往々にして、当事者が実際に何を考えているのかではなく、脳内補完で物事を述べようとします。労働問題の論客もこの例に漏れず、思い込みで主張する人が今年も多かった。特に今年は労働問題が社会的な耳目を集めたので、そうした「作文」がもたらす悪影響は例年より大きかったのではないかと危惧します。

2月22日づけ「「労働市場を通した自主化の高まり」の前に空しく響く「要求実現型労組活動家の訴え」
3月9日づけ「ブラック企業を支える「労働者の良心」と「社会的通念」に切り込まない愚、というよりタチの悪いコジツケ?
3月31日づけ「表層的な「パターン当てはめ」ではブラック企業問題解決には至らない――「類塾」を巡る労働系法律家のパターン分析の浅さ
12月25日づけ「労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家

このうち特に、3月9日づけの記事の指摘は重要だと自負しています。「労働者の良心」「社会的通念」――これらが昨今のブラック労働を支える一因になっています。私はチュチェ思想支持者ですが、キムジョンイル総書記は「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない。」と指摘されています。総書記のご指摘を踏まえれば、自主権の問題としての労働問題の解決のためには、なによりもまず、2月29日づけ「長時間労働文化を支えている労働者の意識を変革することこそ、新社会を建設・維持する上で鍵となる」でも述べたように、文化の刷新が必要であると言ってよいでしょう。そしてそれはすなわち、表層的なパターン当てはめで演繹的に思考するのではなく、必ず、一人ひとりの生身の人間が実際に何を考えているのかを具体的に把握しなければならないと言えます。

その意味では、労組関係者・労働系弁護士は、「電通パワハラ過労自殺事件」に対する武蔵野大学の長谷川秀夫教授と同様の誤りを冒していると言えます。労働者側を自称する人物も、ブルジョアの代弁者たちも揃って「一人ひとりの生身の人間が実際に何を考えているのか」というポイントを省みていなかったのが、今年の特徴でした。

■文化の刷新のための正しい市場観
3月18日づけ「市場経済しかあり得ないからこそ、正しい市場観の確立が労働問題の解決においても必要とされている」では、上述の文化の刷新の前提としての正しい市場観について述べました。

私は以前から重ねて述べているように、労働問題の解決のために市場メカニズムを活用する方法論を主軸にすえるよう主張しています。すなわち、「いやなら労働契約しなければよい」という基本方針です。これは、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」」で基本的な方向性を打ち出し、同年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」で補足した基本的立場です。

しかしながら、「いやなら労働契約しなければよい」という自己防衛と「取引に際しての義務の履行」とは全く別問題です。たとえば、悪徳業者に対する買い手側/不払い顧客に対する売り手側の自己防衛行動とは全く別の次元において、義務を果たしていない悪徳業者/不払い顧客は、債務不履行という点において取り締まりの対象になるのと同じことです。労働契約における安全配慮義務も全く同様。これは市場経済の基本原則です。

現時点、市場経済以外に現実的な経済システムの展望はありません。労働市場においても市場を活用する方法論で臨むべきです。そうであるからこそ、正しい市場観の確立が、労働問題の解決においても必要とされています。

■文化の刷新のための正しい世界観
正しい市場観のほかにも、正しい世界観を持つ必要もあるといえます。従来的な要求実現・階級闘争型の方法論は、その世界観にルーツをもっていると考えられるからです。

7月3日づけ「階級敵対的・ゼロサム的認識にたつ「介護・保育ユニオン」の経済学的・世界観的誤り」や12月4日づけ「「呉越同舟」の労使関係とストライキ路線――一人ひとりの労働者の生活自主化のためには?」でこの問題については論じました。特に7月3日づけ記事で私は、階級敵対的・ゼロサム的思考を一旦封印する必要性があると述べました。なぜならば、経済は全体としてシステムだからです。

