2021年08月21日

社会政治的生命を持たない哀れな「個人」、過剰な価値観相対化に毒された哀れな「愚人」、そんな人も愛するのがチュチェ思想

https://news.yahoo.co.jp/articles/0f0b3b425364bc2cb0b7a7582cb7055af0a668e5?page=3
DaiGo炎上問題、「問題提起」だろうと「個人の感想」だろうと許されない意見はある
8/15(日) 18:02配信
ニューズウィーク日本版

<すべての人に生存権があることは正当化も否定もできない大前提の価値の1つだ。「無敵」のインフルエンサーが世論に迎合してそれに異を唱えれば、待っているのはディストピアだ>
8月7日、タレントで「メンタリスト」のDaiGoが、生活保護受給者や、いわゆる「ホームレス」の生の価値を軽んじる趣旨の動画をYouTubeに投稿し、大問題になった。若年層に影響力があるとされるチャンネル登録者数200万以上の配信者が優生思想的・差別的なメッセージを発することは、ヘイトクライムなどを誘発する危険性も考えられ、看過できない。【藤崎剛人(ブロガー、ドイツ思想史)】

(中略)
<人権はフラットなコンテンツではない>
「個人の感想」ということばで連想する人物は、「5ちゃんねる」の原型であるネット掲示板「2ちゃんねる」創設者ひろゆきだろう。ひろゆきも現在、配信者として多くのリスナーを集めており、若年層に人気があるといわれている。ひろゆきと切り離すことができないキーワードに「論破」があるが、その「ディベート」力を評価され、メディア出演も多い。

ひろゆきやDaiGoに共通する問題がある。それは人権問題を含むあらゆるトピックを「ディベート」の俎上にあげて、全てフラットにコンテンツ化してしまうということだ。人権はコンテンツではない。ある人間に生存権があるということが「論破」されたら、その人間の生存権を奪ってよくなるわけではない。

何にでも意見できるという誤った美徳
この点で、DaiGoに対して人権の社会的効用(たとえば弱者を救済することによって治安維持に繋がる、「本当に働けなくなった人」のセーフティネットは必要、など)を理由にDaiGoに反論している人も、筋はよろしくない。それは結局、生存権を主題にした「ディベート」に参加してしまっているからだ。ちなみにひろゆきもDaiGo発言を批判したが、その根拠は普遍的な人権ではなく社会的効用なのであった。しかし生存権は社会的効用とは無関係に存在するのであり、たとえ「問題提起」だったとしても否定されてはならない。これが人権というものについて、妥協できない大前提なのだ。

<譲れない価値を前提にしない議論は危険>
現代日本社会は、ある譲れない価値に基づいて何かを評価することを極端に嫌う。若い世代は特にそうだといわれている。全ての価値が相対化されているのだ。たとえ社会的弱者の生存権を否定するような発言でも、「ひとつの意見」として受け入れなければならないという間違った美徳がある。議論の機会はあらゆる意見に開かれていなければならないというのだ。しかし前述したように、世の中には議論してはいけない意見もある。差別思想を持つ者の「問題提起」に乗ってはいけない。生活保護や「ホームレス」問題に関心があるなら、経験豊富な支援団体にアクセスすればよい。そうすれば、より「建設的」な議論が可能となるだろう。

一方、特定の価値を前提にした議論を嫌う人たちにとっては、DaiGo的な語り口は魅力的なものに映る。価値なき世界において力を振るうのは経済力や発言力といった直接的なパワーだ。今回の炎上事件でDaiGoが経済力でマウントを取ろうとしたこと(自分は高額納税者なのだから批判者よりも生活困窮者支援を行なっているという趣旨の発言)が典型的だろう。これはまた、勝ち負けこそが全てのディベート的手法でもある。

(中略)
<DaiGo「炎上」事件で見えた光明>

8月13日夜、DaiGoは生配信を行い、今回の発言について謝罪し、自分の無知が原因だったとして、今後支援団体などに教えを請う意思を示した。しかし困窮者も頑張っているから差別してはいけないという理解は、差別されても仕方がない人々もいるという余地を残す。本来は、「ホームレス」も生活保護受給者も、DaiGoのために何も証明する必要はない。そもそも根本的に反省すべきは、無知ではなく、前述したような価値の相対化と能力主義によって差別思想が肯定されてしまうことなのだ。14日、生活困窮者支援団体4団体は、DaiGoの「反省と謝罪は単なるポーズの域を出ていない」という声明を出した。その夜DaiGoは自身の謝罪を撤回し、改めて謝罪しなおした。

とはいえ、まったく評価できない「謝罪」だったとしても、当初は強気の態度だったDaiGoを「謝罪」に追い込むほど強い批判が今回SNS等で巻き起こったのは一安心だった。差別思想・優生思想は「ひとつの意見」としても尊重されないということを示すことができたのは、よいメッセージとなる。この事件を何かの「きっかけ」とするならば、価値を相対化し、何でも「ディベート」の俎上にあげる最近の風潮を見直すきっかけにするべきだろう。

最終更新:8/15(日) 18:02
ニューズウィーク日本版
■DaiGoのの暴言・妄言は、知識経済化による大衆意識ブルジョア化の必然的帰結
そもそも根本的に反省すべきは、無知ではなく、前述したような価値の相対化と能力主義によって差別思想が肯定されてしまうことなのだ」――藤崎剛人氏の指摘は正しいものです。DaiGoのホームレス談義・生活保護談義は暴論・妄言と言わざるを得ないものです。しかし、珍しいものでもありません。昨今では巷に溢れかえる「典型的」な言説のひとつであります。