資本家と労働者は、一見して対決的な関係ですが、実際にはお互いに同じシステムを構成している相互作用的な関係にある要素同士です。こうした関係にある要素同士は、そうした関係性にあるからこそ、闘争に走るべきではありませんし、また、取り分を越え要求をしてもいけません。まさに「呉越同舟」の関係にあると言えるのです。

二元論的な認識論・世界観は、物事をバラバラ分解して考察するので、どうしても階級闘争的な発想に至ってしまいます。システムとしての世界を正しく認識した上で、そうした世界観で現実を理性的に思考する必要があります。そして、「呉越同舟」的に対応する必要があるのです。

世界観レベルでの認識の誤りは、結局は、かつての国労のような誤りを冒すことにつながるでしょう。特に、介護・保育業界は、業界としての基盤が脆弱であり、業界内での分配よりも業界間での分配にこそゆがみがあります。介護・保育業界は、階級闘争しているフェーズではありません。

■どうしてもブラック企業の責任を追及したいなら
正義感に溢れた人物は、どうしてもブラック企業の責任を取らせたいと思うものです。12月25日づけ「労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家」では、POSSE代表の今野晴貴氏が「ぜひ不当なノルマやペナルティに屈するのではなく、それらを改善させることで、良い年を迎えてほしい」などと述べていました。アルバイターにとっては、そうした責任追及の優先順位は比較的低い位置づけにあるのにもかかわらず。

12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論」で述べたように、企業側の責任を追及するのであれば、やはり辞めた後に法的にシロクロつけるべきです。記事でも述べたように、(1)取り急ぎ退職したことによって心身の健康を守る。(2)退職したことによって、ブラックな勤め先に対する依存度をゼロにし、自主的な地位を獲得する。(3)中途半端に未練を残さず退職したことによって、将来にわたって「巻き返し」をうけることを予防する。という3点において、「まず辞める」のは大切なことなのです。正義はそれから、安全地帯で自主的な立場を確保してから実現に取り掛かっても遅くはありません

■労働者の自主化に役に立った「市場メカニズム」、役に立たなかった「労組/ユニオン」
最後に、この小見出しに適合する記事の幾つかを一覧形式でピックアップしておきます(後日の続編記事執筆のために)。
・6月19日づけ「マクドナルドの「殿様商売」「ブラック労務」に改善を強いたのは労働組合ではなく市場メカニズムのチカラ
・8月4日づけ「中途半端に役に立たない「さっぽろ青年ユニオン」――ユニオンにこそ求められる転職・再就職支援
9月10日づけ「ブラックすぎて感覚が麻痺した企業を退場に追い込んだ競争的評判経済
11月16日づけ「役所(労基署)頼みの階級闘争、中世的封建時代以来の「お代官様お願げえしますだ」の枠を越えていない労組運動
posted by s19171107 at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

チュチェ105(2016)年を振り返る(2)――観念に固執する「老害」たちのせいで社会政策の前進が妨げられた1年と、わずかな吉兆

総括記事第2弾は、社会政策の福祉分野について振り返ります。なお、自主権の問題としての労働問題については別稿で重点的に取り上げます。

■「貧困女子高生うららちゃん」騒動を振り返る――論点のスリカエとコジツケ、開き直りに終始したNHK「擁護」論者たち
福祉国家論」のタグを付与している記事を読み返すと、夏季に大きな話題になった「貧困女子高生うららちゃん」騒動について継続的に取り上げてきたことが分かります。NHK取材班が、貧困問題の告発としては不適当な人物を強引に・コジツケ的に取り上げたがゆえに始まった炎上案件に対して、甚だしい論点のスリカエやガン無視、果ては開き直りまで横行する始末でした。
・8月22日づけ「「貧困女子高生」騒動を巡って、怪しい面々が悪質な論点ずらしを含むNHK「擁護」論を繰り出してきた!
・8月29日づけ「「価値観抜きの相対的貧困」などあり得ない――概念の悪用よって復活する悪平等としての「共産主義という名の亡霊」
・9月4日づけ「「嫉妬」されないために、支出の優先順位をつけましょう

また、思い込み・コジツケ・レッテル貼り、要するに「脳内補完」に溢れた「啓蒙指導」を展開した結果、まるで擁護になっていない「援護射撃」も見られました。自称擁護論者が口を開くたびに墓穴を掘りまくっていたのは壮観でした。
・8月30日づけ「自分を客観視できないジャーナリスト
・9月3日づけ「相対的に見るからこそ「貧困」とは言えず「普通」レベル――ムラ社会的な集団主義メンタリティーだからこそ生活水準の比較に敏感な日本人

騒動がすっかり鎮静化した12月に入ってからも、池上彰氏がフジテレビ番組中で悪質な印象操作の一環として本件を取り上げ、再度炎上したのは、読者諸氏に於かれてはご記憶に新しいことかと存じます。
・12月17日づけ池上彰氏、フジテレビ特番で「日本の格差の深刻さ」を珍妙なるグラフと理論で指摘

■NHK「擁護」論者たちの観念論者っぷりが明々白々に証明された
脳内補完を基礎とする啓蒙――いまに始まった話ではない社会政策界隈の基本的習性ですが、労働問題を含む社会政策全体に注目が集まった本年では、いつにない炎上案件となってしまったのでしょう。

9月3日づけ「相対的に見るからこそ「貧困」とは言えず「普通」レベル――ムラ社会的な集団主義メンタリティーだからこそ生活水準の比較に敏感な日本人」で特に強調したとおり、日本人はムラ社会的な集団主義メンタリティーを持っているので、他人との生活水準の比較には敏感です。「一般庶民はワンコインランチで我慢してるのに、うららちゃんは普通でも中々出来ない贅沢を躊躇なく行っている」というフェイスブック上で採取したコメントは、本件炎上の核心部分を的確に抉っていました。このことは、そうした世論を踏まえずに手前勝手な理屈を延々と展開し、それゆえに墓穴を掘りまくっていた社会政策界隈が、いかに世論から遊離していたのか、「日本人のムラ社会的集団主義メンタリティーという現実」から出発していない観念論者っぷりが明々白々に証明されたことを意味します。

また、数年前まではあまり注目を浴びることの無かった社会政策関連の話題が、かくも炎上したのは、逆に言えば、それだけ社会政策に対する関心が高まっているということになるのかも知れません。

■NHK「擁護」論者たちの非誠実なる人格が際立った
うららちゃん騒動の総括において湯浅誠氏は、「彼女の消費実態は「進学できない」という番組の中心的要素に比べて枝葉の問題なので、とりあげなかったことも問題ない。だから「ねつ造」という批判は当たらない」などと述べて、開き直りました(9月4日づけ記事収録)。それに対して私は、上掲12月17日づけ記事において、「格差・貧困問題に警鐘を鳴らすのはまったく正しいことですが、「目的のためなら、すべてが正当化される」という姿勢は困るんですよ。それを許す政治過程は独裁に転落しかねないし、それ以前に、こういうことを続けると「あーまた格差、貧困ネタ? どこまで本当なんだか」という空気になりかねません」としました。うららちゃん騒動は、社会政策界隈の世論からの遊離という事実、「日本人のムラ社会的集団主義メンタリティー」という現実から出発していない観念論者化という事実を証明したのみならず、「目的のためなら、すべてが正当化されるか否か」という誠実さの試金石でもあったといえます。

その意味では、うららちゃん騒動で無理筋な擁護論を展開していた連中は、観念論者かつ非誠実なる人格であったと言わざるを得ません。

■観念固執とレッテル貼り――ー北欧諸国の成功例を伝えることは「経団連・自民党の新自由主義的宣伝」?
「レッテル貼り」に関しては、ちょうど今日もあったばかりなので、触れておきましょう。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161230-00048838-jbpressz-bus_all&p=1
>> 電通を血祭りに上げても労働者は救われない
JBpress 12/30(金) 6:15配信


(中略)