このことは、キム・ジョンイル同志が『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日づけ)で指摘されたように、産業の知識経済化が個人の努力を過剰扇動し、大衆意識がブルジョア化した現代資本主義の必然的帰結と考えるべきものであります。当該労作では次のように指摘されています。
 第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。

 社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。

 もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
サンデルにより能力主義の弊害に注目が集まるようになりましたが、チュチェ思想は久しい前から、熟達がモノをいう知識経済化は、人々を「私の成功は私の努力の賜物」と考えるよう誘導するので、大衆意識が利己主義化して社会が空中分解すると指摘してきました。現状は、まさにそのとおりになりつつあります。

「明日は我が身」なるDaiGo批判がありますが、では今更「我が身の問題」になり得ない生まれつきの障害者は切り捨ててよいのでしょうか? そんなはずはありません。「私は結婚も子育ても予定していない」という話でもありません。その点、「DaiGoに対して人権の社会的効用(たとえば弱者を救済することによって治安維持に繋がる、「本当に働けなくなった人」のセーフティネットは必要、など)を理由にDaiGoに反論している人も、筋はよろしくない。それは結局、生存権を主題にした「ディベート」に参加してしまっているからだ」及び「困窮者も頑張っているから差別してはいけないという理解は、差別されても仕方がない人々もいるという余地を残す」という指摘も正しいものであります。

■過剰な「価値観相対化」を見直すべきとき
現代日本社会は、ある譲れない価値に基づいて何かを評価することを極端に嫌う。若い世代は特にそうだといわれている。全ての価値が相対化されているのだ。たとえ社会的弱者の生存権を否定するような発言でも、「ひとつの意見」として受け入れなければならないという間違った美徳がある。議論の機会はあらゆる意見に開かれていなければならないというのだ。しかし前述したように、世の中には議論してはいけない意見もある。差別思想を持つ者の「問題提起」に乗ってはいけない」に始まる過剰な相対化批判も素晴らしい指摘であります。現代日本の思想状況は、階級性も民族性も人間性もない無秩序無原則、文化大革命とも違うソフィストもビックリのアノミーと言うべき状況にあります

もちろん、キレイゴトの同調圧力もそれはそれで怖いものですが、いまはそういう問題ではありません。価値観の過剰な相対化に対して正面切って批判を展開する藤崎氏の主張に賛同します。

我々の市民社会の根本を揺るがすような「価値観」を信奉する人は、どこか無人島に移住していただくのが宜しいかと思います。我々は、我々の社会の根本を掘り崩すような言説を「自由」や「多様性」の美名の下に許容することはありません。「自由」や「多様性」は無制限ものではないからです。それを「言論弾圧」だの「独裁」だのというのであれば、「言論の自由」が、そもそも如何なる性質のものであるのかを再度、よく学習されることをお勧めしたいと思います。自由とアノミーはまったく異なるものです(思うに、現代日本は「自由」と「アノミー」の区別がついていません)。

■社会政治的生命を持たず、過剰な価値観相対化に毒された哀れなるDaiGoらの精神状況
現代日本を生きる人々の皆が皆、DaiGoの言説に賛同しているわけではない点、「産業の知識経済化」に全責任を被せる訳にはいきません。「環境が原因だから個人には責任はない」というためには、環境と人間行動との間に1対1的、関数的、必然的な関係の存在が必要ですが、本件についてはそのような関係性は確認されていないからです。

産業構造が変化し、人々の思想の健全性に多大な影響を及ぼしているとはいえ、人間性を正しく守り抜いている人も少なくない点、DaiGoの「罪状」には、ある程度の「自己責任」性があると言わざるを得ないのです。「現代資本主義」という不利な環境があるとはいえ、他の人はちゃんと人間性を保っています。彼がここまで人間として堕ちてしまったことについては、環境の問題もありつつ、しかし、彼の人格・人間性固有の問題もかなり大きな比重を占める形で存在していると言わざるを得ません

他方、責任問題云々は別として、ブルジョア「個人」主義に染まり切ったDaiGoらの精神状況は、気の毒にも思います。人間の社会的・類的本質を麻痺させられ人間性を損ねている、社会政治的生命を持たず愛と信頼・義理を知らずただ肉体的生命を維持する為の生存闘争に明け暮れているからです。

彼が己の人格・人間性を正し、社会政治的生命を獲得することを願ってやみません。その点、私はいわゆる「キャンセル・カルチャー」に与するつもりはありません。仮に人の道を踏み外すようなことがあっても、そのような人もまた愛し、社会政治的生命を獲得させ人間性を回復させたいと思っています。いやまあ手遅れなケースもあるかも知れないけど、DaiGoについてはまだ見込みがあるんじゃなかろうか。

ちなみにコレ「上から目線」ではなく「北から目線」ね。「北から目線」で申せば、現代日本の思想状況は、社会政治的生命を持たない哀れな「個人」、過剰な価値観相対化に毒された哀れな「愚人」による、まさにアノミーというべき価値観崩壊状態、社会が空中分解している状態というべきものです。しかしそんな社会でも私は愛しています。
posted by 管理者 at 19:59| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。