■ 失業で「人生をすべて失う」社会

 過労自殺でいつも議論になるのは「自殺する勇気があるなら会社を辞めればいいのに」という疑問だ。それはどう考えても不合理だが、日本では会社を辞めることが人生の終わりだと思う人が多い。

 日本の自殺者は年間約2万5000人だが、その1割は「勤務問題」が原因だ。自殺率が急上昇したのは1998年で、35%も増えた。この年は北海道拓殖銀行、山一証券の破綻に続いて、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行などの破綻があり、企業倒産件数も負債総額も90年代で最悪になった。

 失業で自殺が増えるのは当たり前だと思いがちだが、スウェーデンでは1992年の金融危機で失業率は2%から10%に激増したが自殺者は減り、その後も減り続けている。北欧では失業給付が手厚く、職業訓練で転職を促進するなど、失業を前提にした制度設計ができているからだ。

 自殺率の世界ランキング上位には、リトアニア、カザフスタン、スロベニアなど東ヨーロッパの国が多く、社会主義が崩壊した90年代には上位を独占した。社会主義国では、職を失うことが人生を失うに等しいからだ。


(中略)

 このシステムの行き詰まりを、雇用規制の強化で是正することはできない。労働問題は組織の歪みの結果であって原因ではないので、長時間労働を禁止したら、闇のサービス残業や「持ち帰り残業」が増えるだけだ。民主党政権が「正社員化を促進する」と称して派遣社員を規制強化したら、パート・アルバイトが増えた。

 根本的な原因は、日本の資本市場や労働市場が機能しないために新陳代謝がきかず、広告代理店やマスコミのような未来のない会社がいつまでも残ることだ。労働者を救うためには、中途退社や中途採用を自由にし、会社を辞めても人生の終わらない社会
にする必要がある。 特に戦時体制から変わらない労働行政を、失業や転職を前提とした制度設計に改めることが重要だ。労働者が「一家」のために働いて「お国」のために死んで行く時代の制度設計を21世紀に続けることはできないし、続けるべきではない。

池田 信夫
<<
池田信夫氏が北欧福祉国家を、まったく正しく評価している・・・明日はドカ雪大晦日かと思うような展開ですが、意外と池田氏はこういう「柔軟」(風見鶏?)なところがあって、見ていて面白いお方です。

当ブログでは以前から指摘しているように、北欧諸国では、産業の新陳代謝を促進させるため、傾斜産業への補助金延命措置やマクロ的規制を行わず、むしろ積極的なミクロ的競争政策を推進している反面、一人ひとりの勤労者・生活者の暮らしを守るため、池田氏が触れているように、ソーシャル・ブリッジの構築に注力しています。チュチェ102(2013)年8月18日づけ「「小泉改革」を克服した新しい改革を」でもご紹介した、スウェーデン元財務相のヌーデル氏の発言を以下に再引用します。
http://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/other/pdf/5292.pdf
>> ソーシャルブリッジという概念の3つめの側面は、就業人生への復帰です。

仕事に長い間就いていない人たちは、もう一度就職をするにしても、それに必要なスキルを失っています。この人たちに、就業に必要な求められるスキルを身に付けさせるには、積極的労働市場政策によって、労働市場への再参入を支援することが必要でしょう。従って、失業者には、新しい職を探すための手助けと再訓練の機会が与えられなければなりません。わたしたちは、OJT から学校教育までさまざまな機会を提供しています。重要なのは、高失業率がそのまま受け入れられるような風土を作らないことです。

既に申し上げたように、ここでの考え方は、人を守るということです。雇用を守るのではありません。フランスやドイツにあるような法律は、私たちにはありません。そういった法律は、産業が消滅してしまいますと、かえってコストを高めてしまいます。一方、私たちは、その産業を生き残らせるためにお金を提供するのではなく、個人が自分の身を守るために使えるお金を提供するという考え方です。競争が激しくなることによって自分の働いている会社が例え倒産したとしても、自分の人生は揺るがないのだという自信を人々に持たせなければなりません。

つまり、ソーシャルブリッジは、古い、競争力をなくした仕事から、新しい競争力のある仕事に人々を移らせるためのインセンティブにならなければならないわけです。スウェーデン人が変化を好んでいるのかといえば、それは全くのうそになります。スウェーデン人は、変化を好んではいません。しかし、ほかの国よりも変化を受け入れる大きな土壌が多分あるでしょう。 <<
旧来型の規制と保護の時代は既に過去のものになっており、好むと好まざるとに関わらず、市場活用型の社会政策が現実的必要性を持つ時代になりつつあります

にもかかわらず、そうした時代の変化について行っていないばかりか、レッテル貼りに走る言説がなおも見られています。コメ欄。
>> no_***** | 2016/12/30 11:13

JBpressは新自由主義で経団連と自民党のために、労働者解雇自由化社会をつくろうとしている。

そのために電通を守り、雇用規制を緩和させようとしている。
つまりは嘘記事です。
<<
北欧諸国の実績を単純にコピーすればよいものではなく、必ず、我々日本人が主体的な立場に立って政策を吟味しなければならないのは当然です。しかし、いったい何の根拠があって、既に北欧諸国で実績のある方法論に対して、こうしたレッテルを貼るのでしょうか?

旧型階級闘争系の人たちを中心に、いまも市場活用型方法論にアレルギーを見せる人たちは存在します。そうした時代遅れな手合いなのでしょうか? うららちゃん騒動での擁護者たちは観念論者でしたが、このケースでは「観念固執論者」の姿が見え隠れしています。

■観念に固執する「老害」たちのせいで社会政策の前進が妨げられた1年における数少ない吉兆
こうしてみると、今年の社会政策界隈は、社会的注目度があがっている好機であるにもかかわらず、観念に固執する「老害」たちのせいで、新しいステージに上がりきれなかった残念な年であったように思えていきます。しかし、11月18日づけ「「過渡期」に差し掛かった福祉政策・労働政策・社会政策界隈――脱啓蒙主義へ」は、数少ない吉兆でした。

上掲記事は、生活保護制度を巡って脳内補完・啓蒙主義的言説を展開してきた、みわよしこ氏の署名記事です。しかし、みわ氏は上掲記事で、なんと、「就労によるメリットに若干の手当をしたところで「働いたら損」となる状況は変わらない」という、生活保護バッシングに対する核心的批判の論点を正面から受け止める姿勢を示しました。典型的な脳内補完・啓蒙主義者であれば、こうした場合、ひたすら「人権」というキーワードを連呼するのに終始するのにも関わらず!

よい意味で衝撃をうけて興奮していた私は「ようやく、福祉政策・労働政策・社会政策界隈にも、世論の不満を汲み取り、制度的改善を模索し始めるという質的進歩の波が波及し始めているのでしょう。「過渡期」に差し掛かっているのでしょう。」とした上で、次のようにも述べました。
>> これを機に、ベーシックインカムや負の消費税といった具体的政策の問題や、あるいは、北欧福祉国家を支える「自立を尊ぶ政策・制度と、それを支える思想」への探究も進めていただきたいものです。以前から取り上げてきているように、北欧諸国はすべて小国であるために「福祉が充実している」とはいうものの、「国民を福祉で食わせつづける」などということは到底不可能であり、福祉を通じた自立・自活を強く求められる制度設計になっています。また、そもそも個人主義的な思想文化の国柄ですから、「お上が食わせる・お上に食わせてもらう」という観念でもありません。日本の社会政策界隈は、「北欧福祉国家はこんなに上手く行っている」などと言って、その制度的概観だけを安易にコピーして日本に輸入しようと試みますが、まちがいなく失敗するでしょう。自己満足の世界から少し足を踏み出しはじめた「過渡期」に、ぜひとも学んで学んでひたすら学んでいただきたいものです。 <<

みわ氏が見せた吉兆が、来年以降どのように開花してゆくのか。来年も社会政策界隈からは目を離せません。
posted by s19171107 at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする